猟犬の巣窟


小さな窓の向こう側には、オーレッド湾の青い海面が広がっている。真冬でも決して凍ることの無いこの海こそ、ベルカ民族が長年望んで止まなかったものであり、現実に何度かは手にして、そして何度も取り戻されていったものだ。海面には、戦争中の今日も民間船舶が数多く航行していた。――まるでそこだけは戦争がどこか遠くの出来事であるかのように。そして俺自身はといえば、ラフィーナに見送られて最前線へと身を投じようとしている最中だった。C-130の貨物庫に据え付けられた粗末なベンチに腰かけ、俺の勤め先となるウスティオの数少ない無傷の航空基地へ運ばれる軍需物資と同等の扱いで、座り心地の悪い椅子の上で揺られている。まぁ、いつものことさ。任務を無事に終えて、報酬を手に入れて、ケリが着いたら帰るべき場所へ戻る――こんな俺を待っている人たちの元へ。心の中でそう俺は呟き、改めて出発時に手渡された書類に目を落とした。
老兵と傭兵と 俺の行く先はウスティオ空軍の主に偵察部隊が拠点にしていたという"ヴァレー空軍基地"。だがその基地が位置するのは、どう見ても空港を建設するには不向きな山間部であり、こんなところによくもまぁ、基地を作ったものだと呆れもし、それを成し遂げたウスティオの関係者たちの技術者根性に感心したりもした。陸上での移動ルートは、わずか2本の峠道のみ、というわけで、天険の要害という側面もあるわけだ。

丁度今はサピンの上だろうか。小さな窓の向こう側にはバルトライヒを構成する山々の連なりが広がり、春を迎えたばかりの緑が上空から見ても美しく映える。あれからもう、こんなに時間が経ったのか――。父親の傭兵仲間と共に祖国――今や世界の敵となったベルカを飛び出して、父親と同じ空の傭兵となり、幾多の戦場を駆け巡った日々。俺は右手の手の平を開き、そこに視線を移した。あの日、激情に任せて教師を殴り殺し、朱に染まったあの嫌な感触は、今でもはっきりと思い出せる。もちろん傭兵稼業である以上、俺自身が生き残るために多くの他人を葬ってきた身だが、直接自らの手で人を殺したのはあれが最初で最後だった。ほとんど悲鳴を挙げることも無く、血まみれになって倒れたその姿は今でも夢の中に出てくることがある。そして夢の中では、それが自分の姿に変わっているのだ。一方で、凶器を振り下ろすのはあの頃の自分の姿であり、俺は自分が自分を殴り倒す光景を端から見る羽目となるのだ。そんな夢からの目覚めが良いはずも無く、大体の場合真夜中に冷汗をたんまりとかいて飛び起きて、ラフィーナを心配させることとなる。昔はそんな夢を見ることに苦しんだこともあったが、今ではそれで良いのだと思う。この夢を見る限り、俺は自分の犯した罪を忘れることはないだろうから――。
乗り心地の悪い輸送機のベンチから解放されたのは数時間後の事。高度が高いせいか、オーシアを出発したときに比べるとまだまだ冷たい風がささやかな歓迎をしながら通り過ぎていく。降り立った滑走路には、嗅ぎ慣れたいつもの香り――ジェット燃料のきつい香りが漂っている。アラートハンガーの前には偵察飛行に備えてか、F-4Eが2機並んでいる。輸送機に乗り合わせた人間は20人ほど。さすがに基地内のIDパスも無しに勝手に歩き回ることは許されないようで、ウスティオ空軍士官服を着た奴らと、自動小銃を肩にぶら下げた兵士が、「隙あらば撃つぞ」とでも言いたげに俺たちを睨み付けていた。苦笑しながら戦闘機の群れに目を移そうとしたが、後にいる整備兵に軽く背中を押された。目の前にはバインダーを手にした若い士官服が立っている。俺の身元確認の順番が来ていたのだった。
「貴官の名前と配属先、それに身分証明書を」
「レオンハルト・ラル・ノヴォトニー。ウスティオ空軍第6航空師団第66特務小隊配属と聞いている。前の配属地での最終階級は中尉だった。ここでは聞いていないがね」
そう言いながら差し出した証明書を見た男の表情が明らかに変わっていた。素直な奴め、と言いたくなるのをこらえて、努めて口を閉じる。バインダー上の名簿と証明書を照らし合わせながら、士官服はバインダーと俺の顔とを何度もせわしく往復させていた。まさか、そっちの気でもあるんじゃないだろうな、こいつ。
「なぁ坊や、あらかじめ言っておくが、俺はノーマルだぞ。そういう相手をご所望なら、今並んでいる他の連中を当たってくれないか?」
士官服がぽかんと口を開き、周りの連中が失笑する。ようやく俺の言った意味が分かった相手の顔がみるみる間に紅潮していく。耳まで真っ赤にした士官服が俺を一層険しい視線で睨み付けながらも姿勢を正したのは、さっき俺が口にした「前は中尉だった」という言葉に反応したようだった。
「そんなつもりではありません!それに自分にはウィリス・シャーウッドという名前があります。坊やは止めてください!!」
「分かったよ、怒らせたようなら済まなかった」
周りの連中は、いずれも様々な戦場を渡り歩いてきた男たちなのだろう。単純というか、初々しいというか、真っ赤になって「自分はゲイ」ではないことを証明しようとする若者の姿は格好の笑いのネタになっていた。振り返ってみれば、自動小銃をぶら下げた兵士まで笑いを堪えているのが分かった。なるほど、この若者は既にこの基地の連中にも「チェリーボーイ」として認められているということなのだろう。さらにムッとした顔で俺に一瞥をくれながら証明書を突き返した士官服――シャーウッドは、「もう行け」と言うように無言で俺の右手を指差した。一台のジープが止まっていて、運転席の整備兵が手招きをしている。どうやら、俺の迎えの車がそれらしい。荷物を背負いなおした俺は、悪戯心をくすぐられて、シャーウッドに礼を言うことにした。
「ありがとう、坊や」
このときのシャーウッドの顔は、しばらくの間忘れられそうに無い。

まだシートに真新しい香りが漂っているジープを、安全運転のスピードで整備兵は操っている。自分とほぼ同年代と見える彼の顔には額から顎にかけて見事な傷が刻まれていて、お世辞にもカタギには見えない様相だったが、基地の連中には良く知られているらしく、整備士たちだけでなく搭乗員たちからも声をかけられていた。気さくな性格も、どう見ても強面に見えるスカーフェイスの雰囲気を和らげていると言うべきだろうか。まだ右も左も分からない基地にあって、彼のような男がいることは有り難いと言って良かろう。
「あんまり坊やをいじめないで下さいよ、特務中尉殿。あれでも数少ないウスティオ空軍の生き残りですし、ちょっとした傭兵さんなんかよりは余程腕が立つんですからねぇ。うかうかしていると、彼のケツに敷かれますよ」
「別にいじめたわけではないんだよ。コミュニケーションさ、コミュニケーション」
「コミュニケーションねぇ……お言葉ですが、当分の間警戒されると思いますよ、私ゃ」
「違いない」
視線を周囲に移し、後方へ流れていく光景の中にアラートハンガーがさらに数箇所あることに俺は気が付いた。。一つだけ口を開けた格納庫の奥に、一方の翼を赤く染めた機体が出撃を待って佇んでいる。あの機体は――まだ戦場で共に飛んだことは無いが、俺はその機体を操る男の名前と通り名は知っていた。そうか、彼もここに来ているのか。ジープのスピードが少し遅くなり、滑走路上の交差点をウインカーを出しながら左折。俺はてっきり師団長か部隊長の部屋にでも案内されるのかと思っていたが、ジープは管制塔とは明後日の方向に針路を向け、例の赤い翼の機体へと向かっているようだった。
「俺の上に乗っかるお偉いさんへの挨拶は後回しで言いのかい?ええと……」
「ナガハマ。自分はシンジ・ナガハマ曹長であります。特務中尉殿の機体の専属整備兵を務めさせて頂きますので、以後よろしくお願い致します」
「分かった、曹長。それから、俺のことは「サイファー」でいい。階級とか、名字で呼ばれるのは、何だかこそばゆい」
「皆さん、そう仰いますねぇ。分かりました。いえ、部隊長殿にも当然着任のご挨拶をしてもらいますが、特務……じゃなかった、サイファーと同じチームを組む方から、"俺の背中を任せる奴の面を見ておきたいから、部隊長は後回しにしてつれて来い"と言われてましてね。それとも部隊長殿への挨拶を優先されますか?」
どうせ安全な椅子の上でふんぞり返っているであろう士官殿への挨拶など5分もあれば終わる、と踏んで、俺は首を振った。では格納庫へ向かいますね、とナガハマ曹長が車を発進させる。格納庫の周りには戦闘機の部品やら兵装やらが野積みにされているような状態で、ヴァレー基地が俄かに最前線基地に変わったことを如実に示していた。この物資も、本格的なベルカへの反攻が始まればあっという間に消費され、新たな物資が必要となるわけだ。幸い、この基地は物資の置き場にも困らないだけのスペースを持っているようだ。俺は以前の戦場で格納庫に入りきらなかった物資を軒並み奇襲してきた敵機に蜂の巣にされた苦い記憶がある――それも自分の機体の交換部品が中心に、だ!おかげでしばらくの間ジリ貧傭兵生活を強いられたわけだ。もっとも、このヴァレー基地が陥落した暁には、俺たちの職場も、そしてウスティオ共和国の存在も地図上から消滅し、敵軍に難攻不落の航空基地がまた一つ加わることになる。物資の被弾を嘆くどころの騒ぎではなくなるわけだ。
山に穿たれたトンネルを活用したアラートハンガーは非常に頑丈に見えた。これなら格納庫入口から爆弾をぶち込まれない限りは、多少の空爆にも耐えられるであろう堅牢さに見えた。水銀灯の眩しい照明に照らし出された格納庫の中には、さっき遠目に見えた片翼の赤い機体が静かに佇んでいる。その周りをナガハマ曹長と同じつなぎを来た整備士たちが駆け回っていたが、その中の一人は長髪の、小柄な女性であることに軽い驚きを覚えた。その表情の変化が見えたのだろうか。格納庫の中に止まったジープに近寄ってきた男の口元には、微かな苦笑が浮かんでいるようにも見えた。年の頃は俺よりやや年上か。長身の細身の身体は、鍛え抜かれた兵士の証。短めにまとめた頭髪は、この男の精悍さを一層引き立てていると言えるだろう。
「噂のエース殿の目は相変わらず早いみたいだな。ようこそ、サイファー。アンタの名前は良く耳にしていたが、本物と出会うのは初めてだな」
「こちらこそ、初めまして、片羽の妖精。空の上はともかく、陸でピクシーってのも何だか似合わないから、ラリーで構わないか?」
相棒との出会い 差し出された右手をがっちりと握ると、彼は精悍な笑みを浮かべた。片羽の妖精――かつて、戦闘中に片翼を失いながらも任務を完遂して帰還したパイロットに送られた、最大限の賞賛を込めた通り名。その名を持つ男は、ただ一人しかいない。ラリー・フォルク。彼の愛機の赤い翼は、友軍には勇気を、敵軍には恐怖を与えるものとして知られている。そんな凄腕と共に戦場へ臨めるのは望外の喜びと言って良かったが、彼の眼鏡に適わなかった者は容赦なく切り捨てられることでも知られている。当面の間、俺はお試し期間として彼によって評価されることになるのだろう。少々ブランクのある俺にとっては、むしろ丁度良いリハビリみたいなものかもしれない。
「どうだい、ナガハマ曹長。お前さんが面倒を見るかわいい戦闘機に取り付いた悪い虫は?」
「そんな言い方はないでしょう、フォルク特務中尉殿。最近ではその名を知らない連中の方が多くなってしまいましたが、ノヴォトニー特務中尉殿の名前は知る人ぞ知る、というやつです。楽しみですよ、俺たち整備班が汗水たらして整備した子供たちが、どんな乗り方をされるのかね。それに、フォルク特務中尉殿といい、ノヴォトニー特務中尉といい、坊やのあしらい方が面白くてね。それだけでもここに来たかいがあったというものです」
「ほう、早速坊やとやらかしたのか、サイファー?気が合うな。俺もだよ」
あの何ともいいようの無い坊や――シャーウッド少尉の顔を思い出してしまい、俺は失笑してしまった。ナガハマ曹長の言いぶりでは、ラリーも一戦やらかした後らしい。まぁ、あのクソ真面目というか、潔癖症というか、堅物というか、あんなキャラクターは俺たち傭兵にとって格好の玩具になってしまう。彼にはどうやら、敵と戦う以外の非常に困難な戦いが待っているようだ。可哀想なチェリーボーイ。
「時にサイファー、一つ真面目な話をしてもいいか?」
先ほどまでの笑みがすっかり消え、幾多の戦場を駆け抜けてきたベテランの表情に変わったラリーの双眸が俺を捉える。
「俺の任務は二つあってな。一つは、ウスティオ空軍の一人としてベルカと戦うこと。もう一つは……かつての祖国に寝返る可能性があるパイロットを監視すること、だ。誰のことか言わなくても分かるだろう?」
ナガハマ曹長の顔からも笑みが消える。なるほど、俺の出自が、こんなところにまで影響を及ぼしたということか。かつての祖国に寝返る――即ち、ベルカの血が流れるこの俺が、里心付いてベルカに帰ることを軍の上は警戒しているわけだ。全く、どこまでいっても、俺の生まれが付いてまわりやがる。俺自身、この身体に流れる血を誇りに思ったことなどなく、むしろ忌まわしいことしか覚えがないのだが、そんなことを口で言っても理解しない、理解出来ない人間はどこにでもいる。ベルカの血ではなく、かつて傭兵たちにその名を知られていた父親の血が流れている、と考えれば多少は慰めにもなるのだが。ラリーが言葉を続ける。
「何故、家族持ちになって人並みの幸福を手に入れたはずのお前が、戦場に戻ってきた?名誉も富も、相当に手に入れたはずのお前だ。今更食い扶持に困ったというわけでもあるまい。それとも、人殺しの快感が忘れられなくなったか?」
「……決着を付けるため、さ」
「決着?」
「ああ、決着だ。多分に私的な決着でもあるけど、俺にとっては付けなくてはならない決着なんだ。だから、戻ってきた」
そう、決着だ。俺と俺の親たちをとことん忌み嫌い、罵り、そして迫害した祖国との決着。古い価値観に縛られたまま、世界に戦いを挑んだ愚かなかつての祖国との決着。自分の身体にも流れる、ベルカの血との決着。――それで何が変わるというわけではないだろうが――。
「俺がアンタと共に飛ぶに相応しくない、と判断したなら、後ろから吹き飛ばしてくれればいい。それでベルカの裏切者、ウスティオの裏切者候補者は存在しなくなる。アンタも余計な心配をしなくて済むようになる。違うか、フォルク?」
もっとも、そんなことになったらラフィーナの奴がここまで乗り込んでくるかもしれないな、と俺は彼女の怒り顔を思い浮かべた。そんなことにならないためにも、俺は自分自身の実力を以って、敵と障害を払いのけなければならないのだ。沈黙が互いの間を漂う。先に口を開いたのは、ラリーの方だった。降参、というように手を大きく広げながら。
「改めて、猟犬の巣窟へようこそ、相棒。これから宜しく頼む。リハビリ帰還はなるべく短くしてくれよ?」
「こっちこそ宜しく頼む。"片羽の妖精"の翼跡、しっかりと拝ませてもらうよ」

これが、共に死線を越えて戦場を駆け巡ることになる、最高の相棒との出会いだった。とりあえず、俺には「仮合格」のスタンプが押されたらしい。これが「本合格」になるまでの時間は僅かだった。ウスティオの国土の大半を掌握したベルカが、小癪にも傭兵を招いて反攻を企てる残存軍を放っておくことは無かったのである。猟犬たちの巣窟、ヴァレーに危機が迫る。

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