決戦前夜
「上部ダム排水、90%完了!」
「下流域への洪水被害、ありません。順調です」
「第1から第4指揮所、順に状況を報告せよ」
壁面に設置されたディスプレイに映し出される様々な情報と映像。大勢のオペレーターたちが各所の状況確認と作業とに追われている。ここからではその全貌を確認することは出来ないが、排水の完了した"王の谷"では、そろそろ本来の姿が見え始めているであろう。このアヴァロンダムの本来の姿。もともとは、祖国ベルカの安全を守るための拠点の一つとして、自らが設計・建造した要塞。今、その所有者は祖国には無いが、世界に対して新たな秩序を打ち立て、世界を変えるという目的だけは共通だった。徐々に姿を現し始めたアヴァロンの姿を、アントン・カプチェンコは無表情に、そしてジョシュア・ブリストーはこれ以上愉快なことはない、といった様子で眺めていた。XB-0を失い、エースたちの幾人かを失うというアクシデントには見舞われていたが、アヴァロンは違う。戦闘機程度で全てを破壊し尽くせるような代物ではない。唯一それを可能にした戦闘機は、自分たちの手中にある。つまり、敵は無いと言うことだ、とブリストーは楽観的に言うが、カプチェンコはそこまで楽観主義にはなれなかった。ヴァレーの狂犬を仕留めながら、自らも被弾してしまったブリストーは、これまで以上に組織の戦いの正当性を主張して憚らなくなった。それは反面、鬼神や狂犬が見せた、必死の抵抗に不安を抱いたからでもあるだろう。やり方を間違えれば、このアヴァロンとて、葬られることになる。慎重に全てを進めなければならないな――眼鏡を外してハンカチで曇りを拭き取ったカプチェンコは、姿勢を直しつつモニターに注視した。
「いよいよだ。いよいよ始まる。我々の革命が」
「革命は革命を成し遂げてこそ意味がある。それを忘れるなよ、ブリストー」
「大丈夫だ。貴方が作り上げたアヴァロンは完璧だ。連合軍が押し寄せたところで、我々の勝利に疑いはないさ。V2が無くとも、連合の犬どもを追い返すことは容易い。違うか?」
「そうありたいところだが、連中にも切り札というべき凄腕がいる。慎重すぎるということは決してあるまい」
「……鬼神、か」
ブリストーの眉間に皺が寄る。きっと、祖国の上層部たちも似たような表情を浮かべていたに違いない、とカプチェンコは確信した。思えば、先の戦争においても、様々な戦場でそんなことが繰り返された。展開した地上軍の裏の裏をついて各個撃破に専念し、終わってみれば圧倒的不利の戦況を覆したオーシア海兵隊の"鬼"。同胞たちを核の炎で焼き払い、オーシアへ亡命しようとする企みを阻止されたベルカ公。死んだと思われていたのに、オーシアのフランクリン大統領との共同記者会見に姿を現したビスマルク公爵。そして、必勝の策であったはずの戦略を鬼神たちによって撃ち砕かれてきたベルカ。鬼神たった一人で全ての戦況を覆したとは思わない。だが、奴の存在が、他の兵士たちを導いたのだ。別に戦況をひっくり返すのに難しいことはない。自分たちはやれる――そう確信した連中ほど怖いものはないのだから。だが、彼のような存在に相応しい伝承が、祖国には伝えられている。圧倒的な力で死を等しく与える悪魔。しかし、やがては英雄たちを率いて蘇る強き翼を持った戦女神。――「ラーズグリーズ」。「V2」という究極の力を手にした自分たちであっても、まだ足らないように思わせる「何か」があの強敵にはあるのだ。その正体を突き止めたいという衝動が、カプチェンコの中で次第に大きくなりつつあった。戦闘機乗りとしての血が、鬼神との対決を望んでいる。だから、次に奴が現れるときは、その正面に立ちはだかることを彼は決めていた。
「次の戦いでは、私自らB7Rに赴こうと思う。ここにいてもやることは大してない。引き金を引くのは、基地の同志たちと片羽に任せておけば良いしな」
「鬼神とやりあうつもりか?」
「うむ。ゴルトの部下たちもそれを望んでいる。そして私も戦闘機乗りだ。唯一、鬼神と剣を交えたことのない、な。だから戦ってみたいのさ。もし敗れてこの身が塵と化そうとも、もう流れを変えることは出来ない。変わり始めた世界を止めることなど、誰にも出来はしないのだから」
やるべきことはすべてやった。後は、自分の望みを適えるだけだ。まだ見ぬ好敵手――鬼神の姿を思い浮かべながら、アントン・カプチェンコは笑った。愚かな行為と言われようが、分からぬ人間にはわからなくてもいい。為すべきことを成し遂げ、貫くべき信念を貫いた人生は、ただ漫然と流れていくだけの人生を遥かに凌駕する喜びに包まれたものなのだから――。
膝枕に頭を預けつつ、ジェームズは何気なくこころもち膨れたように感じる下腹部に耳を当てる。もちろん、まだ鼓動など聞こえるはずもないのだが。そんな仕草を見て、セシリーが笑う。ヴァレー襲撃で強打した腕を調べるためにレントゲン写真を撮ろうとした医師たちに強情に反発した彼女の顔には、どことなく母性の発現を感じることが増えてきた。しばらくは楽しいこともお預けか、と今ごろは人生の喜びを知ったばかりであろう相棒の姿を思い浮かべて残念にも思うが、これから生まれてくる子供の顔を見ることはそれ以上の喜びであるに違いない。
「もう、いつまでそうしていたって、何も変わらないわよ?」
「いいんだよ。……それに、心地よいし」
「ねぇ、どっちが生まれてくると思う?」
うーん、とジェームズは腕を組んで唸った。だが、どっちでもいいや、というのが本音だった。男の子でも女の子でも、バイクの後ろに乗せて――駄目だ、セシリーがいるんだから、RVにバーベキューセットを積み込んで、山のきれいな景色と美しい星たちを見上げながら歌を歌い、うまいご飯を食べ――そんな未来が近く訪れるであろうことは間違いないのだから。サイファーのところは確か女の子二人だったはずだから、もし女の子が生まれたら、色々ともらうことも出来るだろう。セシリーに似てきれいな娘に育ったら、絶対に嫁になんて出さないぞ――待てよ、セシリーの実家に何て言えばいいんだ、俺は。結婚に当たって最大の問題点に辿り着いたジェームズはさらに難しい表情を浮かべる。こんな目まぐるしい仕草が子供っぽく、けれども真剣に色々と考えているであろうことをセシリーは知っている。
「どうしたの?」
「いや、大事なことを忘れていたんだ。俺、セシリーの両親に何て挨拶すればいいんだ!?だいいち、順序が思い切り逆じゃないか。普通、亭主の方は大変な思いをするのが相場なんじゃないか?」
「あら、そのリスクも考えずにあんなことしてたの、パトリックは」
「いや決してそんな適当な気分では……」
「……大丈夫。両親には、もうプロポーズされました、と伝えているから。戦争が続いているから挨拶には行けないけど、本当に信頼できる素敵な旦那様ですよ、って」
さすがというか、何というべきか。外堀からしっかりと埋められつつある自分の立場を認識したジェームズは、浮気なんか決して出来ないことを悟る。相手は完全に自分よりも上手だ。もし過ちを犯せば、笑いながら処刑宣告を下されるのは目に見えている。ま、いいや。自分にとって、セシリー以上の女性はいないのだから。むしろこれからの長い人生を、彼女のような女性と共に歩いていくことが出来ることは、何よりの幸せであるに違いない。――反面、セシリーにとっても最高のパートナーでありたいと思う。長い人生を共に支えあってきた老夫婦の、何と快いことか。自分たちもああやって歳をとっていけたら、きっと最高なのだろうと思う。そうしたら、傭兵稼業を止めて、実家の店を継ぐのも良い。実際問題として、相当な期間遊んで食っていけるだけの稼ぎをこの戦争で得ているのだから。殺伐とした戦場を渡り歩いて命を賭す必要など無い。のどかな風景を眺めながら、美味しいパンを焼く生活のどこが悪い。
「なあセシリー。この戦いが終わったら、一緒に俺の故郷でパン屋をやらないか?……いや、傭兵を続ける必要ってないかなぁ、と思うし、パン屋だったら大変かもしれないけれども毎日一緒に過ごせるし……いや、いいとこなんだって、俺の故郷」
「焼けるの、パンを?」
クスクスと笑いながら、セシリーは相方の先走った思考を愉快に笑う。まだ戦いが終わったわけではないのに、もうジェームズは将来の生活を描き始めているのだ。だが、その決心を嬉しいと思う。今までの知識も経験も余り役には立たないかもしれない。だが、戦地を離れ、平和な営みをしようという彼の決心はセシリーにとってとても嬉しいことだったのだ。国境無き世界によるヴァレー襲撃で、多くの仲間たちを失い、そしてウッドラント司令の最期を看取った身としては、これ以上人の死に目を見たくない、という思いも募ってきている。最終決戦は仕方ないにしても、その先まで戦い続けることに何の意味があるだろう、と彼女は思うのだった。だから、ヴァレーを離れることに、セシリーはそれほど抵抗を感じなくなっていた。ジェームズと一緒なら、きっと楽しい日々を送ることが出来るだろうから。セシリーは未来の亭主の手を握って、そして自分の下腹部に当てた。
「……連れてって、あなたの故郷に。きっと楽しいと思うわ。一緒にパンを焼いて、お店を切り盛りしていくのも」
「セシリーなら、きっとやれるさ。美味しいパンをすぐに作れるようになるよ。約束する」
ジェームズかこの基地を飛び立ち、最終決戦へ臨むまで、まだ時間は充分にある。話せるだけのことを色々と話しておこう。そして帰ってきたら、もっと具体的な話をしよう。どうせ細かい計画を立てるのは苦手な人だから、私がしっかりとしないとね――無邪気に笑うジェームズの顔を見つつ、目前にある幸せの到来に心が踊る。順序が逆になったことをとやかく言う人はいるだろう。けれども、自ら望んで、そして共に一生を過ごしたいと思う人と出会えた幸せの前で、そんな些細なことが何だと言うのだろう。サイファーのように、傭兵を続けながらも幸せな家族生活を送っている人間もいる。傭兵の部分はともかく、自分たちもそうなれたらいいな――気が付けば、心地よさそうに寝息を立てているジェームズの寝顔を指で突付きつつ、セシリーも瞳を閉じた。こんな時間がずっと続けば良いのに――そう思いながら。
「おら、ぼけっとしているな!!仕事はいくらでもあるぞ。気合入れて手を動かせ!!ドリンク剤が欲しい奴はその辺に置いてあるクーラーボックスを開けて飲め!!」
「イエス、ボス!!」
ナガハマ曹長の怒声に新兵たちの声が応える。最終決戦の出撃までの24時間、整備兵や基地のオペレーターたちを除いて、イマハマの旦那は戦闘員全員にシンデレラ・タイム、即ち、自由時間を与えたのだった。そして、同時に新兵たち全員を出撃させることも宣言した。だが、シャーウッドたちのような幸せ者を除けば、寝るか機体を整備するか、トレーニングで汗を流すか、そのどれかしかない連中が大半だ。まして、新兵たちの不安は相当なものだろう。だから、整備兵たちの間に混じって、新兵たちも自分の機体を必死に点検しているのだ。少しでも生き残る側になろうとする努力を、誰が笑うことが出来るだろう。俺もまた、コクピットの上で機体の点検に時間を費やしていた。愛機F-15S/MTD。これまでの激しい戦いを共にしてきた、心強い相棒。すっかりと馴染んだコクピットのレイアウト。次の戦いでは、間違いなく相棒――ラリーとの対決がある。俺の背中を安心して任せられるほどの技量を持った男を敵に回すことが、どれだけ怖いことであるか。単なるテロリスト集団という次元を超えて、最新鋭の機体と装備を持ってくる国境無き世界だ。ラリーもまた、かつてのF-15Cではなく、別物の高性能機に乗ってくることもあるに違いない。慎重に過ぎて不足は無いはずだ。点検マニュアルに基づきながら、俺はコクピットの点検を進めていく。
「随分と細かくやってますね、サイファー」
オイルのこびりついた額が上がってくる。ナガハマ曹長が、俺の機体の点検シートを抱えてタラップをよじ登ってきたのだった。
「点検は完了です。エンジン、胴体、主翼、燃料タンク、兵装、パイロン、足回り。オールクリアです。このままリボン付けてパッケージングしておきたいところですな」
「いっそミサイルにリボン付けてみるか」
「呼び名が変わっちまいますよ。鬼神がリボン付きに」
点検が終了したこと、乗り方に合わせて微妙にチューニングをしていること、敵最終要塞の突入時を考えて、プルアップキューに壁面との相対距離を表示できるようにしたこと等、必要な情報をメモに書き取りつつ、ナガハマ曹長の説明を聞く。思えば、俺たちガルム隊は彼ら整備班によって支えられてきたのだ。無茶な戦闘、無茶な任務を終えて傷付いた機体を元通りに仕上げて次の戦いに備える、その間の戦いはまさに彼らの仕事なのだから。彼らもまた、共に戦う同志であることは言うまでも無かった。
「ありがとう、ナガハマ曹長。必ず、ここに戻ってくるさ。全ての決着を付けて」
「当然でしょう。我々が精魂込めて整備した機体、ちゃんと持って帰ってきてくれないと困ります。……実は、私、この戦いが終わった後も基地に留まろうと思うんですよ。何だかここの雰囲気が気に入ってしまいましてね。出来るなら、サイファーの機体をずっとメンテしていきたいものですけどね」
この先――か。まだこの基地の誰にも伝えていない決心が俺にもある。今はまだ伝えるべきときではないだろう。全て終わってからでも、遅くは無い。だが、ナガハマ曹長の言うように、俺もこのヴァレーの空気が気に入っている。色々な戦場を渡り歩いてきた男たちが、足を止めてじっくりと腰を落ち着けたくなる何かがここにあるのかもしれない。傭兵たちを受け入れてくれる風土と環境が存在することもその理由の一つだろう。俺自身、シャーウッドの、そしてジェームズの成長を見ていきたいと思うくらいだ。彼らが、自分を越えたエースパイロットに育っていく。それを見届けられる日が来たら、どんなに嬉しいことだろう。もちろん、悔しさもあるだろうが、そうやって思いは引き継がれていくのだ。だが、そんな未確定の未来を手にするためには、目前の敵を片さねばならない。体面にこだわり続けてきたオーシアたちが、今回ばかりは本腰を入れてきた。一つには、ルーメン爆撃に対する各国の反応が現場の反感を招き、多くの士官クラスから上申書が送りつけられたという事情もあるようだが、航空兵力だけでなく陸上兵力も含めて、久方ぶりの大規模部隊が集結する手はずとなっている。国境無き世界の規模が一国の軍事力を凌駕する規模になっていることも一つの理由だが、何より彼らが「V2」――核兵器を手にしただけでなく、その使用すらほのめかしていることも大きい。ウスティオの各地に散っていた傭兵たちがヴァレーに戻ってきているだけでなく、この数ヶ月間で編成されたウスティオ正規空軍も相当数参加することになっている。まさに、連合軍挙げての決戦というわけだ。
ナガハマ曹長から預かった書面に素早く目を通し、サインをして手渡す。そういえば、妙に急いでいるような感じで、慌しくタラップを駆け下りていく。
「何だか今日は随分と忙しそうだな。何か手伝おうか?」
「出撃前のサイファーをこき使っちまったらイマハマの旦那に何言われるか分かりませんってば。いや、マッドブル隊隊長機整備班長殿がマッドブル隊隊長本体のメンテナンス中なんで、今のうちに出来ること片しておかんとまずいんですよ。まぁ、ジェーン嬢のことだからしっかりやってくれますがね」
「ナガハマ曹長も、随分と気が回ることで」
「俺たちゃ、皆を出すまでが戦場ですからね。今回は何しろ国境無き世界との決戦とくれば、嫌でも気合も入りますよ。サイファーたちが必ず勝利して帰って来られるように、全力で整備するってわけです。サイファーもあんまり無理せずに休んどいた方がいいですよ」
ノーズギアの側に置いてあった工具箱を拾い上げると、ナガハマ曹長はこちらを振り返って軽く頭を下げ、そして小走りに隣のハンガーへと動き出す。しかしまぁ、あのチェリーボーイがねぇ。どちらかといえば赤面ものだが、真面目一辺倒だったシャーウッドにはむしろ好ましい変化と言えるだろう。連日の厳しいトレーニングにも耐え抜いて、ジャジャ馬Su-37を充分に乗りこなせるようになったあいつだ。ガイアの死を乗り越えて、数段成長したことは間違いないし、しけ込んでいたとしてもやるべきことを放り出すようなタマじゃない……二人とも。むしろ、ガイアの愛弟子二人組、この決戦には相当な覚悟で臨んでくるだろう。だから、折角得られた時間を二人で過ごしても別に構わないと思うのだ。もし万が一、何かあったとしても後悔することが無いように――自分が、家を出る前にそうしているように。コクピット内のチェックを終えた俺は、無造作に置いていたマニュアル類を小脇に抱えて立ち上がった。そして、一つ忘れ物をしていることに気が付く。ツナギのポケットから取り出した写真――エクスキャリバーの破壊に成功した後に、この基地の皆で撮った写真を俺はしばらくじっと見つめていた。ほんの少し前のことだというのに、ここに写っている仲間たちの数人はもう会えないところへ行ってしまったし、道を違えた奴もいる。……本当に、ちょっと前のことのはずなのに。セロテープを切り取った俺は、レーダーディスプレイ脇にそれを貼り付けた。全部終わったら、またこんな写真を撮りたいものだ、と心の中で俺は呟いた。
既に日は暮れたというのに、格納庫をはじめとして、中に入りきらない戦闘機たちには水銀灯の光が浴びせられ、慌しく出撃準備が進められている。その間を整備兵や搭乗員たちが走り回り、目前に迫った決戦に備えている。XB-0の攻撃によって破壊され、瓦礫だけが残った管制塔から滑走路を見下ろしつつ、イマハマはマグカップのコーヒーを胃袋に流し込んだ。傍らにはもう一つ、コーヒーの満たされたマグカップとコーヒーポットが置いてある。山から吹き降ろしてくる冷たい風が基地を包み込んでいくが、この基地の熱気を消し去るほどのものではない。マグを一度置き、眼鏡を外したイマハマは、胸元のポケットからハンカチを取り出して拭い始めた。
「……大佐、いよいよです。これでようやく、ヴァレー空軍基地は春から続いていた戦争に一区切りつけることが出来ます。多くの部下たちを失ってきた辛い戦いもこれで終わりますよ。……本当にお疲れ様でした、大佐」
イマハマは知っている。彼も自分自身のツテやルートを使って今日まで色々と画策してきているのは事実であるが、特に厄介な政治家や軍上層部とのコネクションを最大限に活用してヴァレー基地の体制を如何に維持していくか、故人となったウッドラントがどれだけ苦心していたかを。これなら空を飛んでいた頃の方がましだったよ、といつだったか不器用そうに笑いながらマグカップを傾ける姿を思い出し、やっぱり失ったものはとてつもなく大きかったんですねぇ、とイマハマは呟いた。基地の襲撃から約一週間。破壊された施設の修復は最低限しか行われていないため、手のつけようが無い残骸などはそのままの姿を晒している。この管制塔もしかり、だ。さすがに戦死した部下たちの骸は全て片付けられていたが、焦げた管制塔の端末の残骸には、誰かの身体から吹き出したのであろう血飛沫が黒ずんで残っている。もっと早く、情報を掴むことが出来ていたら。連合軍が必死になってルーメンの惨劇の隠蔽工作に没頭したおかげで、ヴァレーはXB-0の不意打ちをまともに食らうことになったのだ。結果としてXB-0の撃破には成功したが、優秀なパイロットたちをさらに戦死させ、マッドブル・ガイアまでも失う羽目となったのは、直接的には「国境無き世界」によるものだが、間接的には連合軍の優柔不断な対応にも責任がある。それでも事態を隠蔽しようとしたオーシアに対し、ウスティオをはじめとした小国の首脳たちは一斉に総スカンを食らわし、これ以上の横暴を続けるつもりなら全てを公表すると最後通牒を突き付けて一時は会議場から退出。急遽オーレッドから駆けつけたフランクリン大統領によって何とか連合軍の分裂という最悪の事態を防ぐという体たらくだった。全く、オーシアの中に巣食った好戦主義者たちと来たら、他の国の人間など奴隷程度にしか考えていないのだからタチが悪い。まぁ、そんな空気をオーシアの人々も感じ取っているからこそ、戦争終結と共に退陣と言われていたフランクリン大統領が未だに支持されているのかもしれないが。
だが、決戦に当たっては、技量と戦力から考えて、ヴァレー基地の面々には最前線、最も危険な戦域を担当してもらうことになる。犠牲が皆無ということは無いだろう。それに、今や傭兵たちの唯一の要となったサイファー、そして2番機であるPJには、その中でも最もリスクの高いミッションに臨んでもらわねばならない。考えたイマハマ自身も、それを承認した軍部自体も、そんな非常識な作戦があるものか、と思いたくもなる。だが、国境無き世界の切り札を奪うには、これしかないのだ。
「本音を言えば、もうこれ以上部下たちを、傭兵たちの命を散らせたくはありません。でも、この戦いだけは、我々も最大限やるしかありませんからねぇ。……新兵たちも含めて、ヴァレーは全力出撃とします。どうか、一人でも多く生きてこの基地へ戻ってくることが出来るよう、皆を見守っててください」
誰もいない空間、コーヒーの香りだけが風に舞う、その何も無い空間に向かってイマハマは呟いた。戦闘部隊の出撃に先立って、彼は空中管制機イーグルアイに同乗し、指揮を執るつもりだった。この基地で待っていてもすることは余り無い。出来るなら戦闘機を操って共に戦いたいところだが、それも出来ないのならせめて戦闘を優位に進められるように指揮を執る。それが、この決戦において自分の果たすべき役割だ、とイマハマは確信していた。それに、もしウッドラントが生き残っていたとしたら、彼もそうしたであろうから。特に、今回の作戦は、"王の谷"に突入するサイファーたち別働隊と、むしろ航空戦力の主力を投じる本隊とを同時に指揮する必要がある。マッケンジー少佐の負担は相当なものになるであろうし、自分が乗り込むことで分担も出来る。――いや、それは理屈か。要は、座して報告を待っているだけという事に耐えられないのだ。やるからには、必ず勝つ。窓の外で光り始めた星々の向こうに敵の姿を思い浮かべて、イマハマは鋭い視線を空へと向けたのだった。
ガイア隊長の遺品を整理し、それから出撃に備えた細かい点検を進めつつ、今一度コクピット内の操作を頭と身体に叩き込むことに数時間。ようやく終わった戻ってきたのは日も変わろうとしていた時間だったように記憶しているが、まだ朝日も昇る前だというのにすっきりと起きたもんだ――ベットの上に座り込みながら、シャーウッドは伸びをした。窓からはヴァレーの冷気がひんやりと伝わってくる。まだ格納庫周りの照明は煌々と戦闘機たちの姿を照らし出し、整備班の面々が駆けずり回っているのが見える。何しろ、格納庫にも入りきらない人数が集まってきているのだ。それに合わせて他基地から整備兵が臨時で借り出されてきてはいたが、文字通り不眠不休の戦いが続けられている。隣で規則正しい寝息を立てているマッドブル隊主任整備士のような例外を除けば、作戦終了後はベットから出てこない人間が大量生産されることになるのだろう。ヴァレーの冬は寒い。肩を出して寝ているジェーンの布団をかけ直すと、何事か寝言を言って寝返りを打つ。少し眠りが浅くなっているのかもしれない。起こさないようにそっとベットから下りたシャーウッドは、上着を羽織って部屋の古びた鏡の前に立った。――さあ、いよいよだ。いよいよ始まる。鏡に映る自分の姿をじっと見つめる。この数日間、新兵たちと同様に――或いはそれ以上に厳しいトレーニングをサイファーやジェームズと共にこなしてきた今、新しい愛機Su-37の操縦に不安はなくなっている。同じ機体を使っている傭兵たちからコツとクセを教えてもらえたことも大きい。だが何より、JAS-39Cでは考えられなかった運動性能――パイロットを簡単に殺すことが出来るほどの――こそ、最大の変化と言えるだろう。やれるな?鏡に映る自分の姿にシャーウッドは問う。出来る。いや、やってみせる。鏡の前で頷いた彼は、右の眉から額を覆うガーゼをゆっくりとはがしていった。もうすっかり塞がった傷口だが、その代わりに消えない傷跡が姿を現す。若々しい顔に刻まれた刀痕のような傷跡が。
「あれ、もう作戦開始時刻?」
振り返ると、毛布と布団にくるまったジェーンが起き上がっていた。寝乱れた金髪の頭を掻きながら、寝ぼけ眼で部屋を見回す。
「まだ大丈夫だよ。……早く目が覚めてしまっただけさ。ジェーンはまだ寝ていればいい」
鏡の前を離れたシャーウッドはジェーンの隣に腰をおろした。嬉しそうにジェーンがしがみ付いてくる。両隣の傭兵たちは結局1週間部屋に戻ることが出来ず、嫌味半分からかい半分にハンガーで夜を過ごす生活を受け入れてくれている。
「アンタがいなくなると、布団の中が寒いの。起きるなら起きるで一緒に起こしてよ。私もやる事はいっぱいあるんだから」
「悪かったよ。次からは俺が起きるときに叩き起こすようにする」
へー、と言うようにジェーンが目を丸くする。
「何か変なこと言ったかい?」
「気付いていないの、ウィリス。今「俺」って言ったのよ、アンタ。――ガイア隊長が伝染したのねぇ、やっぱり」
「おかしいかい?」
「ううん。ちょっと人相の悪くなった顔にはお似合いかも」
折れていた心が立ち上がり、次の一歩を踏み出すことが出来たことに合わせて、シャーウッドは敢えて「俺」と言うようにしていた。ガイアの影響が無いといえば嘘になる。サイファーやジェームズたちも最初はびっくりした顔をしていたが、すぐに受け入れてくれた。それもいいだろう、と。新兵たちも配属されることになる新生マッドブル隊の隊長機として、多少なりとも突っ張っている必要もあったのだ。出撃前に転倒して骨折し、ガイア隊長の最期を看取れなかったラウンデルなどは、ギブスをハンマーで叩き割って言ったものだ。"隊長の申し子のお前のためなら、何でもやってやる。だが、「僕」ってのはさすがにくすぐったいからなぁ"、と。「僕」と「俺」。意味することは同じでも、気分も何もかも異なる。以前の自分のままなら、決して使うことの無かったであろう言葉。だが、戦いを通して多くの傭兵たち、多くの人々との出会いと別れを繰り返してきた今の自分は、もう過去の自分とは全くの別物なのだ。自分が背負うものも、前に比べて格段に大きくなった。だから、シャーウッドは「俺」と自分を呼ぶようにしたのだ。
抱きついていたジェーンの片手が上がり、シャーウッドの傷跡に添えられる。そっと撫でるように添えられた手に、彼は自分の手を重ねた。この温もり、この高揚感、この安心感。今までは考えたことも無かった感覚に、彼は支えられていた。そう、自分は決して強くない。だが、守りたい人がいる。守りたい仲間たちがいる。だから、飛べる。だから、戦える。傭兵たちとは異なり、世界の戦場を渡り歩いていくことは無いだろう。だが、これから空に上がろうとする若者たちに、このヴァレーで日々を共にした傭兵たちのことを伝えることは出来る。いかに世間の風評が間違ったものか。たまたまこの基地に集った傭兵たちが別格だったのかもしれないが、彼らから数多くのことを学んだからこそ、今の自分がある。事実、自分を鍛え上げてくれた恩人は、本来報酬至上主義の人とまで酷評された、あのマッドブル・ガイアなのだから。幸い、イマハマ中佐は現在の傭兵部隊を存続させることを進めていると聞く。自分はそれを支持していこう、と彼は決心していた。
「目も覚めちゃったし、少しブリーフィングルームに行ったりするよ。ヒヨッコたちを守る作戦も考えなくちゃならないし」
「貧乏性ねぇ。分かった、じゃあ私はもうひと寝入りしたらアンタの機体の最後の点検に入るわ。いい、ウィリス。ガイア隊長の最後のプレゼント、大切になさい。そして、その大切な機体で敵をぶっ潰して私のところに帰ってくること。あ……それともう一つ。それ以上人相悪くしないでね」
軽く額を小突いてやると、舌を出してジェーンが布団の中に顔を埋める。にっこりと笑いながら。もっと早く、正直になっても良かったのかもしれない。この笑顔を、シャーウッドはずっと見続けていきたい、と心の底から思った。姿勢を直して、背中から抱き付いてきたジェーンの温もりを快く感じながら、シャーウッドは視線を窓の外に広がる空に向けた。決戦。全てのケリをつける戦い。きっとあの卑怯者も出てくるだろう。奴だけは、この手で屠る。だから、首を洗って待っていろよ――シャーウッドの顔に、精悍な笑みが浮かぶ。もうその顔に、迷いは無い。そして、もうその顔に、若鳥の初々しさは無い。数々の戦場と修羅場を潜り抜けてきた一端の猛者の姿が、そこにあった。
様々な思い。様々な信念。ようやくケリがつく。それが、唯一誰もが確信していた言葉。
無数の悲劇。無数の生命。様々なものを犠牲にした1年間の最後の日――即ち、1995年12月31日の夜が明ける。