王の谷・後編
戦闘機の残した飛行機雲が大空を充満させている。ところどころに残った黒い雲は、撃墜された戦闘機たちの残した残滓。だがそれらが長い時間残っていることは決してない。雲と煙を吹き飛ばしながら、生き残った戦闘機たちが戦いを続けているからだ。「国境無き世界」の敵部隊は最新鋭の機体を持ち込んでいるため、予想以上の苦戦を強いられるパイロットたちが多かった。だが数的劣勢は増援部隊の到着によって覆されつつあった。ベルカ国防空軍のパイロットたちに至っては、スペック的には劣っているはずの機体を巧みに操り、敵機を罠へと誘い込む形で支援を続けている。立ちはだかる敵をねじ伏せ、友軍機たちの支援を継続しながら、シャーウッドは必ず現れるであろう仇の姿を探していた。オーシア空軍在籍当時はウィザード隊を率いていたエースパイロット、ジョシュア・ブリストー。恐らくは「国境無き世界」の主軸メンバーであり、何よりマッドブル・ガイアの仇。奴によって味わう羽目となった苦い屈辱と後悔は、倍返しにしてやらねば気が済まない。必要の無い争いを引き起こし、散る必要の無い命を散華させる元凶。YF-23Aの姿を見るたびにぎょっとしてその姿を追うが、見覚えのあるカラーリングの機体はまだ現れない。それに、連中のやり口は分かっている。堂々と戦場には現れず、ステルス能力を存分に発揮して背後から忍び寄る奴らの気配はまだ感じられないのだった。
「くそ、振り切れない。なんて機動をしやがるんだ、あの機体!」
「何だあの機体!?スカーレット、真後ろだ、逃げろ!!」
「……XF-3から逃れられると思ったか。落ちたまえ!」
ウスティオ基地の傭兵が操る紅いF-16Cの背後に張り付いた新鋭機から、機関砲弾の雨が降り注ぐ。急ロール、右旋回。攻撃を回避しようとした友軍機の垂直尾翼が勢い良く弾け飛び、穴の穿たれたエンジンから黒煙が吹き出す。姿勢を立て直すことが出来ないまま、紅い機体が高度を下げていく。やったな!!敵機との距離は至近。シャーウッドはスロットルを押し込み、味方を葬った機体に襲い掛かる。どうやら「国境無き世界」の持ち込んだ試作機らしい機体が、鮮やかなエッジを空に刻みながら軽やかに舞う。右方向へ急旋回した敵機を追って、シャーウッド機も急旋回。両翼から白い雲を引きながら、Su-37が大気を鮮やかに切り裂いていく。アヴァロンの上空を所狭しと駆け回る戦闘機たちの合間を縫って逃げる試作機とSu-37。さらにその後方をマッドブル隊2番機のF-14Dが追う。マッドブル2、ヘルモーズが中射程ミサイルを発射。真っ白な排気煙を吐き出しながら肉薄するミサイルを電磁妨害を展開しながら試作機、急旋回。その方向へ向けてシャーウッド機、機関砲弾を集中させる。
「ぐっ……かっ……この機体を以ってしても振り切れないだと――!身体が耐えられるか――!?」
唸り声のような叫び声が聞こえると同時に、試作機が轟然と加速。シャーウッドたちの射程範囲から一気に遠ざかる。一進一退の激戦が続く中、深追いをしている余裕はなかった。連合軍による猛攻で国境無き世界側にも相当な被害は出ていたが、一方で連合軍側も無傷では済まなかった。オーシア軍の記章を付けたF-15Cが、後方に張り付いた敵機を振り切ろうと必死の回避機動を試みる。その機動を嘲笑うように敵機が後を追う。機体の限界か、パイロットの肉体の限界か――機動が単調になったF-15Cに敵機が牙を突きたてんとした時、同じ部隊章を付けた別のF-15Cがその射線上に強引に正面から割り込んだ。機関砲弾の雨の直撃を受け、破片と部品を撒き散らしていく機体は、パイロットの執念が乗り移ったかのように敵機へと突撃していく。突然の乱入者に敵機が慌てて機体を捻るが、もう遅い。垂直尾翼がまるで突き立てられた刃のように敵機のコクピットを抉り、敵パイロットの身体を真っ二つに引き裂き、復讐を果たす。が、衝突の衝撃で尾翼だけでなく機体後部がもぎ取られ、バランスを失った機体はきりもみ状態となって高度を下げていく。
「隊長!?隊長、応答してください!!」
「こちらサモナー1、くそ、Sword of Justiceがやられた!繰り返す、Sword of Justice戦死!!」
「シャワークラウドよりサモナー1、彼の小隊の指揮を執れ。今は遊ばせておく作戦機が1機もない!」
「オルトロスよりシャワークラウド、増援はまだか!?」
離脱した試作機から次の獲物を探すシャーウッドの側を、友軍のMig-31が通り過ぎていく。その後方、F-15の改良型――サイファーと同じようなスタイルの――が食い付いていた。支援に回ろうとしたシャーウッドのコクピット内にミサイルアラート。別働の敵戦闘機部隊が背後に迫りつつあった。舌打ちし、友軍機の無事を祈りながらスプリットS。高度を下げ加速しつつ反転したシャーウッドは、敵の真正面から襲い掛かる。頭上を、自分を狙って放たれた数本のミサイルが高速で通過していく。機体をローリングさせて敵の射線を巧みにかわしつつ、向かってくる敵編隊の最左翼の目標に対し狙いを定める。ギリギリまで引き付けてのガンアタック。敵からも応射。腹の下を通過していく曳光弾の筋。機首から穴だらけになった敵戦闘機が目の前を高速で通過していく。あっという間に後方へと飛び去った機体が、やがて虚空に火球を出現させて四散する。敵機が次の攻撃ポジションに付くよりも早くインメルマルターン、反転上昇したシャーウッドは、右旋回でシャーウッドにリアタックを仕掛けようとしていた敵部隊の後背にまんまと食らい付く。レーダーロック――ロックオン。敵機を完全に捕捉したシャーウッド機から放たれたミサイルが、それぞれの目標へと迫る。高度を下げ、加速していった一方の翼に命中した一本は、獲物の主翼を真ん中からへし折ることに成功し、もう一本は敵機のエンジン付近で炸裂した。爆発の衝撃と爆風を背に殺到した弾頭が、敵機のエンジンを引き裂き、燃料を引火させて誘爆させる。機体の後ろ半分をもぎ取られた敵機が、破片をばら撒きながら黒煙に包まれ墜落していく。
「何だ!?鬼神がこの戦域にいたのか!?」
「違う、狂犬だ!ウスティオの狂犬がいるぞ!!」
戦場を駆け巡るその白い機体に、連合軍のパイロットたちは勇気付けられていた。逆境をものともせず、立ち塞がる敵を粉砕していくその姿に、"俺たちも続け"と誰もが叫んでいた。逆に、国境無き世界のパイロットたちは、落としても落としても戦意が衰えるどころかむしろ猛然と突撃してくる連合軍の姿に、恐怖を覚え始めているものもあった。大義と大義。正義と正義。決して相容れることのない両者の激突。叛旗を翻した者もそうでない者も、それぞれの信じる正義のために牙を突き立て合う。
「分からない奴め!ホフヌングを焼き払ってまで手に入れた正義を振りかざす連中に、何故そこまで従う!?何故愚かな政治屋どもの手先となって力を行使する!?」
「ルーメンを焼き払った分際で何を抜かす!許せないんだよ、核兵器まで持ち出して正義を語られるのがな!!」
「なら認めさせてみろ、お前自身の力で!」
「望むところだ、分からず屋!!」
互いに反対方向へとループしたMig-31とF-15ACTIVEが、互いの正面を捉えて機関砲弾を浴びせ合う。激突しあう双方のエースの意地が衝突し、そして互いの機体を粉砕した。根元から吹き飛んだカナード翼が回転しながら落ちる。被弾の衝撃でキャノピーが脱落する。穿たれた穴からオイルが、燃料が、そして黒煙が吹き出す。キャノピーを吹き飛ばされたMig-31のパイロットがベイルアウト。その衝撃で機首を少し下げた機体は、上空に打ち上げられたパイロットを巻き込むことなく、黒煙を吐き出しながら高度を下げていった。同じように全身を穴だらけにされたF-15ACTIVEは、やがて炎にその身を包みながら、しかしキャノピーの上がる気配がなかった。
「ハートブレイク1より、ヴァルカンへ。早く脱出しろ!てめぇが帰還すれば大勝利、死んじまったら言い訳も何もかも出来ないんだぞ!!」
「……ヴァルカンより、ハートブレイク1。厚意に感謝する。だが、私は許せなかったんだ。あの燃える光景。地上も空も、何もかも朱に染まった、あの光景が……」
「おい、返事をしろ!ヴァルカン!!」
「……そんな余裕はないぞ、隊長!敵戦闘機3、我々を狙って急速接近。7時の方向!!」
「ちっくしょう、どいつもこいつも勝手なことばかり言いやがってからに!!」
かつての仲間すら撃墜しなければならない、凄絶な殺し合いの終わりは見えない。勝利はどこにある。正義とは何だ。何故俺たちは戦わなければならないんだ――操縦桿を振り回し、敵の姿を捜し求め、当たれば人間の五体など跡形もなく消し飛ぶ攻撃を放ち、そして猛烈な機動に全身をシェイクされながらパイロットたちは尚も戦い続ける。そんな戦場におよそ相応しくない、落ち着いた、そして冷厳とした声が響き始めたときに、誰もが自分の耳を疑った。ついに幻聴が聞こえるほどに疲労したのか、と。しかし、シャーウッドはその声に全身の血が沸騰するような錯覚を覚えた。自分以外の全ての者を実は見下し、己の野望を理想として他の存在を排除していく、そして危険なまでの行動力と指導力を持った男――ジョシュア・ブリストー。復讐の炎に包まれ始めたシャーウッドの頭を、聞き慣れた声がガツンと打つ。"何やっているの、馬鹿!アンタが飛ぶのは復讐のためじゃない。私たちを守るため、そして私の元に帰って来るためでしょう!?"――そうだよ、ジェーン、分かっている。分かっているけど、アイツを許すわけにはいかないんだ。"バカッタレ。誰が復讐しろなんて頼んだ。いいか、兄弟。復讐のために倒すんじゃねぇ。言うのも恥ずかしいが、お前たちの未来のために、奴を倒すんだよ。奴を越えてみせろ、シャーウッド。いや、マッドブル1!!"――幻聴か、空耳か。しかし確かにシャーウッドはガイアの声を聞いた。熱くなっていた頭が急速に冷やされていく。その後に聞こえてきた、表面上は穏やかな声を、ようやく彼は冷静に聞くことが出来た。
"――我々は国境無き世界。無駄な抵抗を続ける連合軍部隊に告ぐ。我らと共に進もう。世界は、正しい力を行使することが出来る人間によってのみ、正しい方向へと歩むことが出来る。今ならまだ間に合う。我々は諸君を歓迎する。所属も階級も関係ない。共通の目的のために戦う同志として、理想郷の実現に力を貸してはくれないか――"
黙れ。その口を閉ざせ。お前のその口に乗せられて、一体どれだけの命が失われたと思っている。お前こそが、世界の敵だ。俺は貴様の全てを否定出来る。姿を見せずに影でこそこそやっているような奴に、世界の未来は渡さない。復讐とは異なる熱と炎が、シャーウッドの心の中に吹き上がっていた。
「マッドブル1より、各機へ。狂人の世迷言だ、耳を貸すな。狂った魔術師は、マッドブル隊の獲物だ。手を出すなよ。マッドブル隊各機、周囲の警戒を強化せよ。イーグルアイ、周辺空域の警戒を強化してくれ。奴は必ず現れる!」
世迷言とは言ってくれる――話の最初から横槍を入れられたことに、ジョシュア・ブリストーは心底腹を立てていた。表面上は微笑を保ったまま。どうやら声の主は、先日仕留めそこなったガキらしい。少し見ない間に、随分と増長してくれたものだ。この間と同じように、今度は確実に葬ってやろう。だが、今は先にやることがある。コクピットの中で、軽く呼吸を整えたブリストーは、再び演説の言葉を紡ぎ出す。
「思い出せ!戦争に勝利した連合国たちの引いた国境線は何だったか!?ベルカによって奪われた土地を解放するために戦う――それだけならまだいい。だが、オーシア政府の狙いは、ベルカに戦争を起こさせることにあった。ベルカが手にしている様々な権益を奪い取るために仕組まれた戦争。一部の人間どもの欲望によって引かれた国境線。闇に葬られる数々の真実。そして兵士たちは政治を語る者たちの使い捨ての道具に過ぎない。そんな理不尽のどこに正義がある?敗者と死者に全ての責任を押し付けて、我が世の春を謳歌する者たちのために、散らすような命は存在しない。だが現実は、そんな連中たちがのさばっている。いざ危険が近寄れば機嫌を伺うように兵士たちを送り出し、戦いが終われば兵士たちの尊い犠牲によって得た勝利を我が物にするような餓鬼どもだ。――諸君らは、そんな連中のために命を賭けるのか?そんな理不尽のためにこの空を飛ぶのか?」
眼下を飛ぶ戦闘機たちの動きが緩慢になる。動揺が連合軍パイロットたちの間に広がっている証だった。そう、それでいい。戦場の姿を知っている者だからこそ、為し得ることがある。ここに集った連合軍パイロットたちを取り込むことが出来れば、最早この世界の空に敵は無い。最強の兵器と最強のエースたち、そして最強の兵士によって編成される軍隊。それこそ理想郷。ブリストーはマスクの下で笑った。我が大願の成就は近い――!それは最早確信というべきものだった。
「我ら国境無き世界は、そんな世界の存在を認めない。もともとこの星に国境は無かった。宇宙から見た大地に国境線など引かれているのか?否、そんなものは無い。全て人間が勝手に存在するものと思い込んでいるだけの代物だ。そんなまやかしは、必要が無い。人が人として、一つの世界を手にするために、国境を消す。この星の全ての人々を、国籍・人種・階級・差別・民族・貧富――あらゆるものから解放する。所属も階級も存在しない。共通の意志と目的のために協力する兵士たちによって構成される唯一にして最強の軍隊が、平和を維持する。そして、世界は再生する。人が人として自由に生きることが出来る理想郷が、その時こそ実現する。世界は既に変わり始めた。この流れを変えることは出来ない。時代が、我々を選んだのだ!!我々こそ正義なのだ。圧倒的な力。そしてその力を正当に行使出来る我々の手によって、世界は初めて平和を手にすることが出来るのだ!!」
スロットルレバーを離した左手をぐっ、と握り締め、前へと突き出す。「V2」があれば、全ては思いのまま。超大国も恐れるに足らない。そして大義を持たない者たちも必要は無い。世界は浄化という名の虐殺を経て強く生き返る。浄化を生き延びた強い人間たちこそ、新しい世界に生き延びるに相応しい。生き延びる力を持たないような弱い者たちに、存在の必要は無い。虫けらにも及ばない命の跋扈する世界こそがおかしいのだ。ブリストーの手には、今まさにパンドラの箱が乗っていた。
「オーシアの持つ経済力、ベルカの持つ高い工業生産能力と科学技術、ウスティオの持つ鉱産資源と高い工業技術、ユークトバニアの持つ高い工業生産能力、ユージア大陸の石油資源に科学技術――世界のあらゆる国々の持つ利益が、世界に分配される。人間は、きっとこれまで手にしたことの無い豊かさを得るだろう。我々の歴史上、そんな理想郷を求めた偉人たちは数多い。道半ばにして斃れた者たちも多い。だが、彼らの目指した理想は、我々人類に引き継がれている。今こそ、真の革命を成し遂げる時だ。さあ、連合軍の諸君。我々と共に大義に生きるか、まやかしの正義と心中して犬死するか、決断するんだ!我々は、君たちの敵ではない。君たちの同志なのだから」
あれほどやかましく飛び交っていた交信が嘘のように静まり返っている。小癪にもアヴァロンの先に広がるムント渓谷から侵入を図った連中もいたようだが、強固な防衛部隊の前に次々と撃ち減らされている。全滅も時間の問題だ。もしアヴァロンのこの空に鬼神がいるならさらに好都合。仲間に引き入れられれば最高だが、そうでなければここで抹殺すれば最大の敵を消すことが出来る。鬼神を葬ったエース、世界最高最強のエースは一人でいい。名だたるエースに寝返られた連合軍など、烏合の衆に過ぎないのだ、とブリストーはウスティオの鬼神の犬死を規定のものとしていた。この期に及んで姿を現さないことこそ、何よりの証拠ではないか、と。その増長こそ、イマハマたちの狙いだった。最大限の戦力を投入した(ように見える)戦域を本隊と認識させ、もう一方を単なる陽動と信じさせること。そして開かれる僅かな突破口を突いて、正真正銘の真打ちを敵の喉元に突き付けること。ブリストーは敵の術中に陥りつつあることをまだ知らない。そして必勝を期していた自分たちの戦法が既に見破られていたことを、彼はまだ知らない。
「――言いたいことは、それだけか?大義?正義?革命?これが?核兵器を手にし、世界中を脅すことが正義だって?」
凛とした若い声が沈黙を破る。次の言葉を紡ごうとしていたブリストーは、開きかけた口を歪ませた。
「確かに、ベルカ戦争後の連合国による愚かな権益の奪い合いは見ていられるもんじゃなかった。俺たちは、そんなくだらないことのために戦ったんじゃない。ベルカによって侵略された国々の解放。それを信じて俺たちは戦っていたはずなのに、いつの間にか戦争の理由がすり返られていた。そんなことを平気でしでかすような政治屋がのさばるのは、確かに看過できない過ちだと思う」
「そうだ、だから我々は立ち上がるのだ。声無き者たちのために!」
「違うだろう、ブリストー。お前が望んでいるものは理想郷でも平和な世界でもない。自分自身が王となって核兵器を片手に世界を思いのままにすること。それがお前の言う理想郷の実態だ!!核の炎によって奪われる無数の命。核の炎に怯えながら生き続ける命。そんな悲しみに満ち溢れた世界のどこが理想郷だと言うのか。信じてもいない理想論を振りかざしている貴様の絵空事こそ、まやかしだろうに!!」
ウスティオの若き狂犬の放つ鋭い声が、ブリストーが折角放った澱んだ瘴気を振り払っていく。実のところ、ブリストーの演説に自分たちの戦う意義を見失いかけた連合軍のパイロットたちは少なくなかったのだ。だが彼らは、今となってはブリストーの声を聞いていなかった。声の主はまだ若く、世の中の辛酸を知らない青二才であるだろう。だがその初々しさこそが最大の武器だった。若造が、ほざきやがる。ブリストーの両眼に、黒い炎が蠢く。先程までの明朗で快活な声が消え、気の弱いものなら聞いただけで気絶するであろう低く陰湿な声をパイロットたちは聞いた。
「……黙っていれば、勝手なことを。鬼神もいない空で勝手なことをほざいた代償がどうなるか、分かっているんだろうな、若造?」
「お前のような戦争キチガイの相手は、俺で充分だ。円卓の鬼神の手を煩わせる間でもない。お前の首は、明日の先に続く未来のために、マッドブル隊が貰い受ける。今から取りにいくから、最後の名残を楽しんでおくがいい」
「驕るな、ガキが!!マッドブル・ガイアと引き換えにしたその命、大人しくしていれば見逃してやったものを、無駄にするか。恩人が泣くぞ、小僧。鬼神の助けも無く私を落とすつもりか?」
ことごとく楯突く若造に対する怒りが湧き起こる。その若造の言葉を退けられない自分自身に対する怒りが、さらに憎悪を掻き立てる。操縦桿を握る腕が震え、眉間には険しい皺が刻まれる。
「お前ごときに二度と後れを取る俺じゃない。そして、鬼神――ガルム1はお前ごときに引けを取るようなエースじゃない。……一つ聞くぞ、ブリストー。ステルス戦闘機は、その姿すら消せるような代物だったか?」
はっ、とレーダーに視線を移したブリストーは、ウィザード目掛けて真っ直ぐに突入して来る敵編隊の姿に気が付いた。そんな馬鹿なことが。奴らのレーダーに自分たちの姿は捉えられていないはず。なのに、何故連中には見える!?
「こちらイーグルアイ、イマハマです。マッドブル隊、彼らの居場所は目の前です。――容赦する必要はありません。全て叩き落しなさい」
「アイボール隊より、マッドブル隊。奴らの姿は完全に捕捉した。後はそっちのお仕事だ。健闘を祈る!!」
沈黙の間、連合軍部隊は黙っているだけではなかった。こいつらは、今までの連中とは違う。ようやくその現実にブリストーは気が付いた。そして信じたくない現実に。目の前にいるエースパイロットたちは、紛れも無く国境も所属も階級も、その垣根を越えて「国境無き世界」を倒すという、共通の目的のために協力しあう者たちだったのだ。まさか、鬼神は――!あの男が、この戦いに参加していないはずが無い。ここにいないのであれば、答えは一つ。そして連合軍の真の狙いは――!!大きな過ちを自らが犯したことをブリストーは認識した。だが時は既に遅し。コクピットの中に鳴り響いたのは、ミサイルアラート。若き狂犬の白い姿が、目の前に迫りつつあった。築き上げてきたものが瓦解していく音を聞きながら、屈辱の回避機動を開始するブリストーの姿に、もう余裕の色はどこにも見えなかった。
「ギズモ6がやられた!!」
「こちらヘイロー8、主翼をやられた。済まない、離脱する!!」
「オメガ3墜落、オメガ隊の残り、あと2機!!まだまだ行くぞ!!」
仲間の機体が対空砲火を身代わりに浴びて次々と炎に包まれていく。ある者は後方から狙い打たれたミサイルにその身を晒し、ある者は猛烈な対空砲火を浴びせる戦闘車両たちと相撃ちになって。普通なら戦意を喪失し、とっくに撤退しているはずの状況の中、彼らの戦意は盛んだ。何としても、自分たちガルム隊を突破させるという目的のために、彼らは全力を尽くしているのだった。狭苦しい渓谷の中を縦横無尽に飛び、時には敵戦闘機への報復の牙を突き立てるガルム1――サイファーの後にぴたりと付けていくのは大変なことだった。きっとピクシーも、今の自分と同じような気分を味わっていたのだろう。だが、少なくともそれはパトリック・ジェームズにとっては幸せなことだった。これほどの技量を持ったトップエースの飛び方を間近に感じ、学ぶことが出来るのだから。高い機動性を持つ反面、操縦者の肉体の限界を簡単に超えてしまうはずの機体を完全に手の内にして、そのギリギリの線で空を舞うサイファーの姿を見た者は、誰もが思うのだ。自分もあんなふうに空を飛べたら、と。今、ムント渓谷の真っ只中をこれほどの速度で突っ走っているのは、残念ながら自分だけの技量ではないことをジェームズは痛感している。サイファーが引っ張ってくれているからこそ、愛機をこの速度で走らせることが出来るのだ。いつかは、彼が安心して背中を任せられるようなエースになりたい。HUDの向こうに見えるF-15S/MTDの後姿に向かって、彼は呟く。
折れ曲がった渓谷ももうすぐ最終地点に達するはず。だが、最後の難関が待ち受けている。敵の迎撃部隊も厄介なものであるが、それ以上に地形が問題なのだ。渓谷の幅が狭まった状態で180°旋回を強いられるS字カーブの連続。どうしても機動が単調にならざるを得ないだけでなく、敵の集中砲火を浴びる可能性が高いのだった。サイファーはどう切り抜けるつもりなのか――そう疑いたくなる自分の弱い心を首を振って払う。サイファーは決して諦めていない。散っていく仲間たちの姿を見て心を締め付けられながらも、前を見ているはず。そう、俺はウスティオのトップエースの2番機なんだ。諦めてたまるか!――そう自分を奮い立たせていないと、目前に迫る岸壁にそのまま意識を持っていかれそうになる。閉じてしまいそうな目を無理矢理見開き、HUDに表示される高度や速度を読み上げる。操縦桿を握る手に力を込める。ヴァレーで待っているセシリーとまだ見ぬ子供のためにも、ジェームズは諦めるわけにはいかなかったのだ。
「さて、どう抜ける、PJ?」
いよいよ目前に折れ曲がった渓谷の姿が見えてくる。S字カーブのように曲がりくねった渓谷にかけられた橋の上には、これまで同様に敵部隊が待ち構えているだろう。ここに至るまで多くの仲間が撃墜されてきたが、ここで更に被害は拡大するかもしれない。敵部隊を叩く方法はある。だがそのためには、渓谷の上に飛び出さなければならない。渓谷の上は、対空ミサイル網の真っ只中だ。嫌になるほどのミサイルを浴びせられるのがオチ。渓谷の中も地獄なら、空も地獄。こんなに空を飛ぶことが苦しいと思ったことは無かった。
「ヴェイパートレイルならびにクィーン・ビー隊、こちらサピン空軍アイリス隊。渓谷の上に飛び出したとして、何秒間対空ミサイルをECM妨害で退けられる?」
「最大出力でECMをかけるとして、せいぜい数秒というところ。アイリス、まさか渓谷の上に?」
「それ以外に、ガルム隊を突破させる方法は無いのでしょう?なら、やるまで。ガルム隊には借りが沢山ある。ここで返させてもらうわ、サイファー」
ガルム隊の後方に位置していた3機編隊のSu-37が加速。ジェームズたちの頭の上を通過して前に出る。さらに何機かがその後に続く。連中、やる気だ。突入作戦に参加している電子戦機が最大出力でECMを展開出来る数秒間の間に渓谷を飛び越え、敵部隊を攻撃、再び渓谷の中に舞い戻るというわけだ。
「ガルム1より、アイリス隊、クィーン・ビー隊、ヴェイパートレイル、支援に感謝する」
「無事に終わったら、サピンの赤いワインで乾杯といきたいわね」
ただし、ECM妨害の代償として、ジェームズたちも一瞬であるがレーダーの目を失う。敵の位置が掴めない状態で、渓谷を突破しなければならない。だがもう迷っている時間は無い。カウントダウン開始。カウント0と同時にレーダーがブラックアウト。映し出されていた敵の反応が消え、交信も雑音交じりのものに変わる。友軍機の何機かが、加速しつつ渓谷の上へと上昇する。彼らの姿を充分に確認する間もなく、岸壁が迫る。サイファー機、左側の岸壁ギリギリに寄せて右90°ロール。速度変わらず。その大胆さにジェームズは舌を巻く。だが付いていくしかない。圧し掛かってくるGに耐え、ジェームズのF-16Cも同様にターン。渓谷内に白い雲を引いて急旋回。目を一瞬でもつぶれば一巻の終わり。ものすごい勢いで流れていく岸壁に、背中からどっと冷や汗が吹き出す。やがて岩肌が視界から遠ざかり、渓谷の空間が目の前に出現する。予想とおり、橋の上に展開した対空戦闘部隊の姿が目に入る。だが砲火は自分たちには向けられていない。イチかバチかで上空に飛び出した仲間たちが、一斉に攻撃を浴びせていたのだ。可能な限りの攻撃を浴びせた仲間たちが、再び渓谷の中へと飛び込んでいく。不意打ちを食らった敵部隊が、その後姿にミサイルの雨を降らせる。電子妨害を食らって明後日の方向へと弾き飛ばされたミサイルが、橋架の真上に数発突入する。爆発の炎が橋の上で炸裂し、轟音を発して土煙を巻き上げながら、橋がへし折れ、落下する。ジェームズは目を疑った。――衝突する!!崩れ落ちる橋は、まさに自分たちの通過するポイントの真上なのだ。サイファー機、土煙の舞う低空へと突入。考えている暇は無い。その後ろにぴたりと付けて、ジェームズも機体を渓谷内ギリギリの低空へと寄せる。こうなれば、毒食わば皿までだ!!頭の上に、崩れ落ちる橋の欄干が迫る。間に合え――!HUDの向こうに広がる道を睨み付けて、スロットルを押し込む。叫ばずにやっていられるか!ジェームズはありったけの大声で叫びながら吶喊した。
「イヤッホーーーッ!!」
もうもうと舞い上がる土煙を吹き飛ばし、ジェームズたちの翼が崩落する橋の残骸の下を潜り抜ける。その先は次のコーナー。急旋回するサイファーに遅れることなく、愛機を寄せる。左急旋回。再び流れる岩肌。180°旋回に成功し、機体を水平に戻した彼らの前に、渓谷の終わりが近づいていた。切り立った崖が急速に広がっていく先に、白く巨大なダムの姿が見える。その上空を舞う戦闘機たちの刻んだ飛行機雲も。渓谷を抜けきったことに喜んだのも一瞬のこと。コクピット内にミサイルアラートが鳴り響く。上空を見上げたジェームズは、鈍い光を反射させながら降下してくる敵戦闘機部隊の姿を認識した。最後の最後まで、抜け目が無い。だがここさえ突破出来れば――!!サイファーさえ、突破出来ればいい。だから、彼は操縦桿を引き上げようとした。だがそれよりも早く、渓谷を突破した仲間たちが一斉に上昇を始める。
「ここの敵は引き受けた!行け、ガルム隊!!行って奴らの切り札に駄目出しをしてやれ!!」
「行ってください、ガルム隊!!貴方たちを突破させるのが私たちの役目。手出しは絶対にさせない!!絶対に!!」
上空からの攻撃を浴びた何機かが炎に包まれる。だが仲間たちの放った攻撃も敵を捉え、虚空に火球を出現させる。済まない、みんな――。視界がぼやけて来るのを堪え、正面をジェームズは睨み付けた。俺はお前たちを絶対に許さない――だから、首を洗って待っていろ、「国境無き世界」!!彼はスロットルを押し込み、さっとコクピット周りに視線を巡らせる。泣いても笑っても最終決戦。渓谷を共に突破した仲間たち、そしてアヴァロンの空で必死の攻防を繰り広げる仲間たちの無事を祈りつつ、開かれた突破口にジェームズは飛び込んでいった。