通り過ぎた日々
ヴァレー空軍基地の風景が、何だかとても懐かしいものに感じる。帰還した俺たちを、整備兵たちが、オペレーターたちが一斉に出迎えた。もちろん、ここから飛び立っていった人間が全員戻ってきたわけじゃない。撃墜され、二度と戻らない者。アヴァロンのどこかで救助を待っている者もいる。だが、生き残った奴らとはいずれ再会できる。歓喜と、そして悲嘆の涙を落とす奴らの間をゆっくりと歩きながら、俺はまず最初に伝えるべきことを伝えなければならない仲間の姿を探した。無事に帰還したシャーウッドの白い機体の前で、ジェーン嬢がシャーウッドに抱き付いて回っている。シャーウッドの表情が泣き笑いなのは、恋人の元へ戻れて嬉しい反面、相棒を失ったという悲しみも強いからなのだろう。やれやれ、お熱いことだ。苦笑を浮かべながら俺は所在無く辺りに視線を巡らせる。そして、俺は探し人の姿を見つけた。今まで見たことのないような、青白い顔に硬い表情を浮かべた、セシリー・レクターの姿がそこにあった。二度と戻ることの無い、パトリック・ジェームズ・ベケットの戦死を、俺は自分の言葉で伝えなければならないのだ。この役目は、他の奴には任せられない。セシリーがゆっくりと近づいて来る。彼女の右手がぐっと握り締められるのを見た俺は、目を閉じてその瞬間を待った。威力は充分。倒れはしなかったが、仰け反った俺は2、3歩後ろへとたたらを踏んだ。広い滑走路に響き渡った音に、傭兵たちが驚いた顔でこちらを見る。
「どうして――」
セシリーの両眼から、涙の雫が零れ落ちていた。
「どうしてパトリックが死ななくちゃならないんですか。あんなにサイファーと、ピクシーを信頼し、目標にしていたあの人が、どうして――」
「……済まない、俺はアイツを守ってやれなかった。……最後の最後まで、君のことを話していたよ。俺の娘の洋服や玩具を譲ってくれ、ってね」
拳を下げたセシリーが、両手で顔を覆う。ピクシーだけじゃない。俺もまた、彼女にとっては許せない人間の一人になってしまったのかもしれない。そう、想いが深ければ深いほど、絆が強ければ強いほど、人は深く傷付けられる。戦いが終わったら始まっていたであろう、ジェームズとセシリーの二人の新生活は、実現することなく霧散してしまったのだから。
「……約束したんです。この戦争が終わったら、一緒にパンを焼こう、って。あの人の実家のパン屋を継いで、戦場とは全く縁の無い世界で、残りの人生を満喫しよう――って。なのに、どうして――。ねぇサイファー、教えてください。どうしてパトリックが死ななければならないんです!?」
抑えきれず、泣き出した彼女の拳が俺の胸板を打ち、そして伏せられた顔がパイロットスーツに押し付けられる。俺に出来るのは、ただ立ち尽くすだけ。もし彼女を抱き締めていい奴がいるとしたら、それはここにはもういない男だけだ。俺は彼女の怒りを甘んじて受けることしか出来ない。先程までの歓喜もどこへやら、彼女の嗚咽にもらい泣きした奴らの鼻をすする音だけが、静まり返った滑走路の上に聞こえてくる。どれだけそうしていただろう。不意にセシリーの温もりが離れ、目を真っ赤にした彼女の視線が、俺に注がれる。
「教えてください。あの人は……パトリックはあなたにとって、背中を任せるに足るエースでしたか?」
「勿論だ。PJは……ジェームズは、俺にとって最高の2番機だったよ。挫けそうになる俺を支え、励まし続けてくれた、相棒だった。最後のその瞬間まで、アイツはウスティオのエースだった」
涙顔に、微笑が浮かぶ。それは、残酷な現実を受け入れた人間だけが出来ること。最愛の人の死を受け入れて、これから続いていく長い喪失の時間をも受け入れた、セシリーの覚悟と決心だった。彼女は、恐らくここを去っていくのだろう。ここは、ジェームズの思い出が多過ぎる。ヴァレー空軍基地にアイツがいた時間は、確かにそれほど長くは無い。だが、時間の長さが問題ではない。時間の密度が問題なのだ。ヴァレーには、アイツの残した足跡が多過ぎる。それでは、セシリーは先へと進んで行くことが出来なくなる。そんなことをジェームズは決して望まないだろう。いずれ、彼女は自分で決断を下す。その決断を、俺たちは見守ることしか出来ない。
「……サイファー、どうか飛び続けて下さいね。ガイア隊長があなたにそう望んだように、あの人もきっと同じことを望んでいると思います。そして、忘れないで下さい。あなたと共に飛ぶことを夢見て、そして背中を追い続けた若きエースのことを。これからも、きっとあなたの背中を目標にして空へと上がるパイロットたちが現れるでしょう。サイファーは、そんな若者たちの道標。傭兵とか、正規兵とか、そんなことは関係ない。あなたの翼に憧れる人たちの想いを、どうか忘れないで下さいね」
「……分かったよ、セシリー。俺はもう、俺だけのために飛ぶことは出来ない。そういうことだな」
セシリーがにこり、と無理に笑いを浮かべ、そして踵を返す。基地の建物へと歩き出した彼女の姿を、俺は黙って見送っていた。殴られた頬が、少し痛む。それ以上に、俺の心が悲鳴をあげていた。そう、俺は飛び続けなければならないかもしれない。戦友との約束を果たすためにも。でも、今は休息が必要だった。身体にも、心にも。愛する家族の元に、俺は戻りたかった。セシリーの姿が見えなくなってから振り返ると、ウスティオの仲間たちが俺を呼んでいた。皆の顔に、笑いが戻っている。シャーウッドが、マッドブル隊の面々が手を振って俺を呼んでいる。苦笑を浮かべながら、俺は仲間たちの輪の中に戻っていった。共に戦いを終えた、かけがえの無い仲間たちと共に、今はようやく手にした戦いの終わりを、そして勝利を喜ぶことにしよう。仲間たちと声をかわしながら、俺たちと同様に着陸したにもかかわらず、まだ扉が開かれていないイーグルアイのE-767の姿に気が付いた。イマハマの旦那たちの姿があってもいいのだが、中で何かやっているのか?確かめたい気分もあったが、仲間たちがそれを許してくれるはずも無かった。いつの間にか始まった胴上げの順番が自分に回ってきて、否応無く俺は仲間たちに放り投げられる羽目となったのだから。
「――何ですって。オーシアがそんなことを言ってきていると?」
背中に突き刺さるマッケンジー少佐たちの視線が痛い。振り返る必要も無いくらいに、彼らが厳しい表情を浮かべているのが分かる。自分だってそうだろう。無線をかわす相手もそうであってほしいとイマハマは願った。
「早い話が、今日の勝利をこの期に及んで独占したがっている、そういうことですね。……やれやれ、オーシア大統領の苦労が目に浮かびますよ。今日の戦場を共にした兵士たちも、こんな話を聞いたら黙っていないでしょうに。前線を知らない連中ってのは、どこまでも悪辣なことをしでかすということが良く分かりました。で、私たちはどうすればよろしいですか?軍人としては命令には従わなくてはなりません。ただ、彼らは傭兵です。正規兵ではない。一つ間違えれば、この基地ごと政府に抵抗する羽目になりますよ。それに、空軍基地はここだけではありません。まさか、政府は空軍全体を敵に回すおつもり……ということではありませんよね?」
オーシアの要求。それは、馬鹿げた要求だった。ガルム隊1番機は、かつての2番機だった片羽の妖精と裏で通じ、国境無き世界に荷担していた疑いがある。軍事法廷においてその調査を行うため、ウスティオ政府は彼の身柄をオーシア政府へと渡してもらいたい――見返りは、円卓を含めた旧ベルカ領の一部割譲と各国の銀行で差し押さえた国境無き世界の膨大な軍資金の分配。これらの措置は、大統領経由ではなく、名目上の最高機関である連合軍参謀司令本部から通達されたものであって、本来の外交ルートによるものではなかった。これはフランクリン大統領の決定ではないな、とイマハマは即座に看破していた。むしろこんな謀略を張り巡らせてきた者たちこそ、実は裏で国境無き世界と通じていた連中たちに違いない。彼らがこうして暗躍している限り、第2、第3の国境無き世界が生み出されるのかもしれない。だから、そんな連中が再び現れたときに対処するためにも、サイファーたちの力が必要なのだ。
「何ですと?政府の決定を伝える――と?分かりました。聞きましょう。……はい?本当に?それが政府決定事項であり、我々への命令であると受け止めてよろしいですか?……失礼ながら、よくもまぁ、そんな無茶を政府は決めたものだな、と。ははぁ……なるほど。それを聞いて安心しました。いえ、むしろ政府に感謝します。ええ、そうです。彼は連合軍の、そしてウスティオの至宝です」
指でOKサインを作って手を振るイマハマの仕草を見て、背後に張り付いていたマッケンジーたちは小声で歓声をあげた。つまり、サイファーをオーシアに引き渡すことを、ウスティオ政府は蹴飛ばすということだ。ただ、彼らも善人ではないから、貰う物は貰っておいて、オーシアに舌を出すつもりだ。ウスティオ政府にしてみれば、密約の不履行を咎められれば、フランクリン大統領に全てを暴露すればいい。それだけで彼らの存在は消滅させられる。きっとサイファーたちはこういうドロドロした世界を嫌うでしょうがね……とイマハマは苦笑せざるを得ない。だが、そんな世界の住人たちであるウスティオ政府の人間たちまでが、彼を守るために大国の向こう脛を蹴っ飛ばしてくれるのだ。その代償として、サイファーもヴァレー空軍基地も、ちょっとした汚名を着せられることにはなるが、オーシアのモグラたちにサイファーを引き渡すくらいなら、その程度のことは何でもない。ま、出世街道からは外れるのだろうが、そんなものには興味はなくなっている。ウッドラント大佐が、そしてこの基地の連中が作り上げてきたこの基地を行く末を、残りの軍人人生の間見守っていこう――そんなことをイマハマは考えていたのだった。
「分かりました。到着地のケアを頼みます。では、ディレクタスで」
交信を終了し、イマハマは背後で固唾を飲んで報告を待つ部下たちに振り返った。
「イマハマ中佐。サイファーはオーシアに引き渡さなくていいんですよね?」
「オーシアのエースたちが嘆きますなぁ。上があんな風じゃ」
「まあまあ。大国には大国ならではの悩みがある、というわけですよ。幸い、ウスティオ政府は色々とよからぬことを企んでいる連中の向こう脛を蹴っ飛ばしてくれますし、サイファーの"脱出"作戦にも全面的に協力してくれます。及第点どころか、120点というところですか。……さあ、疲れていますが、もう一仕事やってしまいますよ。整備班とオペレーターに伝達を。マッケンジー君、君はパイロットたちをブリーフィングルームへ集めてください。私から直接、"作戦"の指示を出します。さあ、もたもたしない!!」
「了解!!」
緊張が漲っていた部下たちの顔に笑顔が戻り、我先にと駆け出し始めるのを見て、イマハマは改めて苦笑した。本当に、一つ間違えれば暴動になっていたかもしれない。そしてイマハマ自身も、この基地の要となった一人のエースパイロットを、そう易々と恩知らずの連中に渡してやる気など毛頭無かった。せいぜいほえ面をかかせてやりますかね――精悍な、というよりもむしろ悪戯を楽しげにやってのける悪童のような笑みを浮かべたイマハマの姿を見て、マッケンジーは納得した。ヴァレー空軍基地にこの人あり、と。彼がこの基地を仕切っている限り、あの超大国オーシアですら好き勝手は出来ないだろう。そんな男の下で働けることを、マッケンジーは心から喜んでいる。
「どうやら我々、出世街道から外れたみたいですね、中佐?」
「なあに、中央に行かない方が楽しいこともありますよ。こうやって、超大国の横っ面を張ったり……とかね」
戦争に明け暮れた1年がようやく幕を閉じ、新しい1年の1日目も夜の帳の中にある。テレビでは、新年の他愛も無い特別番組が流れる中、昨日の夕方に遥か高空で確認された「謎の閃光」を巡るニュースが報じられている。テロ組織による何らかのテロ説から果てはUFOの襲来まで、様々な説が飛び交うが真相は全く分からない。きっと、どこかで何からの圧力がかけられているに違いない。わざわざバルトライヒ山脈まで新年早々飛んでいるテレビキャスターの興奮した中継をぼんやりと眺めながら、ラフィーナはのんびりと流れていく新年1日目の時間を見送っている。ウスティオの首都ディレクタスに折角移ってきたというのに、レオンハルトとの連絡が取れないどころか、居場所すら分からないのだ。彼が何らかの任務に就いていることはすぐに分かったが、戦争が終わったはずのウスティオにいて、一体どこの戦場に飛んでいるというのだろう。こうなってくると、慣れたとはいえ彼の安否が当然気になってくる。今まで、彼が帰ってこなかったことは勿論一度も無いのだが、次もそうなるとは限らない。どこか遠くの知らない空で、跡形も無く戦死している可能性すら有り得るのが、傭兵という仕事だ。それにしても、手紙くらい書いてくれてもいいのに――少し頬を膨らませながら、ラフィーナは頬杖の上に顔を乗せる。娘たちは今日も待ちくたびれて、既に布団の中だ。さて、帰ってきたら次はどこのバカンスをねだろうかしら――後ろで結んだ髪をいじりながら姿勢を直そうとしたラフィーナは、玄関から聞こえてくる遠慮がちのノックの音にようやく気が付いた。こんな時間に誰かしら――?暖房の効いていない廊下は少し肌寒く、どこだったかのアーミーショップで買ったジャンパーをパジャマの上に羽織って、ラフィーナは玄関の扉を少しだけ開けた。勿論、チェーンはかけたままで。
「――何してるの、レオンハルト?」
扉の向こうにいたのは、何とパイロットスーツのままの良人だった。さらに彼の後ろには、多分防弾ガラスで守られているのだろう、黒塗りの高級車が止まっている。ラフィーナが軽く頭を下げると、強面の顔に少しだけ笑みが浮かび、敬礼する姿が見えた。どうやら、犯罪をしでかしたわけじゃなさそうね――少し安堵してチェーンを外したラフィーナは、今度こそ扉を全開にした。
「堂々と帰ってくればいいじゃない。ここはあなたの家なのよ、レオンハルト」
「こんな姿で街中を凱旋して来いと言うのか?俺はそこまで神経太くないぞ」
「じゃ、やっぱりうしろめたいことしてきたのね?」
「違うったら違う!!」
後ろでは失笑を隠し切れない男たちの姿がある。この寒い中、彼らは黒いスーツのままで立っている。ごつめに見える体型は、鍛えられた筋肉が服を押し上げているのだ。ラフィーナは改めて彼らに対して頭を下げた。
「うちの宿六を連れてきてくれてありがとうございます。……今、コーヒーを入れますから、中へどうぞ」
「いえ、我々の任務は、ウスティオの鬼神殿を安全にご自宅へと送り届けることです。……どうか、ご安心を。色々と厄介な事情がありまして、直接ご自宅までご足労頂く必要があったのです。でも、もう大丈夫です。サイファー、ディレクタスでの安全は我々が守ります。しばらくの間不自由かもしれませんが、どうかご了承を」
「分かっている。貴官たちにも迷惑をかける。それから、イマハマの旦那に伝えておいてくれ。連絡はいつもの方法で、と。それで向こうは分かるはずだ」
「了解しました。それではご夫人、夜分に失礼しました。邪魔者は、これで退散致します。――おい、行くぞ!」
再び男たちが敬礼を施し、車の中に姿を消す。エンジン音が夜の町の中に木霊して、そして夜の闇の中へと消えていく。彼らの姿が見えなくなってから、レオンハルトは何となく困ったような顔で、家の中へと入ってきた。やっぱりこの姿が彼には一番良く似合う、とラフィーナは思った。確かに普段のラフな格好でも充分に似合うのだが、パイロットスーツを着ているときは何より顔が引き締まって見える。ラフィーナは、そっと良人の顔を両手で挟み込んだ。レオンハルトの顔には、どこか寂しげな空気が漂っていたのだ。
「……大変だったみたいね、レオンハルト?」
「――ああ。まだ頭の中の整理が付いていなくて、まさかいきなり家に連れて行かれるとは思わなかったから、驚いてしまったよ」
「大丈夫。明日からゆっくりと、私たちに家族サービスをさせてあげる。ゆっくりしている時間なんてないわよ。ルフェーニアたちが今まで家にいなかった分、たっぷりと甘えてくるでしょうからね」
「そいつは勘弁してほしいなぁ」
いつもの笑い顔が戻ったことに、ラフィーナは安堵した。だが、こんな様子のとき、レオンハルトは大体何かを隠しているか、何かに耐えている。彼の顔から手を離したラフィーナは、数ヶ月ぶりの再会となった良人の首に手を回し、そして抱きついた。レオンハルトの両腕が背中に回り、少し痛いくらいに彼女の身体を抱き締める。久しぶりの温もりに、じわり、と涙が滲んできた。
「バカ。少しくらい連絡入れなさいよ。心配だったんだから、こっちは」
「悪かったよ、ラフィーナ。……本当に、色々あったんだ。多くの仲間を失った。――ガイアの奴も、相棒も、それに新しい2番機も――」
「ガイアさんが……ねぇ、こんな寒いころにいつまでいるつもり?ゆっくり、あなたの話が聞きたいわ。あのね、レオンハルト。ディレクタスの夜は本当に寒いの。広いベットの上で一人でいると、本当に冷えるの。今日からあなたは私の湯たんぽ代わりよ。そして、いない間にあったことを私に伝えるの」
レオンハルトの肩に顔を寄せて、どれくらいそのままでいただろう。久しぶりの心地よい温もりが側にあることが、何よりも嬉しかった。どんなに格好悪くてもいい。生きてここに帰ってきてくれたことが、嬉しかった。
「――言うのが遅れてしまったけど、ただいま、ラフィーナ」
「お帰りなさい、あなた」
「一つ、お願いがある」
「なあに?」
「夜の運動は明日以降にしてくれ」
「……バカ」
ぼっと顔が赤くなるのを感じながら、ラフィーナは唇をレオンハルトの頬に当てた。そう、ここが彼にとってのスウィート・ホーム。渡り鳥が帰ってくるのは、ここなのだ。彼の温もりを感じながら、もう一度ラフィーナは呟いた。
――お帰りなさい、私の大事なあなた。
それから以後、ウスティオの空で"サイファー"のコールサインを聞いた者はいない。円卓の鬼神として恐れられたパイロットの行方は結局分からず終い。ヴァレー空軍基地を「脱走」した彼がどこに姿を消したのか――ある者は小国の紛争地で飛ぶ彼の姿を見たと言い、ある者はオーシア空軍の一員として若者たちの教育を行っていると言った。だがその真偽も分からない。そのうちに、彼の存在自体が曖昧なものとなって、人々の記憶から消えていった。ベルカ戦争の数ヵ月後に勃発した、「国境無き世界」によるクーデター事件の真相が明かされることも無く、再建されたルーメンの街並みも沈黙を保ち続けている。
ヴァレー空軍基地を含むウスティオ空軍の各航空部隊はその後大幅な組織改変が行われることとなり、主要航空部隊の配属される基地には、正規兵部隊と傭兵部隊の混成航空師団が編成されることとなった。かつて、ガルム小隊が属していた第6師団の配属地はヴァレーのまま。現在は"マッドブル1"のコールサインで呼ばれる若きエースと、"シング=マナス"のコールサインを持つ傭兵とが基地の要として、部隊を取り仕切っているそうだ。だがそこにはもう、ガルム小隊の姿は無い。円卓の鬼神、サイファーの姿も無い。「円卓の鬼神」が存在していたのは、ベルカ戦争開戦から国境無き世界の無条件降伏が行われるまでの、僅か数ヶ月間しかない。だが、彼の姿を知っている者は皆思うのだ。きっと彼は、この空の何処かを飛んでいる――と。いつかまた、この空で会うことが出来るだろう、と。彼らが見上げた空は、どこまでも、どこまでも青く広がっている。通り過ぎていった日々。通り過ぎていった人々。「円卓の鬼神」もまた、歴史の流れの中を通り過ぎていく――。