2005.09.30 Hoffnung
1995年6月1日、ベルカ南東部に位置する大工業都市ホフヌングにおいて、悲劇的な事件が発生した。それは、進撃する連合軍の足止めのために、ベルカ軍が自らの手によって焦土作戦――即ち、ホフヌングの全てを焼き払うという蛮行を行ったのである。民間人の脱出も間に合わず、燃え上がる炎の中に多くの命が消えていった。この作戦を指揮したベルカ空軍指揮官が後の軍事法廷で裁かれるなど、戦後も多くのメディアに話題を提供したこの事件は、私もはっきりと記憶していた。だが、それは表向きのカバーストーリーでしかなかったのだ。ベルカから入手した資料、それにこの作戦に参加していた連合軍傭兵部隊の交信記録に記されていたのは、連合軍爆撃機部隊による無差別爆撃の事実だった。複数の資料によって語られる真実の姿。私はその事実に憤慨すると共に、真実を葬り去ろうとしている者たちに対する怒りを改めて覚えた。ルーメンの真実を公表することも出来なかったドレッドノート部長の心境が、今になるとよく分かる。彼が"もう止まることは出来ない"と言った意味も。当時、ホフヌングに展開していた陸軍部隊の戦力はそれほど大きいものではなく、空からの攻撃にはほとんど非力であったとされる。焦土作戦によって部隊のほとんどが壊滅してしまっているため、残念ながら現場を知る人間に出会うことは出来なかった。しかし、残された記録は真実の一端を確実に記していた。ホフヌングは、ベルカと連合軍、双方の打算のために焼き払われたのである。
ベルカ戦争には謎が多い。ホフヌングに限らず、起こった事象は伝えられているのに、その背景が分からないことが多いのだ。例えば、6月6日の悲劇。ベルカ国内で起爆した7発の核弾頭。それによって消滅した街と人々。大地に穿たれたクレーター。その姿を多くの人が知っている。だが、その核兵器がいかなる理由で、どの部隊の誰によって使用されたのか――ベルカ戦争の最後の暗部として、当然軍事法廷でも裁かれるべきはずの事件の背景は、結局何も明らかにされないまま10年が過ぎ去っている。表向きは連合軍の足止めのためとされるあの事件も、裏で何が行われていたのか分かったものではない。ドミニク・ズボフの部隊が出撃したのは、ベルカ空軍きってのトップエース「フッケバイン」を裏切り者として処分するためだった。だがその一方で、「フッケバイン」が所属していたとされる第302飛行戦隊は、その所属基地のヒルデスブルグという街ごと、核の炎の中に消えたとされているのだ。さらに、「フッケバイン」は自国への核攻撃命令を拒否して逃亡したという情報もある。核に焼かれることが分かっている部隊を、何故エスケープキラーが狙う必要がある?つまり、ズボフたちのシュヴァルツェ隊は、「フッケバイン」を仕損じた場合の保険として出撃させられた――というわけだ。それも、一つ間違えれば核の炎の中に焼かれる可能性すらある危険な場所へ、だ。ズボフが雇い主たるベルカを見限る気になったのも当然だ。しかも彼にとってついていなかったのは、その空域へ飛んできた敵機が「鬼神」であったことだ。
1995年4月2日、ウスティオの最後の砦となったヴァレー空軍基地にトドメを刺すべく出撃したベルカ軍攻撃部隊は、「鬼神」、それに「片羽の妖精」と傭兵たちの手によって完膚なきまでに叩きのめされ、さらに彼らの活躍によって占領地を追われていく。連合軍はベルカの手放した地域を解放し、次の戦いへのコマを進めていく。首都ディレクタスの解放は、ベルカ戦争の初期の目的である「占領地の解放」を達成した歴史的な瞬間でもあったのだ。この頃までは、連合軍内の協力体制もしっくり行っていたとされる。だがこの辺りから、戦争の目的は別のものへとすり替わり始める。特にオーシアの姿勢が顕著なものであり、来るベルカの敗北を前提として、軍部と一部の政治家たちを中心に戦後処理のための活動を開始しているのだ。それは、ベルカを打ち負かすことによって得られる富の独占。多大な賠償金は、オーシアだけでなく連合軍に属した各国に配分されたわけだが、それをめぐる会議は紛糾の連続で、小国の首脳たちが何度も退席して自国へ戻ってしまうといった事態を招いている。前線の兵士たちの想いとは別の次元で繰り広げられる争いと戦い。それは、兵士たちの心を傷つけるのに充分であったろう。一体何のために戦ったのか?何のために仲間たちは死んでいったのか?何のために戦争が起こり、そして終わったのか?――未だにオーシア国内では、軍事主義的な強硬な政治姿勢を貫く人々が多い。事実、彼らの多くは、ベルカ戦争終結時にも最も強硬な政策を支持した者たちである。そんな彼らに問うてみたい。一体、あなた方は10年前の戦争で何を学んだのですか、と。
先日のケラーマン氏のインタビューを皮切りに、私のベルカでの取材活動が本格化する。ホフヌング焼き討ちの真実が、ベルカの資料によって明らかになったように、オーシアに残されている資料だけでは全てが不足している。歴史は勝者が綴るものではなく、敗者に敗者の歴史が当然綴られている。真実を明らかにするには、私は国境を越える必要があった。ベルカへの渡航は私にとっても初めての経験だった。何から何まで自分で手配しなければならない旅。だがそれは結構気楽なものであり、ドレッドノート部長の後ろ盾も存分に活用して、ディンズマルク大学での資料調査の許可も得ることが出来た。まだ連絡の取れない者もいるが、ベルカ国内で現在も生存しているエースたちの幾人かにコンタクトを取ることも出来た。ここからが、私の戦いの正念場だ。オーシアとは異なり、ここは「北の谷」。決して外国人、それも戦勝国の人間に優しい地ではないことを、ディンズマルクに置かれた大使館で厳しく言い渡される羽目となった。現在の大統領――ハーリング大統領の時代になってから、ベルカに課せられていた毎年の賠償金が大幅に減額されてはいたが、未だにオーシアの人間に対して恨みを抱いている者は多い。タクシーの乗車を拒否されたときには怒りを感じる前に呆然としてしまった――その後の運転手は「まあそういう奴もいるからな」と私を慰めてくれたものだ。疲労を感じ、ホテル側のバーで何杯かのスコッチを空けた私は、少々千鳥足で部屋に戻った。そして、部屋の机の上に届けられていた貴重な資料に接することになる。それは、ドミニク・ズボフからのプレゼントだったのだ。
ベルカ軍、連合軍によって徹底的に破壊されたホフヌングの街。だが、この街の悲劇はそれだけに留まらない。1995年6月6日、バルトライヒの山向こうで発生した核爆発により、放射能に晒されたこの街は数年間立ち入ることすら禁じられたのである。だが、そのことが、この街の無残な惨状を現在に伝えることになる。テープの許す限り、私はこの街の現在を撮り続けようと思う。何もかもが黒焦げになり、崩れ落ちた風景。建物の下敷きになってところどころのぞいている白い物は、犠牲者の遺骨だ。道路の上に転がり、真っ赤な錆に覆われた車の中にも、這い出そうとして力尽きた犠牲者の骸が横たわる。ベルカの工業生産を支えていたはずの都市の姿はどこにも残っていなかった。高層ビルの類は大半が途中から崩れ落ち、砕かれたコンクリートの塊が空に突き刺さるように伸びている。余程高熱で炙られたのだろうか。窓から溶け落ちたのであろうガラスが、道路の上で冷え固まっていびつなガラス細工を無数に作り出している。どこまでいっても広がるのは瓦礫、崩れ落ちた建物、黒焦げのコンクリート、そして数年間の間ほったらかしにされたままの物言わぬ骸。あまりの惨状に、何度か嘔吐しながらも私はカメラを回し続ける。同行してくれた元ベルカ陸軍の兵士だったという運転手も、あまりの惨状に言葉が無い。
もう、帰ろう。そう思い始めたとき、私は道路の上に転がる、この風景には最も似つかわしくない物に気が付いた。この辺りは炎にはあまり焼かれ無かったのか、比較的原形を留めている建造物が多い。道路も黒焦げになっているわけではなく、当時の停止線や横断歩道が残されている。そんな交差点の一角に転がっていたのは、子供向けのテレビ番組に登場するキャラクターのぬいぐるみだった。色褪せ、埃まみれになって仰向けに転がるぬいぐるみは、きっとこの街で生活していた子供のものだったのだろう。この街を訪れた資料の一つとして、それを持ち帰ろうと近付いた私は、初めて異常な状態に気が付いた。もともとこのキャラクターの色は、確か透き通るような青だった。だが、今目の前に転がるぬいぐるみは、どす黒い色に全身を染め上げられていたのだ。これは、血――!この持ち主に何があったのか、私には分からない。でも、このぬいぐるみをこんな無残な姿にするような哀しい出来事が、私の立つこの場所で行われたに違いない。年端もいかなかったであろう子供の命すら、無残に奪い去る戦争。そんなもののどこに正義がある。気が付けば、私は涙を流しながら目の前の光景を撮り続けていた。持ち帰ることなど出来はしない。このぬいぐるみは、ここに無ければならない。生活する人の姿の全く無い、かつての大工業都市、ホフヌング。ここを訪れて良かった。取材を続ける私の心に、新たな動機と怒りが加えられたのだから。まだ「鬼神」の姿は漠然としか見えてこない。だが、ベルカ国内での取材活動は、きっと私に新たな真実を伝えてくれるに違いない。彼の翼跡を追い続けることで、私は更なる歴史の裏側へと迫ることが出来るだろう――そう、私はもう立ち止まることが出来ない人間になってしまったのだから。