過去と向かい合うとき
16年前、戦争があった。
――いや、戦争という行為自体は、過去から何度と無く繰り返されてきた。そのうちの一つと呼ぶにはあまりにも多くの人々を犠牲にした戦争は、ついこの間の戦争――2010年12月31日に終結した、あの戦いでようやく終結を迎えたのだ。今、ノルト・ベルカは新しい道を歩き始めようとしている。この先にあるのは茨の道かもしれないが、過去の怨念から解き放たれた北の国は、自らの意志で未来へと歩き始めようとしていた。
オーシアに飽きたからユークトバニアに行く。その人が唐突にそんなことを言い始めたのは2011年の夏が近くなった頃だった。オーレッド近郊の空軍基地で以前と同じように新人たちの訓練の日々を送っていたジャック・バートレット少佐が、ユークトバニアとオーシアの士官交流制度を「悪用」してユーク空軍の教官になることを申請したのである。通るはずも無いだろう、と周りの皆が思っていたが、彼の公私混同甚だしい提案は、どういうわけか認可されることとなった。この春から新しい仕事に就いたものの、何から手をつけようかと迷っていた私は、結局オーレッドに残る当時の資料を片っ端から調べることから始めたが、得られたのは結局新聞で報道されていた程度のものだった。ただ唯一、新発見と言えたのは、ノルト・ベルカの統制社会における数少ない民間紙「ベルカン・マガジン」の幻の6月6日号――核攻撃で何も残らなかったとされている――が、ベルカ親衛隊による自国内核攻撃の情報を掴み、記事として掲載しようとしていたことくらいだったろうか。この記事が入手出来たとすれば、現在知られているノルト・ベルカの当時の国内状況に関する通説は覆され、あの戦争はベルカのごく一部の人間が拡大してしまった、という推測を実証することが可能となるかもしれない。やはり、実際に行かないことには何も手に入らない。ようやく重い腰を上げて未知の国へ旅に出ることを決心した矢先の話だった。バートレット少佐のユークトバニア赴任決定が正式に伝えられたのは。
「全く、こんな公私混同が認められるんじゃ、オーシア軍の軍規が疑われてしまうんじゃないか。もう歳なんだから、そろそろ大人しくブレイズたちに任せたらどうかね?」
「余計なお世話だ!口を動かす前に手を動かしやがれ!」
「やれやれ、人使いの荒さは変わらないんだね、私の方が歳だというのに。隊長、年寄りはいたわるもんだよ」
相変わらずのやり取りに思わず笑ってしまう。所も変わり、階級も大尉まで昇進したおやじさんはバートレット少佐の引越しの手伝いで荷物運びをさせられていた。あんな無鉄砲で世間知らずの隊長を一人で放っておくわけには行かないから副官対応で私も行くことにしたんだよ、とはおやじさんの弁だ。士官室が与えられているのをいいことにバートレット少佐の部屋には私物がたんまりと持ち込まれているので、整理する側は大変である。それでも嫌そうな顔をせず手際よく片付けを進めていくおやじさん。これは年の功というものなのかもしれない。それにしても、基地勤めの人間にしては圧倒的と言っていい私物の量である。一方のおやじさんの部屋はと言えばすっかり片付けられていて、しかも大きな布袋に入れられた私物の他は箱が少しだけ。一体この差は何なのだろう。先に数の少ないほうから片付けようと、おやじさんの荷物の布袋を持ち上げようとした私は、見かけに反した重さにひっくり返ってしまった。同時に口が開いてしまった袋の中身が廊下に散らばってしまう。
「ほら見ろ、口ばかり動かすから手が着いていっていなんだ。おいジュネット、体力トレーニングが必要ならもんでやるぞ?」
さっきから手を貸さずに口だけ出して任せっきりなのはどっちだ、と言いたくなるのを堪えて、私は散らばってしまったおやじさんの私物をかき集め始めた。
「ああ、済まないね、ジュネット。そんなに大事に集めなくてもいいさ、どうせ気軽な独り身の荷物など、大した物は入っていないんだからね」
はいそうですか、と言う訳にもいかないので、私は一つ一つ集めては袋の中へと押し込んでいった。廊下に置かれたベンチの足元にも散らばった物が転がっているのに気が付き、私は膝を付いて手を伸ばすと、何かが手に触れた。何だろう、と思って手に取ってみると、それは淡い色の小袋だった。中から出てきたのは、――少し古びた指輪。内側に掘り込まれたイニシャルを見る限り、婚約指輪か結婚指輪のどちらかであることは違いなかった。
「それは……」
おやじさんがその指輪を見て少し驚いたような顔をしていた。私からそれを受け取ったおやじさんは、懐かしそうに暫くの間その指輪を眺め、そして天井を見上げた。そして手の平で指輪を包み込む。
「ひょっとして……おやじさんの婚約指輪ですか?」
「私の?いやいや、これは私の友人だった人から預っていたものだよ。そうか、私としたことが、こんなところにあったんだね」
一休みしよう、と言っておやじさんは箱の上に腰を下ろした。私も手近な箱に腰を下ろし、首にかけたタオルで汗を拭う。動いている間はあまり感じなかった冷房の風が汗を冷やし、心地良い。ため息を吐き出しておやじさんを見ると、彼はまだ無言で指輪を眺め続けていた。おやじさんは言った。私の友人だった、と。それはつまり、今はもうその人はいない、ということだろうか?
「そうか、もう16年になるんだよな、私が祖国から逃げ出してから。そして、この指輪を私に託した友との約束を果たせないまま、16年間が過ぎ去ったんだね。なぁ、ジュネット、君はノルト・ベルカの真実を調べていくのだろう?君が調査を進めていく中で、恐らく過去の私の話が色々と間違いなく出てくると思う。……どうやら、君には話しておいてもいいかもしれないね、16年前、ノルト・ベルカで一体何が起こっていたのか。私がそこで何を見てきたのか……少し長くなってしまうかもしれないが、良いかな?」
もちろん私に異論などあるわけがなかった。先の大戦を実際に生き延びた、それもベルカのエースだった人の証言は、これからの調査を進めていくうえで貴重な証拠となるに違いない。
「そう、16年前、私はノルト・ベルカ空軍のパイロットの一人だった。ジュネット、君と同じように、彼もジャーナリストとして真実を伝えようとしていたよ……」
北半球の国々にとっては今が一番気持ち良い季節だろう。空は青く、地上は緑に萌えている。バルトライヒの山々も新鮮な緑に彩られ、その緑が後方へと流れていく。これが平和な時であれば、心地良い季節を満喫するために車を飛ばしてどこかの山でキャンプするのだろうが、生憎自分が守るべき祖国は平和とはほど遠い戦争状態にあった。祖国を我が物にせんとした大国たちに対する正当な権利行使とやらで始められた戦争は充分な準備を経てはいたが、横っ面を張られた周辺各国が大人しく侵攻を受け入れるはずも無く、南ベルカでは熾烈な戦闘が続いている。そして物量で劣る祖国の戦線は伸び切り、拡大を止め逆に縮小に転じつつある。何より国境線を接しているオーシアの逆鱗に触れたのが痛い。その結果、ベルカの哨戒圏にはこれまでとは比べものにならない数の敵機が侵入するようになり、それに対応するため出撃する日々を過ごして一体どれほどの時間が経っただろう。当初はそれによって得られる華々しい戦果に浮かれている連中もいたが、圧倒的な物量作戦で挑んでくる敵の戦法には呆れつつもとてつもない脅威を覚えることとなった。そして、中には確かに使える連中がいる。敵は私たちが訓練で使うドローンなどでは決してなく、世界最強を自称するベルカのエースたちに負けない腕前を持つ敵機がもちろんいた。キャノピー越しに背後を振り返ると、自分の後に続いて5機の部下たちが続いている。そのうちの2機が薄煙を引いているのは、今日遭遇した敵部隊との戦闘で被弾したからだった。これまでの戦いでも被弾したことがなかったわけではない。だが、この部隊が編成されて初めて、1機の手でこちらの2機が被弾したのだった。なけなしの予算が投入された結果、自分たちの愛機となっているSu-27は間違いなく世界でもトップランクの戦闘機であろうが、それに負けない機動――一見理論を無視したように見えて、実はむだのない機動をしてのけた敵機の動きは、決して自分たちに劣るものではなかった。
「ファルケ0より、ファルケ3、ファルケ4。機体の状態はどうか?」
「ファルケ3、問題ありません。フラップが一部脱落していますが、支障ありません」
「こちらファルケ4、こちらも大丈夫だ。しかしあの敵さん、とんでもない機動しやがる。Gにとんでもない耐久性のある奴だろうぜ。意外とタコみたいな火星人だったりしてな?」
バルトライヒの山脈は後方に過ぎ去り、足元には山脈からの扇状地に広がる町の姿が見えてくる。ここからそう遠くないところにあるシュティーア城には、ベルカの勝利を全く疑おうともしないコルネリアス皇太子が今日もいるのだろうか?全くもって、市民にしてみれば戦争など迷惑以外の何者でもないし、望んでもいなかったはずなんだが、と人に聞こえるように言おうものなら秘密警察による「取り調べ」――実際には拷問付の尋問――が待っているのが、この国の閉塞しきった状況を如実に現している。そこまでしなければ、人の心をつなぎとめられないのだから。ならば、そこまで気が付いていて戦争を続けている私たちは一体――?そこまで考えて私は考えることを止めた。自己否定をしてみたところで、何かいいアイデアが浮かぶというものでもないし、今はただ今日の戦いを生き残ったことを純粋に喜ぶべきだった。針路を東へと変え、今度は過ぎ去ったバルトライヒ山脈に沿って飛行を続ける。景色は平和だった頃と特段の違いは無いが、あの山の向こうでは今も同胞たちが戦闘を続けているはずだった。
「ヒルデスブルクコントロール、聞こえるか?こちらファルケ0、間もなく到着する。ファルケ3とファルケ4が被弾している。念のため消防車を待機させておいて欲しい」
回線を開いて呼びかけた先は、私たちの帰る町、ヒルデスブルク。親衛隊でもなく、空軍の臣民戦闘飛行隊に分類されている私たちの基地は、空軍に限らず町外れや辺境と相場が決まっているが、反面融通が利かず、いられるだけで窮屈な気分になってくる貴族軍や親衛隊の面々と顔を合わせなくて良いという点は幸運だった。おかげで、首都ならば重大な軍規違反として咎められるであろう、酒場でのんびり一杯、というせめてもの息抜きが許されている。自身が大の酒好きのクライヴ司令が見て見ぬふりをし続けられる限り、私はあの一杯に心と身体を癒されることが出来るであろう。
「こちらヒルデスブルク、ファルケ0、了解した。しかし2機が被弾するたぁ、敵さんにもなかなか手強いのが出てきたようじゃないか」
「手強いというよりは、無謀といった方が良かったがな。あれの上官を務めるのはなかなかに大変な仕事だろう。彼の上官殿に同情してしまうよ。……いや、今の私も立場的にはあまり変わらないかな?」
「ファルケ0、どういう意味ですか!?」
「こちらファルケ2、そのまんまの意味だろ、ファルケ5、ワーグリンよ。今日も何度も後ろを取られやがって!」
「それでも撃墜されずに済むのが不思議な奴だよな。こっちは結局被弾しているのに、ワーグリンはまんまと逃げおおせるんだから」
「ま、何にしても皆無事で良しとしようじゃないかね?もうそろそろ「お帰り」の時間だぞ」
ファルケ1、ゼクアイン大尉の言うとおり、私たちのベース、ヒルデスブルクの滑走路と滑走路灯が見え始める。もう何度も見てきた光景だが、帰ってこれた、という気分になっていつもため息が出てくる。
「ファルケ3、ファルケ4、先に下りろ。私たちはその後、安全を確認してから着陸する」
了解、と応えファルケ3・4が降下していく。もともとは民間の小型機用空港だったヒルデスブルクの滑走路は、戦闘機が2機並んで下りるに充分な幅を持っている。特に風の影響もなく、着陸コースに乗った2機のSu-27が新人教育のモデルに使えそうなほど綺麗に高度を下げていく。やがて滑走路の端に達した彼らは、滑るようにアプローチ。白い煙があがってランディングギアが接地し、徐々にスピードを下げながら滑走路を走っていき、私たちの着陸を妨げないよう格納庫脇の空間で停止する。待機していた消防車と整備班の車が近寄り、整備兵たちが駆け寄っていくのが見えた。特に火災は起きなかったことに胸を撫で下ろし、私は自分の愛機を着陸コースに乗せた。エアブレーキ―ON、ギアダウンして徐々に減速していく愛機のスロットルを微妙に調整しながらバランスを取り、高度を下げていく。地表が次第に迫り、滑走路端が近づいて来る。跳ねることもなく機体を着陸させ、速度を充分に殺してから誘導路へと入っていく。先に着陸したファルケ3とファルケ4はもうキャノピーを開き、アウグスト中尉とハウスマン少尉がタラップを下りていた。整備班と何事か言葉を交わしているのを横目に見つつ、私は管制塔が指示した停止位置に機体を運び、そして停止させた。軽くエンジンパワーをあげアイドリング、そしてエンジンを切る。甲高い咆哮が消え、何かと騒がしいコクピットの中が静かになっていく。キャノピーを開きハーネスを外してタラップを駆け下りる。整備兵たちが駆け寄って、機体の点検や燃料補給などの準備に取り掛かるのを見ながら、私はヘルメットを脱いだ。新鮮な空気の風が、少し火照っている顔に冷たく当たる。
「お疲れ様でした、大佐」
背後からかけられた声に振り返ると、自分と同じようにヘルメットを脱いだゼクアイン大尉が笑いかけてきた。部隊最年長の彼はそろそろ教官職に移っても良い年頃だったが、それを頑なに断って現場勤務を続けている。そしてそれだけの技量を持っている頼もしい副官だった。
「しかし、大佐の機のエンブレム、どうやら敵さんにも随分と知られたみたいですな。今日会った連中の何機か、明らかに戦う前から逃げ出しましたからね」
そう言って私の尾翼に描かれたエンブレムを見上げた彼と並んで、私も愛機を見上げた。私の愛機の尾翼に描かれているのは、伝説上の怪鳥を模したエンブレム。友軍からは畏敬と羨望と、そして嫉妬を以って、敵からは驚愕と恐怖を以って、いつしか私には「フッケバイン」という通り名が付いていた。これはこれで迷惑なもので、エンブレムを見た敵が逃げてくれればいいけれども、却って敵の集中攻撃を浴びる羽目となることも多くなってしまった。隊員たちに言わせると、そのおかげで撃墜スコアを稼ぐことが出来るということになるのだが、結果としてより多くの搭乗員の命を奪う事につながるだけに、内心は複雑な気分である。描かれた怪鳥は、次の出撃を待ち遠しそうに暮れて来た空を眺めているようだった。もっとも、連合軍がバルトライヒ山脈を越えて侵攻でもしてこない限り、今日の再出撃はなさそうであったが。
「もう今日はこれくらいでいいだろう。被弾した機もあるし、修理が完了するまで待機できるよう、司令にかけあってみよう」
「それがいいと思います。何、クライヴ司令のことだ、快く話を聞いてくれますよ。バーボンの一杯か二杯付きでね」
「私はスコッチ派なんだけどね。じゃあ早速話をしてこよう。済まないが、連中をブリーフィングルームに集めといてくれ」
「スコッチ一杯で承りました」
互いにニヤリと笑い、ゼクアイン大尉に任せて私は司令殿のいる管理棟へ向かって歩き出した。この空の下で戦争が行われているとは信じられないほど、雲がゆっくりと暮れ始めた空を流れていった。
――だが、私は知らなかった。私たちの予想を遥かに上回る早さで戦争は間近に迫り、そして取り返しようの無い犠牲と後悔、怨念を祖国に残してしまうということを。