決断の時
バルトライヒ山脈を越えて来た連合軍部隊の数は決して多くは無かったが、その代わり数的劣勢を補って余りある戦意と技量を持った精鋭部隊が派遣されたようで、とりあえずの進撃は食い止めたものの、地形をうまく活用して布陣した彼らに私たちは効果的な爆撃を与えられずにいる。連合軍別働隊の詳細は判明していないが、山越えをしてきた部隊と峠道を突破してきた部隊を合わせると、手薄なバルトライヒ北方都市群を制圧するには充分な兵力が動員されていた。先日私たちが発見した部隊も、間違いなくバルトライヒ西方の山に入っているはずだ。――してやられた。連合軍は、初めからこれを狙っていたのだ。私ですら、スーデントールこそ最終決戦の地と考えていたくらいだ。ベルカの主力をスーデントールに封じ込め、その隙に電撃的に首都に刃を突き付ける。この作戦を考案した連合軍の参謀たちに関心すると同時に、スーデントール決戦しか目に見えない祖国の参謀たちの視野の狭さに呆れてしまう。危機を悟った一部の部隊がスーデントール市を脱出して山脈に向かおうとしたそうだが、待ち構えていた連合軍の十字砲火の中で殲滅される結果となった。篭城するも地獄、突破するのも地獄、追い詰められた兵士たちの間に動揺が広がるのは言うまでも無かった。そして今日も終わりの無い戦いに出撃準備を進めていた私は、クライヴ司令に呼び出されることとなった。作戦会議かと思いきや、私だけが呼ばれたのである。嫌な予感がした。
"臣民軍第302飛行戦隊隊長機は6月6日0900時を以って、リーディスラント・リューネブルクに対し決戦兵器「V1」による攻撃を実施せよ。"
軍令部から直接寄越された電文を私は何度も目で追い、その信じ難い内容が現実のものであることを悟ると、これまで押さえ込んできた物が身体の底から吹き出してくるような錯覚に囚われた。スーデントールを捨てることも出来ず、首都を守り抜く兵力も持たず、追い詰められた上層部たちの判断が、これだ。いや、統合戦研とベルカ公、その飼い犬の上層部たちと言った方が正確か?スーデントール決戦における特務部隊は、私たちの他いくつかの臣民軍航空隊が使命されているはず、とすれば、恐らくはバルトライヒ北方に位置する都市軍全てを「V1」――すなわち、戦術核で焼き払え、と言う事なのだろう。戦略的に考えれば、核で汚染された大地を突破することは事実上不可能であるわけで、結果として連合軍の進撃は止められるだろう。だが、その代償として、何も知らない数十万の市民たちは核の炎に焼かれる。それも、よりにもよって自分たちを守ってくれるはずの兵士たちの手で、だ。
「……この作戦を私に実行しろ、と?」
「残念だが、私たちは軍人だ、大佐。今更言う必要も無いだろう。命令は絶対。それが特務であれば、質問も拒否も認められない」
そう言うクライヴ司令の顔も声も硬い。司令自身、納得していないのは明らかだった。対照的なのは、統合戦研が寄越したベルデンハウエン少将である。ベルデンハウエン少将は意外なほどさっぱりとした表情で、余計にそれが私の気に障った。
「大佐。私も、この作戦によって多くの市民の命が奪われることを悲しいと思う。だが、ここで食い止めなければ、連合軍の手によって、更なる多くのベルカの民が殺害されることとなるだろう。ここで連合軍を止めねばならんのだ。ベルカに生きる全ての人々のために!」
「だからといって、都市部を攻撃しなくても良いでしょう。連合軍の進撃を止めたいのなら、バルトライヒの山に撃ち込めば充分のはず。失礼を承知で申し上げますがね、軍令部と政府は、南ベルカでの事態が繰り返されることを最も恐れてんじゃないですかね?南ベルカの諸都市が無血開城したように、ノルト・ベルカの都市も無条件降伏して連合軍の進撃を看過したら首都の陥落は時間の問題だ。だから、焦土作戦も兼ねて全てを焼き払う。違いますか?」
ベルデンハウエン少将は答えない。だが、沈黙は事実の肯定ということなのだろう。要するに、前線に立ったこともないような連中が浮き足立って命じてきたのがこの命令、というわけか。やることは常識外れ、動機も不純なこと極まりない。早い話が、自分たちの身が危うくなってきたから、代わりに人民を犠牲にして自分たちはまんまと生き延びるつもりなのだ。そんなふざけた話に、こちらが付き合ってやる必要も無い。むしろ、勝手に滅びてしまえ、という気分だった。
「少将、軍人の言う台詞ではないかもしれませんが、国家が滅んだとしても人間は滅びません。むしろ、そうした人間たちが新たな国家や都市を再興してきたのが、私たち人間の歴史だったはず。国家や都市は、本来人々が生活していくためのシステムに過ぎなかったはずなのに、いつの間にかその存在自体が全てに優先されるようになってしまった。私たちの祖国は、その最も悪しき例ではないでしょうか?統治者であるベルカ公――陛下と、一部の特権階級たる貴族たちの意志が優先され、圧倒的大多数の臣民達は、彼らの我侭のツケを常に支払わされている。20世紀も終わりというこの時代にもかかわらず」
「それは違うだろう、大佐。祖国があり、祖国の誇る大義があるから、人々は誇りを持って生きていくことが出来るのだ。国が滅ぶときには、必ず多くの犠牲が必要となる。連合軍がノルト・ベルカに攻め込んでくれば、この作戦で犠牲になる臣民よりも遥かに多くの人々が犠牲になるだろう。大佐はそれを看過するというのか!?」
そもそもそういう問題ではない。最早戦術レベルでも、戦略レベルでも必至となった敗北は、仮に核弾頭を国内に撃ち込んだところで覆ることは無いだろう。その現実を直視せず、悪戯に時間だけを稼ぐことこそ、この国の人々の命を無駄に散らすことになるのではないのか。今この国が為すべきことは、無駄な戦争を勝手に始めた責任を、この国を治めている人間たちが負うことのはずである。そう、この作戦を命じた、自分たちは常に安全なところで戦争を高見の見物と勘違いしているような連中が、だ。彼らの自助努力でそれが為しえないのなら、連合軍に裁かれるだけのことだ。彼らの首から上は、そのために存在するのだから。
「大佐、君の言い分は分かった。だが、私も司令官としての役目がある。現場指揮官としての上申は考慮するが、とりあえずは目前に迫っている敵部隊への対処が優先だ。出撃準備完了後、直ちに出撃したまえ。回答は、また後で聞く。上申の結果もその時に伝えよう」
「は……しかし、司令」
クライヴ司令は「いいからたまには言うことを聞け」とでも言いだけに私を見ていた。その顔がいつもの司令官の顔に戻っているのを見て、彼が何やら考えを持っていることに私はようやく気が付いた。なるほど、確かにベルデンハウエン少将のいる場では話すことではなかった。やや混乱した頭と気分を何とか鎮めて、私は前線のことだけを考え始めた。冷静でない状態で戦いに臨むことは、自分のみならず部下たちまで危険にさらすことと同義だったからだ。敬礼を施して司令官室を退出した後、私はようやくため息を吐き出した。ろくでもない作戦命令に晒された精神に溜まった瘴気を少しでも外に出しておきたかったから、私は歩きながら深呼吸をしてみた。たまたま通りかかった士官が怪訝そうな表情で私を見ていたが、仕方無い。まずは何より目前のことからだ、と気分転換をしたはずの私だったが、それが続いたのは表に出るまでの僅かな時間でしかなかった。ジープに乗ってきた衛兵に私は呼び止められたのだ。衛兵は、大佐にとにかく会わせてくれの一点張りでゲート前から動かない市民がいて困っている、と私に告げた。それを何とかするのが貴官の仕事だろう、と言いかけた私だったが、どうやらヒルデスブルクの新聞記者みたいなのです、と彼が漏らすのを聞いてしまった。この町で新聞記者をしていて、そして私のことを良く知っている人間といったら、ただ一人しかいない。ウォルフガング・シンドラー。「フロッシュ」の大切な飲み仲間。今までそんな強引に基地に押しかけたことの無い彼が、どうしてここに?私は衛兵のジープの助手席に飛び乗った。
果たして、ゲート前に座り込んで動かないのは、まぎれもないシンドラーの姿だった。その彼の姿は、まるで山越えをしてきたかのように土と泥にまみれていて、腕には赤黒い染みの付いた包帯が巻かれている。憔悴しきってはいたが、彼の瞳は依然強い精気を放っていた。私の姿を見つけたシンドラーは立ち上がり、傍らにいた衛兵が敬礼で私を出迎える。ジープから飛び降りた私は衛兵に敬礼を返しつつ、シンドラーに歩み寄った。彼は嬉しそうな笑みを浮かべて立ち上がったのだが、張り詰めていた神経がそこで切れてしまったのか、ぐらりと前のめりになってしまった。咄嗟に駆け寄って、その身体を支えてやると、彼は私の肩と腕を掴み、何とか顔をあげた。
「大佐、私はあなたに伝えなければならないことがあります。それも、大至急。そのために、私はここまで来たんです。今がどういう時なのかは分かっていますが、何とか時間をもらえませんか?」
「そんなことよりも、今は手当てが必要だろう!衛兵、救護室へ彼を運ぶぞ!」
「大佐!時間が無いんです」
彼は私のことを真剣な眼差しで見ていた。ジャーナリストとしての立場もあってか、滅多に基地に足を運んで事の無い彼が、今こうしてここにいるのは、相応の理由があってのことだろう。結局、私は彼に肩を貸し、すぐ側の衛兵詰め所の脇にある宿直室に彼を運び込んだ。ここなら横になる空間もあるし、人払いをして話す事も出来る。衛兵にスポーツドリンクを買いに行かせ、私はいすの一つに腰を下ろした。シンドラーはソファに身体を横たえ、冷蔵庫の中に置いてあったミネラルウォーターを少しずつ飲んで、呼吸を整えていた。ようやく一息ついたのか、彼は姿勢を直すとチョッキの大きいポケットから使い込まれたボイスレコーダーを取り出した。テープを巻き戻した彼は、再生スイッチを押し込み、私にそれを手渡した。
「スーデントールの新兵器開発工廠の置かれたエリアの格納庫の一つで、私はとんでもないことを聞いてしまったんです。音が割れているかもしれませんが、まずは聞いてみてもらえますか?」
『しかし、オーシアにはビスマルク公だっているのだろう?あの御仁が、大人しく陛下のやることを看過するとは思えないんだがな……』
『そこは戦研の方で何とかするそうだ。それに、陛下直々にお言葉を頂いている。"常に我の行く先の邪魔をしてきたあの男に、絶望的な屈辱を与えるまでは生かしておけ"――だそうだ。陛下のお言葉は絶対。それが我らの方針になるのだからな。それに、この作戦は我々にとっても格好の復讐の舞台になる。私たちの前に常に立ちはだかり、我らが受けるべき賞賛を奪い取り続けて来た愚民どもの尖兵――フッケバイン、ブリッツ・シュラーク。奴らに全ての罪を背負わせるこの作戦、さすがはフォーゲル大佐たちだ。そして戦争を終結させた陛下と、その護衛者たる我らは救国の英雄となる。ククククク……フッケバインの吠え面が楽しみだよ』
『アシュレー、声が大きい』
『気にするな。前線の馬鹿どもの要請に振り回されている奴らに何が出来る。真相を知ることも無く、奴らは朽ち果てる運命なのだよ。クックックックック……』
私は思わず顔をしかめてしまった。その声を私は忘れるはずも無い。グラーバク航空隊を名乗り、どうやら統合戦研の連中とも深い繋がりを持っているらしい、口で言うほどの技量も才覚もないが、プライドだけは人一倍高い親衛隊のパイロット――ヘルムート・フォン・アシュレー!なるほど、彼らしい言い分だ。表面上は奇麗事を並べておきながら、内心では誰よりも貴族でない人々を見下し、忌み嫌っている男。そして相手はオブニル隊のヴァルパイツァー中佐か。話しぶりからすると双子の兄の方とアシュレーは話しているらしい。笑い声の後、「誰だ!」と誰何する声が響き、後は銃撃音と雑音のオンパレードが続き、テープが切れた。
「シンドラー、君は……」
「ほんと、偶然だったんですよ。最近、スーデントール上空で目撃されている「灰色の前進翼機」の取材をしようと新兵器開発工廠に行って、お目当ての機体が並んでいる格納庫を見つけたと思ったら中の話し声が聞こえてきて……彼らはこうも言ってました。"神聖なる祖国の大地は、卑しく浅はかで愚かな民どもによって汚されてしまっている。祖国の大義を理解しようともしない者たちを消滅させ、浄化させることも出来るのだ。そのうえ、捲土重来の機会も手にすることが出来る"、と。それから「V2」とかいう決戦兵器を取引材料にして、捲土重来を図るんだとか……」
私はガツンと頭を殴られたような気分になっていた。アシュレーのいう「大義を理解しない者たちを消滅、浄化」とは、即ち私に対して下された核攻撃命令に通じる。だが命令が下されたのは今日の今日。シンドラーの様子を見れば何日かかけてヒルデスブルクに到着したのは一目瞭然だ。何故奴らが、その時点で核攻撃のことを知っているのだ?さらに気に食わないのは、『全ての罪を背負わせる』という下りだ。それは即ち、軍令部の命令で行われるはずの核攻撃作戦の全責任を、攻撃を実施した私たちに負わせるということか!それだけじゃない。シンドラーの言うことが真実なら、連中とベルカ公はよりにもよって最終兵器とやらを対価にして自分たちの安全を確保するつもりだ。捲土重来だと?冗談じゃない。そのために、一体どれほどの人々が犠牲になると思っていやがる!久しく感じたことの無いような激しい怒りが、腹の底から湧いてきた。そして同時に、私は動揺していた。私たちは、この国の戦争の裏側でいつの間にか決められている別のシナリオに踊らされ続けてきていたというのか――!
「あくまで、私の仮説ですが、連中は恐らくは核兵器の類を国内で使用し、その罪を貴方たちに押し付けておいて、後は「V2」とかいう新兵器をネタにベルカ公を亡命させるつもりなんじゃないか……と。そうだ、これもお渡ししておきます」
シンドラーは唯一持っていたバックパックの中から一本のフィルムを取り出した。
「現像している暇は無かったんですが、格納庫の中に並んでいた戦闘機を何枚か撮影してあります。全部が灰色にカラーリングされていて部隊章も何もない前進翼機……私は、あんな機体は見たことがありません。大佐たちの乗っているSu-27とも異なる、異質な機体でした」
フィルムを受け取りつつ、私は今更ながらに、彼が危険な立場にあることに思い当たった。スーデントール市内は混乱の極みにあるとはいえ、目前の戦闘とは関係なく目を光らせている連中――秘密警察や、ベルカ公の飼い犬たちがいるはずだ。
「シンドラー。君は私にどうしろというんだ?いや、どうして私にこの事を伝える気になったんだい?私は軍人だ。極端なことを言えば、核兵器を自国内に投下する命令を受けたら、それを実行しなければならない立場の人間だよ、私は」
「本心にもないことを言わないで下さいよ、大佐。こんな話を持ち込めるのは、貴方のところしかないんだ。私は、自分が聞いてしまったことを記事にして読者に伝えるつもりです。国民を守ることを放棄した政府に、私たちの行く末を決めさせるわけには行きませんからね。大佐たちが戦っているように、私もジャーナリストとしてこの戦争を戦っているんですよ。……お願いします、大佐。ベルカ公の亡命など知ったことではありませんが、核攻撃をしかけようとしているあの連中を、何とか食い止めてはもらえませんか?我々は、貴族やベルカ公たちの所有物などでは無いし、彼らに生殺与奪を好きにされる筋合いも無い。それから、大佐。一つお願いしたいんですがね……。」
そう言いながら、彼は懐から小さな淡い色の布袋を私に手渡した。私は、彼の薬指にはめられていたはずの結婚指輪が、その指に無いことに気が付いた。
「縁起でもないことをしないでくれ」
「私だって、そうそう簡単に殺されるつもりも無いです。ただ、もし、万が一、戦争が終わる前に私が命を落としたとき、その指輪を踏み躙られるのだけは嫌なんです。戦争が終わったら取りに来ますから、それまで預かっておいて下さい。もし、何かあったら……その袋の中にある住所に、その指輪を届けてください。……何だか、大佐に何から何まで頼みっぱなしで申し訳ない」
核攻撃を命じられたのは私なんだよ――そうぶちまけたくなるのを何とか堪えながら、私は彼の肩に手を置いた。シンドラーは、自分の命が危険に晒されることを覚悟のうえで、彼が知ってしまった事実を暴露する気なのだ。それに比べて、私は何と優柔不断なことだろう。核攻撃など冗談じゃない――本音と感情と人間としての理性はもうそのように結論を出しているのに関らず、軍人としての理性が邪魔をしようとしている。私は自分が情けなくなってきてしまった。戦争の犠牲にされている人々を守るために戦う、と言っていたのに、私以上の覚悟を持って、軍人ではないシンドラーは彼の戦いを繰り広げようとしている。家族との永遠の別離も覚悟して、だ。その指輪が、ずしりと私の心で重みを増したような錯覚に囚われた。彼にとって一番安全なのは、この基地の中に留まってもらうことだが、彼は決してそれを良しとしないだろう。私たちの戦う戦場があるように、彼にもまた戦う場所があるのだ。それが分かるから、私はしばらく何も言うことが出来なかった。ようやく開いた口から紡ぎだしたのは、伝えたいことの一端でしかなかった。
「……お願いだから、危ない橋を渡ることだけは止めてくれよ。大切な飲み仲間なんだからな、君は。全部が終わったら、「フロッシュ」で好きなだけウィスキーをおごらせてもらうよ。約束だ」
「そいつはいいですね。前々から、カウンターに一本だけ置いてあるアレ、やってみたかったんですよ」
「フロッシュ」のカウンターに一本だけ置かれたその瓶は、東方の島国で少しだけ生産されたモルトウィスキーだ。何度か注文しようとしたのだが、マスターは「本当に祝うべきことが来たときに開けましょう」と言って、決して封を開けてくれなかったのだ。だが、全ての戦いが終わり、ベルカが生まれ変わる日がもし来たら、そのときが開封に相応しいだろう。私はシンドラーの肩に置いた手に少し力を込めた。
「……私に何が出来るかどうか分からないが、私が守りたい人々を犠牲にすることだけはしない。それだけは、信じてもらえるかい、シンドラー?」
疲労困憊のはずの彼の顔に、笑顔が浮かぶ。それだけしか答えられなかったが、シンドラーは諒解してくれたようだった。混乱の極みに陥りつつある頭が痛むのを堪え、衛兵に「ベルカン・マガジン」ヒルデスブルク支社まで送るよう指示を飛ばす。既に予定出撃時刻が迫り、私の姿がないことを部下たちが不審に思っている頃だろう。シンドラーから預かった指輪を胸ポケットに仕舞い、もう一度「危ないことはしてくれるなよ」と彼に伝える。妙に吹っ切れた顔の彼と対照的に、きっと私の表情はより複雑なものに違いなかった。
核兵器を投下して同朋を虐殺し、さらには別の核兵器を取引材料にして自らの身の安全を確保しようとしているベルカ公たち――そして、彼らの尖兵として核兵器の投下を命じられている自分。だが、部隊長たる自分の命令拒否は、自分だけに留まらず、部下や司令までも巻き込んだ大問題となる。結論は見えているのに、踏み切れない。こめかみの辺りが痛くなって、私はハンガーの壁に背中を預けて立ち止まった。その一歩は、軍人として生きてきたこれまでの自分を逸脱して、全く新しい一歩を踏み出すことには違いない。だが、その全てを背負うことが出来るほど、私は強くは無い。何気なく滑走路を見やった私は、格納庫前に並べられた愛機たちの前に人影が無く、代わりに格納庫の中から激しい怒号の応酬が繰り広げられていることにようやく気が付いた。
出撃準備が進んでいるはずのハンガーでは、なかなかお目にかかれない光景が繰り広げられていた。怒号が響き渡り、整備兵や衛兵たちに羽交い絞めにされた男たちが激しく罵り合っていたのだ。統合戦研の連中と、この基地の兵士たちが互いに睨み合っている状況は尋常なものではなかった。騒ぎの中心にいる一方はゼビアス中尉であり、考え付くありとあらゆる罵詈雑言を相手に未だ浴びせている。もう一方、ゼビアス中尉の罵詈雑言に喚き声を撒き散らしているのは……フランクケイン中尉だった。彼の顔には見事な痣が浮かび上がり、ゼビアス中尉の拳が数発命中したことが明らかだった。彼らだけではなく、整備兵たちまでが殴り合いを交わしていたようで、唇や目の端を切った男たちが尚もにらみ合いを続けていた。
「出撃前に一体何をやっているんだ、貴官たちは!」
大声を挙げつつ、痛む頭を何度か振ってハンガーの中に足を踏み入れると、二人を羽交い絞めにしていた男たちが一斉に敬礼を返し、不意に手を離された二人が地面に転がった。にらみ合いを続けていた整備兵たちもとりあえずは拳を収め敬礼したが、その視線は相手方の方に注がれている。なおもゼビアス中尉が殴りかかろうとしたのを目で制して、私は傍らにいたゼクアイン大尉を目で促した。仕方ありませんな、と首を振る彼の様子からして、ろくでもないことが起こったことは間違いなかった。じろり、とフランクケインを睨み付けたゼビアス中尉が吠える。
「大佐!嘘だと言ってください!俺たちが、この国の町の上に核弾頭を投下する任務を命じられたなんて、冗談でしょう!?何で俺たちがそんな非人道的なことをさせられなきゃならんのです、大佐!!」
そんな命令は、302飛行戦隊には与えられていない。私だけが、その命令を与えられていたはずだ。そして今は、その核攻撃の裏で進められようとしていた謀略をも知ってしまった。だがその命令は、「302飛行戦隊隊長」が行うべきもので、部下たちに「V1」による攻撃命令は誰も出していないはずだった。となれば、本来いるはずのない場所にいる人間が余計な事をしてくれたのだ。つまり、ゼビアス中尉の拳を食らって痣だらけの、そこの若造がだ!
「何度も言わせるな、馬鹿が!偉大なる陛下のご意志に背くことがどういうことか分かって口を開いているのか?おまえたち賤民は、高貴なる私たちの命令に従って動けばいいんだ!!」
「黙れ、前線に出たことも無い若造が!陛下陛下うるさいんだよ。虎の威を借る狐め!高貴だって?生まれてからろくに苦労もしないで育ったヒステリー野郎なんざ、その辺の野良犬よりも落ちた生き物だって認識したらどうだい?」
「な、何だと?私が野良犬に劣るだと!?言わせておけば……」
「二人ともいい加減にしないか!!」
ゼクアイン大尉の一喝で二人は渋々と口を閉ざす。私はゼクアイン大尉に話を続けるよう、再び目で促した。
「先刻、出撃準備中の我々のところに、ある荷物が運ばれてきましてね。これまで見たことの無いミサイルですから中身を聞いたところ、向こうの連中が何も言わない。ならば搭載できない、という話をしていたら、そこの中尉殿がやって来ましてね。全てを焼き払い、浄化する栄えある任務に我々は就くのだ、と言うじゃないですか。……大佐はご存知だったんですよね?彼らがこんな物騒なもの――戦術核弾頭搭載のミサイルを持ち込んでいることは」
ゼクアイン大尉がじっと私の目を見る。いや、大尉だけではない。その場にいる全員が私のことを注視する。言い逃れは出来ないことを私は悟った。今日は厄日かもしれないな、と私はため息を吐き出した。
「大尉の言うとおりだ。スーデントール防衛の特務に付いた時点で、「V1」と呼ばれるその核兵器はここに運び込まれていた。私も司令も、そんな物騒な兵器の使用はご免だったんだが……軍令部から、私宛に命令が下ったよ。6月6日、リーディスラント・リューネブルクに対し核攻撃を実施せよ、とね。だが、どういうことだ、フランクケイン中尉。確かに私には命令が下っていることは事実だが、302飛行戦隊全員がその任務を帯びたわけではないはずだが。それに、今この時点でハンガーに「V1」を運び込む必要がどこにあるのかね?」
フランクケインは、先日と同じように蒼白な顔で、しかし口をへの字に結んで答えようとしない。全く、余計なことばかりしてくれるものだ。私の部下たちが核兵器を使用する作戦を絶対に承服しないだろう、とこの基地の誰もが分かっていることが、この若者には理解出来ないのだ。そして、この時点でゼビアス中尉たちが知ってしまったからには、この後の彼らの行動も簡単に想像出来る。私は言いようの無い苛立ちが湧き上がってくるのを感じた。彼は否応無くこの兵器を私たちに搭載させ、実際に攻撃させるつもりでこんなことをしでかしてくれたというわけだ。
「今からでも遅くありません、大佐!こんなふざけた作戦を提案した連中を連合軍にでも突き出してやりましょう!同朋たちをたくさん殺してくれた連合軍は嫌いだが、自分の国に核を落とせなんてぬかす連中は、祖国の敵どころか、人類の敵だ!そこにいるウスラボケのようにな!!」
「中尉、落ち着いてください!」
暴れるゼビアス中尉を、ワーグリン少尉が後からがっちりと羽交い絞めにしていた。さすがのゼビアス中尉も、ああなってしまうと身動きがとれないらしい。
「して、大佐?命令自体は正式なものなのでしょう?私たちは軍人だ。命令には従わなければなりません。核を撃て、と言われれば撃たなければならないのが私たちの立場です」
ゼクアイン大尉は腕を組んだまま、私の目を見据えている。口調は穏やかだが、彼がゼビアス中尉と同様に、或いはそれ以上に怒っているのは明らかだった。彼の妻と娘は、恐らくは攻撃目標にされているノルト・ベルカ北方都市群の一つに今も住んでいるのだ。今すぐここを離れ、家族たちを安全地帯へ連れて行きたいのが彼の心情と言うものだろう。私はゼクアイン大尉の視線を受け止めた。どうやら、今が決断の時らしい。シンドラーの命をかけた決断。核兵器使用という愚かな判断を決して認めないであろう部下たちの意志。それは全て、私の本音と全く等しいものだ。末期症状に陥った国家が形作る敗戦の姿ではなく、ベルカという国家に生きる人々がより多く家族の元に帰り、より多くの人々が新たな国家を生きていくためにあるべき敗戦の姿を達成する。この国に生きる人たちを家畜同然にしか見ることの出来ないような連中の手から、人間としての誇りを取り戻すために今、私は何をすべきか。答えは、実は簡単であり、しかも私たちはそのための行動を起こすことが出来る立場にあった。言いたいことを少しずつまとめながら、私はゆっくりと口を開いた。
「……私は、ベルカ軍人だ。命令とあらば、それが自分の意志とはそぐわないものだったとしても服従するのが当然のことだ。そんなことは分かっている。だが……私は軍人である前に、人間でありたい。必要の無い戦争を勝手に始めて、追い詰められれば核兵器を使って同朋を虐殺することも厭わないような人間たちの命令が、一体誰を救うのだろう?人間としての恥も尊厳も捨て去って、自分たちの権限だけを守ろうとする連中を救って、何のためになるというんだろう?」
そこまで言って、私は腹の底から噴き上げて来るような怒りを抑えることが出来なくなった。堪忍袋の緒が、ついに限界に達して切れようとしていた。私はまだ何事かを呟いているフランクケインの胸倉を掴み、そのままねじ上げた。突然のことに、フランクケインの口から情けない悲鳴があがり、恐怖に囚われた目が落ち着き無く助けを求めて動き回る。
「なあ、フランクケイン。君がこれまで享受してきた贅沢な暮らしが、一体どれほどの人間によって支えられてきたのか考えたことがあるか?ベルカ公アウグストゥスや皇太子コルネリアスとその飼い犬たちが勝手に戦争を始めて、数多くの兵士たちが生と死の狭間にいるときも、おまえたちは安全で暖かい豪華な建物の中で戦争を語っていたんだよ。前線のことなど、何も知らずにね。そんな人間たちの語ることに、大義も正義も無い。お前のような何も知らないような若造が、私たちに口を開くだけでも侮辱に値する。自分が何をしでかそうとしていたのか、お前は分かるのか?何十万という人間の命を、貴様は自分の歪んだ欲望のためだけに犠牲にしようとしているんだ!!」
人を殴り倒すつもりで拳を使ったのは、本当に何年ぶりだろう。鈍い音と共に吹き飛んだフランクケインが滑走路に倒れる。顔面をぐしゃぐしゃにして泣き喚く彼の口から、折れた歯が転がり落ちる。這いながら逃げようとする彼を再び掴み上げ、私はその顔に殺気を帯びた視線を叩き込んだ。
「私たちは、もうおまえたちの言いなりにはならない。私たちの未来は、私たちが決める。滅びるべき者たちのために、私たちが殉じる意味も価値も無い!」
感情に突き動かされるように、私はフランクケインを突き飛ばした。再び無様に転がった彼は、まるで子供のように泣き喚く。ゼビアス中尉が口笛を吹き、ゼクアイン大尉が笑みを口元に浮かべた。
「それでこそ、私たちの隊長だ。我々は、最後までお供しますぞ、大佐!この際、分からず屋どもの本拠地にこいつを放り投げてやってもいいでしょう。どうせ目の覚める事の無い連中だ。現世という舞台から退場して頂いても誰も困りはせんでしょう」
「ゼクアイン大尉に賛成ですな。それに、ここからは行動の時間だ。おい、そこの連中、動いたらどうなるかわかっているだろうな?」
一体どこから持ち出してきたのか、ボルツマイヤー大尉と何人かの整備兵たちが、サブマシンガンの銃口を統合戦研の連中に突き付けていた。もちろん、安全装置は外されている。慣れた手つきでサブマシンガンを構えたボルツマイヤー大尉は、私に精悍な笑いをよこして見せた。なるほど、一蓮托生、今が行動の時、か。不意に私は気分が軽くなるのを感じた。何も、私一人が全てを背負うことは無かったのだ。同じ志を持つ者が、協力して背負えば良いこと。一度吹っ切れてしまえば、あれほど痛かったはずの頭も高速で回転し始める。まずは何より、この基地に巣食った"邪魔者"の動きを封じることが何より先決だった。そのための武器も面子も、今この場に揃っているじゃないか。――私の腹は決まった。
「よし、この際に統合戦研の連中を完全に制圧するぞ!ゼクアイン大尉とアウグスト中尉は私と共にSu-27に搭乗、ゼビアス中尉とワーグリンはボルツマイヤーの指揮下、輸送機と訓練棟の制圧に回れ。私たちの"叛乱"を敵に察知される前に済ませるんだ!!」
男たちの歓声が、それに応えた。シンドラー、これが私の答えだ。心の中で呟きつつ、愛機へと私は駆ける。
「ど、どういうことだ、これは!?何故私たちの部隊が包囲されているのだ!?」
狼狽しきったベルデンハウエンが喚き散らすのを、クライヴは苦笑しながら観察していた。窓の外では、彼にとっては全く信じられない出来事が、そして自分にとってはやはりこうなるか、と考えていた出来事が進行中である。滑走路中央の訓練棟は、今や3機のSu-27と火器を構えた整備兵たちによって包囲され、銃火の閃光がいくつも瞬いている。滑走路上のSu-27から機関砲が発射され、輸送機の尾翼やコクピットが破壊されていく。こんなに早く事が進むとはクライヴ自身考えてもいなかったのだが、こうなってしまえば思うまま行動するが吉だった。
「何をしているんだ、クライヴ司令!あの不逞の輩を放置するつもりか!早く、早く止めさせろ!」
「残念ながら、不実・不逞の極みの貴方に協力する筋合いはありませんな、ベルデンハウエン少将」
クライヴはホルスターから拳銃を引き抜き、ベルデンハウエンの眉間に銃口を突き付けた。息を飲む声が聞こえたかと思うと、すとん、とその体が沈み込む。結局はこの程度の人間たちか。心の中でクライヴは吐き捨てた。その程度の覚悟しか持っていない、前線を知らない人間が戦争を語るから、今日のようなことになる。
「自らの国家を支えているはずの人民を自ら殺戮するような国家の命令は、人間として聞くわけにはいかないのですよ。あなた方は、人間として越えてはならない線を越えてしまったようですな。そんな人間はね、この基地には全く無用なんですよ。大人しく虜囚の辱めを受けるか、今この場で射殺されて楽になるか、好きな方を選んでもらいましょうか?」
その言葉を果たして相手は全部聞いていただろうか。不快な匂いは、ベルデンハウエンが失禁したせいだったが、一際高い悲鳴をあげると彼は床の上に突っ伏してしまったのだ。つま先で何度か蹴飛ばしてみるが、意識を失った相手は全く反応が無かった。ホルスターに銃を収め、クライヴは改めて苦笑した。大佐の火付きの悪さには手を焼かされるが、これで舞台と役者は全て揃った、というわけか。まずは何から手をつけるか――部下たちを最大限に活用し、ベルカの手であるべき敗戦を実現するための戦いが始まろうとしていた。