あるべき終戦のカタチ
戦闘は依然続いているはずだったが、スーデントール北東部の空域には戦火どころか敵影すら見えず、そこだけがぽっかりと取り残されたように静かだった。少し離れたブロックでは対空砲火の炸裂する煌きと、対地攻撃を行っている連合軍航空部隊の機影が確認出来るし、バルトライヒ山脈が居座る北方以外全ての方角から連合軍は攻撃を仕掛けているはずであるにもかかわらず、だ。これは即ち、グラーバクやベルカ公たちと連合軍の一部が結託している以外の何物でもないのだろう。だが、少なくとも当面の時間は稼げるはずだ。滑走路を破壊された連中があの基地で補給作業を進めることも出来ず、仮に他の基地を本拠にして再び「V1」を用いるにしても相応の時間が必要となる。さらには、連合軍の攻撃がそれを許さないだろう。新たな密約でも結ぶのなら別だが、既にスーデントール全域が戦場なのだ。安全な場所など、バルトライヒの向こう以外には無いのだから。
「おいフッケバイン、この後はどうするつもりなんだ?俺の愛機もそろそろ腹ペコだ。近場の基地で補給といきたいところなんだがな」
私の左にポジションを取っているバートレットの機体を見て、私は驚いたものである。私が対地攻撃に専念していられたのは、彼の徹底した支援があったからなのだ、と。数発の命中弾を浴びた彼の機体には穴が何箇所も穿たれ、薄煙すら引いていたのだ。補給というよりも修理が必要だろうが――。バートレットは、自らの機体を盾にしてまで私を守っていたのだ。一方の私の機体も無傷ではないし、何より燃料が程なく切れる。ヒルデスブルクから遠方まで飛行出来るように搭載してきた増槽タンクは結局離陸後すぐに切り離してしまったし、スーデントールまで飛ぶことによってバルトライヒの向こう側へと戻ることも不可能だったのだ。
「貴官はそうするといい、バートレット大尉。私は……私には、もう戻る基地もない。既にそんな燃料も残っていないしな。それに虜囚になるのは性分じゃない」
「おいおい、何のために俺がいると思っているんだよ。いくらでも方法があるだろうが。核攻撃を仕掛けた祖国を見限って亡命しました、とか、ベルカ軍を降伏させるために偽者のフッケバイン機を作って降伏勧告してます、とか。言っとくけどな、自爆だけはさせないぞ。アンタは俺の大事な相棒なんだからな」
何だ、お見通しか――。私は苦笑してしまった。だが、バートレットの言うことにも一理ある。英雄視されるのは実のところいい迷惑なのだが、一般の兵士たちにとっては事情が異なる。「怪鳥フッケバイン」が祖国を見限った――そんな話が広まれば、徹底抗戦の構えを崩そうとしない兵士たちを降伏へと進ませることが出来るかもしれないからだ。フッケバインですら見限った、ならば俺たちも、と。その結果私は「裏切者」の汚名を着ることとなるが――そう考えて、私はそれが杞憂に過ぎないことに気が付いた。恐らくスーデントールの前線においては、グラーバクたちの情報操作によって私は「裏切者」と既に認定されているだろうし、一方ノルト・ベルカに何のためにワーグリンを脱出させたのか。私は今や、その汚名を甘受するべき立場にあるのだ。それに、私までがヴァルハラへと旅立つことを、死んでいった仲間たちは決して認めないだろう。ゼビアス中尉あたりに、ヴァルハラへ向かう車から蹴落とされて現世に舞い戻るのがオチというものだ。なるほど、人間、生き残れば嫌でも「その後」のことを考えなければならないものだ。
「……分かった。貴官に任せるよ、バートレット大尉。どうやら、言い訳の屁理屈に関しては貴官に考えてもらった方が良さそうだ。私はどちらかというと口下手なんでね」
「フン、減らず口が出てくるってことは、少しは回復したみたいじゃねぇか。まぁいい、なら、一つ提案があるんだがな――」
バートレットの言葉が途切れたのは、恐らく私のコクピットで発生した事態と同じことが起こったからだろう。ミサイル接近を告げる激しい電子音は、私たちが完全に捕捉されていることを告げるものだった。くそ、どこから飛んできた!付近にSAM車輌の姿は見当たらないし、だいいち連合軍だとすればバートレット機を狙うはずもない。まだ姿の見えない刺客から逃れるため、私は機体を急降下させて速度を稼ぐ。というよりも、燃料残量が少なくなり、無闇にアフターバーナを焚くわけにはいかなかったのだ。レーダーに小さな光点が出現し、高速で接近してくる。一本や二本という数ではなく、次々と獲物たる私たちに向かってそれらは急接近しつつあった。第一波にヘッドオンしつつ高度を下げる。バートレットも回避機動を開始し、彼に向かったAAMを急旋回でパス。私も第一波をやり過ごしたのだが、それらはまるで意志を持つかのように軌道を修正してみせた。真っ直ぐ虚空を切り裂いていくものと思ったAAMは、緩やかにループを描きつつ、再び私に対して向かってきたのだった。
「ちっくしょう、こいつら有線誘導でもされているのかよ!」
「気をつけろバートレット!有線ではないにしても、自動誘導では無さそうだ!」
「ったく、ベルカの科学力には感心させられるよ!!」
操縦桿を前へ倒し、機体を急降下させていく私の後背に、数本のAAMが接近する。振り返った私の目に、白い排気煙を引きながら近付いてくるAAMの姿が、まるで蛇のように見えた。地表が猛烈な勢いで接近し、胃袋がせりあがってくるような感覚に囚われる。嘔吐感を堪えつつ、高Gをかけながら機首を引き起こす。カナードがその役割を存分に発揮し、搭乗員の存在を無視するようなGを受け止めて愛機が急反転とともに跳ね上がる。私を付け狙っていたAAMがその急制動には対応できず、そのまま大地へと次々と突入していく。弾頭が炸裂し、大爆発が土を吹き飛ばしと爆炎を膨れ上がらせていった。だが次なる攻撃が再び迫り、コクピット内の警報音は依然鳴り止まぬままだった。戦闘機ならばその相手を撃墜することで危機から逃れられるのだが、ミサイルを撃墜するのは至難の技というべきものだったから、私たちは逃げることに徹するしかないのだ。強烈なGで内臓と身体を揺さぶられ、疲労の極みに達している身体をさらに痛めつける。呼吸すら自由に出来ない状況下で、生き延びるために操縦桿を握り続ける。何度目かの旋回を終えて高度を稼ごうとした矢先、機体が不快なノッキングを起こした。背筋を冷汗が流れ落ちるのを感じる。エンジンの回転数が急速に低下し、それに合わせて速度も低下を始める。ついに燃料を使い果たした愛機は、まるで翼をもがれた鳥のように、それでも空を目指そうとしていた。
「何やっているんだ相棒!上昇しろ!!後方、敵ミサイル!!」
私は愛機をテールスライドさせて、AAMの突進を回避する。機体の後を滑らせながら反転しようとしたのだが、推力を得られない愛機はやはりいつものようには動いてくれない。至近距離に飛来したミサイルが私の機体に反応し、そして炸裂した。轟音と衝撃であらぬ方向に機体が弾き飛ばされ、私はコクピットの中で何度もシートに叩きつけられる羽目となった。
「フッケバイン!!」
「大丈夫だ!まだ、生きてる」
私は素早くモニターに目を移し、後を振り返った。何とか安定を取り戻していたが、今の攻撃によって右エンジンは破壊され、垂直尾翼は根元からもぎ取られていた。主翼自体も破片を食らったのか、後縁フラップが脱落している。煙を吹き出しながら惰性で飛行する愛機だったが、既にエンジンは停止して推力を得ることも適わず、次第に機首を下げていく。こうなると燃料が尽きたのは幸いというべきもので、燃料の引火による爆発を避けられただけでも幸運と思うべきだろう。――このまま愛機と逝くのも一興――そんな考えが頭の中を過ぎり、私は首を何度か振って弱気を追い払った。電気系統はまだやられておらず、惰性ではあるものの機体を制御できるのは愛機がまだ生きているという証拠なのだから。もう少し、持ってくれよ、Su-27。最後の最後まで酷使して済まないが――!私の眼下を、私同様ミサイルに追尾されているバートレット機が通り過ぎる。私は今やエンジンを止め煙を吐き出し続けている愛機をミサイルと彼の間に割り込ませた。突然出現した別の獲物に目先を変えたミサイルが、私の後背に食い付く。よし、そうだ、ついてこい!私は愛機の計器盤に指で触れ、この戦いで散々酷使し続けた操縦桿を、スロットルを今一度握り締めた。
「なぁ、ブービー?そっちの士官学校ではこんな話を教えていないんだろうか?機体は所詮は消耗品。搭乗員が帰還すれば――」
「大勝利だって言うんだろ!?こんなときに何をのんびり言ってやがる、早くベイルアウトしろっ!!」
「無論そのつもりさ。大体、私に生きろ、と言ったのは貴官だろう?」
「当たり前だ!おまえは俺の大事な編隊員なんだ!勝手に死なれたら俺が困るんだよ。いいな、分かったな!?」
「やれやれ、本当に騒がしい男だね、全く」
そう、パイロットが生き延びることが出来れば、再び新たな翼と共に戦場へ戻ることが出来る。機体は蘇るが、パイロットは蘇らない。故に帰還することは何よりも優先される――戦闘機乗りとしての原点とも言うべき言葉が、今日はなんだか真新しく感じられる。良く、ここまで付き合ってくれたな。ありがとう、Su-27――。心の中で別れを告げた私は、シート後頭部にあるイジェクション・ハンドルを強く引いた。耳障りな音と共にキャノピーが射出され、数瞬の間を置いてシートが上空へと舞い上がる。シートに半ば固定されるように拘束された私の前を愛機が通り過ぎていく。搭乗員を失った愛機はまるで私に別れを告げるかのように翼を振る。そして、何本ものAAMが愛機に突き刺さり、機体を引き裂いていった。真っ二つになった愛機にさらにとどめのミサイルが突き刺さり、機体は大爆発を起こした。真っ赤な火球と化した機体から、燃え残った破片が大地へと降り注いでいく。ようやく静けさを取り戻し始めた空には、まだ愛機の残した煙の筋と黒煙が漂っている。その中を、私の体はゆらり、ゆらりと舞い降りていく。さて、これからどうしようか。色々とやらねばならないこともあるし、困難な出来事にも遭遇することは違いなかった。だが、今日を生き延びた私は、「その後」のことを考える事が出来る。いや、考えて生きていかなくてはならないのだ。多くの仲間たちを失った私だったが、そんな私に、仲間たちは騒々しいが頼りになる相棒を連れて来てくれたのだから。そして、それこそが、私にとっての大勝利だったのだ。
「撃墜!撃墜!怪鳥と僚機の撃墜に成功!!」
部下たちの挙げる歓声を聞きながら、アシュレー自身もまた大声で喜びの叫びを挙げたい気分に駆られていた。部隊長としての威厳を保つべくその衝動を堪えてはいたものの、ついに宿敵を抹殺した喜びは最高であった。
「これで我らが真にベルカの英雄になったのだ!アシュレー中佐、ようやくこの時が来たな!」
「ああ、ヴァルパイツァー中佐、同感だよ。裏切り者には相応しい死に様だ。下衆に大して直接手を下すのは我々の仕事ではないからな」
「……ほぅ、救国の英雄気取りとは、随分と気が早い連中だな。全機に告ぐ。前方の未確認機は全て祖国の「裏切者」どもであり、祖国を核の炎で焼いた張本人どもだ。鬼畜どもに遠慮はいらん。滅殺せよ」
お祭騒ぎのようなムードに、いきなり冷水がかぶせられたようなものだった。未だ炎で焼かれ続けているバルトライヒを越えて、ノルト・ベルカ側から航空隊が迫りつつあったのである。ようやくノルト・ベルカの部隊が出撃したのか――だが、彼らは明らかに自分たちを「敵」として認識している。
「こちらオブニル2!話を聞け!我々は同朋だ!核攻撃を行った「裏切者」どもである怪鳥たちを葬った我々を「裏切者」とはどういう了見だ!!」
「祖国の英雄を謀殺し、祖国の無辜の市民を焼き払い、その責任を他人に押し付ける。――最悪だな、アンタら。こんな連中と同じ空を飛ぶのは絶対にご免だぜ」
「親衛隊のお坊ちゃま方には、その罪を購ってもらおうか。バルトライヒの地獄の窯の中でな!!」
コクピットの中に鳴り響いたのは、ロックオンされたことを告げる警報音だった。有り得ない。絶対にあってはならないことが起こっていた。フッケバインを葬り去った今、事実を知る者はもういないはずではなかったのか――?だが余計なことを考えている暇は無く、彼は回避機動に全神経を傾けなければならなかった。アシュレーたちは、自分たちが怪鳥たちに与えた屈辱を自らの身で味わう羽目となったのである。多勢に無勢――腕の悪い部下たちが、次々と餌食となり、その姿を消していく。
「グラーバク1、撤退だ!いずれにしても退却しなければ、ここで我々は全滅するぞ!!」
「オブニル1に同感だ!死にたいなら、アンタ一人で残ればいい!」
屈辱の炎で腸を焼かれながら、アシュレーは唇を噛み締めた。必死の回避機動を試みているはずなのに、より性能の悪い機体に乗っているはずの同朋――臣民軍飛行隊の連中は、その機動を嘲笑うかのように自分たちを追い詰めていくのだ。
「宝の持ち腐れだな、こいつら。機体に乗せられているだけのド下手野郎どもが!!」
後方にへばり付いたA-4から30ミリアデン砲が放たれる。機体に鈍い震動が走り、左の垂直尾翼が砕け散ったことを悟ったとき、アシュレーの緊張と神経が飽和して、そして弾けた。彼は喚き散らしながらスロットルをMAXに叩き込み、離脱を図った。彼の晒した醜態をパイロットたちが哄笑し、アシュレーのプライドをズタズタに切り裂いていった。アシュレーは自らの手で葬り去ったはずの仇敵を頭に思い浮かべ、そして心の中で激しく罵った。死んでなお、我々の道を阻むのか、フッケバインめ――!そして愚かな賤民どもめが!だから、全てを焼き尽くさねばならなかったのに、全てが無駄になってしまった。どれもこれも、フッケバイン――奴が元凶ではないか。かろうじて敵の追撃を振り切った後も、彼の気が晴れることは無かった。認めたくない事実を彼は突き付けられていたのである。あらゆる謀略、あらゆる計画が頓挫し、自分たちは追い詰められたのだ、と。即ち、「敗北した」という事実を。
恐らくは最も美しい季節であろうバルトライヒの木々は今や黒焦げとなり、森の至る所から黒煙が立ち上っている。そして山の向こう側は未だ止まない炎で焼き尽くされ続けている。大地には着弾によるクレーターが無数に穿たれ、その周りには車輌の残骸や少し前までは人間だった有機物の残骸が無惨に散らばっているのだった。陸軍部隊と進撃の順番を争った挙句、賭けに敗れてその後詰にされたことは、結果としては彼ら――第115連隊の命を救った。先発して山を越えていった陸軍の連中は、「何だ、あの光は」という通信を最後に音信を絶った。そして自分たちはというと、彼らの安否を確認している余裕など全く無いほどの混戦に巻き込まれたのである。もはや戦術や作戦といったものを無視して突撃を繰り返すベルカの兵士たちは、半ば手向けられた機銃掃射のシャワーの中で自殺していったようなものだった。それを食い止めようと敵部隊の士官たちが後退を命じてはいたのだが、上官の命令も無視して彼らは突撃を敢行していったのである。部下たちは終いには泣きながら引き金を引き続けることになった。しかし、弾薬が尽きた兵士たちは血みどろになりながらも前進を続ける敵兵たちに飲み込まれ、耳を塞ぎたくなるような断末魔を挙げて命を奪われていくとあっては、ひたすら敵兵の前進を阻止するよう命じる以外に、ハーリングの選択肢は無かったのである。だが数度に渡った敵の突撃は、予想外の終幕を迎えた。部隊の後方に控えていた敵装甲車の数台が、友軍に向かって砲撃を行い、そして逃走したのである。前方からの攻撃と、後方の友軍からの砲撃に挟撃された敵部隊はなぎ倒され、文字通り壊滅してしまったのである。
「何てことをしやがるんだ……」
新たに穿たれたクレーターの周りには、敵兵たちの亡骸が無惨な姿で転がっている。まさに死体の山と評するのが相応しい阿鼻叫喚の惨状を目の当たりにして、目を背けない者はいなかった。第115連隊はオーシア海軍海兵隊の中でも最強の男たちが集まっているはずだったが、そんな彼らであっても正視することが出来ない状況というものが存在するのだった。ビンセント・ハーリングは動かなくなった敵兵士たちの姿を呆然と見回すことしか出来なかった。彼は、この戦争の意味を自問していたのである。一体、自分は何のために戦ってきたのだろうか、と。彼自身、混戦状態の中で自ら自動小銃の引き金を引き、多くの敵兵を葬り去った身ではあったが、彼が撃ち殺した兵士たちの中には、泣きながら突撃してきた若者もいたのである。胸で銃弾を受け止めた若者が血を吐き出しつつ叫んだのは、恐らくは彼の恋人の名前だった。スローモーションのように彼が倒れていく姿が、ハーリングの網膜に焼き付いて離れなくなっていたのである。自分は、人々がこんな無惨な死に方をしないで済むように軍人に志願したのではなかったのか。例えそれが、敵国の兵士であったとしても、一人一人それぞれの人生があり、家族があるはずだった。だが実際に彼がやったことは、敵兵の数だけ存在する人生を破壊していくことだったのだ。
「……オーシアン?」
不意に呼びかけられた声に、ハーリングは振り返った。これが戦闘中であったら、間違いなくハーリングの命は失われていたはずだったが、その声は弱々しく、しかも地面に近い高さから発されたものだった。一人の兵士――士官らしき階級章を付けた男が、燃え残った木に背中を預けて座り込んでいた。その手に武器は無かったが、彼の腹と肩には赤黒い染みが広がり、さらに彼は目をやられてしまっていたのだ。ハーリングにはそれが致命傷であることが分かってしまった。
「……何か言い残したいことがあれば、聞いておくぜ」
ハーリングはベルカ語でそう呼びかけた。男はにやりと口元に笑みを浮かべると、流暢なオーシア語で答えてみせた。
「まだ、ヴァルハラの迎えの車が来るまでには時間がありそうだ。済まないが、一本もらえるか?」
震える手で、彼は煙草を吸う仕草をしてみせた。ハーリングは胸元のポケットから一本取り出し、彼の口にくわえさせてやった。そしてジッポの火を点す。紫煙が辺りに漂い、男は満足そうに煙を吹き出した。ハーリングは彼の身体を抱き起こし、座らせてやった。
「一体、何があったんだ?何故貴官らの部隊は、味方から攻撃されたんだ?」
「司令官が臆病風に吹かれたのさ。くそ、ドレヴァンツの野郎、初めからそのつもりだったんだ。あんな無意味な突撃命令を下していたのは、てめぇが逃げ出す時間を稼ぐだけのことだったんだ。……倒すべき相手を間違えていたぜ。あの野郎を葬っておけば、アンタと停戦交渉が出来たかもしれないのにな」
そこまで一気に話すと、男は激しくむせ返った。その口から血が吐き出されるが、彼は煙草を決して手放さなかった。
「もうよせ、しゃべるな。なに、今軍医を呼んでやる。うちの部隊の医者は、口は極めつけに悪いが腕は確かだ。どうだ、傷が治ったら俺の部下になればいい。お前さん方を痛めつけた奴を探し出して、たっぷりとお灸を据えてやればいいさ」
「へへ……それもいいな。なぁ、一つ聞いて良いか?バルトライヒの向こうはどうなっている?もう目がやられて何も見えないんだ。あの綺麗な街には、俺の娘たちがいるんだよ。もう、火は消えたのかい?」
男の顔色は急速に土色に変わりつつあった。確実に近付きある死神の姿をハーリングは見てしまったような気分だった。バルトライヒの空は依然赤黒い色に包まれていて、放たれた核爆弾が山の向こう側を焼き続けているのは明らかだった。腕に包帯を巻いたマシューズが首を振る。
「……ああ、安心しろよ。もう山の向こうの火は沈火したそうだ。街も無事だ。もうこの戦争も終わるんだ。傷が治ったら、愛しの娘さん方のところに帰れるさ。ああ、一人くらい紹介してもらってもいいな。生憎、まだ独身なんでね」
「おいおい、俺の娘は上の子でまだジュニア・ハイスクールだぞ。へへ……アンタ、嘘が下手だな。上官には遠慮したいが、友人としてだったら歓迎だよ。分かってる。撃ち込まれたのが核弾頭だってことはさ。……俺はハインツ・ガーランド少尉だ。アンタは?」
「ハーリング。ビンセント・ハーリング少佐だ」
ガーランドの手が力なく持ち上がり、そしてハーリングの腕を弱々しく掴んだ。何も映していないであろう目をハーリングに向けた彼の顔色は、もう死人のそれになりかけていた。
「最期に一つだけ、一つだけ俺の願いを聞いてくれ。俺たちの……俺たちの祖国の人々が皆必死に生きようとしていたこと、そしてその想いが、無惨に断ち切られていったこと――戦いが終わって国に帰ったら、それを伝えてくれ。俺にはもうそれが出来ないし、アンタに頼むようなことじゃないのも分かってる。だが、だが……!」
再び吐血したガーランドが地面に突っ伏す。それでも彼の執念が宿ったかのように、彼の腕はハーリングの腕を掴んで離さなかった。激しく咳き込んだガーランドの呼吸は、もう聞き取ることが出来ないほど細くなっていた。
「おい、しっかりしろ、おい!ガーランド、ほら、軍医が来てくれたぞ、もう少し耐えるんだ!ガーランド!!」
再び抱きかかえたガーランドの身体からは、温もりが消え去ろうとしていた。激しい出血が、ハーリングの軍服をも濡らしていく。
「……やっと、水入らずだな。フィーナ……アーデルハイト……ジークリンデ……」
ハーリングの腕を掴んでいた手が力なく地面に落ちた。
「ガーランド!おい……もう、止めてくれよ……」
口元に微笑すら浮かべて、彼はヴァルハラとやらへの階段を上がり始めていた。ハーリングは無言で彼の身体をしばらく抱きかかえていた。傍らでは、マシューズが力なく立ち尽くしている。ハーリングは、腹の底から湧きあがってくる衝動を堪えていたが、それは程なく彼の理性の防壁を乗り越えて、一気に吹き出したのだった。
「マシューズ……マシューズ!何なんだ、これは。一体何なんだ、俺たちがやっていることは!!」
震えながらハーリングは怒声を挙げた。冗談じゃない。俺はこんな光景を見るために軍人になったわけではなかったはず。その想いが、ハーリングの身体を震わせていた。
「……こんな悲しいことを繰り返さないためにも、自分らは早期に勝利を得なければならないでしょう。ガーランド少尉の思いを無駄にしないためにも、我々は生き残らねばなりません。少佐、しっかりして下さいや。アンタがそんなんじゃ、俺たちまで沈んじまうんだ」
マシューズの言葉は決して激しくは無かったが、ハーリングの理性を回復させるには充分だった。ハーリングはそっとガーランドの身体を地面に横たえ、そして目を閉じてやった。そうだな、ガーランド少尉。折角おまえさんが俺に託してくれたこと、伝えなくちゃならないものな。――約束する。必ず、おまえさんたちの死を無駄にはしない、と。一度袖で顔を拭い、彼は立ち上がった。ある決心とともに。
「決めたぞ、マシューズ。俺はこの戦争が終わったら政治家に転身する。そして戦争大好きなクソどもを政界から追い払ってやるんだ。それが、この戦争で犠牲になっていった人々に対して俺が出来る、ささやかな償いだ」
マシューズはにやりと笑ってみせた。我が隊長、かくあるべきかな、とでも言うかのように。
「なら、尚更生き残りませんとな」
「ああ、どんな苦境でもしぶとく生き残るのが俺たちの専売特許だからな」
軍隊で鍛えていた身体も随分と鈍ってしまったものだ、とビスマルクは苦笑した。シラクサ航空基地から「救出」された彼は、てっきり軍の病院にでも新たに幽閉されるのかと考えていたのだ。だが、救急車の辿り着いた先は、オーシア首都オーレッドの中枢ともいうべき、ブライトヒルの建物だったのである。その一室を臨時の病室にして彼は治療を受けることになったのだ。既に身体に命中していた弾丸は摘出され、傷口も縫合されている。が、失われた体力はなかなか回復せず、ベットで起き上がることすら苦労したのであるから。一苦労して身体を起こし終えた彼は、部屋のドアがノックされる音を聞いた。ふむ、どうやらまだヴァルハラに到着したわけではないらしい、とビスマルクはひとり納得した。
「どうぞ。死に損ないに何の用かね?」
ドアを開けて入ってきたのは、オーシア大統領アーセナル・フランクリンその人だった。さずかにビスマルクも片方の眉を吊り上げて驚いたものである。
「ご無事で何よりです、ビスマルク公爵」
「これで無事というかどうかは微妙な所だがね。そちらの下にも、扱いにくいのがいて大変そうだね?お互い躾のなっていない野良犬ばかりで苦労が耐えませんなぁ」
ビスマルクの毒舌をフランクリンは苦笑しながら受け止めている。ビスマルクはこの温厚な男とは初対面では無い。まだ一応の平和が保たれていた頃、外交交渉で何度か顔を合わせたことがあるし、穏健派の彼が「主戦派」と呼ばれる軍部を中心とする急進的な勢力から毛嫌いされていることも知っている。
「時に大統領、ワシごときをブライトヒルまで運んで一体何をするおつもりですかな?これは政府の決定事項と考えて良いのですかな?」
「いや、公爵。これはあくまで私の独断です。間もなく大統領の座から罷免されることになる男の、最後の嫌がらせですよ。公爵には申し訳ないが、是非協力してもらいたくて、ここにお招きした次第です」
ベルカとの戦争に勝利した今、戦争に否定的な立場を取っていた穏健派は政界では立場を失っていく。輝かしい勝利を得た軍とベルカの徹底的な解体を叫んだ急進派に票が集まっていくのは、民主主義を前提にしているオーシアの現実なのである。不可避の罷免を目前にして、フランクリンは急進派たちに一手を打っておく気なのだろう。彼の後をいつか継ぐ者が現れたときの布石とするために。
「公爵には、一つ演説をやってもらえませんか?スーデントール市に篭城している兵士たちに、停戦と降伏を呼びかけてやって欲しいのです。そして、連合軍が核を投下した事実は無い、と彼らに伝えてやって欲しい。それに、どうやらウチの躾の悪いのが、そちらのVIPを亡命させたくて仕方無いらしいんですよ。どこの国のためにもならないようなことを私は防ぎたい。少なくとも、この目の黒いうちは勝手なことをさせるつもりはないのでね」
「ほぅ。VIPを亡命ね。奇遇ですな、それなら心当たりがありますぞ。我が国で最も亡命なんぞしちゃならん大馬鹿が約一名ね」
フランクリンが微笑を浮かべる。ビスマルクもまた、愉快な気分になって笑い声を上げた。なるほど、立場は違えど、考えていることは同じ同志というわけだ、我々は。
「分かりました、大統領。ワシの演説にどれほどの効果があるかは分かりませんが、やってみましょう。それにね、ワシも結構好きなんじゃよ。気に入らない奴に嫌がらせをしてやる、ってのはね。どうせなら、徹底的に、再起不能になるくらいまでやってみたいもんですな。そうでもしないと、これまでの帳尻が合わない」
「全く同感です。どうせ追い出されるなら、道連れも出来る限り多くしたいもんですからね」
「……去る者同士、共同戦線と行きましょうかな?」
全く動かない右手の代わりに、ビスマルクは左手を差し出した。その手をがっちりとフランクリンが握り、そしてもう一方の手も添えてきた。
「もう、戦争は終わりにしましょう。それぞれの国の将来を担っていく人々のために」
「同感同感。戦争なんてもんは、悲劇しか生み出さないのだ、と祖国の馬鹿者たちも今度こそは分かったじゃろうて。それにワシは、そのためにこの国に来たんだ。役目も果たさずにいるのは、些か不本意でね」
ここまで辿り着けた代償が右腕一本で済めば安いものさ、いくらでもくれてやるわい――不屈の老兵はようやく手にした戦いの舞台を前にして、精悍な笑みを浮かべるのだった。