終わりの地、始まりの地


2012.6.6
風が、大地を優しく撫でながら吹き抜けていく。バルトライヒの山から下りてくる風は、かつては深緑の心地良い匂いを運び、ここに生活していた人々を喜ばしていたのであろう。あの時から既に17年を経た今、再びバルトライヒの山は昔の緑を取り戻しつつある。だが、その風を受け止めて日々を送る人はもういない。その風が通り過ぎていたであろう道も無い。あるのは――全てが終わってしまった大地。かつて、ここにはヒルデスブルクという名の街が存在したのだ。17年前のあの日、この街に投下された 戦術核「V1」は、この街の全てを焼き尽くし、消滅させ、後には巨大なクレーター湖を生み出した。爆心点からすり鉢状に抉られた大地に、核爆発後に舞い降りた「黒い雨」が溜まり、現在の湖を形成したのである。その結果、高濃度の放射能が長い間留まることとなったこの大地は、未だ防護服を着込むことなしに長時間滞在することは難しい。それでも、放射能は弱くなってきてはいるのだが。私のそばには、かつてこの街を訪れる人々を迎えていたであろう、門の残骸が草に覆われて転がっている。痛々しいほど黒焦げになったその残骸は、この地が核爆発によって引き起こされた紅蓮の炎で嘗め尽くされたことを証明していた。
「フェルナンデス殿、あまり長居は出来ませんから、調査はお早めに」
「あ、ああ、すみません。そうでしたね」
そう、私は本名を名乗ることが現在のところ出来ない。先の大戦において「公式記録上」死亡したことになっている事に加え、10年間の間一切の公表が封じられた事実と間近に接してしまった代償として、私と、私の良く知るエースたちは本来のものではない名前を持つ人間として現代を生きている。今の私は、アルベール・ジュネットではなく、エリック・フェルナンデスなのである。なかなかその名には馴染めないのも事実であるため、先程のように自分が呼ばれたことを認識できなくなることがしばしばあるのだ。胸元の一眼レフカメラを構え、僅かに残されている街の痕跡を撮影し始めた私の横で、同行者であるベルカ国防空軍のローレン中佐が背負ってきたバックパックを地面に下ろした。そして放射能測定器を取り出して、周辺の放射能の状況を調べだす。耳障りなガリガリ、という音は未だ放射能が放出されていることの証明でもあった。事実、足元を覆っている雑草は、本来有り得ないような大きさや形のものが散見される。かつての大通りであった、焼け焦げた石畳の道路に茂るタンポポの中には、花の直径が20センチに及ぶようなものもあるのだ。その異様な光景も、この街の今の姿なのだ、と納得してシャッターを切る。そして私は、通りに沿って歩き始めた。17年前に失われた街のことを、私は知る由も無い。だが、この街を知り尽くしていた男の記憶を、今の私は共有しているのだ。

ヒルデスブルク行を決める前、私はノルト・ベルカの北方に位置する小さな港町を訪れていた。冬になれば氷に覆い尽くされるその海も春の訪れとともに海の姿を取り戻し、夏になれば数少ないバカンスの地として一時的に人口が増加するのだという。その海岸線の小さな岬の上に立つ家が、私の目的地でもあった。海風が心地良く吹いていく家の前で、20代前半くらいの赤髪の女性が車を磨いているところだった。私の姿を怪訝そうに眺めていた彼女に名前を告げると、彼女は自分の非礼を詫びて家の中の母親を呼びに行った。ポニーテールにした赤い髪が揺れる姿が、とても印象に残ったものである。そう、私が訪れたのは、ウォルフガング・シンドラーの未亡人の住む家だった。先の大戦によって未だに万全でない戸籍上の記録においてその消息を掴むことが出来ず、途方に暮れていた私に彼女たちの行き先を知らせてくれたのが、今日の同行者であるベネディクト・ローレン中佐だったのだ。17年前の大戦時のご亭主――つまりはシンドラー氏のことをお聞きしたい、というのが表向きの話であったが、おやじさんとの約束を果たすことこそが本来の目的であった。長い旅を続けてきた形見の品を、あるべき場所に返すため。ヒアリングを進めていく上で驚いたことに、シンドラー氏はあの状況下においても、妻子に毎週のように手紙を送っていた。いくつかサンプルとして拝見したその手紙には、17年前の出来事が生々しく綴られていた。そして、私の良く知る人のことも、その文章には度々語られていたのであった。
「最後の日付は……1995年6月5日のものです」
未亡人から手渡された手紙は、それまでのものとは異なり、便箋6枚に及ぶ長いものだった。――それは、彼の妻と娘に当てた別離の手紙でもあったのである。そしてさらに、彼は当時のベルカ政府と軍部が、自国に対する核攻撃を実施することを伝えてもいた。それが故に、この手紙の何枚かの紙をすぐに焼却するように、とも。手紙の最後は、複雑な気持ちで綴られたであろう一言で締め括られていた。"いつもいつも勝手なことばかりして済まなかった。でも、私はこんな生き方しか出来ない馬鹿だけど、そんな私に付いて来てくれたことに感謝している。フィーナを頼む、アリア。愛している"、と。
「こんな手紙を送られたら、生きて帰るつもりが無いことくらい分かってしまいますのにねぇ。ホント、最後の最後まで勝手なんですから、あの人は」
遠くを見つめるようにして微笑を浮かべてみせるシンドラー婦人の言葉が、決して消えることの無い深い悲しみを覆うペルソナであることに気が付き、私は返す言葉が無かった。彼女はきっと、17年間もの間そうやって悲しみを背負いながら今日まで生き続けてきたのだ。私は返すべき言葉を見出すことが出来なかったが、その代わりに返さなくてはならない物をベストのポケットから取り出した。
「あら、それは?」
「私の大切な知り合いからお預かりしてきました。その方から伝言をお預かりしています。もっと早く、貴女のもとにお返しするべきものでしたが、その機会を得ることも出来ないまま時間が過ぎ去ってしまいました。申し訳なかった、と」
この家に入るとき、娘――フィーナ嬢がしたのと良く似た怪訝そうな顔で袋を開けた婦人は、中から指を取り出し、そして手で口元を押さえた。彼女の薬指に、それと同じ指輪が今もはまっていることに私は気付いている。ゆっくりと自分の目の前で、指輪と、自分の薬指を何度も彼女は見比べていた。
「フェルナンデスさん、あなたの大切な知り合い、というのは、"怪鳥フッケバイン"その人なのですね?あの方はまだ……?」
「……はい。お名前も居場所も私はお伝えすることが出来ません。ですが、彼は――17年前と同じ気持ちで――敵を殺すためではなく、平和な空を守り続ける若鳥たちを育てるため、今日もどこかの空を飛んでいます。「怪鳥」の翼で彼らを導いているはずです」
婦人の目から、初めて涙が零れ落ちた。
「……本当に勝手なんだから、ウォルフ、貴方は。死んでなお、大佐と共に世界の行く末を見たかったんでしょう?今頃、こんな姿で帰ってくるなんて……でも、お帰りなさい、私の大切なあなた」
形見の指輪を手に握り締め、そして彼女は自分の体を抱き締めた。今は感じられない、故人の温もりを思い出すかのように。17年前のあの日、ヒルデスブルクという街で一生を終えた、最愛の人のことを思い出すかのように――。嗚咽の声が漏れるのを、私は黙って聞いているしかなかった。それからどれだけの時間が過ぎただろうか。一度自室に戻った彼女は、古ぼけた、しかし分厚い手帳を私の前に差し出したのだ。
「最後の手紙と一緒に送られてきたものです。あの悲しい戦争の真実を明らかにしようとする人にこそ、お渡しするべきものでしょう。シンドラーもそれを望んでいると思います。どうか、お持ちください。私にはもう必要の無いものですが、あなたのお役に立てるはずです。そして、世界に伝えてください。あの時代を生きた人間が、伝えようとしていた想いを――」
それは、ウォルフガング・シンドラーの残した、取材手帳だったのだ。

街の大通りに沿って、かつては住宅や商店街が並んでいたのだろうか。かろうじて焼け残った建物の残骸が、わずかながらに形を留めて残っている。そのいずれもが焼け焦げているわけだが、街の中心部、つまりは爆心地に近づくにつれ、建物は原型を留めなくなり、草の姿もなくなり、焼け焦げた石畳だけが残っている光景が広がり始める。未だ放射能の洗礼を浴び続けることが原因なのか、土の中まで焼き尽くされたからなのか、或いは種を運ぶ草木が存在しないのか――。そして大通りの行く先は、しばらく行ったところで唐突に寸断され、そこから大きな湖が始まる。風によって漣が立つ湖面は見ていて飽きないのだが、この湖こそが長い間放射能を放ち続ける根源とも言うべきもので、仮にこの地域の再開発を行うのだとすれば、この膨大な量の核汚染水をどうやって処理するのかが問題になるだろう。私はその光景――寸断された道と、湖面の姿を何枚かフィルムに収めた。そしてふと気が付いて、シンドラーの遺品たる取材手帳を取り出した。彼は手帳の中に、わざわざヒルデスブルクの地図まで挟みこんでいたのである。その地図には彼の直筆で、大通り沿いに並ぶ店の名前から、恐らくは記者活動を行ううえでの協力者やスポンサーの名前が細かく書き込まれていたのである。だから、これのおかげで私はヒルデスブルクという失われた街を、あたかも良く知る人間かのように歩くことが出来たのだ。私は通りの傍らにその残骸を残す建物に気が付いた。完全に崩落してしまった建物はかつての面影を残してはいなかったが、その場所は地図の上にもわざわざ赤丸でサインされていた。
「――フロッシュ」
驚いたことに、それはローレン中佐から発された声だったのだ。そう、その建物のあった場所こそ、この手帳の持ち主たるウォルフガング・シンドラーやおやじさん、そして第302飛行戦隊の面々が集った酒屋「フロッシュ」なのだった。ローレン中佐が無言で残骸に近寄っていったので、つられて私も歩き出す。石造りのワインセラーを改装していたという建物は比較的頑丈だったのか、全てが消し飛ぶことは無く、石が折り重なるようにして山を作っていた。その残骸の周りに散らばっているのは、どうやら高熱でひしゃげ変形したガラスの類のようだった。建物の前で座り込んだ彼は、しばらく無言のままだったが、何かを決めたように何度もうなずくと、私のほうに振り返った。
「あなたには私の知ることを全てお伝えしておいて良いかもしれませんね、アルベール・ジュネットさん」
私は思わず彼の顔を凝視してしまった。彼には一度として本名を告げたことも無かったはずだったが、彼はにやり、と口元に微笑を浮かべていた。
「蛇の道は蛇、とも言いますからね。ただ、実は私もお互い様でしてね。「大佐」とも深い関わりをお持ちのあなたをこれ以上騙し続けるのも正直辛い」
私は一つの可能性に思い当たった。このヒルデスブルクの街のことを知り、かつ大佐――おやじさんの存在を良く知っている、あの戦争の生存者がいることに。
「では、ローレン中佐、まさかあなたは」
「そうです。第302飛行戦隊5番機――ワーグリン少尉。それが私の名です。この街に同行させてもらったのは、他でもない。私自身が来たかったのです。あの戦争から17年。機会は何度もあったはずなのに、なかなか決心が付かなかった。でも、オーシアからあの戦争の真実を調べるためにあなたがやってくる、という話を聞いて私は決心したんです。あの日、大佐たちが私を脱出させてくれたことに報いるには、真実を誰かに必ず伝えなければならないのだろう、とね。だから、あなたがヒルデスブルクに行くと言ったとき、ああ、その機会がとうとうやってきたんだ、と私は決心したんです」
「私も、おやじさんからお話は伺っていました。良く、ご無事で」
「あれから色々とありましたからね……大戦終結後も、ワーグリンという名で生き続けるのは厳しい時代だったんです。だから、私は元の名を捨て、ベネディクト・ローレンとして今日までを生きてきたのです。大佐もまた、別の名を持って、オーシアで生き続けてきたように」
ゆっくりと立ち上がったローレン……いや、ワーグリン中佐は背負ったバックパックから一本の瓶とグラスを二つ取り出した。そのラベルには、"38 years"と金字でその年数が刻まれている。慎重にラベルを取り外した彼は、「フロッシュ」の残骸の一つである石の小山に腰を下ろし、そして瓶の口を捻った。芳醇な香りが辺りに漂い、酒にあまり詳しくは無い私でさえも、それが銘酒と呼ばれるに相応しいものであることを認識した。
「ジュネットさん、あなたも付き合ってくれませんか?この街に――ヒルデスブルクに来たらこいつを開けよう、ずっとそう考えていたんです。探し出すのに本当に苦労しましたけどね、ようやくユージアの店で見つけたんです。店のバーテンに頭を下げ続けて、ようやく譲ってもらったんですがね……」
彼は私のグラスに半分ほど琥珀色の液体を注ぎ、そして自らのグラスを満たした。彼はそのまま無言でグラスを街に向かって掲げた。私もそれに合わせて、グラスを少し高く掲げる。そして私たちは、グラスを呷った。濃厚な香りが鼻腔を突き抜け、とろみのある熱い液体がゆっくりと胃へと流れ込んでいく。それが、ワーグリン中佐にとっての、この街に対するささやかな追悼だったのだろう。ゆっくりと時間をかけてグラスを飲み干した私たちは、もう一杯をグラスに満たし、そして残りの瓶を「フロッシュ」の前に捧げた。
「みんな、これで一杯やってください。フロッシュのとっておきの一本、ようやく見つけてきましたから……ゼクアイン大尉、ゼビアス中尉、アウグスト中尉、ハウスマン……基地のみんな……僕は……こうやって今を生きてます。みんなにもらった命を無駄にしないように、まだ見ていない明日を生きていくために……。17年もご無沙汰してしまって、きっと怒られますね……」
再び座り込み、フロッシュの残骸に向かって語りかける彼の後ろで、私はもう一度グラスを掲げた。この店で、つかの間の休息を得て、戦いの空へと飛び立っていったエースたちのために。そして不本意な死を強制させられたこの街の人々のために。ここは、全てが失われた地。最早、何も生み出すことも無く、人々の記憶からも忘れられようとしている地。だが、ほんの17年前まで、ここにはバルトライヒの緑と共存する、美しい街が存在していたのだ。この全てが失われようとしている街のことを、埋もれさせてはならない。そのために、私はここに来たのだから。そしてこの街に生きた人々のことを、少しでも多く後の世代へと伝えていくこと。この街から飛び立ち、辛い戦いの中で散っていったエースたち、或いは、現代を生きるエースたちのこと。そう、ヒルデスブルクは今はもう存在しない。だが、人々の記憶の中に、まだその街は生き続けている。そこに生活していた人々たちのことも。17年前の終わりの地となり、15年後の始まりの地となった街――ヒルデスブルク。ここから飛び立っていった怪鳥は、自らも傷つき、翼は折れ、絶望に何度も直面したに違いない。だが、その翼をはためかせて、悲しみも振り払って、怪鳥は新しい明日へと羽ばたいていった。そして15年後、ラーズグリーズの英雄たちを導いて再びこの世界を救う戦いに姿を現した怪鳥は、今日もきっとどこかの空を飛んでいるに違いない。新しい未来を担う、若鳥たちを一端に育て上げるために、きっと――。


――Fin.

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