戦乙女の帰還


ナガセが撃墜されて数時間が経過した。サンド島は依然止まない雨に覆われている。私は誰もいない隊員宿舎をぼんやりと歩いていた。ナガセの行方不明という事実が、嫌でも私の不安をかきたてる。彼女が放り出された大地は、この時期昼でも氷点下の極地帯だ。パイロットスーツ以外のまともな装備もなく、まして敵から逃れて彼女が無事にいられるのだろうか。収容所から多数の捕虜が解放されたことを一報として記事にしたものの、私の気は晴れなかった。
いつもナガセが待機となると占領している4人がけのベンチ。その上に、赤い表紙の本が置きっぱなしにされていることに気がついた。……いつもナガセが手にし、何事かを書き込んでいた、あの本。「姫君の青い鳥」、それが本のタイトル。私も子供時代に読んだことのある子供向けのおとぎ話だ。それを何故彼女がもっていたのだろう。しばらく私は開くことに対する抵抗を感じていたが、ゆっくりとその本を開き始めた。見た記憶のある絵、文章。そうして何枚かをめくっていくうちに、私は何ページかがいびつに千切れてしまっていることに気がついた。そして、そこに挟まれたメモには細い綺麗な字で、何事かが記されている。それを読み始めた私は、彼女がいつかこの本を手にしながら独り言のように言っていたことを思い出した。
「小さい頃あんなに好きで何度も読んだ大事な本だったのに、今はなかなか思い出すことも出来ない……」
そう、彼女は記憶の底から、この千切れてしまったページの部分を一言一句思い出そうとしていたのだ。理由はわからないが、失われてしまったこのページをもう一度蘇らせ、一つの物語を繋げるために。ページの最後には、書きかけのメモが何枚も挟まれ、未だ埋まっていないセンテンスがぽっかりと穴を開けている。
私は、ナガセは撃墜されたのではない、と思い始めた。そう、自ら破壊者となり敵の命を奪うことに疲れた彼女は、敵の手で解放されることを望んでしまったのではないか。この赤い本に記憶の中から蘇らせた言葉を紡ぐナガセの姿を思い浮かべながら、私はそう考えてしまったのだった。

寝つきが悪かった私は、睡眠をとる事を断念し、夜中の基地を歩き回り始めた。人の気の絶えることの無い基地ではあるが、それでも照明が落とされ真っ暗となった建物の中は雰囲気が全く変化し、日中以上に冷たい感触を放っていた。私は明かりのついている部屋に何気なく近づいてみた。そこは通信兵の仕事場、基地の通信司令室だった。こんな時間だというのに、通信兵たちの2、3人は昼間と変わらないテンションで業務を続けている。こんな光景を見ると、何だか編集室勤務時代を思い出す。
「ジュネットさん、こんな時間にどうしたんですか?」
馴染みになった通信兵の一人が、仮眠中のベットから起き上がった。
「あ、申し訳ないな。起こしてしまったか」
「いや、俺も寝付けなかったんだ。こんなときは、何か暖かいものを飲みにいくに限る。どうだい、コーヒー……じゃ余計に目が覚めるか。ココアでも飲みに行こうぜ、ガキに戻ったつもりでな」
俺は彼と一緒に、食堂の販売機へと階段を下りていった。がらんと静まりかえった食堂の一角の証明をつけ、そこに陣取る。俺のおごりだ、と言って通信兵は何やらコップを用意しているようだ。電子レンジの回る音がして、そして彼はトレイにマグカップを2つ乗せてきた。
「あいよ、特製ホットココア、おまちどうさん」
それは、ウイスキーのホットミルク割だった。酒に弱い私用に、片方は大分少な目のようだ。なるほど、ホットココアとは良くいったものだ。
「いいのかい?それにしてもどこから手に入れたんだい?」
「内緒だぞ、こいつはおやじさんからの分配さ。本土から物資を運ぶときに、部品の中とかに仕込んでおくんだよ。んで整備兵がそれを取り出して、こっそり分配する。まるで密輸だな、こいつは。」
ホットココア改めホットミルク割は、少々冷えてきた身体に心地よく、そして胃袋にすっと染み込んでいくようだった。
「そういえば、ナガセは救出されたのだろうか?」
通信兵は首を振った。ようやく吹雪が止んだので、これからブレイズたちが救出に向かうらしい、とのことだ。依然、彼女の安否は確認されていないようだ。
「そうそう、最近通信室といえば面白いことがあるんだぜ」
「何かネタにでもしていいのかい?」
「残念だが記事には出来そうにないけどなぁ。司令部付のハミルトン大尉が、最近良く通信室に来るんだよ。ほら、窓際の席に座っている新人の……南オーシア出身のあいつの指導もしているようでな。ダミーの周波数を使って色々打電しているんだ。もし受信機があるなら、聞いてみたらどうだい?」
「へぇ、ハミルトン大尉、面倒見がいいんだねぇ」
「ま、あの人は司令部の石頭どもの中で唯一話が分かる人だからな。俺たちの新人の指導をやってもらえるなら有難いよ。」
私たちは、その後基地司令部の人間たちを肴にしばらく話し込んでいた。さすがに2杯目は本物のホットココアにして、少し匂いをごまかしてみる。時計の針は既に午前2時を回っていた。わずかであるが、睡魔が頭を覆いつつある。持ち場に戻った通信兵と別れ、私は宿舎の部屋へと戻り布団に潜り込んだ。今度は本格的な睡魔が襲ってきた。おぼろげになってきた意識で、私はナガセの無事を祈っていた。

翌朝、私は所在なげに格納庫脇のベンチでぼやりと空を眺めていた。編集室からも特に督促の連絡もなく、書く記事も特になく、開店休業状態だ。整備兵たちも予備の機体の整備についているものの、いつもほど緊迫した様子は見られなかった。そこへおやじさんの乗るジープが到着した。おやじさんは私の姿を確認すると、足早に近寄ってきた。
「ジュネット、そんなところにいていいのかい?」
「え?何かあったんですか?」
他愛の無いことを色々と考えていた私の答えは見事に間の抜けたものであった。おやじさんが苦笑する。
「ナガセが助かったぞ。ブレイズたちが無事に発見し、海兵隊のヘリが確保したそうだ。あの氷の大地に放り出されて数時間、敵に捕まることもなく、しかも自分を助けるため墜落したヘリのパイロットまで助け出していたそうだよ」
私は胸を撫で下ろした。昨日からの胸のつかえがようやく取れたような気分だった。
「彼女に怪我は?」
「大丈夫だ、顔に軽い凍傷は負ったようだが、跡がのこるようにものでもないそうだ。そうそう、しかも彼女はやはりとんてもない女傑だぞ。救援ヘリが到着したときな、彼女は敵兵まで捕虜にしていたそうだ。いやはや、大したものだ」
なんというタフネス。そしてバイタリティ。私は彼女に対する認識を改めなければならない。彼女は、自ら自分の生命を放棄するような弱い人間ではなかった。最後の最後まで、諦めることの無く仲間たちのもとに帰ってくる。そして再び仲間たちと戦場へ赴く。……まるで伝説の戦乙女のようだ。
「明日には退院できるそうだから、早ければ明後日にはこの基地に戻ってくるぞ。さて、私も彼女の新しい機体を用意しなければならないね。それと、ブレイズたちにもそろそろ新型を渡してやりたいところではあるし。調達部門とやりあってみるとするよ」
「私も、帰還した女傑のインタビューをしなければなりませんね。……まぁ、記事には出来ないかもしれませんが」
「そうだな、暖かい特製のホットココアでも用意してな」
げっ、となった私を見ておやじさんが笑い出す。その表情を見て、ようやく私も笑い出した。彼女は帰ってきた。また再び、あの4人はここから飛び立つことが出来るのだ。

基地に帰還した彼女は、いつもとおりの強気な口調だった。驚くべきことに、彼女は敵兵から情報さえも入手していた。リムファクシを沈めた彼女たちが、今やユークトバニアの将兵たちの間で「ラーズグリーズの悪魔」と呼ばれていることを、彼女は誇りに思っているかのように話していた。それは、彼女たちをここまで育ててくれたバートレット大尉のことを誇りに思っていたのかもしれない。だが、皮肉にも彼が収容所から発見されなかったことで、軍上層部は彼に対するスパイの容疑を一層深めてしまった。当然、その教え子たる彼らウォー・ドッグの4人にも風当たりが強くなってしまう。彼らが再び最前線に送られる日は近い。

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