虎口からの脱出


私たちが連絡を入れるより早く、グリムが私たちの部屋に駆け込んできた。飛行機から下りてすぐに駆けつけてきたようで、彼は見事に息が上がっている。
「どうしたんだグリム。隊長とナガセはどうしたのかね?」
「隊長とナガセはハミルトン大尉の所に行きました。それよりも、ジュネットさん、聞いてもらいたい話があるんです」
「何だって?隊長とナガセがハミルトンの所に行ったって!?」
血相を変えて立ち上がった私とおやじさん。足元で、カークのミルク皿が甲高い音を立てひっくり返る。グリムが驚いて、私とおやじさんの顔を交互に眺めている。
「ど、どうしたんですか?僕、何かマズいこと言いました?」
「ジュネット、もう隊長たちは間に合わない。こうなったら司令官に直に話すしかない。」
私は頷き、おやじさんと並んで部屋の外へ歩き出した。後ろからグリムと慌てて付いて来る。その後を少し離れてカークまで付いてきていた。本部棟に入り、司令官室の扉を私たちはノックもせずに開けて入っていった。驚いたことに司令官殿は怒りもせず、まるで私たちの来訪を知っていたかのように立っていた。
「司令官殿、唐突にすみません。ただお伝えしなければならないことがあります」
司令官は薄気味の悪い笑みを浮かべている。
「丁度良かったよ。実は、君たちを呼ぶつもりだったんだ。ピーター・N・ビーグル特務少尉」
「私を?」
いつになく厳しい視線になったおやじさんの視線が、一瞬出口を伺う。出口のドアはまだ閉まっていない。半開きになったドアの側にグリムが事情を飲み込めずに立っている。
「15年前、バートレットの所属していた部隊本部は敵の電磁攻撃の結果壊滅し、情報は極度に混乱していた。君とバートレットは敵領内で被弾しベイルアウトし、最前線の陸軍部隊に保護されたのだったな。……本当に?」
背中で腕を組んでいた司令官の手が私たちの前に突きつけられた。その手にあるのは、黒光りする拳銃。身構えた私たちを楽しそうに見ながら話を続ける。
「少尉。一体君の正体は何者なんだね。君がビーグル少尉だというのならば軍歴を言いたまえ。証明出来ないのだろう?まさか君がスパイだったとはね。残念だよ。バートレットと共に、我が軍の情報を盗み出していたとは信じ難いことだ」
司令官の自由な左手が机の上の電話に伸びていく。彼はMPを呼ぶつもりだ。おやじさんの視線が動き、私を見た。「逃げるぞ」とその目は語っていた。私は小さく頷き、グリムを見た。状況を理解したのか、グリムも静かに頷きを返した。司令官は相変わらず銃口をこちらに向けていた。左手が電話に触れるか触れないかのところで、突然照明が落ちた。蛍光灯の光が消え、部屋が真っ暗になる。
「今だ!」
おやじさんの声に、私は身を翻した。身を屈めてドアの外へと飛び込む。後ろでパン、という乾いた音がして、左ほほをかすめるようにして弾丸が通り抜けていった。間一髪。背中に冷や汗が一気に吹き出してシャツが張り付く。後ろを向くのも恐ろしく、私は必死になって全力疾走した。後ろでは数発発射音が響き、銃声を聞いた司令部付の兵士が何事かと廊下に出てきたのを突き飛ばし、私たちは本部棟から抜け出した。いつの間にかカークが私たちに追いついて一緒になって駆け出していた。
「おやじさん、一体どこへ逃げるんですか!」
「とりあえずは身を隠せるところに行こう。格納庫と格納庫の間がいいかもしれない。急ごう!」
私たちはおやじさんの後に続いて騒がしくなってきた基地内を走り続ける。

私たちは基地の外れにある格納庫群の合間に潜り込んでいた。本部棟の辺りはまばゆい照明が点灯し、その光の中をフル武装の兵士たちの姿が駆け出している。この調子だと、スパイの一味ということで私も危ない身の上になってしまったかもしれない。
「グリム、恐らく駄目だと思うが、君らの機体の格納庫を見てきてくれ。いいかい、慎重に行くんだよ」
「分かりました。行ってきます!」
グリムが辺りを伺いながら滑り出す。どちらかというと小柄な彼はこういうとき目立たなくて良い。私はため息をついて座り込んだ。おやじさんが苦笑を浮かべる。
「すまないね、君も巻き込んでしまったようだ」
「いや、いいんです。どうやらとびっきりの特ダネにありつけたようですから」
笑おうとして、近づいて来る足音に気が付いて息を潜める。足音は2つ。辺りを伺いながら走る足音が次第に近づいて来る。おやじさんが壁からわずかに顔を出して様子を伺う。と、彼は何と手を出して手招きを始めた。
「ブレイズたちだ。さすが、無事だったみたいだよ」
ほとんど足音もたてずに銃を構えて滑り込んできたのはブレイズだった。突きつけられた銃口を見て思わず息が止まってしまう。
「おいおい、お願いだから撃たないでくれよ」
おやじさんの声を聞いて彼は安心したらしい。苦笑いを浮かべながら銃を下げた。後ろにいるカークは賢明にも声一つあげず座り込んでいる。ブレイズとナガセは素早く入り込んだ。二人ともここまで走り続けたのだろう。壁に背中をつけて、荒い息を吐いている。
「どうしておやじさんやジュネットまでここにいるの?グリムだけならともかく……」
「ああ、司令官殿はどうやら骨の髄までハミルトンに言いくるめられてしまったらしい。おやじさんのことをスパイと呼んで、私たちを捕らえようとしたんだよ。ああ、危なかった。」
「君たちの様子を見ると、そっちも散々だったようだね?」
「あいつ、少佐の階級なんてつけていやがった。ぶっとばしてやったわ」
ブレイズが息を整え、おやじさんに向かって言った。
「ええ。ハミルトンこそが、ベルカの送り込んだスパイだったんです。自分たちの出撃情報は、常に彼から漏洩していた。ユークにも、ベルカにも。いえ、それだけじゃない。この戦争自体が、彼らの手で仕組まれたものだったことに気が付いたんです。」
おやじさんは感心したように何度も頷いていた。
「君たちも真実を知ってしまったんだね。我々も同様さ。今、オーシアにはハーリング大統領がいない。そう、君たちがノースポイントに向かう大統領を助け出したあの日、まさに8492の手によって大統領は捕われてしまったんだよ。この戦争は、彼の意志じゃない。」
サーチライトの光がハンガーに当たり始め、私たちは息を殺して黙り込んだ。ナガセが外を警戒して銃を身構える。光はゆっくりと移動し、一瞬この通路の中にまで差し込んだが、そのまま過ぎ去っていった。だが、このままここで隠れていても見つかるのは時間の問題だった。
足音が聞こえ、ブレイズとナガセはその方向に銃を身構えた。息を切らせて姿を現したのはグリム。
「駄目です!僕らの機体は完全に押さえられています!」
司令官殿はこういうことには意外に才能があったらしい。そう、獲物を追い詰める狩人としての才能だけは。私たちを追い詰めて、確実に仕留めるつもりだ。おやじさんがしばらく考え込むようにしていた。そして彼は、グリムが現れたのと反対方向にあるハンガーに視線を移した。
「となると、今安全なのは裏のC格納庫。あそこにはまだ敵の手が届いていないな」
「はい。でも、あそこにあるのは……」
おやじさんがにやりと笑う。
「物持ちのいいことは良いことだね。そう、練習機さ。このままここで座して死を待つのも芸が無い。ひとつやってみようじゃないか。」
C格納庫に収められているのは、ホーク練習機。武装は一切持たないが、性能だけ取れば立派な戦闘機だ。燃料さえ入っていればここからの脱出にこれ以上の選択肢は無い。サーチライトの光と兵士の足音に警戒しながら、俺たちは一気に格納庫まで走った。格納庫までの距離はわずか200メートル程度だったはずだが、その距離と時間さえもどかしいほどだった。

まだ敵の手が及んでいない格納庫に走り込み、私たちは素早く練習機に乗り込んだ。私はおやじさんの後席に座り、練習生用のヘルメットを被った。ブレイズたちも素早く出撃の準備を整えていく。
「我々は運が良いよ。これだけ燃料があれば十分だ。久しぶりの戦闘機のコクピットというのも悪くないもんだね」
「おやじさん、あなた本当に一体……?」
「ま、その話は後でゆっくりしようか。今はとにかくここから出ることが先決だ。」
おやじさんはキャノピーを閉めると、胸元から懐中電灯を取り出して点滅させた。出発の合図だ。エンジンが回転を始め、甲高いエキゾーストが響き渡る。これで基地の連中も気が付いただろう。オートで開くようにしたシャッターが開き切ると4機の練習機は滑走路に滑り出た。まるでスクランブル発進のように加速しながら滑走路に入り、そして一気に離陸態勢に入る。地面を離れるといきなり急上昇。意識が遠のいていくような感覚。身体がシートに張り付けられる。機体がぐるりと回り、安定飛行に入った後も私の視界は回っているようだった。
「オーシア領内の各部隊、サンド島から敵性スパイが脱走した!機数は4機だ!全機急行しこれを撃墜しろ!!」
「ハミルトンだ……隊長、奴は意外とタフみたいですよ」
「ああ、こうなるなら腕と足をへし折っておけば良かった」
「隊長、意外と過激ですね。」
ブレイズに全く同感だった。しかし、これで私の仮定はほぼ当たったことになる。この戦争で暗躍しているのは、ユーク・オーシア双方の強硬派ではなく、強硬派が動きやすい環境を作り出したベルカ人たち。全てのベルカ人たちが今の状況を望んでいるわけではないだろう。ごく一部のより急進的なグループが、15年前の戦争後も潜伏しこの機会を伺っていたのだ。恐らくは元々が南ベルカの軍事工場だったノース・オーシア・グランダー・インダストリーも敵の一味と見るべきだ。そしてオーシア空軍に秘密裏に編入されたベルカ人アグレッサー航空隊、8492。ハミルトンのような、急進的な思想に染まった人々。細胞一つ一つが蠢き始めたことで、ついに壮大な謀略が動き始めたのだ。そして今のところ、彼らの目論見は成功している。オーシアとユークは互いに傷付けあい、多くの命を奪い合い、憎しみ合っている。
「さて、と。諸君。とりあえず追っ手がかかる前にサンド島を離れるとしよう。とりあえず身を隠すアテがないわけでもない。ついてきたまえ!」
再び胃が裏返るような衝撃。おやじさんを先頭に、4機の脱走機はセレス海を駆ける。間もなく母国の軍隊が差し向けた追っ手に我々は追い回されることになるのだろう。残念なことに、私は今度こそカメラを全く持っていなかった。持っていれば、最高の特ダネを写すことが出来たはずなのに。

この後、私はバートレット大尉の後席で味わった以上の機動を味わうことになった。ほとんど意識が飛びGに振り回される中で、崖が、地面が通り過ぎていくのは恐怖以外の何者でもなかった。だが、そのおかげというべきか、我々は新天地を得た。――空母ケストレル。老練な指揮で歴戦の空母を今日まで生き長らえさせた、アンダーセン艦長に率いられたこの艦隊が、母国に戻ることすら出来なくなった私たちの新しい家だった。

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