序章:遭遇
胃が裏返るとはこういうことを言うのだろうか?
今まで体験したことの無い衝撃とGが容赦なく体と脳を揺さぶり、胃液が逆流する。嘔吐の衝動をかろうじてこらえながら愛用のカメラを構えようとしたが、指先にそんな力は既に無かった。仕方無いので肩に構えて何とか固定するが、一歩間違えると衝撃で手から吹き飛んだカメラで自分か、或いは前席で自分たちの乗るF−4ファントムを操る男……オーシア連邦空軍第108戦術戦闘航空団、通称「ウォー・ドック」の隊長を務めるバートレット大尉を直撃していらぬ怪我を招いてしまったかもしれない。
つい数分前まで平和そのものだった青空は、今や血で血を洗う戦場と化していた。新米パイロットたちの訓練が行われるはずだった空域は、砲弾とミサイルの飛び交う、一瞬のミスが命を奪う凄惨な戦場となり、そしてバートレット大尉の率いていた新米パイロット達に容赦なく襲い掛かっていた。その瞬間のバートレット大尉の咆哮を、私は恐らく一生忘れることが出来ないような気がする。隊長機から先行していた一機は、正面からのバルカン砲の攻撃であっという間に蜂の巣になり、爆発四散した。空に散った新米パイロットの無惨な断末魔。それが合図になったかのように、遭遇した未確認部隊は一斉に我々に攻撃を開始したのだ。通信司令部の伝えた高度は、よりにもよって敵部隊の正面になっていたのだ。平和ボケの弊害と言うべきものだろうか?
「隊長ォォォォォォォっ!!」
「003、脱出しろ!早く!!」
再び聞こえてきたのは、配属されたばかりのルーキーパイロット、003番機に乗った男の悲鳴だった。かろうじて首を回して見下ろすと、バルカン砲の連打を後ろから浴びて火だるまになりつつある003番機と、まさにバルカン砲という死神の鎌を振り下ろしている敵機の姿が目に入った。そしてほどなく、燃料に引火したのか、003番機は真中からへし折れて爆発した。それと同時に通信が途絶する無情な音がヘルメットの中に響く。
突然、コクピット内に耳が痛くなるほどの警告音が鳴り響く。目の前の火器管制装置のウォーニングランプが点灯している。後ろを振り返ると、自分たちをしっかりと追尾している敵機の姿が見えた。
「バートレット大尉、後ろ!後ろに付かれていますよ!!」
「んなこたぁわかってる!おい、ジュネット、かなり荒っぽく飛ぶから腹の中のものをぶちまけないようにしてくれよ!!」
警告音が変わった。それと同時に背後に張り付いた戦闘機の両翼から煙が吹き出る。ミサイルを発射されたのだ。その刹那、機体がものすごい勢いで降下を始めた。ひねりを加えながらの急降下は今度は急上昇に変わり、旋回に変わる。ジェットコースターとは比べものにならないような激しいGに視界がぼやける。一体どれほどの間それが続いたのか、目を開けるとミサイルの排気煙が明後日の方向に伸びていくのに気が付いた。
「へっ、結構頑丈らしいな。あれだけやってぶちまけないなら、戦闘機パイロットとしても結構やれるんじゃないのか?」
こんな状況でも軽口が出てくるのがこの男らしい。既に自分の周りには敵機しかいない状態だというのに、バートレットは諦めるということを全く考えていないようだった。
「隊長、右翼につきます!既にポイント008−60までスクランブル発進した友軍が接近しているようです。方位160に突破しましょう」
凛とした女性の声。007番機に乗った日系の……確かナガセといった、女性パイロットの声だった。この状況下で、隊長機よりも性能の劣る機体で生き残っていたのか!
「正面から3機!」
「そのまま突っ込みます」
「おい、ナガセ!何考えてる!」
007番機は自分たちに先行すると、トライアングル編隊で突っ込んでくる敵機の真っ只中へ踊りこんだ。虚を突かれた敵機は狼狽し、散開する。一旦上昇した007番機は、鮮やかなループを決めると再び隊長機の右翼にポジションを取る。
「なかなか凄い腕前じゃないですか、あの007番機」
「馬鹿野郎、あれは怖いもの知らずの蛮勇って言うんだ。おい、ナガセ、聞こえているんだろう。まずはこの場から脱出してからだ。言いたいことは後でまとめてたっぷり言ってやる。いいな!?」
「007、了解」
バートレット大尉はアフターバーナーを点火した。強烈な加速で、身体がシートに張り付けられる。
「前方から2機、回り込んできます」
「構わねぇから、突っ込め!」
レーダー上の光点がみるみる迫ってくる。相対速度マッハ2近くで接近しているのだから当たり前だったが、戦闘気乗りでもないジュネットにとっては未知の体験であった。敵の放ったバルカン砲の曳光弾が両機のスレスレを通り抜けていき、そして一瞬点に見えた敵機がヘルメット越しでも耳をつんざくような轟音と衝撃を残して通り過ぎていく。
「マックスパワー!」
「エッジ了解、マックスパワー!」
機体速度がみるみる上がっていき、エンジンの振動が身体に響く。だが敵の追撃は執拗で4機が離れなかった。カメラを構えズームアップすると、銀色の機体が見えてきた。国籍不明機を捉えたショットを何枚か撮るが、これが生きるのは「生き残れた」場合のみだ。死んでしまったら元も子もない。
「ウォードック隊、こちら第806航空団です。間もなく到着します。何とかそのままの方位で切り抜けてください。」
友軍からの通信だった。レーダーに目をやると、自分たちの前方から光点が接近している。敵のレーダーにもそれが見えたのだろうか、あれほどまで猛追していた敵機が旋回し、自分たちとは反対方向へ進路を取り始めていた。
「どうやら、生き残ったらしい……ナガセ以外は……おい、そっちは大丈夫か?」
新米たちを餌食にしようとした一隊を撹乱していた、教官機のF-5Eが煙を吐きながら低空を飛んでいる。数箇所に被弾しながらも、何とか飛び続けていた。
「飛行には問題ないが……くそっ、一体どこの連中なんだ!!」
ジュネットの乗る、バートレット機、唯一生き残った新米の一人エッジ機、そして教官が一人。残りのメンバーの姿は、どこにも見えない。ウォードック隊で鍛えられ、やがてはエースパイロットとして育ったであろう新米パイロットたち、それも各航空団の中で選抜されて配属された新人たちは、007番機と今日たまたま訓練から外れ待機中であった一部の人間を除いて、永遠にその機会を失ってしまったのだ。自分のカメラには飛び立つ前に全員で撮った写真が入っている。最初で最後の集合写真になってしまったというわけだ。
やがて、スクランブル発進した友軍機が自分たちに合流した。友軍機の護衛を受けて基地に帰り着くまで、バートレット大尉は終始無言だった。この部隊に取材で訪れて以来初めて見る、彼の厳しい顔であった。
エンジンを停止し、キャノピーが跳ね上がったF−4のタラップを降り、久しぶりに足の裏と大地が接吻する。結局、飛行中の写真はほとんど撮れず、その代わりに現実の出来事とは思えないような体験をしてしまった。こうして立っているとあれは夢だったのではないか、という気分になってくるが、基地に降り立ったウォードック隊機はわずか2機。もう一人の教官のF-5Eは被弾の影響かギアダウンすることが出来ず、基地の一角に叩きつけられて爆発してしまった。残骸が、無惨に黒焦げの姿をさらしている。それ以外の機体は、教官機も含めて全滅。8名のパイロットが帰らぬ人となっていた。
007番機にカメラを向けると、ちょうどナガセが機体から降り立ったところだった。初めて体験した実戦と仲間の死を目の当たりにしたせいだろうか、彼女の顔色は青ざめているように、ファインダーごしには見えた。カメラが向いていることに気が付いたのか、彼女はその青ざめた顔色にややぎこちない微笑を浮かべてくれた。シャッターを切ると、再び彼女は物憂げな表情に戻っていた。
「今日は悪かった」
肩に手を置かれて振り替えるや否や、バートレット大尉はそう言った。彼の表情からはその心情を汲み取ることは難しかった。
「今日のことは隊長には責任はなかったはずです。ましてや、私に謝られましても……」
彼はわずかに笑みを浮かべ、こちらに歩いてきたナガセを見るや宣言どおり彼女を怒鳴りつけた。
「おい、何て飛び方をしやがるんだお前は。あれじゃ命がいくつあっても足らねぇぞ!」
「申し訳ありません」
大きくため息をつくと、彼は基地の建物に向かって歩き出した。ナガセもそれに続く。ようやく今頃になって記者としての仕事を思い出して彼らの後を追おうとしたが、いつの間にか自分は基地の警備兵に囲まれていた。
「司令官の命令です。申し訳ありませんが、そのカメラの中のフィルムと、今持っているフィルム全てを渡してください。」
「何てことを言うんですか。これは今起こった事件の貴重な証拠ですよ。オーシア連邦に対して行われた武力行使を捉えたものじゃないですか。国連に提出すれば相手国の非も問える代物です。」
「繰り返しますが、司令官からの命令なのです。従っていただけない場合は、取材許可を取り消して直ちにこの基地から退去していただくことになります」
どういうことだ!?自分たちが襲撃されたという明らかな証拠があるのに、何故自らその証拠をもみ消そうとするのだろうか?
「おい、何をもめているんだ?」
フィルム提出を拒みつづけたため、とうとう警備兵に脇を抱えられてしまったところで、大柄な中年男がこちらに気がついて歩み寄ってきた。部隊では「おやじさん」と呼ばれている、ベーグル整備兵だった。
「どうした?何を手荒な真似をしているんだ。手を放してやったらどうだ」
階級的にはベーグル、いやおやじさんが上なのだろうか、警備兵達は自分から手を放し敬礼している。この基地の司令官オルソンは見栄っ張りで人間が悪くて、おまけに飛行機に乗れない、何のためにいるのか分からない男だ、とはバートレット大尉の台詞だが、彼の息のかかった兵士や士官はまるで犬が飼い主に似るのと同様に、豹変ぶりが際立っていて非常に不快であった。
「司令官より、彼の持つフィルムを回収するよう命令を受けたのですが抵抗されたため、止む無くご同行頂こうとしていたところであります」
「止む無く同行、か。なるほど物は言いようだな。先ほどから見ていたが、ジュネットが貴官らに抵抗をしていたようには見えなかったが。むしろ取材許可の出ている民間人に対し、一方的な暴力を以って連行しようとしている、そのように見えたのだがね。ジュネットから、その事実を記事にされたら、困るのは貴官らではないのかな?」
おやじさんの目は笑っていなかった。
「ジュネット、君はこの基地で取材を続けたいのだろう?言いたいことがあるのも分かるし、司令官殿が何を考えているの私も分からない。が、この場は折れてくれないか?そうでもないと、こいつらがまたうるさくなる」
取材を続けることと、この特ダネにこだわること。自分にとってはどっちが記者としての使命を果たすことになるのだろうか?十分に考える時間はなかったが、ただ一つ、間違いのないことは、この基地、そして第108戦術戦闘航空団はこれから始まろうとしている「何か」に密接に関っていくであろうということだ。ここで取材を続けていれば、そこから色々と得られるものがあるに違いない。ならばそれに賭けてみるのも悪くないか。
「分かったよ、おやじさん。僕にとっては、ここで取材を続けること、真実を見ること、それが何よりも大事なことだ。」
カメラと、そしてカメラバックからフィルムを取り出して警備兵に渡すと、彼らは無言でフィルムを受け取って、一度睨みをきかせると司令部のあるビルへと引き上げていった。空き缶でも落ちていれば、その背中に向かって投げつけてやるところだった。それとも中指を突き立てるか?おやじさんは、まだ釈然としていない私の肩を苦笑を浮かべながら軽く叩きながら言った。
「これからウォードック隊のブリーフィングがあるようだ。君も今回の事態の目撃者の一人であるし、バートレット隊長はああいう性格だから気にはしないだろう。特ダネの第2弾になるかもしれんぞ?」
今度は私が苦笑する番だった。