大戦勃発とニカノール首相誘拐事件
2010年9月27日。宣戦布告と同時に行われたオーシア領内への電撃的な奇襲攻撃は、ユークトバニア政府承認のもとに行われたことになっている。だが真相は、政府の長たるニカノール首相はこの時点で既に首都シーニグラードに無いまま「決定事項」として議会と軍部の「主戦派」が結託して、オーシアへの宣戦布告を行ったというのが実態であった。では、ニカノール首相は何故不在だったのか?既にこのとき、ニカノール首相は主戦派たちの手で拉致監禁されるという憂き目に遭っていたのだ。首相の姿は9月24日に首相官邸に入るところまでは確認されているが、その日から12月30日にオーシアで行われた「終戦宣言」までの3ヶ月間に渡り、公の場に現れたことがない。しかしながらその期間、首相無き政府の全権を代行した主戦派たちは巧妙に彼の不在を隠し通した。一部メディアまでも抱き込み、過去の演説映像を使用するだけでなく、戦地の兵士の士気向上のため背格好の似た人間をヘリに乗せ上空から視察させたり、といった具合にだ。そして肝心の首相自身は、ユークトバニア国内の僻地において監禁されていたのである。
首相の姿が最後に確認されている9月24日の翌日未明、首相官邸の周囲には「不穏分子の襲撃から首相を護衛するため」陸軍の車輌が多数配備されていた。この9月24日は、ランダース岬方面の空域において、オーシア空軍第108戦術戦闘航空団が国籍不明機との遭遇戦を繰り広げた後であり、この衝突を巡ってオーシア、ユークトバニア両政府がホットラインで事の真相に関して激しい議論をぶつけ合った一日である。ハーリング大統領とのホットラインでの対話を終えた首相は21:30に官邸に到着している。ランダース岬遭遇戦の対応を議論するため、23:00頃に幾人かの大臣たちと電話をした後、翌1:00頃までには就寝していた。犯行が行われたのはそれからのことである。首相官邸に配備されていた陸軍部隊は「主戦派」に与する将軍の指揮下部隊であり、首相官邸の警備という大義名分に隠れて実は官邸を襲撃したのである。まさか友軍に襲われるとは考えていなかったため、官邸には最低限の警護の者しかおらず、従って最低限の流血で事は済んだ。襲撃後すぐに薬物を投与された首相は陸軍の車輌の一台に押し込められ、翌朝「警備時間終了」として交代部隊と入れ替わって堂々と連れ去られたのである。官邸から拉致されたニカノール首相がどのような経路を辿って監禁場所へと運ばれたのか、という点については確たる証拠が一切残されていないので不明であるが、首都近郊の基地から空路を使っていたことは間違いないだろう。
ここで問題になるのは9月24日の遭遇戦である。オーシア側の資料では、さらにその前日、ランダース岬上空において訓練飛行に向かっていたオーシア空軍第108戦術戦闘航空団が国籍不明機と遭遇、教官機2機と訓練機1機がかろうじて帰還(教官機のうち1機は着陸に失敗、乗員は死亡している)するに留まり、8人のパイロットがこの戦闘で戦死したことになっている。そして9月24日、オーシア上空を領空侵犯していたユークトバニア軍のSR-71に対しオーシア軍は数度に渡る警告の後SAMを発射、命中するも尚も逃走を続けるSR-71を強制着陸すべく、再びランダース岬へ向かった第108戦術戦闘航空団はSR-71の支援のためオーシア領内を侵犯したユークトバニア空軍機と交戦、ジャック・バートレット大尉率いる4機は12機のユークトバニア軍機を撃墜したのである。ところが、一方のユークトバニア軍の記録は些か異なる。9月24日、オーシア領内にSR-71が偵察任務を帯びて出撃したのは事実であるが、オーシア軍からの警告は無くいきなり先制攻撃を受けたとパイロットは報告している。本土へ帰還すべくコースを取った同機をオーシア軍機が追撃しているため、スクランブル発進したユークトバニア空軍機は全てオーシア軍機に撃墜される羽目となった。だが、その前日の戦闘に関する出撃記録が存在しないのだ。故に、ユークトバニアの認識は、オーシア空軍機による一方的な攻撃によって甚大な被害を受けた、ということになるのだが、これはオーシアも同様であった。よって、9月24日の両政府の応酬は、まさにどちらが先制攻撃を行ったのか、という点からぶつかり合うこととなった。結論が出るはずも無い。双方が、互いに「被害者」として互いの非を責め合うのだから。
では9月24日に先立って発生した遭遇戦はオーシアのでっち上げだったのだろうか?だがこれは明確な物証が存在する。当時サンド島を取材に訪れていたフリーのジャーナリスト、アルベール・ジュネット氏は偶然この遭遇戦においてバートレット大尉機の後席に搭乗していた。彼が撮影したデジタルビデオの映像には、はっきりとユークトバニア軍のカラーで塗装された戦闘機の姿が映っている。そして、撃墜されていく新米パイロットたちの機体も。機体を特定できるような映像は数少ないのだが、中のいくつかの映像から、Mig-29ファルクラムと思しき機影を確認することが出来る。しかしながら、サンド島に最も近いところにあるユークトバニア空軍のムルスカ航空基地にはこの時点ではMig-29は4機しか配備されておらず、しかも出撃していないことが明らかになっている。一体この戦闘機たちはどこから来たのか?どこの部隊だったのか?残念ながらユークトバニア軍の公式記録からは情報は得られなかった。だが2009年発行のジェーン年鑑によれば、ユークトバニア空軍でMig-29を数多く運用していたのは首都シーニグラード近郊の首都防衛隊に含まれる航空部隊であり、ムルスカのような地方基地ではMig-21bisが主力となっていたとされる。とすれば、首都からわざわざ移動した部隊がいたというのだろうか?一体何のために?
私たちの疑問に応えてくれる資料は、意外なところから見つかっている。12月30日の「終戦宣言」に呼応してシーニグラードで発生した市民の一斉蜂起の直後、首相官邸から逃げ出そうとした政府高官たちの持っていたアタッシュケースから、厳重にガードがかけられた一枚の光学ディスクが発見された。このディスクの中には実に数千ページに及ぶ機密文書が収められていたのであるが、2020年の全資料公開によって明らかにされたこの文書は、ユークトバニアが宣戦布告に至るまでの緻密な作戦計画や開戦後の様々な軍事計画、さらにはオーシア軍の配備情報等や政府高官たちの個人データ等々、実に様々なデータベースとなっていたのである。さらにこの文書の公開によって明らかになったのは、融和政策を一層進めようとしていたニカノール首相らを嘲笑うかのように、ユークトバニアを戦争へと進める計画が水面下で進行していたということだった。
9月27日の宣戦布告同時攻撃は、9月24日に発生したオーシア空軍による宣戦布告無き戦闘行為に対する報復として行われたことになっているが、それにしてもあれほど大規模な奇襲攻撃が3日程度の準備期間で成し遂げられるものだろうか?答はNoだ。あれほど大規模な軍事作戦を展開するからには、相応の準備期間が必要となるのは言うまでも無い。そしてユークトバニア軍は実際には2009年辺りから軍事作戦の綿密なシミュレーションと企画を行い、2010年の7月から大幅な配備転換を行っている。さらに新しい国営軍事企業であったブロテック社から新型兵器の購入を進めているが、このブロテック社は実はオーシアのノース・オーシア・グランダー・インダストリー(以下NOGI社)のダミー会社だった。NOGI社がユークトバニア政府内にまで協力者を作っていたことがこれで明らかになる。ブロテック社の製品はそれまでの国営企業製の装備と比較して性能もさることながら低コストであったため、ユークトバニア軍での採用が急速に拡大していった。またNOGI社側も敢えて積極的に新開発の兵器をユークトバニア側に回し、オーシア軍への配備は後回しとした。こうして充分な準備を進めたうえでの総仕上げが、戦端を開く際、最大の障害となるニカノール首相らの排除だったのだ。
言うまでも無く、戦争へのシナリオを書いたのはユークトバニアの主戦派たちではない。オーシア同様に、融和主義に反発した政治家・軍人をベルカ残党勢力が巧妙に操った結果である。ベルカが密接にニカノール首相の排除に関った証拠として、2010年当時、監禁されていた首相を救い出したレジスタンスたちの証言によれば、彼らが襲撃した建物の警護をしていた兵士たちは、いずれもベルカ語を話していただけでなく、ベルカ残党勢力軍の司令本部とも言えたNOGI社への秘密通信機器を建物の中で発見したという。その後脱出を図った首相らの前に立ちはだかったのはユークトバニア軍であったが、彼らは敵性スパイの逃亡を阻止せよ、というユークトバニア軍司令部からの命令に従って展開しただけであり、「敵性スパイ」の中にまさか自分たちの国家元首が含まれているとは知らなかったようだ。さらには輸送機での脱出を試みたレジスタンスたちを撃墜すべく出撃してきたのが、旧ベルカエースパイロット部隊の一つである「グラーバク戦闘隊」だった(彼らはラーズグリーズの英雄たちの手で全機撃墜されている)ことからも、ニカノール首相の拉致監禁にベルカが深く関っていたことが窺い知れるというものである。その首相が彼らの手から零れ落ちたことは、ベルカ残党勢力にとっても大きな痛手であったことだろう。ニカノール首相の身柄は彼を亡き者にせんとする勢力の手を逃れ、「主戦派」と「ベルカ残党勢力」の最も恐れるハーリング大統領たちの元に運ばれたのであるから。
辛くも虎口を脱出し、公の場にニカノール首相が姿を現したのは、2010年12月30日、「終戦宣言」の場においてだった。彼の不在の3ヶ月間の間に、ユークトバニアは罠にはまったとも知らずに破滅への道を突き進みつづけてしまったのである。事の良し悪しは別として、戦端を開くための格好の条件を揃え、最後の箍を外した後も国家を破滅へと追いやっていった謀略は見事と言って良いだろう。そして同時に、中身の無い空虚な衝動・欲望にどれだけ人間は忠実になれるか、ということを軍事政権化したユークトバニア政府の高官たちは示してしまった。ニカノール首相誘拐が未然に防がれていたとしたら、ベルカ事変はもっと違ったものになっていたのかもしれない。