幻のノースポイント会談
9月24日に発生したランダース岬空域での戦闘に対し、オーシア政府は生還したパイロットたちの証言に基づいてユークトバニア政府に事態の解明を申し入れた。ところが、ニカノール首相の下には自国の部隊がオーシア空軍に対する攻撃を行ったという一切のデータがなく(届けられていなかったと言うべきか)、議論は平行線となった。ハーリング大統領とニカノール首相、両首脳によるホットラインでの情報交換も行われ、その日は改めて事態の解明を進めて再度会談を行うことを互いに約束し、首脳会談は終わっている。だが、空軍の戦闘記録、レーダーの記録などのデータをかき集めて徹夜で検討を行い続けたハーリング大統領と側近達の呼びかけに、ユークトバニア政府は応えなかったのである。そして9月27日。オーシア領空内の偵察任務を命ぜられたユークトバニア空軍所属のSR-71に対し、オーシア軍はSAMを発射。尚も脱出すべく飛行を続けるSR-71を追撃した第108戦術戦闘航空団機と、SR-71の救援に向かったムルスカ基地所属のユークトバニア空軍機が交戦。これが、ユークトバニアの宣戦同時攻撃への言質を与えるきっかけとなった。
ユークトバニア軍襲来の報に対するオーシア政府の反応は鈍かった。というよりも、政府が手を打つ暇も無く襲撃が行われた。セントヒューレット軍港においては、空母ケストレルを中心に脱出に成功した艦艇も少なくなかった反面、多数の主力戦闘艦が港から出ることも出来ず沈められ、軍港としての機能も打撃を受けることとなった。オーシア海軍所属の潜水艦隊も、洋上及び海中からの先制攻撃によって4隻の戦術潜水艦が為す術も無く沈められた。オーシア軍の犠牲者の数はこの日だけで1,000人を超えたのである。これを受けてハーリング大統領はスタンレー在オーシア大使を大統領官邸に呼ぶと同時に、ユークトバニア国内にいるオーシア国籍の人々の即時帰還命令を発している。大統領と大使の間で行われた議論に関しては公式の記録は一切残されていないが、官邸の執務室から憔悴しきった真っ青な顔色の大使が出てくるのを目撃した警備担当者もいることから、相当激しい応酬が行われたものと想定される。その証拠として、9月29日から第三国であるユージアにおいて双方の次官級会談が開催され、事態収拾に向けて両国から政府関係者が派遣されていることからも、大使が次官級停船交渉開催を確約させられたことは想像に難くない。
だが、停戦交渉が行われる暇もなく、9月30日、部隊の再編成のためイーグリン海峡を航行中のオーシア海軍空母に対し、再びユークトバニア軍は攻撃を開始。戦闘機による攻撃はケストレル所属航空隊と警戒に当たっていた第108戦術戦闘航空団の奮闘で退けられたものの、ユークトバニア海軍の誇る戦略プラットフォーム潜水艦「シンファクシ」の数度に渡る弾道ミサイル攻撃によって空母ヴァルチャー・バザードは轟沈、護衛に当たっていた第3艦隊も大半の艦艇を失い、護衛機も多数が撃墜されることとなった。この報が届くや否やハーリング大統領はユークトバニア政府に対し激しい抗議を行うだけでなく、大統領官邸での記者会見において、オーシア国民に対してイーグリン海峡での戦闘に関して明らかにすると共に、安易な対決姿勢を取ることの無いように、と諌めている。オーシア議会においては、「主戦派」と呼ばれている議員らを中心にユークトバニアとの積極的対決姿勢を明らかにせずにいる大統領を「弱腰」として、罷免を求めるロビー活動が活発になっていた。そういった国内の不穏な動きを封じる目的もあったのだろうが、その後に大統領が明らかにした方針は、国民も、「主戦派」の人間も驚いたに違いない。大統領は、有事においては大統領が三軍の総司令官になる権利に基づき、アークバードの戦線投入を明らかにしたのである。
もともとアークバードは、オーシアとユークトバニアが冷戦状態にあった頃、SDI構想の軸とされていた「超兵器」を民需転換して設計された。地上からの攻撃が届かない衛星軌道上から、正確な照準と高出力のレーザー砲による攻撃を行うための戦略兵器として、80年代頃から研究が盛んに進められていたのである。その機体には、万一シャトルなどによる宇宙空間での戦闘に備え、機体背面にレーザー砲塔も装備される予定であった。これらの武装が実際にアークバードに施されることは建造当時には無かったが、腹面に搭載されるレーザー砲塔はユリシーズの残したスペースデブリの駆逐に活用された(2008年から2009年の期間のみ搭載。その後レーザーモジュールは外され、地上で保管されることとなった)。アークバード開発にはユークトバニアからも科学技術者たちが参加した共同プロジェクトであったが、かつてのユークトバニアにおいてこのオーシアの宇宙空間を活用する戦略兵器開発構想は脅威として受け止められていた。オーシアに対抗するため、ユークトバニアで進められたプロジェクトが、数百発のミサイルを用途別に搭載し射出可能な、深海の要塞、戦略ミサイルプラットフォーム潜水母艦の建造であった。この計画に基づき建造された潜水母艦の一つが、イーグリン海峡でオーシア海軍の艦艇を葬り去った「シンファクシ」である。長い年月を経て、冷戦時代の構想は実現し、ついに戦場で出会うこととなった。2010年10月4日、幾度に渡る戦いでユークトバニア軍を苦しめていた第108戦術戦闘航空団を葬るべく、数隻の強襲揚陸艦からなる占領部隊がサンド島への進撃を開始。これを迎撃するサンド島部隊と全面衝突する。この戦いに「シンファクシ」は加わっていたのだが、宇宙空間からのアークバードのレーザー攻撃により大打撃を受け、さらに第108戦術戦闘航空団の熾烈な波状攻撃によってついに沈められるのである。
シンファクシ撃沈は、オーシアへの積極的攻勢を狙うユークトバニア軍にとっては大打撃となった。そしてオーシアのハーリング大統領にとっては、停戦を実現するための好機となったのである。ノースポイントで尚も続けられていた次官級会談で、オーシア側はアークバードの優位性を武器にユークトバニア側の譲歩を引きずり出すことに成功していた。一つはハーリング大統領とニカノール首相(既にこの時点では拉致監禁されていたが)の首脳会談の開催、もう一つは首脳会談終了までの暫定的一次停戦協定の締結である。この停戦協定は秘密裏に結ばれたものであったが、少なくとも10月4日から22日までの間は有効であった。次官級会談の結果を受けて、オーシア政府は停戦交渉に向けての準備を進めると共に、10月23日、ノースポイントの旧ISAF本部会議場にて首脳会談を行うことでユークトバニア政府と合意した。このとき、ハーリング大統領はユークトバニアの一方的戦争責任を問い詰めず、両軍の戦闘停止と即時撤退を最優先とし、両国の共同で原因究明を行う方針を打ち出していたとされる。しかし一方では、少なくとも9月24日まではホットラインを通じて何度も議論を行い、融和政策を進める同士としての関係を結んでいたニカノール首相が全く姿を見せないことに対し不審に思っていたことは明らかで、首脳会談を確約することでその所在を明らかにしようとしていたことも事実ではなかろうか。このとき、ニカノール首相無きまま首脳会談が開催されていたとしたら、ベルカ事変はまた違う展開を見せていたことだろう。
だが、首脳会談が開催されることは無かった。ユークトバニア軍事政権政府は、ニカノール首相の不在をハーリング大統領に掴まれる事を最も恐れていたのだ。そこで彼らが企図したのは、ハーリング大統領の暗殺であった。ここで暗躍したのが、旧ベルカ残党勢力の協力者たる「灰色の男たち」である。ハーリング大統領による戦争終結は、両国の共倒れを願う彼らにとっては最大の障害であった。ここで、ユークトバニアと旧ベルカ残党勢力の利害が一致を見る。ユークトバニア軍事政権はスパイの一人を輸送機の搭乗員に潜り込ませているのだが、この手引きをしたのはオーシア側の協力者であった。そしてNOGI社は大統領の飛行スケジュールを軍部内の協力者から引き出し、これをユークトバニア側に意図的に漏らしたのだ。だが、旧ベルカ残党勢力の計画はそれだけに留まらなかった。万一大統領の暗殺が失敗に終わった場合、大統領を誘拐する手筈を整えたのである。かくして、2010年10月22日が訪れる。この日、エイカーソン・ヒル上空を哨戒中の第108戦術戦闘航空団は、極秘任務中の輸送機と遭遇し、レーダーに故障を抱えた同機の誘導を行った。この輸送機こそ、ノースポイントへハーリング大統領を送り届けるための特別便だったのだ。一方、NOGI社からの情報により同機の所在を掴んだユークトバニア軍は航空部隊を出撃させ、さらに輸送機に潜り込んだスパイに暗殺を実行させる命令を出した。機内での銃撃戦で、機長と副機長、通信士らが射殺され搭乗員は全滅。大統領自身も右腕を撃ち抜かれる重傷を負うが、もともとは海兵隊出身である大統領は自らの手でスパイを射殺。唯一無傷であったトニー秘書官が操縦桿を握ることとなったのである。第108戦術戦闘航空団の誘導により、初めてのフライトとなった秘書官は無事不時着を成し遂げ、ユークトバニアの目論見は失敗に終わったのである。
そしてここからが旧ベルカ残党勢力による謀略の真骨頂だった。不時着した大統領らを救出するため、オーシア領内から護衛部隊と迎えの輸送隊が出撃しているのだが、この部隊はオーシア軍ではなかった。輸送隊の記録は残されていないが、このとき出撃した護衛部隊は、8492部隊――旧ベルカ人エースパイロットからなるアグレッサー部隊であったのだ。そしてこの誘拐については、オーシア主戦派のトップの数人――アップルルース副大統領ら一部の人間のみ認識していた事項であったため、その後大半の人間が「終戦宣言」でハーリング大統領が姿を現すまで、拉致の事実を知らなかったのである。輸送ヘリの中で大統領とトニー書記官は薬物を打たれ、オーレッドに戻ることなくオーシアの北東部の山脈を越え、ノルト・ベルカの地へと連れ去られてしまった。あの山脈の向こう側には、ベルカ大戦の最終段階で、戦術核が穿ったクレーター湖がある。そこからやや北へ離れたところに位置する古城。かつて、ベルカの皇帝に連なる一族のものであったといわれるその城の一室が、解放されるまでのハーリング大統領の生活の場となった。後に大統領は、手記でこのように語っている。「そこには、何も無かった。人々の姿も、人々の営む生活の証も、そして人々の暮らす街も。全てが、白い雪に埋もれていった」、と。
ハーリング大統領暗殺未遂事件発生のニュースのみが、オーシア国内、そしてノースポイントで停戦に向けた交渉を進めていた事務次官たちのもとに届いた。彼らが激怒したのは言うまでも無い。だが、当惑したのはユークトバニア側の交渉団も同様であった。彼らには、暗殺計画の話が全く届けられていなかったからである。このことからも、ユークトバニア軍事政権が本気で停戦交渉に応じるつもりは端から無かったということが明らかになるわけだが、10月24日、オーシアの交渉団は一方的に会談を打ち切り帰国してしまう。ハーリング大統領からの帰国命令が出たこともその理由の一つであるが、この命令は実はアップルルース副大統領によるものであることが資料から判明している。かくして、より大規模な軍事衝突を回避するための最後の機会――ノースポイント和平首脳会談は幻と消えたのである。
そして、この時期を境に、オーシアは急速にユークトバニアとの全面対決姿勢を強めていく。重したるハーリング大統領を失ったが故に。