工科大学襲撃事件


2010年11月2日。オーシア軍のユークトバニア上陸作戦が敢行された翌日、その悲劇が発生した。大戦後も事件の取扱が制限され、充分な情報が把握できなかったこの悲劇は、昨年のベルカ事変資料全面解禁によってその全貌が明らかにされた。大学に通う学生を中心に数百人の死者を出したこの事件は、当時ユークトバニアでは「撤退する部隊を追撃していたオーシア空軍機による無差別攻撃」として報じられ、2日後、今度はオーシアで発生するアピート国際空港襲撃及びバーナ学園都市無差別テロ事件のきっかけとなった。無辜の市民を無差別に殺傷したオーシアに対する報復として発生した2つの事件であるが、当のオーシア側は工科大学攻撃の事実を全面否定している。オーシア国内でも、撤退部隊の追撃任務に当たっていた部隊の搭乗員達に対する取調べが行われているが、彼らも攻撃を否定しているだけでなく、高空に待機していた空中管制機の記録からも当該空域において工科大学を攻撃した部隊が存在しないことが明らかになった。それでは一体何者が無差別攻撃を行ったのか?一体何のために?

我々の問いに応える資料は、昨年解禁されたベルカ事変資料の中から発見された。ユークトバニアが「犯人」として報じた航空部隊は、オーシア空軍第108戦術戦闘飛行隊、通称「ウォー・ドッグ隊」であったが、彼らは攻撃に全く関与していなかった。当時の彼らの飛行記録は、彼らが高度5,000フィート以下に降下していないことを明らかにした。高度5,000フィートは言うまでもなくバルカン砲の射程範囲外であり、どんなに優れた技量を持つパイロットでも、地上に対する攻撃を的確に命中させることは難しいのである。首都で行われた取調べで搭乗員たちは明確に犯行を否定したが、それは事実であったわけだ。実行犯は、他にいたのである。その部隊は、オーシア空軍所属8492部隊。だが、この部隊そのものが存在したというオーシア空軍の記録が存在しない。だが、彼らは実在した。オーシア空軍側の戦闘記録の中に、ECM、電子妨害によってレーダーや通信が途絶している時間帯が存在するが、この時間帯こそ、工科大学に対する攻撃が行われたタイミングであった。一時的にレーダー機能に障害をきたした第108戦術戦闘飛行隊や空中管制機の隙を突いて、数機の戦闘機が低空から侵入、大学を攻撃したのである。

この時間は比較的早朝でもあったのだが、大学では年末に向けた試験が目前に迫っていたこと、また学園祭の時期も近づいていたことから、大学内で朝を迎えた学生がたまたま多い日であった。この日、研究室で夜明けを迎え、軽い食事を取っていたレオニード・ミハイロヴィチ氏は、本紙の取材に大してこう語ってくれた。
「遠くで雷の鳴るような音が聞こえたと思ったら、白い戦闘機が4機低空から突っ込んできた。そして研究棟や学生寮の建物目がけて発砲した。僕は逃げるしかなかった。みんながパニックになって逃げ惑うところを反転してきた戦闘機が何度も何度も反転して攻撃するんだ。音が消えたとき、僕の目の前は血の海だった」
また運動部での朝練のため、大学構内をジョキングしていたタチアナ・フランシスカは次のように語った。
「突然轟音と衝撃が後ろから襲ってきたの。慌てて振り向いたら、4機の戦闘機の後姿が見えた。逃げ惑うみんなを嘲笑うように、上空で反転した戦闘機が何度も何度も銃撃を行っていったわ。逃げ遅れた後輩たちが、自分の目の前から消えていくの。もうやめて、どうしてこんなことをするの、と叫んだけれども、彼らには聞こえるはずもなかったわ。あのときほどオーシアの人たちを憎んだことはなかった。もちろん、それは大きな誤解だったけれど、でも後輩たちは二度と戻らない」
彼らの証言にあるとおり、工科大学を襲撃した8492部隊は、低空から機関砲による機銃掃射を行った。まず最初に犠牲になったのは、数々のゼミの研究室が集められた研究棟であり、夜通しの実験を行っていた学生たちであった。その次の攻撃を受けたのは、研究棟から1km弱離れたところにある学生寮であり、ここが最も被害が大きかった場所でもある。4機の攻撃によって、最も手前にあった建物は半壊し、崩れ落ちた瓦礫などによって、200人の学生が命を失った。ここで反転した8492部隊は、建物から飛び出してきた人々に上空から攻撃を行った。戦闘機の機関砲の直撃を被った人間など、引き裂かれる紙切れのようなものだ。上空からの容赦ない攻撃によって、大学構内の広場と通りは血で彩られることとなった。事件直後、工科大学に入ったメディアが、惨状を目の当たりにして「血のカスケード」と言ったのは、まさに事実であった。8492部隊による無差別攻撃によって、大学内の3つの建物が崩壊し、多くの建物も機銃攻撃による損害を受けた。崩壊した学生寮の中で死亡した学生たちを含め、攻撃による死亡者は400人以上、行方不明者は150人、重軽傷者は300人を超えた。そして戦争終結から10年が経った今尚、50人の行方が分かっていない。これは、機銃掃射による遺体の損傷があまりに酷く、跡形も残らなかった犠牲者が存在することに起因する。

では工科大学は、オーシア軍が徹底した攻撃を行わなければならないほどの重要な目標だったのだろうか?答えはもちろんノーだ。さらに言うなれば、この襲撃事件はオーシア政府すら把握していないうちに実行に移されただけでなく、攻撃を行った者の存在すら明らかにされなかったのだ。それ故、事件後のユークトバニアの猛烈な批判を、オーシア政府は事実無根と一蹴し、2日後の事態を招くわけだが、実行犯たる8492部隊の狙いはまさにそこにあった。工科大学自体が攻撃目標であったわけではなく、ユークトバニアの人々にオーシアへの憎しみを駆り立て、さらにオーシアでもユークトバニアへの憎しみを駆り立て、双方を憎しみの連鎖に叩き落すことこそが、作戦目標だった。そう、8492部隊は、両国の共倒れを狙う旧ベルカ残党勢力の尖兵というべき存在であり、彼らの暗躍はこれだけに留まらない。彼らについてはまた改めて詳しく述べることとしたいが、ともかくも彼らの手による無差別攻撃の狙いはまさに的中し、11月上旬を境に両国の対決姿勢は一層強まっていくこととなる。特にオーシアはユークトバニアに対する積極的占領策を唱え、陸上部隊を中心に大兵力を展開していく。ハーリング大統領が拉致された状況下、アップルルース副大統領ら主戦派の政策決定が尖鋭化していくのは自明の理であったのだ。

しかし、一方のユークトバニアでは、オーシアに対する憎しみだけが強まったかというとそうではない。工科大学襲撃を境に、ユークトバニアではレジスタンス活動が急に強まっているのである。もともとは左派の学生や知識者を中心とした小規模な団体が、工科大学事件を中心に連携を強め、後に全国的な組織へと育っていくのである。これは、ニカノール首相無き政府が、オーシア同様に尖鋭化し、完全な軍事政権と化したことによって、市民と政府との間に深い亀裂が生じたことに起因する。特に、事件後に政権が打ち出したオーシア焦土化方針については、多くの市民やメディアが反発し、多くの投獄者を出した。こういった政権による弾圧が、市民たちの反発を招いたのである。政権側ももちろん反政府活動を封じるべく様々な手を打っているのだが、レジスタンス側の活動は巧妙であった。一説には軍の情報部ですらレジスタンスに協力していたとされ、事実レジスタンスには融和派の兵士たちが後日多く加わっている。際限なき戦争へと歩み続ける政府に対する反動が、ユークトバニアでは事件を境に強まっていたのだ。

だが、レジスタンスたちの活動がより本格的になるまでにはまだ少し時間を要する。この時点では、ユークトバニアの大半の人々がオーシアの行った残虐な行為に対し怒り、大規模報復を支持していた。そしてユークトバニア軍による大規模テロを被ったオーシアの人々もまた、ユークトバニアへの反攻を強く支持した。まさに両国は全面対決の姿勢を取ってしまったのである。それこそ、この戦争の「真の敵」の思う壺であったにもかかわらず、だ。2010年11月から12月にかけては、両国の戦闘が最も激しい期間となり、相当数の兵士や市民が砲火に倒れていった。互いの捕虜に対する非人道的な扱いもまかり通り、拷問や暴行、虐殺が「正義」の名のもとに行われた。私たちは、自分たちの国が起こしたこの非人道的な行為の数を恥としなければならないし、そんな行為を命じた者は断罪されなければならない。「真の敵」の目論見に操られていたとはいえ、暴力までが認められたわけではないはずだ。戦場でも守られるべき人権が容易く踏み躙られたという事実を、私たちは決して忘れてはならない。例え、その前提に無辜の市民の犠牲があったとしても、だ。憎しみは憎しみしか生み出さないのであるから。

工科大学の構内には、攻撃によって亡くなった人々の慰霊碑が建てられているが、この慰霊碑が建て直されることになった。攻撃が、オーシアによるものではなかった事が明らかとなり、ユークトバニア政府、オーシア政府、工科大学、そして亡くなった人々の遺族会が同意した結果である。多くの人々が倒れた構内の広場は、地面のタイルが全面的に張り替えられ真新しい装いとなっているが、当時の状況は、近くの大学博物館に再現されている。無数の人々の血で染まったタイルの前には、今日も無数の花束が捧げられている。もし、この博物館を訪れることがあったら、亡くなった人々のために黙祷を捧げて欲しい。彼らもまた、オーシア、ユークトバニアの両国の愚かな戦いの犠牲者なのだから。

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