ユークトバニア解放同盟


オーシアに先駆けて軍事政権が確立したユークトバニア。だが融和主義をこれまで推進してきたニカノール首相の政策方針と全く相反する覇権主義の再来に疑問を持った市民も少なくなく、やがて左派の学者や学生を中心としたレジスタンス活動が各地で散発的に始まった。もっとも、ニカノール首相とその側近達を退けることに成功した政権は、その権力を以ってレジスタンス活動を「オーシアに与する裏切り者」として徹底的に弾圧していった。このため、9月〜10月にかけての反政府活動は極めて限定的なものであり、ユークトバニア全土に拡大するようなものではなかった。それが激変するのは、10月下旬に入ってからである。首都シーニグラードに点在するいくつかの大学の学生たちが中心となり、反軍事政権学生委員会連盟を立ち上げたことをきっかけに、これまで孤立化していた地下組織が次第にネットワークを結んで勢力を拡大していったのである。11月に入ると、委員会の長についたシーニグラード市立大学の学生セルゲイ・ロヴィンスキー・トルストイが、ユークトバニア東部都市でレジスタンス活動する諸組織の長と会談し、全国規模で軍事政権化した現政権を打倒し、融和と平和を掲げる新政権を樹立するために、「ユークトバニア解放同盟」を発足するに至るのである。

この時点において解放同盟は、まだニカノール首相の不在を察知していなかった。さらに言うなれば、素人の寄せ集め集団に過ぎない彼らは、戦闘のプロたる軍人たちに対抗する術を持っていなかったはずである。だが、そんな彼らを鍛え上げ、やがては主戦派政権を転覆させるほどの組織へと育て上げた協力者たちがいた。「Mr.B」の愛称で呼ばれた男は自らの本名を名乗ることは無かったが、10月の中旬頃からトルストイたちに協力し、単独活動の無意味さと、諸組織の連携による拡大を学生たちに教えた。さらには銃火器の扱いを彼らに叩き込んだのも彼であった。さらに、レジスタンスのほぼ全ての人々がその姿を見たことの無い「少佐」の呼び名の協力者がいる。女性であったこと以外は一切が謎に包まれたままのこの人物は、軍や政府の中核にある人間しか知り得ないような情報から軍や警察によるガサ入れ情報に至るまで、様々な情報をレジスタンスにリークし、彼らの活動を支え続けた。「少佐」が提供した情報の中でも特筆すべきは、ニカノール首相の不在と監禁先に関する情報、そして国内に持ち込まれた核兵器の所在に関する情報であろう。ベルカ事変の後半、2010年12月におけるこの情報により、主戦派政権と旧ベルカ残党勢力の目論見は完全に狂ってしまったのであるから。

学生たちを厳しく鍛え上げ、全国規模でのレジスタンス組織の連携を成し遂げた「Mr.B」に関する情報は極めて少ない。が、彼の指導を受け共に様々な活動に従事したユーリ・ルイシュキン氏は彼のことをこう語ってくれた。
「もともと、Mr.Bは私たちの活動に最初から参加していたわけではなかった。でも、トルストイ委員長の紹介で会合に現れた彼は、私たちの幼稚な活動を一喝したんだよね。"初めから死ぬつもりの反政府活動なんか考えるくらいなら、今ここで死んじまえ"とね。とにかくおしゃべりで、基本的に喧嘩腰、ぶっきらぼうで最初は何て奴だと思ったんだけど、気が付いてみたらすっかり馴染んでいた。言葉とかは荒っぽかったけど、本当は私たちが無駄に命を落とすことの無いようにしてくれたんだ。もし再会することが出来るなら、改めてお礼を言いたい。私たちのために戦ってくれてありがとう、とね」
「Mr.B」に鍛えられた即席レジスタンス実戦部隊の暗躍は、11月中旬頃から本格化する。諸組織の連携によるネットワークの充実と構成要員数の増員を確保した解放同盟は、自衛のための武器確保とユークトバニア軍の軍事活動妨害を当面の目標に据えた。単なるテロリストの活動と一線を画すため、要人の暗殺や誘拐は厳禁としたところが面白い。11月に入ると、オーシア軍の全面攻勢が開始されたことにより、ユークトバニア軍は前線に大部隊を配置するだけでなく、後方からの大規模補給線の確保が重要となった。このとき、「国内における対抗組織は存在しない」と補給部隊の護衛を最低限にしたことが、結果的にレジスタンスに付け入る隙を与えることとなったのである。大規模に補給部隊を襲撃するのではなく、場所や時間帯、規模を様々に変えながら行われた補給部隊襲撃は、レジスタンスの武装を強化するだけでなく、前線に展開する部隊の物資弾薬を少しずつ確実に削り落としていった。ユークトバニア軍が気が付いたときには、相当量の物資弾薬がレジスタンスの手に渡ってしまっていた。さらには、無謀な作戦行動ばかりを繰り返す軍司令部と政府を見放し、レジスタンス側に寝返った部隊もあった。またレジスタンスと行動を共にはしなかったものの、物資を横流しして活動を支えた補給基地も出始めた。こうして、水面下において戦線拡大とオーシアの撃滅を唱え続ける政権と、現政権を打ち倒し、新政権を樹立して戦争を終結させようとする反政府勢力とに、ユークトバニア国内は次第に二分されていったのである。

だが、組織の拡大は当然のことながら政権側に察知される機会も増えることと同義であった。11月中旬に行われた一斉摘発により、シーニグラードを拠点としていたレジスタンスの数組織のアジトが特殊部隊の急襲を受け、その際の戦闘で25人が死亡し、50人近くのレジスタンスが検挙された。警察ではなく軍によって拉致された彼らに対し、軍部は自白剤の使用も含め、サンサルバシオン条約で禁止されている拷問すら実施した。この結果、解放同盟の本拠地等、重要な情報が政権側の知るところとなってしまうのであるが、軍事政権はこの後致命的な失態を犯す。自白剤の大量使用や行き過ぎた拷問によって入院を余儀なくされたメンバーを除き、特に組織の主要メンバーであった10人を「国家反逆罪」の名目で公開銃殺したのである。ユークトバニア国内の各メディアで報じられたこの処刑は、政権側にしてみれば、レジスタンスに対して協力すればこうなる、という見せしめのつもりであったのだろうが、ユークトバニア全土で軍事政権に対する不信と不満を爆発させる始末となった。結果として、潜伏するレジスタンスたちに協力する人々の数を増大させるだけでなく、前線で戦う兵士たちにも動揺が広がった。命令に背けば、自分たちも同じように処刑されてしまう、という恐怖は兵士たちの戦意を挫く結果となってしまうのである。

ユークトバニア国内におけるレジスタンス活動の活発化は、戦争を裏で操っていた旧ベルカ残党勢力にとっても計算外の出来事であった。というよりも、彼らはレジスタンスによる抵抗運動を経験したことがなかったのである。まさに内憂外患の文字通りとなった軍事政権と旧ベルカ残党勢力は、国内の「憎しみ」を再び駆り立て、レジスタンス活動を封じ込めるために、外敵を利用しようとした。オーシア国内のベルカ・ネットワークから、アップルルース副大統領による平和式典と言う名を借りた扇動演説の開催を掴んだ旧ベルカ残党勢力は、この情報を積極的に軍事政権へとリークした。式典の開始時刻、開催場所、開催場所に至る航路情報や航空写真等々……。アップルルース副大統領といえば、オーシア国内におけるユークトバニア制圧論の第一人者であったから、その演説の内容がユークトバニア制圧を正当化するものになることは自明の理であった。ユークトバニア軍事政権は、思う存分、彼にユークトバニアへの憎しみを語らせ、それを支持して狂喜乱舞する市民たちをも、「脅威」として抹殺する作戦を実行に移すのである。これが、2010年11月29日に発生したノーベンバー・スタジアム平和式典襲撃事件であった。この平和式典襲撃事件に関しては、また別の機会に触れることとするが、戦争を鼓舞する副大統領に対し、オーシアの人々は「Journey Home」の歌を以って答えた。それは、反戦と平和を切望する人々の叫びだったのである。

かくして、ユークトバニア軍事政権の目論見は完全に撃ち砕かれるだけでなく、平和を求める市民を攻撃しようとしていたことも明るみに出てしまい、急速に軍事政権の足場が崩壊していく。また、シーニグラードにニカノール首相なし、という噂が全土に広がり、その火消しに政権は追われることになった。ユークトバニア東方の都市の中には、政権からの完全独立を宣言し、独立を非難するならばニカノール首相を出せ、とする運動が広がっていく。いくつもの都市で市民がデモを起こし、企業だけでなく公務員によるストやサボタージュが拡大していった。10月に芽生えたレジスタンスの小さな芽は、ついにユークトバニア全土を覆い尽くす規模の運動へと成長したのである。

2010年12月29日。ユークトバニア国内を駆け巡り続け、今や解放同盟の長となったトルストイ委員長は、ユークトバニア全土での一斉デモ行進を呼びかけた。既にこの時点でニカノール首相がシーニグラードにいないということは周知の事実となり、軍事政権はその正当性を完全に失っていた。彼らは彼らの本拠地たるシーニグラードすら掌握出来なくなっていたのである。トルストイの呼びかけに応え、ユークトバニア全土で市民たちがそれぞれの都市で次々と集結した。シーニグラードだけで50万人の市民がデモ行進を開始しただけでなく、全土で数百万人の人々が平和を求め歩き出した。この行進には市民だけでなく国内警備に当たっていた数多くの軍人たちも同調し、レジスタンスたちの呼びかけに応え首都への進軍を開始した部隊もあった。2010年12月30日、デモ隊はユークトバニアの中央官庁の完全占拠に成功した。そしてオーシア時間の22時から開始された「終戦宣言」で、数ヶ月ぶりに公の場に姿を現したニカノール首相を、市民たちは歓喜の声で迎えた。テレビの中で固い握手を交わすハーリング大統領とニカノール首相の姿に、数ヶ月間に渡る苦しい戦いを生き抜いたレジスタンスたちは涙したのである。

あの戦いから10年。レジスタンスとなって戦場を駆け抜けた人々は銃を捨て、普段の暮らしへと戻っていった。ベルカ事変の混乱により人材が徹底的に不足した政府官庁を支えるため、ニカノール首相らの要請に応えて要職に就いた者もいる。正確な記録は残されていないが、レジスタンス活動に参加し、そして命を失った人々の数は300人〜500人とされる。後の調査で、軍によって虐殺され、森の中に埋められていた人々の亡骸が発見されるなどして、相当数の身元が確認されたのであるが、今尚所在の分からない人々もいる。彼らは、オーシア軍との戦闘で命を落としたのではなく、本当は彼らの命を守るはずの自国の軍隊によって殺害されていった。これを平和の代償と言うならば、なんと愚かしいことなのだろう。無数の名も無き人々が、少しずつ勇気を出し合って勝ち取ったこの平和。年齢も職業も、立場も違う者同士が手を取り合い、共通の目的のために進んだ、「ユークトバニア解放同盟」の存在を私たちは決して忘れてはならない。
なお、登場する人名については、GREIFさんから提案を頂きました。GREIFさん、ありがとうございました!

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