ケストレル
ベルカ事変における数々の激戦の最中にありながら奇跡的に生き延びることに成功し、後の旧ベルカ残党勢力との戦いで重要な役割を果たした艦がいる。その艦の名は「ケストレル」。オーシア海軍第三艦隊所属の空母である同艦は、ベルカ大戦から4年経った1999年3月27日に就役し、以後同艦隊の一角を担い続けてきた。艦長に就いていたのは、ニコラス・A・アンダーセン提督。豊富な実戦経験と老練な指揮で知られる提督は、ユークトバニアによる宣戦布告同時攻撃を受けたセントヒューレット軍港における戦いで、第三艦隊の残存部隊の脱出作戦を敢行し見事成功させた。ユークトバニア軍機の攻撃を受けて大混乱に陥った艦艇たちの中で、彼の指揮するケストレル隊は整然と行動し、友軍の脱出を支援していた。軍港脱出後も、ケストレル隊の針路を阻もうとしたユークトバニア艦隊に対し敢えて提督は針路変更せず突進し、ケストレルから飛び立った支援機及び第108戦術戦闘飛行隊の支援を受けてついに封鎖戦の突破に成功したのである。このとき、イージス艦「オー・ダイン」の通信士であったアラン・エルコンドル氏は次のように語った。
「もうあのときばかりは終わりだ、と死を覚悟したね。誰も彼も、戦争を間近に体験するのはあのときが初めてだった。聞こえてくるのは味方の悲鳴と泣き言ばかりだったからね。だから、沈着冷静そのものだったアンダーセン提督の声が聞こえてきたときには、皆藁にもすがる思いで付いて行ったものさ。階級的に各下の提督に従うのを良しとしなかった提督もいるみたいだけど、そっちに付いていったら今こうして話をすることも出来なかったろうさ」
辛くもセントヒューレットを脱出したケストレルだが、苦難はその後も続く。イーグリン海峡におけるユークトバニア軍からの弾道ミサイル攻撃によって僚艦の大半が沈められてしまうだけでなく、数多くの搭乗員が犠牲となったのである。このとき上空に上がっていてかつ生き延びた搭乗員は第206戦術戦闘飛行隊の3機のみ。実に20機近くの戦闘機が一瞬にして撃墜されたのであった。艦隊再編を急ぐオーシア海軍はケストレル航空隊の補充を行うことは無く、そのままの戦力で前線へと送り出した。ケストレルを守るのは、高い能力を持つ情報収集艦「アンドロメダ」と数隻のフリゲート艦だけであり、一個艦隊と戦うだけの戦闘能力は全く無かった。もちろん海軍司令部もこの状況を把握していなかったわけではなく、ケストレルに与えられたのはユークトバニア東岸の哨戒と戦闘機による上空支援、という任務であった。どちらかと言えば、前線から遠ざけられたと言っても良いだろう。ケストレルが展開を命じられたのは、ソロ島等が連なるセレス海の北西海域であったのだ。しかも開戦からのこの時期、ユークトバニア軍機によるオーシア領空侵犯は多発しており、その迎撃にケストレル隊も向かわざるを得なかった。数少ない戦闘機がケストレルから出撃し、日毎にその数が減っていった。最新鋭の戦闘機を前線に投入してくるユークトバニア軍に対し、ケストレルに配備されていたのはやや旧式のF-14DとF/A-18C。戦闘は毎日行われたわけではなかったが、オーシア軍がユークトバニア本土に上陸した11月からは陸軍の上空支援にも駆り出されるようになり、犠牲者がさらに増える結果となった。ついにケストレルから出撃できる搭乗員は、マーカス・スノー大尉のみとなってしまったのである。
搭乗員の補充もないまま、ケストレル隊にはセレス海北西海域での海上哨戒任務のみが与えられた。実質的に、前線部隊から切り離されたのである。だが軍司令部の目から遠ざかったことにより、ケストレル隊は皮肉にも自由な行動を行う機会を得るのである。部隊の指揮を取り続けていたアンダーセン提督は、次第に泥沼化の一途を辿る両国の戦いに疑問を抱いていた。それは、互いに融和政策を進めてきていた両国首脳が、豹変と言ってよいほどの積極的な侵略姿勢を取るものだろうか、という根本的な疑問であった。提督は艦隊に属する士官たちとも議論を交わしたうえで、情報収集艦「アンドロメダ」による両国軍事通信から民間通信に至るまでの傍受を開始した。出撃の無くなった艦隊である。通信を聞くための面子は余る程いたのだ。かくしてアンドロメダを中心に開始された傍受作戦は、11月13日に奇妙な通信の傍受に成功する。その通信の発信元は南ベルカ地域であり、受信をしていたのはサンド島航空基地だったのである。オーシア軍間での通信では考えられないことに、その通信はベルカ語で交わされていた。内容は、ユークトバニア軍の切り札とも言えるシンファクシ級潜水母艦「リムファクシ」の浮上位置と浮上時刻に関するものであった。さらに、サンド島航空基地から首都オーレッドへ同内容の通信の傍受にも成功した。これは、「リムファクシ」の浮上位置をオーシア軍が把握し、第108戦術戦闘飛行隊に攻撃命令が下るタイミングと合致する。だが、軍事通信であったならば、オーレッドを介さずにサンド島へ通信が入ったタイミングで同基地にスクランブル体制が敷かれたはずである。だが、サンド島に攻撃命令が届くのは11月14日早朝である。この10数時間のタイムラグは何を意味したのだろうか?
部下が傍受し続けているベルカ語通信のリストを眺めながらアンダーセン提督は両国の戦争が何者かに操られていることを察知した。先の「リムファクシ」に関する情報は、オーシア国内に潜伏している旧ベルカ軍の残党勢力を介してオーシア軍に伝えられているのだとしたら……?提督と部下たちの疑惑を確信させたのは、11月29日の通信であった。発信元は同じく南ベルカ。内容は次のようなものだった。
「フレキよりアサヘイム、贄は巣を立った」
「アサヘイムよりムニン、グールたちの到着は予定通りだ。「演習」の準備は完了した」
「ムニン、了解。フレキ、巣の掃除は終わっているか?」
「フレキよりムニン、全て順調だ。「演習」の終了をお待ちする、オーバー」
この通信が行われた11月29日は、ノーベンバーシティ・スタジアムにおける平和式典に対し、ユークトバニア軍が襲撃を仕掛けた日である。オーシア国内で発生した事件であったにも関らず、各航空基地からスクランブル発進(それも大半の部隊が命令無視でだ)した戦闘機が到着したのは、戦闘発生から10分近く経った後であった。この間たった4機で敵戦闘機部隊の大群との戦闘を強いられた第108戦術戦闘飛行隊は、部隊の一員であるアルヴィン・H・ダヴェンポート大尉を戦闘で失う羽目となった。ケストレルは、このときのオーシア空軍で交わされていた通信も傍受している。何者かが、ノーベンバーシティ上空の戦いを「演習」と発言して帰投を促すと同時に、各基地から帰投命令が一斉に出されるのだ。だが、このとき防空司令部のレーダーでは「演習」ではない戦いが明らかに投影されていたはずである。なぜなら、演習ならばレーダー上に映った光点が消滅するはずはないからである。この日、高空にて指揮を執っていた空中管制機は何度も何度も各基地にノーベンバーシティでの戦闘を告げスクランブル発進を要請していたが、各基地はそれを「演習」として出撃を拒み続けたのである。
ケストレルはこの日のオーシア空軍における通信記録を海軍司令部に提出している。現場指揮官の要請にも関らず、再三に渡ってスクランブル発進を阻止しようとした航空基地に不穏な動きあり、とのコメント付で。実態はベルカに操られているも同然の主戦派政権ではあるが、自身が危険な目に遭ったこともあるのか、アップルルース副大統領の動きは早かった。各基地において司令官に対し出撃の必要なし、と報告した士官達が一斉に検挙されたのである。戦争の舞台裏に気が付いていない政権は彼らのスパイ容疑を疑いはしなかったものの、職務不履行と職務怠慢を理由に彼らの大半更迭或いは拘留し、現場の判断で出撃したパイロットたちの命令違反を不問としたのである。この措置でむしろ被害を被ったのは旧ベルカ残党勢力であった。各基地に折角潜伏させたはずの協力者たちが、結果的に一網打尽にされてしまったのであるから。そして、ケストレル隊はオーシア政府とオーシア軍を背後で操ろうとしている者たちの存在を完全に察知してしまった。交わされたベルカ語の通信を解析した結果、南ベルカの発進元の探知に成功したのである。通信の発せられていた場所は、かつての南ベルカ国営兵器産業廠、すなわちノース・オーシア・グランダー・インダストリーであった。
アンダーセン提督をトップにして行われたケストレル隊の士官ミーティングでは、この頃になるとオーシア政府にハーリング大統領無し、という見方が決定的になっていた。特に、ハーリング大統領の海兵隊時代を知る古強者たちは声を大にして今の戦争を推し進めているのは大統領ではない、と触れ回った。そんな中、ケストレル隊のフリゲート艦がセレス海を航行中の不審な船舶の拿捕に成功する。その船は戦争中であるにも関らず、ユークトバニア方面に向けて最新鋭の戦闘機を多量に積み込んで航行していたのだ。輸送船を停戦させて乗り込んだ海兵隊に対して浴びせられたのは、罵声ではなく銃弾だった。このとき捕えた乗組員たちはいずれもグランダー・インダストリーの関係者扱いとはなっていたが、専門の訓練を受けた者達が大半だったのである。海兵隊による尋問は熾烈なものとなったが、おかげでケストレル隊は彼らの口から「ハーリング大統領監禁」の事実を捻り出すことに成功したのである。後は、大統領の監禁場所だけであったが、アンドロメダが傍受したベルカ語の秘密通信により、その所在が判明した。まさにベルカ事変の戦いを一転させるきっかけとなった快挙だった。ハーリング大統領は、ノルト・ベルカの地に監禁されていたことが判明したのである。
この日から、ケストレルの公式の活動記録が一切オーシア海軍に報じられなくなった。既に作戦機も持たない空母部隊のことをオーシア海軍も、また統合参謀本部も全く関知していなかったことが幸いしたとも言えるが、ケストレル隊はオーシア軍の中で最も早くベルカ事変における真の敵に対する戦いを始めた部隊となった。海兵隊「シー・ゴブリン」によるノルト・ベルカ強襲及びハーリング大統領救出に始まり、ユークトバニアのレジスタンスたちが救出したニカノール首相も一時滞在し、さらに私たちの海戦史でも例の無い、2個艦隊の完全撃破をケストレル隊は成し遂げるのである。だが、そのケストレルはベルカ事変終結を目前にして、セレス海に沈んでしまった。12月30日、ハーリング大統領・ニカノール首相による「終戦宣言」を目前にして、主戦派に与する潜水艦による対艦ミサイルの直撃を受けたケストレルは、乗組員の脱出が完了するのをまるで待つかのようにゆっくりと沈没していった。ベルカ事変の開戦から窮地を生き抜いてきた歴戦の空母の航跡は、ここに途絶えることになったのである。
だが、アンダーセン提督らの戦いは終わっていなかった。ケストレルから脱出したアンダーセン提督らは、旗艦をアンドロメダに移し、北廻りでベルカの地を目指したのである。12月31日、全ての戦いの終結をハーリング大統領とニカノール首相がそれぞれの国で改めて告げたとき、アンドロメダの周囲には実に30隻を超える洋上艦と、14隻の潜水艦が集っていた。いずれも、大統領たちの呼びかけに応え、本国の指示を無視して集まった艦艇たちであった。孤立無援の状況下で真の敵と戦い続けてきたケストレル隊を守り抜きたい、ただそれだけの理由で彼らは集結したのである。戦いが終わったとき、アンダーセン提督は彼らにこう呼びかけている。
「歌に集いし諸君、ありがとう。今こうして、ユークトバニアもオーシアも無く、ただ平和を私たちの手で取り戻すために、私たちが協力しあった今日の日のことを私は決して忘れない。そして、諸君もどうか忘れないで欲しい。私たちの手に戻った「平和」をこれから守っていくためには、きっと必要なことだから、私はそう思う」
ちなみに、ベルカ事変末期においてしばしば目撃されている黒い翼を持つ戦闘機部隊――ラーズグリーズ部隊は実はケストレルを母艦にしていたという説がある。アンダーセン提督はじめ、当時を知る士官たちは明確に否定をしているが、ハーリング大統領救出やニカノール首相救出作戦などは奇跡的とも言うべき航空支援なくして実現は難しかったとされる。孤立無援にあったケストレル隊が、他の友軍部隊の支援を受けられたとは考えにくいことから、ケストレル=ラーズグリーズ部隊の母艦という説が唱えられるようになったようだ。しかし、ラーズグリーズ部隊の存在は別として、ケストレルがベルカ事変で果たした役割は非常に大きい。ケストレル隊が、戦争の裏に潜む旧ベルカ残党勢力の存在を察知していなかったとしたら、オーシア・ユークトバニアは泥沼化した戦闘でさらに多くの命を失うだけでなく、国家自体の破滅にまで至っていた可能性すらあるのだ。後に、中央からの指令・指揮から完全に外れ独自行動を取っていたケストレル隊を軍規を乱すものとして告発した軍人と政治家がいたが、彼らの指摘は完全な的外れであるだけでなく、そもそも彼らにケストレルを告発する資格など無い。第一審、第二審共に原告の全面敗訴を言い渡している「ケストレル裁判」は間もなく最高裁の採決を待つのみとなっているが、下される判決が覆ることはないであろう。むしろ、原告に加わっていた士官が旧ベルカ残党勢力のスパイ容疑で逮捕されるなど、ベルカ事変時の「主戦派」の亡霊たちの報復ともいうべき実態を露呈したことにより、オーシア国内では一層主戦派の居場所は無くなった。私たちは、ケストレルが示してくれた「真実を見抜く目」を常に養っていかなくてはならない。私たちの国を好き勝手しようとする覇権主義者たちから、私たちの国とこの世界の平和を守るために。