ノルト・ベルカ until 2010


ベルカ事変終結後、残念ながらオーシア・ユークトバニアだけでなく、ユージア大陸においてまで所謂「ベルカン・バッシング」が行われたことを私たちは恥じねばならない。2021年になった今日では少なくとも表立ったアンチ・ベルカ・キャンペーンが行われることはなくなったが、「危険分子」としてベルカ系の住民の引越しや雇用を制限したり、或いはバスや電車で使用する車輌を限定或いはそもそもの乗車を拒否、酷い例ともなると改名を迫った自治体まであったという事実は、憎しみが人を容易に対立に駆り立てることが出来ることを示していると言えよう。だが、先のベルカ事変は全てのベルカ人が関ったものではないし、オーシア・ユークトバニア両国のそれぞれの人間もまた数多く関っていたということを決して忘れてはならない。ベルカ事変は、ベルカの人々によって起こされたのではなく、オーシア・ユークトバニア両国の覇権主義者たちが、ベルカによる世界統治を掲げる一部の勢力によって踊らされた結果に過ぎないのであるから。そして、そういう活動を起こした人間を政治や軍隊の舞台に押し上げてきたのは他ならぬ市民一人一人の責任であるのだから。

このベルカ事変当時、というよりもベルカ軍が自国内に戦術核兵器「V1」を投下し、自らの祖国を北の谷へとおいやって戦争が終結した1995年以降、ベルカ公国において何が行われてきたのかを語る資料は極めて少ない。産業革命以後の民主化運動にさらされることもなく、15世紀以降の帝国主義体制を堅持したベルカ公国は、1995年の大戦直前まで、現在の南ベルカとノルト・ベルカを領地として独裁体制を敷いていた。さすがに時代の流れもあって、元老院・枢機院からなる議会を設けてはいたものの、実際にはベルカ公の任命した者達による決定が国を動かす、という体制が続いていたのである。ベルカ大戦の大義名分とされた「旧ベルカ領不当独立判決」を下した最高裁判所の裁判官たちの大半が、爵位を持つベルカ公寄りの人々であった。山脈の向こう側が核による破壊と汚染を余儀なくされたことにより、南ベルカは敵地に完全に孤立し、結果的にオーシアの信託統治領として組み込まれた。ノルト・ベルカに追いやられた中央政府とベルカ公は、その後の多国間終戦会議の中でも依然として強気の発言を繰り返し、核兵器使用の責任はベルカを攻撃した各国にあると言い放ち、参加者たちの失笑を誘った。ベルカ代表団に対し戦勝国各国が突きつけた条件は、国家存続を認める代わりにベルカ公の即時退任と民主政府の3年内の樹立を行うこと、というものであり、この条件を果たせない場合には、ノルト・ベルカをユークトバニア・オーシアの共同信託領として民主化政策を進める、というオプションまでが付いていたのである。

では戦勝国の突き付けた条件に対し、全てのベルカ人たちが反発したかというと必ずしもそうではない。既にベルカの人々の多くは凄惨な戦争によって家族や恋人、子供の多くを失い、戦い自体を否定するようになっていた。また政府中枢にある者たちが戦勝国の手によって軒並み追放されていったことにより、ベルカ公国内での民主化運動を主張していた勢力が勢いを取り戻し、1996年に実施された統一議会選挙では民主化政党「革新」が議席数の8割を確保するという圧勝で、ついに合法的な政権交代が実現する。ノルト・ベルカ初の純粋な選挙によって民主ベルカ初代首相に選ばれたアドルフ・ミュラーは、ベルカ公や王族に連なる貴族達の政治権限の全面廃止を決定するだけでなく、彼らが数百年の間に溜め込んだ膨大な資産を没収した。これによって、常に緊縮財政を強いられていた民主ベルカの財政事情は一転して潤ったのである。ベルカ公と貴族たち、さして軍隊による搾取に耐え続けてきた市民たちにとっては、本当の意味での解放がようやく訪れたのである。1997年になると、民主ベルカ政府の代表達は国際会議の場にも招かれるようになり、戦争を回避するための様々な平和条約などの調印を進めていく。ノルト・ベルカ南部は相変わらず核汚染が続いていたが、北海航路及び空路での他国とのコネクションが、限定的ではあるが復活したのもこの頃であった。

しかし、ベルカの民主化政権は長くは続かなかった。戦勝国によって退けられたベルカ公と貴族たちは、その資産などを没収されたとはいえ依然莫大な私財を保有していた。さらに、彼らの多くは生き延びた旧ベルカ公国軍とも深い関係を保持していたのである。政治権限の全てを奪われ、存在意義を全て否定された旧体制と軍部はこれを「屈辱」と呼び、戦勝国を呪った。だが、そのままであればいつかは消え去っていったであろう彼らの存在を利用し、再びベルカの栄光を取り戻さんとした者たちが存在した。「灰色の男たち」と時に呼ばれる集団である。彼らの全貌は謎が未だに残されたままとなっているが、彼らの頂点にあった組織がベルカ旧体制時代における「統合戦略研究所」であった。この研究所は実質的にベルカ公国の秘密警察と諜報部門を統括する組織であり、ベルカ大戦終結後も地下に潜伏して組織と組織網共に温存されていた。ベルカ人の中でも最も過激な大ベルカ主義を掲げる彼らは、再びベルカ公国の栄光を謳歌する為に活動を開始する。民主化政権に大敗した保守党に肩入れし、民主化政権の一部政治家と民間企業の癒着をスクープしたのを皮切りに、彼らはミュラー首相らを失脚させるべく様々な工作を繰り広げていった。1999年、地方演説に向かった首相らの車列にロケット弾が撃ち込まれ、政府首脳部の半分が暗殺されるという事件が発生したが、これの実行犯は何とミュラー首相を支えるはずの「革新」党に属する若手議員だったのである。党の腐敗の象徴たる首相を排除し、真の民主化を取り戻すのが彼らの目的であったのだが、彼らは操作された情報に気が付かなかったのだ。

首相の暗殺によって急遽行われた総選挙で勢いを取り戻したのは、急激な民主化に反対し、立憲君主体制による緩やかな体制変更を掲げた保守党であった。が、彼らのバックに付いていたのは他ならぬ「灰色の男たち」であり、ベルカ公・大貴族たちであった。ベルカ大戦の大敗で彼らが学んだことが一つだけある。それは、表立って動かず、陰から歴史を我が物にすることであった。実質的に旧ベルカ政権の隠れ蓑に過ぎない保守党政権は、徐々に旧体制の権限を取り戻していく。もちろん、世論の無用な反発を避けるため、それらの決定の大半は秘密裏に進められ、人々の目に触れることは無かった。中でも悪名高いのは旧公国軍人再雇用法である。「灰色の男たち」の手により政治的実権を裏で取り戻しつつあったベルカ公アウグストゥスは、自らの野望を達成するための尖兵として、保守党政府に所属する国軍とは別に、「再雇用」と称して旧公国軍の退役者や協力者たちを中核とした私設軍を編成してしまったのだ。このときには既に旧南ベルカ国営兵器産業廠におけるベルカのための兵器開発も開始されており、この私設軍が後のベルカ事変における旧ベルカ残党軍の中核を為すことになった。また彼らは人材育成と各国における協力者を募るために、私設軍に参加した軍人や協力者たち本人や子供たちを積極的に海外へと派遣していった。オーシア、或いはユークトバニアに入国した彼らは、「灰色の男たち」とコンタクトを取りながら水面下でベルカ・ネットワークを構築していくのである。

かくしてノルト・ベルカは、表向きの保守党政権と裏で全てを操る旧公国政権とが両立するという奇妙な政治形態が定着する。ベルカ大戦時のベルカ公であったアウグストゥスは2004年に病死し、彼の息子であった皇太子コルネリアスが後を継ぐ。大戦前の栄光期よりも大戦後の「屈辱」の期間をより長く経験し、さらに年齢的にも若かったコルネリアス公は「灰色の男たち」の傀儡となってしまった。2007年10月、オーシアやユークトバニアのみならず多国間の共同平和プロジェクトの一環として建造された「アークバード」において、大陸各国の平和友好会談を実施すべくハーリング大統領はノルト・ベルカ政府に対しても宣言への参加を要請した。このときの保守党政権において書記長を務めていたアントン・フェルディナンは、政権を隠れ蓑にしてベルカを再び戦争へと駆り立てようとしている旧公国政権を白日の下に晒し、ベルカの独立をより強固にするためにも会談へと参加しようとした。だが彼と彼の協力者たちの動きは、政権中枢においても根を張った旧公国政権によって察知され、彼はスキャンダルの汚名と共に政権を追放されただけでなく、オーシアへの亡命を図ろうとして国境警備隊に捕捉され殺害されてしまった(2018年に行われた発掘作業において、彼と彼の家族たちの亡骸が発見されたことにより明らかに)。既にこの時点になると、ベルカの市民たちも表向きの政府とは別に、昔と変わらないベルカ公たちが未だに存在しているということに気が付き始めていたが、大多数の人々が自分達へと災禍が及ぶことを恐れ口をつぐみ、財力のある者や勇気と行動力だけは旺盛な若者など極少数は国外へと脱出をしていった。だが、仮にフェルディナンが旧公国政権の魔の手から逃れたとしても、既にオーシアにもユークトバニアにもベルカの協力者たちが広がっている状況下では、結局抹殺されていた可能性が高い。旧公国政権の謀略を食い止める最後の手段を逸したノルト・ベルカ政府は、ハーリング大統領の要請を正式に拒否するだけでなく、これまで入国を許していたOAL(オーシア・エアライン)・YAT(ユークトバニア・エア・トランスポート)両航空会社のベルカ乗り入れを2008年から無期限停止とし、船舶の入港についても厳しい検査を行うことを決定し、実行したのである。当然、オーシア、ユークトバニア政府はノルト・ベルカの突然の豹変に対し、政府の公式回答を要求した。だが、既に両国に巣食ったベルカ・ネットワークがその回答をうやむやのうちに闇に葬り去ってしまうのである。

15年の雌伏の時を経て、旧公国政権は蠢動を開始する。傀儡政権である保守党政権の知らない間に、ノース・オーシア・グランダー・インダストリーで生産された最新鋭の兵器を保持したベルカ公軍(旧ベルカ残党軍)は、小規模ながらも陸・海・空の三軍を持つ軍隊となっていた。特に、この私設軍はオーシア、ユークトバニア両国軍と全面的に衝突するためのものではなく、両国を後戻りの出来ない戦争に叩き落すことを目的としていたため、容易に他国に侵入できる空軍兵力が特に充実したものとなった。ベルカ事変において最も使用されたSu-47の他、YF-23A、F-15S/MTD、Su-37等を中心とした戦闘機がノース・オーシア・グランダー・インダストリーやノルト・ベルカの空軍基地に配備されていった。また、両国での軍事工作や政界工作を図るため、多数の工作員が動員された。彼らの大半が海外へと潜伏し、後の蜂起に備えることとなったのである。全ての準備が整ったことを確認したベルカ公コルネリアスは、オーシア、ユークトバニアへの復讐戦争を宣言した。
「かつて、我らベルカは屈辱を味わった。だが、我らが屈辱を甘んじて受け入れたことによって世界は平和になったことを、オーシアもユークトバニアも忘れ去った。彼らは、屈辱を受け入れたベルカに更なる屈辱を与えようとしているのだ。我らベルカが立つのは今しかない。神々の御世の時代、ラーズグリーズは人間の愚かな戦いの中で命を落し、眠りについたという。だが、ラーズグリーズは世界の戦いを終わらせて、平和をこの世に導いた。今度は、我らがラーズグリーズとなる番だ。眠りの時間は既に終わった。この世界に平和をもたらすため、いざ立てよ戦士たち!我らベルカこそ、世界に平和をもたらすことが出来る唯一の存在であることを、この世界に知らしめるのだ!」
この宣言を聞いた当時の保守党政権外務大臣だったヨアキム・フォン・マイバッハは次のような遺書を残して毒を仰いで自殺している。彼は遺書の中で、現実を見据えることも出来ずに再び戦争を始めようとする旧公国政権を痛烈に批判している。
「市民の支持も受けず、世界各国との話し合いもせず、舞台裏で戦争を愛でるような者たちに一体誰が従うというのか。そのような人間の語る平和を誰が信じようか。ベルカは自ら平和を享受する機会を自ら放棄してしまった。最早、私はそんな国の政治家として生きる術を知らない。ベルカに必要なのは、ベルカという国家の完全な消滅しかないのかもしれない。どうかこれ以上ベルカの民が傷つくことの無いよう、ラーズグリーズの悪魔の加護があらんことを」

ベルカ公コルネリアスの宣言した復讐戦争において動員された旧ベルカ残党軍の兵力は、決して多くは無い。もともと人口が激減したノルト・ベルカにおいては、ベルカ国軍自体が1万人程度なのだ。自国の人々の支持も得ず、ましてや周辺各国と話し合う機会も得ず、ただ過去の栄光のみを掲げて無謀な戦いを挑んだ彼らは、長い歴史の中で何を学んできたのだろうか?何者にも支持されることの無い、「称えられることの無い愚かな戦い」が始まりを告げたのは、2010年9月27日だった。
注意:
本項はAC05本編でも全く語られていない部分であり、攻略本などの設定資料にも出てきていません。よって、ここで書かれている内容はmasamuneの完全な妄想と創作によるものとなります。このため、本編の物語と不整合を起こしている部分もあるかと思いますが、ご容赦頂ければ幸いです。

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