オーシア無血クーデターA〜凱旋〜
ケストレル隊によって、ハーリング大統領がノルト・ベルカから救出されたのが2010年12月9日の事である。この日辺りから、無線の愛好家たちの間で「妙な演説」が話題となっていた。その演説とは、オーシアとユークトバニアの間で行われている戦争が実は操られているものであり、今すぐ戦いを止めるよう呼びかけるものであった。これこそ、ハーリング大統領が空母ケストレルからオーシア市民に対して行っていた「解放演説」だったのだが、この存在を認めてしまえば自分たちの政権が崩壊することを良く知っていた主戦派政権は、大統領の呼びかけを「ユークトバニア政府による卑劣なプロパガンダ」と決め付け、ラジオ局などに対してはその演説を傍受すること自体を罪とする、と強硬な態度で迫った。もちろん、こう言われてしまえば逆に不審に思うのが道理というもので、ラジオ局のスタッフ達はこぞって「妙な演説」の傍受に躍起になった。そして彼らは、政府の監視の目が届かないアマチュア無線の周波数にその「演説」を載せることにしたのである。こうして、一部の無線愛好家や反戦活動家たちにハーリング大統領のメッセージは届いてはいたのだが、それがオーシアの政策を転換させるようなものにはなり得なかった。なぜなら、首都オーレッドではハーリング大統領を支えてきたスタッフ達が依然主戦派たちの監視下にあったからである。
何日間にも渡ってケストレルからの呼びかけを行っていた大統領であったが、主戦派政権によって政権が運営されている限り、これ以上の事態打開は難しい状況であった。ハーリング大統領は、自身が首都オーレッドに乗り込んで政権を奪回することを決意する。手元に十分な兵力も無く、主戦派の巣窟たる首都へ乗り込むことにケストレルのアンダーセン艦長も反対したが、大統領の決意が固いことを悟った艦長は、大統領と共に首都への「帰還」作戦を練り、実行に移すのである。2010年12月22日、ケストレル隊から海軍司令部宛に緊急入電が届けられる。その内容は、ケストレル艦内においてスパイによる破壊行為が行われ、脱出を図った工作員を撃墜、首謀者を確保したというものだった。セレス海上で発生した事件に、海軍司令部だけでなく政府も色めきたった。"ユークトバニア"はそんな所にまで破壊工作の手を伸ばしていたのか、と彼らは驚くと共に、ユークトバニアに浴びせる新たな非難材料の登場に喜びもしたのであった。ケストレルからは、海兵隊部隊シー・ゴブリンが直接首謀者を送り届けることとなり、アンダーセン艦長とも旧知の間柄であるマシューズ少将も籍を置く、サザンシスコ海軍基地が受け入れ先となった。もちろん、このスパイ事件自体が偽装工作の一環であり、「首謀者」とはハーリング大統領その人のことであったことは言うまでも無い。ヘリから降り立ったのが工作員どころか、三軍の最高司令官でもあり、かつての上官でもあったハーリング大統領であったことに、マシューズ少将だけでなく居合わせた兵員たちも仰天したそうである。
ハーリング大統領にしてみれば、彼の受け入れ先がかつて属した海兵隊司令部であり、かつての部下であったマシューズ少将が主戦派から退けられることも無く基地に在籍していたことは幸運以外の何者でもなかった。ケストレル隊以外に実戦部隊を持たない大統領にとって、彼の手足となって活動する部隊の確保は急務であったからだ。その辺り、わざわざ海軍ではなくシー・ゴブリン隊の統括本部である海兵隊司令部にコンタクトを取った、アンダーセン艦長の判断は、大統領にとって最高の後方支援だったと言えるだろう。大統領から、舞台の裏側と主戦派たちから政権を奪還することを打ち明けられたマシューズ少将は、待機中の海兵隊部隊(通常なら前線送りにされているはずの彼らは、「功績」を横取りされることを嫌った陸軍によって、本国防衛に回される者も少なくなかった)に密かに招集をかけた。しかも、士官大学出の若手士官ではなく、実戦経験豊富な古強者たちの揃った荒くれ者ばかりの問題児たちが多い部隊を彼は選んだ。2010年12月24日深夜、海兵隊司令部の格納庫の一角に集められた彼らは、大統領とマシューズ少将から作戦内容を伝えられている。このときの様子を、待機部隊の一員であったバーナード・クリスティン伍長(当時)はこう語ってくれた。
「そりゃびっくりしたよ。テレビの中くらいでしか見たことの無い大統領が目の前に立っていて、しかもテレビでは聞いたことの無いようなでかい声で俺たちに渇を入れるんだからさ。でも、あんなに興奮して身震いしたのなんて、あのとき以来一度もないね。好き勝手に国を振り回している連中から政権を奪い返すなんて、映画の中だけの話だけかと思っていたら本当なんだもんね。しかも、自分がその作戦に参加出来るわけだから。あのときの大統領は格好良かったねぇ。あれ以来のファンだよ、俺は」
ハーリング大統領とマシューズ少将、少将の補佐であった士官たちが打ち合わせた内容は次のようなものであった。
@大統領府の制圧及びアップルルース副大統領の捕獲。
A統合参謀本部の制圧及びヘンダーソン参謀総長らの救出
B軟禁されているハリントン上院議長、ウィリス下院議長、サッチャー広報官の救出
C防衛省制圧及び地下に拘禁されているクライトン大臣の救出
中でも、@とAが最優先事項とされた。国家機能の頂点たる大統領府の奪還は主戦派の手から政治機能を奪う最善の手段であったし、統合参謀本部の制圧は三軍の指揮系統を取り返すために必要だったのだ。サザンシスコ海軍基地を出立した大統領と海兵隊部隊は、夜の闇に紛れて活動を開始した。12月24日02:25、まず大統領府で狼煙が上がった。その頃大統領府では、「緊急事態につき至急会見されたし」と連絡を入れたマシューズ少将を、アップルルース副大統領が待ちわびていた。そんな彼に届けられたのは、武装した海兵隊の猛者たちと、彼らが取り除いたはずのハーリング大統領だったのである。まさか自軍の部隊による襲撃を受けるとは考えていなかった大統領府の警備は薄く、海兵隊による制圧が完了するまでにそれほどの時間を必要としなかった。大統領府突入から15分後、統合参謀本部襲撃作戦が開始される。参謀本部には陸軍の警護隊が展開していたが、シー・ゴブリン隊のパウエル大尉が大統領・マシューズ少将の特命を掲げて、警護隊の士官たちを圧倒している間に、海兵隊の猛者たちは突入を強行する。さらに、パウエル大尉たちは警護隊の指揮官たちを何とその場で拘束してしまい、陸軍部隊を降伏させてしまった。陸軍士官に銃を突き付けて兵士たちの投降を促した大尉の台詞は、次のようなものであった。
「さあ、撃って来い!この国を台無しにしようとした叛逆者の協力者となるか、叛逆者たちからこの国を取り戻した英雄の一人となるか、眠ったまんまのオツムで考えて好きな方を選べ!!それともこちらから撃っていいのか?」
参謀本部に突入した海兵隊は、ほとんど抵抗を受けることも無く各フロアの制圧に成功し、地下の査問会議室から数ヶ月に渡って監禁されていたヘンダーソン参謀総長の救出に成功する。衰弱はしていたものの、彼は一週間ぶりのシャワーと清潔な新しい制服に着替え、海兵隊の護衛付で大統領府へと急行して再会を祝したのである。
最優先制圧目標の確保に大統領たちが成功したのは12月24日04:30過ぎのことであった。ヘンダーソン参謀総長は、大統領のブレーンや融和主義の議員たちの「警護」に就いている陸軍部隊に対して、大統領指令として即時撤退と指揮官クラスに対しては参謀本部への即時出頭を命じる。既に大統領府と参謀本部は主戦派の手から解放されていたため、海兵隊部隊の大半を防衛省奪還に回して作戦は継続された。首都オーレッドに展開していた陸軍部隊は大混乱となっていた。首都展開部隊の指揮を執っていたのは主戦派に与する士官の一人、ウォート・ソップ中佐であったが、彼は首都オーレッドが大統領に奪還されたことに気が付かず、また彼らが取り除いたはずの大統領と参謀総長の名を騙って主戦派の意志にそぐわない命令を出した者たちを罰するため、参謀本部に到着したところを海兵隊部隊に取り囲まれ拘束されてしまった。かくして指揮官までを失った陸軍部隊は、彼らをどやしつける海兵隊たちの言うがままにある者は蹴散らされ、ある者は大統領たちの命令に従って撤退を開始した。そして12月24日07:00、防衛省は海兵隊部隊の手に落ちただけでなく、長い間監禁状態にあった者たちが活動を再開する。大統領のブレーンたちが一人また一人と大統領府に集結し、また大統領を支持して監禁されていた軍人たちは彼らの本来の持ち場に戻り、そこに未だ居座ろうとしていた主戦派たちを駆逐していった。軍の主管機能を奪い返してからの事態の進行はさらに早いものとなった。拘束或いは軟禁されていた大統領派の司令官たちが解放されたことによって、首都オーレッドの三軍の司令部を我が物としていた主戦派軍人たちは逃げることも出来ずに次々と拘束されたため、12月25日になるまでの間に三軍の指揮系統は大統領の手にほぼ戻ったのである。
ベルカ事変までのハーリング大統領は、対抗勢力に対しても温厚に接し、時には対抗政党の議員たちとも協力する柔軟な政治姿勢が知られているが、彼の不在を利用してオーシアを貶めていった主戦派の議員や軍人たちに対しては、むしろ海兵隊部隊の隊長であった頃の「鬼」という呼び名に相応しいものとなった。彼らの処罰は翌年移行に行われたものであるが、国家反逆罪及び破壊活動防止法違反罪に問われて死刑判決を受けた元議員・軍人の数は100名を越え、さらに多くの主戦派の人々に懲役刑が下された。ちなみに後年、死刑反対を掲げる左派の弁護士会たちに対し、大統領は次のように切り返している。
「彼らは確かにオーシアの破滅を望む者たちに操られていたのかもしれない。だが、彼らの甘言を信じ、オーシアとオーシアの数多くの市民を破滅へ導こうとしたのは他ならぬ主戦派の人々ではないだろうか?私の不在の間この国で起こったことを今一度思い返してみて欲しい。彼らのせいで、一体どれだけの人々の命が失われ、どれだけの人々が悲しんだのだろうか?死刑に関して様々な議論が行われていることは私も知っている。だが、残念ながら私はこの国を破滅させようとした者たちに対して与える刑罰の中で、死刑以外に相応しい方法を知らない。彼らが償うべきものはあまりに多すぎる。だから、私に教えて欲しい。法律の専門家たる諸君が、彼らの犯した重大な罪を彼らに償わせる方法について、どのような見解を持っているのか、を。」
2010年12月24日は、オーシアの主戦派政権が完全に崩壊し、ハーリング政権が息を吹き返した日となった。当時のオーシアにとっては、最高のクリスマスプレゼントが届けられたと言っても良いだろう。大統領が市民の前に姿を現すのは12月30日夜に行われた「終戦宣言」演説の時であるが、10月22日から2ヶ月間に渡ってオーシアを支配した主戦派政権は、たった一日で実質的に崩壊してしまった。主戦派がハーリング大統領政権から権力を掠め取ったように、大統領はほとんどの国民が知らない間に主戦派の手から権限を取り戻し、そしてオーシアを和平へと導いたのであった。