ユークトバニア市民革命
オーシアとの終わりの見えない戦いと、レジスタンスとの抗争によって、ユークトバニアの疲弊は一層進んでいた。11月29日、オーシアのノーベンバーシティで行われた平和式典における無差別攻撃作戦が明るみに出たことにより、これまでは沈黙を保ってきた人々までが軍事政権に対する不満からレジスタンスに協力するようになっただけでなく、中央政府のコントロールから遠い地方自治体では、村ぐるみ、町ぐるみで公然と軍事政権に対する不服従を宣言する都市が相次ぐようになったのである。ユークトバニア軍事政権は外敵――オーシア軍の暴挙と愚考を誇張して伝えることで、市民の支持を取り戻そうとしていたが、そもそも戦争などという事態を最も嫌っていたはずのニカノール首相が主張するとは考えにくいようなこの数ヶ月間の政権の方針に対する人々の不信は、ついに爆発してしまったのだ。「中央政府には従えない。従わせたいのなら、ニカノール首相を出せ」という積極的不服従運動はユークトバニア東部都市だけでなく南部や西部の都市にまで飛び火し、しかも同調する自治体の数は日増しに増えていったのである。だが、軍事政権はそれらの都市と市民を弾圧するだけの力を既に失っていた。
ユークトバニア軍の崩壊も深刻な問題となっていた。膠着化した前線では慢性的な戦闘が続けられる以外の軍事作戦は行われず、後方部隊においては厭戦ムードが広がるだけでなく、中にはレジスタンスに呼応して、中央政府に不服従の姿勢を取った地方自治体の支援に回る部隊まで出始めていたのである。また、積極的な支援は行わなくとも、軍事情報や政府の機密情報をレジスタンスに提供する、生活物資を市民に配給する、といった面で市民やレジスタンスへの協力を始める部隊も少なくなかったという。そんな状況下、ユークトバニア解放同盟は「少佐」からの情報に基づいて、ニカノール首相の救出に成功する。ユークトバニア国内での追撃を避けるために、ケストレル隊へと身柄を移されたニカノール首相は、その後首都オーレッドへと向かいハーリング大統領と再会することになるのであるが、首相奪還の一報は、レジスタンスたちの情報網によってあっという間にユークトバニア全土へと広がっていった。口コミ、インターネット、ラジオ、無線、利用出来る限りの道具を行使した彼らの情報発信に対し、軍事政権は「叛逆勢力の常套手段」として国営放送を通じてデマに惑わされないよう呼びかけたが、市民たちが信じたのはユークトバニア解放同盟から伝えられる首相の救出と復活の情報であった。そして、東部都市の一つデルタグラードのイワン・チェリョムピン知事は、地元ケーブルテレビを通じての演説で軍事政権からの無期限独立を宣言して、地元警察及び近郊の陸軍基地に呼びかけて、中央政府に対して公然と叛旗を翻す。チェリョムピン知事は「ニカノール首相の指示以外の政府決定は如何なるものも拒否する」として、軍事政権が正当性を主張するならばニカノール首相を出せ、と改めて政権に迫ったのである。たちまち、独立運動は東部都市軍へと伝播し、2010年12月26日には東部を中心とした30の都市が軍事政権からの独立を宣言し、ユークトバニア国内は完全なる内戦状態の様相を呈したのであった。
軍事政権と地方の対立が先鋭化する中、軍事政権による更なる弾圧が行われることは時間の問題であった。そうなった場合、また無数の市民たちが犠牲となる悲劇が繰り返されることになる。ユークトバニア解放同盟の執行部は、失敗すれば組織のみならず自分たちの命も確実に失われるであろう賭けに出ることを決定した。それは、ユークトバニア解放同盟に属する全組織を挙げて一般市民による無期限ストとデモ行進の実施だったのである。もう一つのオプションとして、レジスタンス部隊によるシーニグラード一斉蜂起という手段も提案されたが、シーニグラード近郊には依然として首都防衛隊が展開しており、その戦力を軽視することは出来なかった。さらに、一斉蜂起が失敗すれば、軍事政権は喜んでレジスタンスたちの暴挙にでっち上げの破壊行為を付け足して、国内の締め付けを強化することは明白だった。最終決定は、今やユークトバニア解放同盟の長となったトルストイ委員長に委任されたが、彼は即座に結論を下した。全組織を挙げ、ユークトバニア全土の市民全員で軍事政権を打倒し、ニカノール首相が帰還するための国を取り戻そう、と。そのために、私たちが先に武器を用いてはならない。方針は決まった。この日、アジトに集まっていた執行部のメンバー達は、アジトで別れの杯を傾け、全てが終わってからの再会を誓い合ったそうである。デルタグラードの独立宣言から3日後の12月28日の夕刻、国営放送の電波をジャックしてトルストイ委員長はユークトバニアの市民たちに、祖国を取り戻すための「戦い」に参加することを呼びかける。"剣を持って他人を傷付けるのではなく、私たちの手にもともとあったはずの平和な日々を取り戻すため、それぞれの生活する街で皆で集まり声をあげて欲しい。" わずか5分足らずの演説であったが、トルストイの必死の呼びかけが奇跡を起こすことになる。
2010年12月30日、騒動はユークトバニア全土を揺るがし始めた。トルストイの呼びかけと、それぞれの町に戻ったレジスタンス諸組織たちの手によって、市民たちが一斉に集まり始めたのである。街によっては数万人を超える市民たちが集結し、軍事政権の即時辞任と戦争の即時停戦を訴えて声を挙げる。市民たちの鎮圧に出たはずの兵士たちも次々とデモ行進に加わり、政府機関の建物に照準を合わせることで市民たちへの協力を示す部隊まで現れた。そして何より、首都シーニグラードでは、レジスタンスたちの想像を超える出来事が発生していたのである。国営公園や国立大学などの広い敷地を持ついくつかの施設に集結した市民が、一斉に中央政府への大行進を開始したのである。その数、実に20万。最早警察も軍隊も彼らの行進を止めることは出来ず、デモ隊の人数はさらに膨れ上がってシーニグラードの通りという通りを埋め尽くすほどの規模となった。首都の行政機能は完全に寸断され麻痺し、政府首脳たちは彼らの最後の砦たる中央議会と首相官邸の建物に閉じ込められることとなる。外では、雪の舞い降りる中、市民たちが声を挙げ続けていた。「私たちの祖国を取り戻せ。哀しい戦いを今すぐ止めて、平和を再び私たちの手に取り戻そう」何度も何度もその連呼が繰り返された後、誰かが歌いだした歌があった。そしてそれは、シーニグラードを埋め尽くした市民たちによる大合唱へと変わっていったのだ。その歌は、――「Journey Home」。ある者は前線にいる親や子供や恋人たちのことを思い、ある者は平和の訪れを切望して、ノーベンバーシティに集ったオーシアの市民たちと同じように歌い続けたのである。
12月30日22時。オーシアの首都オーレッドにおいて、ハーリング大統領による演説が始まった。そして、ユークトバニア市民たちが待ち望んだニカノール首相が3ヶ月ぶりに公の場に姿を現すと、大合唱はクライマックスを迎えた。大歓声が夜空に轟き、「ニカノール」の連呼が木霊する。そしてついに無数の市民たちは中央政府の建物の中へと突入し、ニカノール首相の不在を利用して祖国を好き勝手に操り続けた主戦派の政治家たちを引きずり出したのである。銃を突きつけられ、無数の市民たちの怒りの声で出迎えられた彼らは、そのまま中央議会のバルコニーの柱に次々と括り付けられ、ニカノール首相が帰国するまでの間そこで晒し者の悲哀を味わう羽目となった。市民たちが手を取り合い、声を挙げる光景を見て、レジスタンスたちは数ヶ月の戦いが決して無駄ではなかったと実感し、そして彼らの長い戦いが終わったのだ、と悟ったそうである。この日、トルストイ委員長らと共に中央議会の屋根から集まった人々を見ていたミーシャ・ハユミンスキー氏は、そのときのことをこう語ってくれた。
「最初は目の前のことが全然信じられなくてね。私たちが活動を始めた頃には、見て見ぬふりをしていたはずの人々が大声を挙げながら行進していくんだから。みんなが少しずつ勇気を出しあって、あの日の奇跡が起きたんだね。21世紀のこんな時代に、まさか市民革命なんて時代遅れの出来事が本当に成功してしまうなんて、私たちも考えていなかったよ。」
無数の市民に取り囲まれた中、レジスタンスたちに捕らえられたボロージン将軍は手書きの念書で、オーシアとの戦争を停止すること、そして軍事政権は全ての権限をニカノール首相に返還して法の裁きを受けることを宣誓させられた。怒りと諦めで紫色になった唇を噛み締めながら将軍が念書を書き上げたとき、ユークトバニア政府を3ヶ月間に渡って支配し続けた軍事政権は崩壊し、レジスタンスたちの苦しい戦いは終わりを告げたのであった。
「ユークトバニア市民革命」と呼ばれるようになった12月29日から12月31日の間の全土での一斉デモ行進の後、政権に返り咲いたのはニカノール首相だった。首相自身は、革命に立ち上がった人々に中央政府を任せ、自らは出身地方の改革を進めようと考えていたようだが、主要幹部たちがごっそりといなくなってしまった政府を立て直すことが出来るのはニカノール首相しかいなかった。その彼の下で、ユークトバニアを戦争へと駆り立てた主戦派たちには厳しい裁判が待ち受けていた。2011年の間に、ニカノール首相拉致や9月下旬の戦闘行為の指揮をとっていた士官たちが処刑されたのを皮切りに、数年間かけて「戦犯」となった人々に対する審判が続けられた。彼らの大半は、自らが操られていたことすら知らない者たちであったが、明らかに自らの意志で旧ベルカ残党勢力に荷担した者たちには苛烈といってよいほどの厳しい判決が言い渡されている。融和主義を掲げるニカノール首相にすりよろうと考えた者たちも少なくなかったようだが、首相は全く取り合わなかったそうである。2015年に、戦犯最後の死刑執行が行われた後の記者会見で、ニカノール首相は次のように語っている。
「人が人を裁き、そして死を与えるなんてことは本当は許されないことなのかもしれない。だがしかし、2010年の3ヶ月間の間、この国を乗っ取った者たちのやったことは、およそ人間のやることではなかった。もちろん、まんまと監禁されてしまった私の責任は非常に大きい。だから、私は二度とこの国があのときのような過ちを繰り返さないようにしたい。覇権主義が生み出した戦争がどんな悲劇をもたらすのか、私たちは残念ながら良く知っているし、経験もしているのだからね」
ユークトバニア革命後、政府の要職に就いたものは極僅かである。大半のレジスタンスたちは、その名を知られること無く彼らの本来の生活の場へと戻っていったのだ。ユークトバニアが平和を取り戻しつつある中、ユークトバニア解放同盟の取りまとめ役として奔走し続けたセルゲイ・ロヴィンスキー・トルストイは、レジスタンスとしての過酷な日々の影響によってか、身体を蝕まれ、2012年に24歳の若さでこの世を去った。彼の危篤を聞いて駆け付け、彼の最期を看取ったニカノール首相の言葉が、彼の墓碑に刻まれている。
"君の心は、今この国に生きる人々全ての心の中に生き続ける。ありがとう、我が友よ。"