ノルト・ベルカ from 2011
2011年1月1日、それまで旧ベルカ政権の傀儡政権と化していた保守党政権は総辞職し、保守党の若手議員たちを中心とした超党派の臨時政権が発足した。この日臨時政権が宣言した内容は、ベルカの市民だけでなく世界各国を驚かせるものであった。彼らは、全国民の参加する総選挙の実施と国際社会による選挙監視委員会の派遣、そして1995年以来成し遂げられていなかった民主化を改めて達成するためのプロセスとして、総選挙終了後数年間は国政を国際社会の手に委ねる、と宣言したのである。1月10日になって、ベルカ公の死亡と旧体制派の一斉検挙が公表されたことによって、臨時政権の宣言が本気のものであることを国際社会は認知することになった。この当時、臨時政権を率いていたのは、後の新生ベルカ政府の長としてベルカの民主化を推し進めたフリッツ・カーセルバーグであった。彼は事実上無政府状態に陥ったベルカ政府において、民主化を掲げる政党からも議員を引き抜いて、ベルカ再生のための超党派政権を立ち上げたことを皮切りに、旧体制派の徹底的な追及を行っている。ベルカ事変の生みの親とも言える「灰色の男たち」の中枢の確保には失敗するものの、臨時政権の指示で行われた強制捜査によって、地方に潜伏していた者たちだけでなく、中央政府にまで根深く巣食っていた「細胞」が検挙されることとなった。
ベルカ事変の終戦処理、戦争責任者の国際軍事法廷への引渡し、ベルカ国内の安定化といったプロセスを経て、2012年、国際選挙管理委員会の監視の下、国民総選挙が実施された。この選挙ではカーセルバーグ率いる「再生党」の他、穏健派が中心の「新保守党」、故アドルフ・ミュラーの生んだ「革新」等の政党が候補者を選出し、8割を超えるという記録的な投票率の高さは、ベルカ市民の民主化への期待がどれほど大きかったか、ということを裏付ける結果となった。開票の結果、「再生党」は過半数に到達しなかったものの最大政党としての議席を確保し、第二政党として「革新」が議席数を伸ばした。順当に考えれば、民主化という大方針においては互いに同じである「再生党」と「革新」が連立政権を組むところであったが、「革新」は最大野党となる道を選んだ。「革新」の総帥であったイリナ・ハルシオーナは、カーセルバーグに対してつぎのように語り、政権への参加を固辞したのである。
「まだ民主化という制度が根付いていないこの国にあっては、国際社会から様々なものを学んでいかなければならない。その途上で、方針は同じでも、異なる視点から政策と国家を考えていく政党が必ず必要になる。だから、わたしたちは敢えて野党として国を支えていく道を取りたい」
この結果、「保守党」を抱き込む形で成立した連立政権が首班となり、新生ベルカ自治政府が発足する。同時に、オーシア・ユークトバニアを中心とした管理委員会の信託統治領となった自治政府は、通常の国家であれば大統領或いは首相という国家元首機能を管理委員会のものとし、自治政府首相は議会の政府の長としての機能と、管理委員会との調整を行う機能を担うという政治形態を取った。これは旧ベルカ政権が行った方法と形式的には同じであったが、ハーリング大統領・ニカノール首相はベルカの民主化のために積極的な支援を怠らなかった。中でも、二人が重視したのは教育制度であった。従来のベルカ教育省が行ってきた方針は、独裁国家にありがちな偏向的なものであり、理数系教科や外国語教育はともかくとして、社会・歴史については多分に愛国主義的及び偏向的歴史観に基づいた「歪められた」内容が目立ち、国語に至っては軍国主義鼓舞とベルカ公への忠誠といった内容が占める有様だったのだ。過度の干渉は内政干渉という印象を強めることとなり、放置すれば再び覇権主義の温床が生まれる、という二律背反の状況下、管理委員会と自治政府の間で長い議論が行われ、新教科書法が制定されたのが2013年のことである。同法に基づいて発行された歴史教科書の興味深い点は、ベルカの視点と国際社会からの視点とを併記したことである。これは、ベルカと国際社会双方の認識を公平に扱うためにはどうしたら良いのか、という議論の中で出された苦肉の策であったのだが、教育の現場では好評であり、後にオーシアやユークトバニアにおいても同様の手法を用いた教科書が作成されるようになる。これは、様々な認識が存在し得る歴史認識の共通化という点で大きな効果を発揮することになった。
交流が盛んとなったのは政治の場だけではない。民間レベルにおいても、これまで外部との接触を極力絶ってきたベルカにとっては、彼らの国を取り巻く諸国との交流によって様々な異国文化が流入することとなった。民間企業のノルト・ベルカ進出は、後に外国企業による市場の寡占という側面も生み出してしまったものの、10%に達する失業率を大幅に低下させる要因となった。雇用の場が従来とは桁違いになったことによって、市民の経済活動は次第に活発となり、これが停滞していたベルカの経済を活性化させる起爆剤となるのである。また、旧ベルカ政権によって独占されていた生産業等の分野においても民間企業による取引が活発化し、かつてその高い生産性と技術力を誇ったベルカ産業は、純粋な民需部門において本格的に稼動を始めることとなった。2012年の時点では、10人に1台という程度であったマイカーの普及率は、2018年には3人に1台という割合にまで上昇していることからも、市民の生活水準が大幅に改善したことを伺うことが出来よう。また経済の活性化は政府の歳入の増加にも貢献し、旧ベルカ政権に搾り取られつづけ疲弊していたベルカの国庫は次第に潤っていたのである。この結果、行政サービス・福祉サービス面にも予算を投入することが出来るようになった自治体の活動も活発化し、生活水準の向上に貢献していった。ベルカ経済は「奇跡」と呼ぶに相応しい再生を果たすこととなる。
こうしてノルト・ベルカが再生の道を着実に歩む中で議論の場に上がったのが、南ベルカの帰属問題であった。ベルカ大戦後、オーシアの信託統治領となった南ベルカはオーシアの一大生産拠点都市として、オーシアの民需・軍需生産を担ってきたのであるが、それが結果的に旧ベルカ残党勢力の活動を支える隠れ蓑として活用されるという事態を招いた。また、ノルト・ベルカで進む民主化に対し、南ベルカでもベルカへの帰属を求める声が日増しに強まっていったのである。こうした中で、オーシアが打ち出したのは、「南ベルカ」を周辺各国の共同統治信託領とし、但しその主要行政機能はノルト・ベルカに帰属させる、という提案だった。さらに、ノルト・ベルカと南ベルカを分断させる要因となっている、過去の大戦の傷跡―放射能汚染された旧市街地の無害化を国際プロジェクトとして推進することが決定されたのである。この決定は、南ベルカ市民による総選挙で圧倒的多数の支持を得て実行に移された。南ベルカ国営兵器産業廠、ノース・オーシア・グランダー・インダストリーと名前を変えた大工業地帯は、周辺各国を支える一大民需産業地帯として生まれ変わり、後に南ベルカは各国とベルカを結ぶ玄関口としての機能を果たすこととなる。ベルカの悲願とされたノルト・ベルカと南ベルカの統合が実現するのは、2019年、新生ベルカ独立の時であった。
数年に渡る様々な改革を経て、2019年、新生ベルカは「統一ベルカ」と国名を改め、管理委員会からの独立を果たした。また前述のとおり、諸国の共同統治信託領ではあるものの、南ベルカはノルト・ベルカとの統合を果たし、1995年から分断されたままであった二国は、24年ぶりに一つの国家に戻ることとなった。カーセルバーグの引退後、首相の座についていたイリナ・ハルシオーナは、大勢の市民が集った中央議会前広場で演説し、次のように述べている。
「大きな過ちと長い間の分断を経て、ようやく私たちはベルカという国を再生しました。随分と遠回りをして、その間に失われた人々の命は少なくありません。だから、私たちは二度とこの国が過った道を進まないよう、新しいベルカを作り上げていかなければならないのです。国民の皆さん、どうか、過去のベルカではなく、今私たちの前にある新しいベルカを、新しい時代を生きてください。それがきっと、命を失っていった人たちへの最高の恩返しになる。私はそう思うのです」
市民たちの大歓声の中、引退したカーセルバーグが壇上に上がると、市民たちの歓声はさらに大きくなっていった。2021年現在、国際社会にも完全に復帰したベルカは、オーシア、ユークトバニアと共に融和主義の更なる拡大に協力している。オーシアとユークトバニア間で進められている「共同軍構想」にも参加したベルカは、空母レイヴン航空隊に国防空軍のエースパイロットたちを派遣するようになった。ちなみに、レイヴン航空隊の一員となった若きエースたちは、2010年12月30日の南ベルカ攻防戦においてラーズグリーズ航空隊たちと共に戦った国防空軍――ヴァイス・ブリッツ航空隊に所属する士官たちであった。彼らは、レイヴン航空隊のアグレッサー隊長、マーカス・スノー中佐の下で日々厳しい訓練生活を送っている。スノー中佐は、次のように語っている。
「2010年のあの日から10年以上経って、今こうして国を超えた部隊の指揮を執ることが出来ることを光栄に思うよ。今では、ベルカからのエースも加わって、ますます競争は激しくなっているし、隊員たちの技量も上がっている。……まぁ、彼らの出番が決してこないことが一番なんだが。ここで鍛え上げた連中が、ここで学んだことをそれぞれの国で広めていってくれることを俺は期待しているよ。」
ベルカ大戦から26年、ベルカ事変から11年。ノルト・ベルカは長い道のりを経て、平和を手に入れたのである。