エピローグ from 2021
70年代のジャズソングが静かに流れる店内では、静かな時間が過ぎ去っていく。バーテンがカウンターの中でグラスを拭きながら、実は巧みに客のグラスの空き具合を確認している。待ち人は相変わらず時間にルーズなようで、このペースで飲み続ければ確実に出来上がることは間違いなかった。今日は全額あいつに支払わせてやろう、と3杯目のウィスキーを頼もうとしたところで、静寂を破るように足音を立てながら入ってきた客がいた。
「悪い!遅れた!!マスター、グラスでスタウト一杯!」
「もう少し遅れても良かったんだけどな。そうすれば高いウイスキーをもう一杯いけたのに」
「おいおい、誰のせいで遅くなったと思っているんだよ」
ハマーは上着を脱ぎながら腰かけた。今年のオーレッドは9月に入ってからも暑い日が続き、空調が効いている店内でも彼の額には汗が光っていた。私は遠慮なく3杯目のウイスキーを注文し、彼の顔をさらに渋らせた。彼とこうして会うのは2ヶ月ぶりだったが、今年に入るまでは数年間会う機会が無かったのだ。多少白髪が目立つようになった彼だが、大胆な行動力は未だ健在で、オーシア・タイムズの売上は好調と聞いている。テーブルに置かれたスタウトを一気に飲み干した彼は、ようやく一息ついたらしい。
「大体だな、24週も連載なんて聞いてなかったぞ。遅筆に加えて予定をころころ変えやがるんだから、それを編集する身にもなってくれ。最終稿を危うく次週に回すとこだったんだからな!」
彼の言うように、私は最終稿の執筆に手間取り、デスクや編集の困り果てた顔と表情に囲まれながら、何とか全ての原稿を書き上げたのである。印刷直前の原稿に無理矢理記事を織り込んできたのだろうから、彼が遅れるのは無理も無かったのであった。オーシア・ユークトバニアにおける戦争資料公開が行われた昨年、ようやくオーシアに戻ってきた私に特集記事の執筆を彼が持ちかけてきたのが4月のこと。私の知っている機密に関る部分は別として、改めてベルカ事変を振り返る記事を書いて欲しい、という依頼を引き受けてから早24週間。ここまで長い連載を書いたのは初めてだったが、取材を通じて新たな事実が出てくることも多く、あの戦いを目の前で目撃してきた人間にとっては楽しい期間であったと言っても良いだろう。
「とはいえ、いい記事だったよ。ジャーナリストに戻っても充分にやっていけそうじゃないか?」
3杯目のスタウトを傾けながら、冗談半分本気半分でハマーはそう言う。私は苦笑しながら、その誘いを断るのが日課になってしまった。向こうはそれを承知で言っているのだから仕方ないのであるが。ベルカ事変で疲弊したオーシアは、10年の歳月を経てようやく経済も上向いてきている。ただし、30代〜40代の男性の数が少ない、という状況は、戦争の爪痕が消え去っていないことを示している。戦争の記憶は少しずつ薄れ、ベルカ事変を経験していない世代の子供たちも増えてきてはいるが、あの戦争を過去の一ページ、それこと歴史の教科書の一項目にするには、まだ記憶が新鮮すぎるのであった。
「ところで、今日はもう一人ゲストがいるんじゃなかったのか?」
「ああ、ちょっと遅れているみたいだな。忙しい人だからね」
「おい、いい加減誰だか教えろよ。まさか新しい恋人とかいう悪い冗談はないよな?」
「そんな暇なかったって!その台詞、そっくり返していいのか?」
「それは違うぞジュネット。俺が花を摘んでいるんじゃない、花が俺を呼んでいるんだ」
多少アルコールが回ってきたらしいハマーの肩越しに、店のドアが開き新たな客が入ってくるのが見えた。私の姿を見つけると、昔と変わらない笑顔を浮かべゆっくりと歩いてきた。カウンターでグラスを磨き続けるバーテンの視線がちらりと動き、驚いたような顔が彼の顔に浮かぶ。
「いい店じゃないか。もっと早く連れてきてもらいたかったものだね」
ハマーは酔いが覚めたような表情を浮かべ、そして私を恨めしそうな目で睨んだ。そういうことなら初めに言ってくれ、と彼は考えているに違いない。
「ハッカー、そんな顔をしないでくれたまえ。今日はジュネットに無理を言って頼んだのだからね」
「……お久しぶりです、ハーリング大統領」
「もう元大統領さ。隠居の身がこんなに楽しいものだと知っていたら、一期で辞めとけば良かったな」
ハーリング大統領は笑いながら、注文を取りにきたバーテンに5杯目のスタウトと2杯のウイスキーを頼む。一体どういう組み合わせなのか、と不思議そうな顔をした若いバーテンが首を傾げながら去るのを苦笑して見送った。もう一人のゲスト――ビンセント・ハーリング元大統領は、政界引退後も精力的な活動を続けていて、世に言うご隠居という身分ではまだ無い。同様に政界を退いたニカノール首相は地元に戻り、孫たちに食べさせるための無農薬野菜の生産組合の活動を広げていて、彼らの第二の人生はまだまだ始まったばかりということが出来るだろう。融和主義の担い手として活躍した大統領の後任には、オーシア始まって以来の女性大統領となったサッチャー元報道官が就いたのであるが、その彼女も引退を決め、オーシアでは久々の大統領選挙が盛り上がっている。ハーリング大統領は、彼の推す候補の応援で、内外を飛び回っている、というわけだ。
「どうですか、応援の感想は?」
「なかなか新鮮な感覚だよ。何より、気楽なのが良い。候補が落ちても、自分のせいにならないからね」
そういう大統領が、最も彼の落選を願っていない。もともと政界に縁の無かった彼にとって、大統領選挙は極めてハードルの高い戦いであるし、本人も全く乗り気でなかったのだ。彼が重い腰を上げたのは、子供たちにたまには格好いい姿を見せてあげなさい、と彼の愛妻に蹴飛ばされたからだ。他の候補者に比べれば華は無いが、ゆっくりと語りかけるような彼の姿勢は好評であり、次第に支援の輪が広がりつつあった。ハーリング大統領は、海兵隊を勇退して政治家に転じた自身と同じ道を歩くよう、彼に勧めたのだ。自分で勤まったんだ、君でも結構いけるだろう、と。もし彼が当選すれば、オーシアの歴史上、最年少の大統領が誕生することとなる。ハーリング大統領は、かつての彼のスタッフたちを派遣するつもりで、この選挙に臨んでいるのだった。
飲みすぎたハマーが隣の席で横たわるのを苦笑しつつ、大統領はまだグラスを傾けている。さすがに私も限界が近づき、水のグラスをあおってはいるが、どことなく視界がぼやけているのは上機嫌で飲み続けたせいだろう。もう一人の客が店に入ってきていたことすら、私は気が付かなかった。
「ときにジュネット、一つお願いがあるんだけどな」
そう言われてみれば、ベルカ事変に関する調査を頼まれたときもこんな感じだった。突然、ノルト・ベルカに行ってみないか、という誘いから始まった長い時間の調査の旅。そのときと同じような口調の誘いを聞いてようやく私たちの隣に佇む人物に気が付いて、先ほどのハマーよろしく顔が凍り付いた。
「これからの彼にとって、君の豊富な知識とジャーナリストとしての視点は必ず役に立つ。どうかな、彼の補佐官を務めてみてくれないか?」
2010年のあの日から随分と遠くまで来てしまったものだ。フリーのジャーナリストという立場から離れ、オーシアとユークトバニアとユージアを駆け巡り、そして今度は補佐官。どうやら私の人生の波乱万丈はまだまだ続きそうだった。でも、そんな人生を送ることが出来るのは幸運なのかもしれない。だから、私は右手を差し出した。
「私が役に立つとは思わないけど、これからよろしく、ブレイズ」
――そしてFOREVER――