彼女の甲板の上で
ヘリコプターがゆっくりと降下していく。セレス海の穏やかな潮風がヘリの中をそよぐのはなかなか心地良い。俺たちが降り立ったのは、オーシア第3艦隊所属だったはずの、空母ケストレル。この戦争で幾度も俺たちが出会った彼女は、今日も健在だった。もっとも、その甲板上に艦載機の姿は僅かしかなく、ケストレルを護衛する艦艇も今は錨を下ろして停泊していた。ヘリから降り、彼女の甲板の上に立った俺たちを意外な男が待ち受けていた。パイロットスーツを着た、大柄の男。
「このクソ寒いときに寒中水泳をさせてすまなかったな、ブレイズ。改めて自己紹介させてもらうよ。私はマーカス・スノー大尉。空母ケストレルの第206航空隊の搭乗員……いや、今や唯一の搭乗員になってしまったよ。」
俺もまた敬礼を返し、自己紹介を返す。空では何度も共に戦った仲だが、こうして顔を合わせるのは初めてだった。空母ケストレルはユークとの戦いで激戦を戦い抜き、今日まで一発の攻撃も受けずにいたが、航空隊を構成する搭乗員たちは一人、また一人と減っていき、そして最後にスノー大尉だけが残ったのだった。いや、彼しか生き残ることが出来なかったのだ。彼の部下の多くが、俺たちが沈めたリムファクシからの攻撃で一瞬にして命を奪われたのだという。スノー大尉はその仇を討ってもらえただけでも感謝しているよ、と言ったが、本当は自分自身の手で仇を討ちたかったに違いない。
「スノー大尉、ところで、ケストレルはこんな海域で何の任務を?いや、それ以前に私たちを受け入れてしまって大丈夫なのですか?」
スノー大尉は豪快な笑い声をあげた。
「いや、失礼した。実はな、私も含めて今やケストレルは開店休業中なのさ。搭乗員のいない空母などただの箱だからな。……後でブリーフィングがあるが、今ケストレルも私も、既にオーシア軍の指揮下には無い。私が従うのは、アンダーセン艦長ただ一人だ。君たちを救出するよう命じたのも、艦長なのさ」
アンダーセン艦長が?今スノー大尉は、ケストレルはオーシア軍の指揮下にない、と言った。つまりケストレル隊は独自の判断で動いているということになる。こんなことが発覚すれば、アンダーセン艦長とて軍法会議ものであるだろうに。なるほど、状況は違えど、俺たちとケストレル隊は似たもの同士というわけか。
「さて、引き止めて悪かった。君たちの部屋も用意してある。まずはその冷え切った身体をなんとかしてもらわんとな。新しい部屋に案内するよ」
大尉の提案は、大歓迎だった。塩水に浸かった身体を熱いシャワーでとにかく流そう。考えてみたら、まるまる2日間、シャワーを浴びる暇がなかったのだから。
士官用の個室を割り当てられた俺は、2日ぶりの欲求を満たした。そして新品の軍服に袖を通す。海軍航空隊用のものであるのは仕方無いが、今更オーシア軍の階級を考えても仕方なかった。俺たちは脱走兵、いや、敵性スパイとして認識されてしまったのだから。母国の両親たちのことを考えると心が痛むが、今の俺にはやるべきことがあった。
部屋の電話がコール音を上げた。
「やあ、ブレイズ。そろそろ着替えも終わったかね?」
おやじさんだった。いや、凶鳥フッケパインとして名を馳せた大佐、と呼ぶべきだろうか?
「疲れているところ申し訳ないが、集まってもらいたい。君がいるフロアの一つ上にあるブリーフィングルームまで来てもらって良いか?アンダーセン艦長が我々に話したいことがあるそうだ」
「分かりました。ところでおやじさん、俺たちは今後おやじさんを何と呼べばいいんですか?」
「……すまなかったな。そんな昔の話をしなければならない時が来るとは考えもしなかったよ。今までとおり「おやじさん」と呼んでもらいたいね。私が戦闘機乗りだったのは、もうずっと昔のことなのだから」
「了解です。おやじさん。これからすぐに向かいます」
「ああ、待ってるよ」
受話器を置き、俺は一旦ベットの上に横になった。色々なことがありすぎて、頭がまだ混乱している。この2日間で、俺たちの置かれている立場は激変してしまった。オーシアの兵士たちは、俺たちが裏切り者だったと聞いてどうするのだろう?いや、それ以上にこの戦争はどうなってしまうのか。陰で両国を操る者たちに弄ばれ続け、疲弊していくだけなのだろうか?考えなければならないことがあまりに多すぎた。今は、余計なことを考えない方が良さそうだ。俺は起き上がり、まだ慣れない空母の廊下を歩き出したのだった。最も、部屋の場所が分からず、通りかかった甲板員に案内してもらう羽目になったのだが。
「さて、まずはウォー・ドッグの諸君。生還おめでとう。良く敵の追撃から逃れてきてくれたものだね」
アンダーセン艦長は入ってくるなり、敬礼で迎える俺たちにそう声をかけた。乗組員達から絶大な信頼を得ていると聞くが、なるほど納得がいく。艦長はブリーフィングルームの正面の席に腰をかけた。その隣にはおやじさんが既に腰を下ろしている。
「脱出から充分に休む間もなく出撃してもらうのは申し訳ないのだが、本艦隊に配備された「アンドロメダ」がベルカ語の暗号通信を傍受してね。解読してみたところ驚いたよ。オーシアから姿を消したハーリング大統領の居場所が分かったのだ」
艦長は、戦線拡大路線を取った政府の異変を見抜いていたのだ。そして恐らく、作戦行動の合間を見て独自に情報収集に努めていたに違いない。艦長の指示で、おやじさんが手元の端末を操作する。モニターに映し出されたのはオーシア北方の地図。そう、ノルト・ベルカの地だ。かつてこの辺りに存在したベルカ人たちの都市は核攻撃によってクレーターと化し、今でも放射能を放ち続けている。まるで、命を奪われた人々の怨念のように。
「先の戦争の傷跡とも言えるクレーターからさらに北方へ行ったところに、17世紀に建てられた古城がある。ハーリング大統領はこの城の一室に監禁されていることが分かった。彼を拉致し、監禁しているのは……もう君たちに敢えて説明する必要も無いだろうが、ベルカの亡霊たちだ。ブレイズ、君たちには、大統領救出に向かうシー・ゴブリン隊を援護してもらうことになる。敵の戦力は分かっていないが、ノース・オーシア・グランダー・インダストリーはオーシア・ユーク両国の資金を自分たちの兵力増強に回していた。戦闘機も含め、相当の戦力を配置している可能性が高い。」
おやじさんの言葉を艦長が引き継ぐ。
「君たちには、大統領救出作戦への参加をお願いする。それからスノー大尉」
「はっ。」
「君はブレイズ君たちと共に作戦に参加したまえ。君ならば、ラーズグリーズの悪魔と呼ばれた彼らに充分付いていけるだろう。ブレイズ君、彼を頼む。作戦開始は明日!今日は、ゆっくりと身体を休めてくれたまえ。以上だ、解散!」
おやじさんが、サンド島から離れるときに言った言葉を俺は思い出した。国は無くなっても、人は生きている。生きていれば、まだやれることがある。……俺たちは表面的には死んだ身。だが俺たちは生きている。いや、俺たちだからこそ出来ることがあった。
夜の海を見たくなった俺は、また迷いつつも甲板の上に出た。空には満天の星空。この空の上を、一体何度飛んだのだろう。俺は空を見上げたまま、立ち尽くしていた。
「ブレイズ?」
甲板のへりに腰を下ろしていたナガセが俺に気が付いた。
「おいおい、落ちたらどうするんだ。さすがに今度は凍え死ぬぞ」
「大丈夫。波も静かだし、風も無いし。どうしたの?」
「いや、何となく星が見たくなってさ」
俺は彼女に並んで、再び空を見上げた。聞こえてくるのは、波の音と風の音ばかり。夜の闇に静まり返った海。俺たちはしばらく、無言で空を見上げていた。沈黙を破ったのはナガセだった。
「ねぇブレイズ。私、やっぱり生きていて良かったと思う。おやじさんの言葉じゃないけど、私たちにはまだ出来ることがあるのだもの。いえ、私たちだから、今出来ることがある。私は、何があっても大統領を助け出したい。この戦争を早く終わらせたい。そう思う」
「俺もだ。陰で両国の間に憎しみを生み出した連中こそ、俺たちが戦うべき敵だ。そのためにも、大統領は必ず助け出す。……大丈夫さ。これまでも、俺たちは何度も苦しい戦いを生き抜いてきたんだ。今回もうまくいく。ナガセ?」
「何?」
「俺の後ろを頼む。そしてまた皆で無事に戻るんだ」
「ええ!私は必ず1番機を守る。2番機は、誰にも譲らない」
ナガセは、多分俺がこれまで見た中で最高の微笑を返してくれた。俺もまた、彼女達を必ず守る。皆で無事に生還すること。それが俺が俺自身に課したタスクなのだから。
在るべき場所にようやくたどり着いた俺たちの戦いは、今ようやく始まったのだ。