ハード・トレーニング
雲が、山が、切り立った崖が、そして青い空が、物凄い速度でキャノピーの外を流れ去っていく。民間航空機の航路からも外れたセルムナ連邦の上空域は、エメリア軍に属する戦闘機部隊の格好の訓練空域。機体操縦習熟のために、山の峰の間を縫うようなコースを取らされることもあれば、より実戦的な経験値を積む目的での模擬戦も実施される。そして今、俺が搭乗している愛機はそのセルムナの峰と峰の間を縫うようなコースを高速で飛行している。これが昔の計器盤しかないような機体だったら、自殺行為といっても良いだろう。それを普通にこなしていたという昔の戦闘機乗りたちの感覚というものを、俺はあまり理解出来ない。勘とセンスと度胸――精神論に満ち満ちた発想で戦闘機を飛ばす時代は終わった、という教官の言葉は正しいと思う。前席で操縦桿を握るスパンクラー中尉とは、その点で意見が一致していることもあって、妙に気が合う。狭いコクピットの中に、男二人が乗り込むのだ。相性が良くなければやってられない。後席担当――兵装システム士官としては新米の俺ではあったが、中尉はそんな自分を信頼し、相棒として扱ってくれる。ならば、その期待に応えないわけにはいかないじゃないか。俺は姿勢制御画面と航法用画面モニターの操作を素早くこなしつつ、「目標」の姿を探して首を巡らせる。複座形の機体のメリットの一つは、二人の目で索敵を実施出来ることでもある。新たな愛機F-15Eの完熟訓練はいよいよ仕上げに近付いていたし、兵装システム士官としての役割をどうにか上手くこなせるようになった――少なくとも滑走路を飛び立つ前、俺はそう思っていた。確信していたと言っても良い。だけど、それは自惚れに過ぎなかったと今思い知らされている。険しく切り立った山の間を潜り抜けるのは、航法管制補助を得られるこの機体ではそれほど難しいことではない。近代化の施されたこの機体の潜在的な能力は極めて高いことがこれまでの訓練でも良く分かったし、数回の模擬戦において遅れを取ったことはない。だから、今日だってうまくいくさ、と思っていたんだ。

「マクフェイル少尉、そっちから敵は見えるか?」
「ネガティブ。雲の中を低空に向かったきり、肉眼では確認出来ません」
「一体どういう神経しているんだ、彼らは?」

今日の模擬戦の相手は、首都防空軍第8航空団でも名が知れた「エンジェル隊」の隊長機と2番機、そして同じ第8航空団の教導隊に属する教官機の2機、合わせて4機だった。教導隊が所有するF-15CにはF-15Eに搭載されているような近代的な支援装置は搭載されていない。昔ながらの計器盤のに埋め尽くされたコクピットのはずなのに……。驚いたのが、エンジェル隊の隊長機と教導隊の1機だ。彼らはよりにもよって、この険しい山地帯の低空、それも雲に覆われ視界も最悪のはずの低空へと躊躇することなく飛び込んでいくのだ。山脈の複雑な地形にかき乱されるのか、時折彼らの姿はレーダーからも消えてしまう。上空と低空とに分かれた敵部隊相手に、最新鋭機6機で固めているはずの俺たちの部隊は、文字通り翻弄されていた。

鬼教官コンビ 「ほらほら、そんなゆっくり飛んでたらカモになるだけだぞ、プルトーン1!」
「あまり油断するなよエンジェル1。一応向こうは最新装備だ。……使えねえなら宝の持ち腐れ、だがな」

この野郎!エンジェル1に応じた低い音の声に、俺はカチンと来た。地形をうまく利用されているかもしれないが、まともに戦って遅れを取ることはないはずだし、何より性能の差がある。HUD画面とレーダー画面との間を忙しく行き来させながら、俺は敵編隊のルートを読み解いていく。姿は見えないったって、現代戦は肉眼で敵を視認するわけではない。低空、雲の下、山の地形に沿って飛んでいるに違いない敵機のアタックポイントさえ読めれば、こちらにはいくらでも打つ手がある。複数のディスプレイが配置されている後席用のモニター。その地形表示画面とレーダー画面とを見比べながら、敵のコースを追う。こちらの右前方、2時方向辺り、高度は恐らく4,000〜5,000フィート付近。上空を抑えている点では、こちらにアドバンテージがある。

「プルトーン3、降下して出方を探る。プルトーン1、プルトーン2、援護を頼む!!」
「了解したプルトーン3。この間みたいに仕留めて見せるぞ!」

ぐるりと機体を回して、3番機が降下していく。レーダー上、その前方から教官編隊。速度、高度変わらず。模擬戦だから実弾が発射されることは無い。だが、そのための機動は本物だ。こちらは右方向に緩旋回。雲を突っ切って上昇してくるであろう敵部隊の接近に備える。3番機、雲の中へと消える。教官編隊は、その至近距離。真正面。もしかしたら両方とも3番機に食われてしまうかもしれない、という考えが頭に浮かぶ。

「どういうことだ!?ロスト!敵機を確認出来ない!!」
「プルトーン1、スパンクラーより、慌てるなプルトーン3、敵は貴機の目前だ!」
「ネガティブ!レーダーでもいかれたのか、畜生め」
「お前の腕が悪いのさ、プルトーン3。まだまだだな」
「そういうことだ。レーダーロック……ロックオン。タリズマンよりプルトーン3、お前は撃墜された。尻尾を巻いてさっさとどいてろ」
「りょ、了解」

何が起こったのか分からない、というように3番機が応じる。いくら雲の中と言っても、F-15Cの姿が物理的に消えるはずが無い。じゃあどうやって「消えて」みせたんだ!?余裕の余地が無くなり、そしてはたと気が付いた。3番機の突入によって上空へとあぶりだされるであろう敵編隊を確実に撃墜すべく、こちらは旋回しながら高度を下げている。彼我の高低差は先ほどよりも大幅に縮まっていた。F-15シリーズの推力なら、ほんの少しの加速で同高度に辿り着ける程度の差……!!

「スパンクラー中尉、高度を上げてください!」
「教官殿たちの狙いはこれか、畜生ッ!!」

まるで雲を振り払うかのように、教官機たちが姿を現す。すぐさま編隊を解き、左右に素早く分かれた2機は勿論こちらの射線からとっくに外れている。それだけではない。低空から高空へ。ポジションはめまぐるしく入れ替わり、今度はこっちが不利な体制。このまま低空にあるのは絶対的に不利。こちらも空を駆け上がるしかない!わざわざそんなことを言葉で確認してから行動していては戦闘機パイロットなど務まるはずも無い。当初の戦術を捨てて、スパンクラー中尉が機首を跳ね上げて上昇に転じる。Gが圧し掛かってきて、視界は真っ青な空へと入れ替わる。狭苦しい山の中ではなく、壁の無い空での戦闘なら望むところとばかり、前席の意気込みが伝わってくる。一足早く上空へと駆け上がった2機の姿は、すぐに見つかった。だがその姿に違和感がある。エアブレーキが……開いている?次の瞬間、ガクンと背面からF-15Cが倒れ込む。後ろをとったはずが、ヘッド・トゥ・ヘッドだって!?瞬く間に縮まる彼我距離。レーダーロックをかけている暇などあるはずもない。攻撃を諦め、機体をロールさせながら射線上から逃れるのが精一杯だった。そんなこちらを嘲笑うかのように、轟音と衝撃が機体を揺さぶる。ごくごく至近距離を教官機が通過していった証だ。振り返ると、低空へと飛び去るF-15Cのアフターバーナーのきらめきが見えた。ぐい、とGの方向が変化し、前席がループでの追撃を選択したことに気が付く。あれはエンジェル1ともう一人のどちらだろう?天と地が逆転し、真っ逆さまに大地へ向かって降下するF-15E。そんな僕らの前方に、例の教官機の姿が見える。

「どうやらお前たちはもう少し慣れが必要のようだな……付いて来いプルトーン1。もんでやる」

僕らの相手は、あの低い声の方らしい。そして、ここ何回かの模擬戦の成績に自惚れていた自分の実力を痛感する。あの余裕。それもこれだけの難所で、最新鋭の近代化支援を持たない機体で、こちらに追撃させるつもりなのだ。悔しいが、自分とスパンクラー中尉のコンビと、あの教官の間には相当な経験とノウハウの差があることは事実だった。

「マクフェイル少尉、地形のデータを頼む」
「了解。こっちも意地を見せましょう!」

前席のMFDの一つに地形データ画面を表示させつつ、こちらもレーダーと地形データ画面に意識を集中させる。勢い良く雲の中へと突入していく教官機は、こちらに捕捉される様なヘマはしない。巧みに機体を振り回しながら、ほとんど減速することも無く白い霞の中へと消えていった。こちらも続けて雲の中へと突入。左右に切り立った崖との距離は十分にある。高度も問題なし。問題があるとすれば、こんなところをこんな速度で飛行するその行為自体であるに違いない。レーダーに映し出される教官機は……呆れたことに、少しずつこちらからさらに離れていく。それは広角HUDで「目標」の姿を捉えているスパンクラー中尉にも分かっている。スロットルレバーがさらに押し込まれ、エンジン出力が上がる。ここから先の地形は、左右に峰が折れ曲がる複雑なコース。カーブに備えて、機体は左方向にバンク。タイミングを図って、さらに角度がついたターンへ。スパンクラー中尉の腕を俺は信頼していたけれども、山肌に跳ね返るジェットサウンドが聞こえてくるような気がして、そして鳥肌が立った。それは前席で操縦桿を握る中尉も同様なのだろう。言葉を発することも無く、操縦に集中している姿からは「話しかけるな」という言葉が滲み出ている。水平に戻したと思ったら、すぐに右方向へバンク。Gの方向が入れ替わり、機体はさらにターン。時折雲が切れて白い山の姿が視界に入るが、なかなか完全にクリアになることが無い。濃霧の中を車で運転している時のような気分。速度は数倍上。姿勢移動を何度も繰り返しながら追撃戦は続く。悔しいことに、こちらは追い切れていない。地形に不慣れということも手伝って、彼我の距離は少しずつ確実に開いていく。まずいな、と心の中に焦りが生まれ始める。これではいけない。地形データをもう一度睨み付けて、教官機のコースを先読みすべく目を凝らす。左右へと曲がりくねるこの裂け目を、「目標」は引き続き飛び続けている。だが、このまま追撃している限り、こちらに勝ち目は無い。ならば……!3つ目のカーブの先、右、左ときつく曲がる地形の先が、比較的長めの直線になっている。そして、山自体にはそれほどの高さが無く、再び谷へと落ち込んでいく。これならそれほど急激な上昇下降を繰り返さなくとも再び谷の中へと突入出来る。勝負を仕掛けるなら、ここだ!

「スパンクラー中尉、ショートカットで仕掛けましょう。3つ目の旋回の次、タイミングはこちらが知らせます」
「分かった、3つ目だな?」
「そうです。まずは……1つ!」

翼を立てて大気を切り裂くように旋回していくF-15Cの後姿を捉えながら、こちらも左方向へと旋回。少しして、右方向へ。緩やかな旋回の次は、少しきつめの左旋回だ。

「これの次です!水平に戻したら高度を上げてください!……3つ目……ここです!!」

教官機にコース変更なし。それに対しこちらは高度を上げて谷から一旦飛び出す。少し高度を稼いでから180°ロール。地形データと再突入ポイントを頭上に確認しつつ、再び水平へ。レーダー上には、相変わらず谷に沿って飛行を続ける教官機の姿。タイミング的にはばっちり。再突入時にちょうどその後背をミサイル・機関砲双方で狙える絶好のチャンスとなるはず。スパンクラー中尉、レーダーロックを開始。地形に邪魔されてロックオンすることは出来ないが、HUDの上を教官機のマーカーが左から右へと動いていく。そして、目標は待望の直線ポイントへ。こちらは少し上空から、白い雲を吹き飛ばすようにして谷の中へと再突入。真正面に目標を捉え……いない!?レーダー上はほとんどマーカーが重なりそうな位置だというのに?俺は慌てて首を忙しく巡らせて、自分の目で目標を捜し求める。いない。発見出来ない。

敗残の仲間たち 「くっそ、レーダーには映っているというのに!!マクフェイル少尉、そっちはどうだ!?」
「ネガティブ。視認出来ません!!」
「読みは良かったんだがな……俺は付いて来いと言ったんだ。ルール違反の悪い子には、お仕置きが必要だな」

刃を向け合っているのならばともかくとしても、この時俺は明らかに殺気を感じた。ぞっとするような悪寒を感じて見上げた真上。白い雲の中に、うっすらと影が出現する。こっちの……真上だって!?

「敵機視認!本機の真上!!回避してください!!」
「もう遅い。チェックメイトだぜ」

こちらのコクピットのすぐ傍を、教官機が轟然と通り過ぎていく。教官の言葉通り、俺たちはジ・エンド。実戦だったら至近距離で機関砲を喰らい、二人ともミンチか消し粒になっていたに違いない。こちらを「葬った」F-15Cが、垂直上昇に転じて空を駆け上がっていく。残りの同僚たちを「狩り」にいくのだろう。そして敗北した機は手出しは許されず、戦闘終了まで蚊帳の外で待っているしかないのだ。自らの未熟を噛み締めながら。グウの音も出ないような敗北にスパンクラー中尉の肩は震えていたが、それでもゆっくりと高度を上げて戦域外へのルートを取る。レーダー上、既にうちの部隊は自分たちを除いて3機が撃墜済み。ということは、残る2機は教官たちの袋叩きに遭うということだ!少しはやれるようになっていた、というのはどうやら自惚れ以外の何者でもなかったらしい。今回は、そんな俺たちの天狗の鼻を叩き折るための模擬戦ということなのだろう。為す術がない、とはまさにこのことだ。相手の位置は捕捉していたし、攻撃のタイミングが無かったわけでもない。だが、終わってみれば相手の圧勝。限られたチャンスをモノにすることが出来ず、逆に教官たちは数少ない機会を最大限に利用して、こちらを討ち取っていった。経験と才能とセンス。その全てが圧倒的な相手に、俺たちは勝負を挑んでしまったらしい。これが実戦なら、明後日には墓地にに真新しい墓碑が12個並ぶことになっただろう。強烈な平手打ちを浴びて蒼白になっているのは、どうやら自分たちだけではないらしいというのがせめてもの救いだったが、程なく、残りの2機が「蜂の巣」にされてやって来るとそんな気分は蒸発してしまった。「完敗」の二文字が頭と心に刻み付けられたようなものだ。セルムナ連峰の白い山肌に散ったのは、俺たちの脆い天狗の鼻とプライドと過信――上には上がいるという至極当然の原則を刻み付けられた俺たちには、悄然として基地に戻る以外の術が残されていなかったのであった。
本来の所属基地であるシルワート航空基地に比べて、格段に設備も整い、規模も大きいグレースメリア基地。その滑走路に舞い降りた後も、俺たちの気分が晴れるということはなかった。デブリーフィングは尚更気分を急降下させるのには絶好の機会。タネが分かれば何てことは無い。教官たちは山と谷と雲を巧みに利用して、減速上昇・テールスライド・反転攻撃という機動で俺たちの部隊を翻弄したのである。一度、実際に目の前でやられたわけだが、まさかそんなにいいようにやられていたとは思いもしなかった。最後に俺たちが例の教官機にやられたのも、そのパターン。デブリーフィングの場で、「エンジェル1」ことアルバート・ハーマン大尉は、「クラーク・スパンクラー中尉とウルフガング・マクフェイル少尉はミンチ決定。今日の戦闘では一番酷い死に様だな」と宣告してくれたものである。機体の性能に頼り過ぎ、そして折角の高性能装備の習熟不足、部隊としての連携不足、エトセトラ。グウの音も出ない指摘に部隊員全員が蒼白な顔となった。そんな俺たちの姿を満足げに見回したハーマン大尉は、俺が最も恐れていた言葉を口に出したものである。「全員トレーニングウェアに着替えて15分後に格納庫前に集合!」と。

着替えての再集合が行われた理由は明白。ハーマン大尉の呼び名は、やはり彼に相応しいものであると再認識させられた。もっとも、今日に関しては「悪戯好きな天使」の方であるが。

「おらおら、お前たちは全員撃墜されたんだ。死ぬよりよっぽど楽だろう?」
「天使とダンスなんざ100年早い!よぼよぼ婆さんの尻振りダンスの方がましだぞ!!」
「ああそうそう、一人でも脱落したら残りの奴に1セットずつ追加な」

等々……しかも本人が一緒になって走っているんだから、俺たちがサボれるはずも無い。滑走路脇のルートを、正確に6往復させられた俺たちは、格納庫前に到着するとそのまま倒れこんでしまった。こんなに走ったのは久しぶりだ。それも、こんなハイペースで途中に良くぶっ倒れなかったものだと思う。明日は筋肉痛決定というところか。スパンクラー中尉に至っては、ゼエゼエという息を吐きながらコンクリートに突っ伏している。上半身を何とか起こして一息つくと、目の前には涼しい顔をして笑っているハーマン大尉の姿があった。

「若いっていうのはいいな。それだけ早く回復出来るのも30を超えるまでだぞ、少尉。それまでにきっちりと鍛えておくなら別だがな」
「何だか……このまま空挺部隊か海兵隊にでも入隊できそうな気がします」
「そうかぁ?俺たちの頃はこれが普通だったんだがな。最近は教える側も少しぬるくなっちまったようだな」

そう言ってカラカラと笑う大尉の姿に、俺はもう苦笑するしかなかった。体力にはそこそこ自信があるつもりだったのに、年齢も上のハーマン大尉にこれだけの差を見せ付けられるとは。今日はとことん、がっくりとさせられる一日なのだろうか?部屋に戻ったらネットの「今日の占い」でも見てみるか、という気になってきた。部隊の仲間たちは、まだ地面に転がったまま起き上がる気配が無い。一応、この中では体力自慢は出来そうではある。ハーマン大尉を除けば、だが。おや、他の教官たちは?デブリーフィングでもエンジェル隊の二人だけで、例の凄腕の教官殿たちの姿は見ていない。

「ところで……ハーマン大尉。今日自分たちをミンチにして下さった教官殿はどちらへ?」
「んー?ああ、タリズマンのことか?あれから帰る途中な、エストバキアとの国境方面に領空侵犯機の情報が入ったもんで、あいつらはそっちに回ったんだ。最近領空侵犯が増えているのはお前さんらも知っているだろう?」
「東部軍閥の……ドブロニク上級大将でしたか?先日の国内向け演説の映像は見ましたが……まさか、エストバキアが攻め込んでくるとでも?」
「おいおい、今は「金色の王」の時代じゃないんだぞ。それにお前さん、エストバキアの内実を知らないわけではないだろう?」

そんなことあるわけないだろう、と笑ってみせる大尉の眼光は、しかし笑ってはいなかった。ここしばらく収まっていたはずのエストバキア軍機と見られる航空機による領空侵犯回数が、確かに増加しつつあるのだ。国境を接しているエメリアとしては、当然穏やかにいられる話ではない。

エストバキア連邦――アネア大陸の東部を占めるこの隣国とエメリアの関係は、友好関係にあると言っても良かったに違いない。少なくとも、ユリシーズの破片がエストバキアの大地を切り刻むまでは、だ。ユージア大陸を中心に世界中に災厄を振り撒いた隕石の群れは、奇跡的にもエメリアを避けていった。だが、大気圏まで燃え残った大きな隕石片は、為す術を持たないエストバキアの人々の頭上に襲い掛かり、産業を、経済を、政治を、そして無数の人命を一瞬にして奪い去った。その後に始まった軍閥同士による内戦は、エストバキアの荒廃を拡大再生産するだけのものでしかなかった。同じ民族同士の凄惨な殺し合いは、「東部軍閥」を中心とした軍政が確立されるに至って、ようやく終結を見る。「将軍たち」と呼ばれる上級将官らによる統制で、隣国は10年以上遅い復興へのスタートラインに立ったばかり。その間に失われたものを取り返すには、相当長い時間と膨大なコストを要することになる。エメリア政府もその復興を後押しすべく、公式に国家予算の数パーセントに達する大規模支援を実施する決定を、議会に提案しているところだ。隣国の安定は自国の安全と同義である以上、エストバキアにはいち早く復興してもらいたいというのがエメリアの本音だろう。ただ懸念材料があるとすれば、今のエストバキアを動かしている人間の大半は軍人たちであることだ。そして、軍政に移行したとはいえ、根本的な経済復興策を指導部は打ち出しきれていないこと。統制経済体制は時と場合によっては意味を成すが、これだけ市場経済が浸透した現代においては一方的な統制が海外資金の流入をシャットアウトしてしまうこともあり得る。「経済」が崩壊したまま10数年が過ぎた隣国では、そのノウハウが失われてしまったのではないか、と俺は思うときがある。内戦で傷つき果てた、哀れな国――それが、エメリアでの一般的な認識であるに違いない。

ようやく立ち上がった俺は、早速筋肉痛の兆候を伝え始めた腰を伸ばし、そして太ももとアキレス腱を良く伸ばしてほぐし始めた。未だに起き上がれない同僚たちに同情しつつ、明日に不要な疲れを残さないように、緊張したままの筋肉を解きほぐしていく。それを怠ったばかりに、ブチンと嫌な音を立てて切った左のアキレス腱の激痛を味わうのだけは二度とご免だ。

「おお、マクフェイル少尉は元気だな。それに引き換え、なんだなんだお前らは!?飛行機の乗り方ぁ少し覚えたからって、それを扱い続ける体力落としているんじゃ意味ねぇんだぞ!!今日はこれで勘弁してやるが、明日以降俺たちが相手する時は毎回走るぞ。この際だから、俺様が徹底的に鍛え直してやるからな。楽しみにしておけ」

改めて顔面蒼白になった同僚たち。まあ確かに、もう少し体力があるべきだという大尉の指摘はその通りかもしれない。それを楽しみに出来るかどうかは分からないけれど、少なくとも今後もエンジェル隊との訓練の機会が得られることは喜ぶべきだろう。

ダッシュ! 「時に、マクフェイル少尉。タリズマン……今日、貴官たちをミンチにした教官殿から伝言を預かっている」
「え?あ、はい、あり難く頂戴します」

ハーマン大尉は、これ以上無いくらいに嬉しそうな笑みを浮かべた。トレーニングウェアに着替えることを命令した時よりも、さらに嬉しそうだ。嫌な予感がする。

「"ルール違反は良くないが、俺を出し抜こうとする度胸と状況分析の正確さは気に入った。今度俺の後席に乗せて揉んでやるから、覚悟しておけ"……だそうだ。良かったな、お前さん、あのカタブツに気に入られたらしい。それと、"俺のフライトはハードだから、体力を付けておけ。4セット追加!"だとさ。良かったな、少尉、健闘を祈る」

鬼教官!多分、今までの訓練の中で出会った教官たちの中で、最もタチの悪い上官に俺たちは当たったらしい。結局今日は直接会うことが出来なかったけれど、その機会が得られた日には必ず皮肉の一つもぶつけてやる!そう心の中で誓った俺は、疲労の溜まった足腰に鞭打って走り始める。

「若者はいいなぁ。それに引き換え、何だお前ら、その体たらくは!お前らも1セット追加だ!!腕立て千回と好きな方を選んでもいいんだぞ!?」

同僚たちの悲鳴を背中越しに聞きながら、俺はもう一度「鬼教官め!」と心の中で叫んだ。パイロットを海兵隊か特殊部隊と勘違いしている脳天気な教官たちに当たるなんて、俺たちの部隊は本当に運が悪い。畜生、こうなったらとことんやってやるさ!半ば自棄になりながら、俺は足を踏み出すテンポを少しずつ上げていく。夏のジリジリした日差しと、カラッとした風の心地よい感触を感じながら、滑走路脇のランニングルートを走っていく。地上でもがくそんな俺たちを嘲笑うかのように、滑走路上を加速したF-16Cが飛び立っていった。
「天使舞う空、駆け抜ける鉄騎」ノベルトップページへ戻る

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