「真実」の価値
カメラのサブ・モニターに映し出される「OBCナイトニュース」のタイトルロゴの姿が、普段とは異なり重々しくレベッカには感じられた。今の自分はOBCのゴールデンタイムに放映されているニュース番組のメインキャスターなのだ、と言い聞かせて、努めて平静を装っているつもりではある。だが、職場で仕事を共にする人々は、言わばそういった表と裏とを嗅ぎ分ける嗅覚に敏感な者ばかり。自分の故郷の街の窮状を伝える立場がどれだけ辛いものか。さらに加えるならば、きっと殺してもタダでは死なない相手が良人であるとはいえ、未だその所在が掴めないことも、自然と彼女の表情を厳しいものに変えていることくらい、彼らはお見通しであった。そんな彼らに余計な心配をかけさせてしまっていることが、レベッカにとっては悩みの一つとなりつつあった。
「こんばんは、OBCナイト・ニュース。レベッカ・エルフィンストーンです。今日はまず最初に、現在もエメリアへの進駐を続けるエストバキア軍と「将軍たち」を主体とする軍政部による国際社会批判会見からお伝え致します。なお、本日行われましたOLBチャンピオンシップ決勝、モンキーズ対バッドソックスの試合の模様は、番組を延長して後半でお伝えします。現在、延長12回の表、同点のまま試合はなおも続いています。
さて、11月30日の朝、エメリア共和国の首都グレースメリアにおいて、現在同国を占領下に置いているエストバキア軍政部による記者会見が行われました。8月の侵攻後、グレースメリア支局に留まっていた支局員たちも招かれて行われた会見の模様を、まずはご覧下さい」
映像が切り替わり、画面には壇上の後ろにかけられた赤い国旗と、エストバキアの軍服を着た男の姿が映し出される。だいぶ前、各国からの緊急支援に対して感謝する旨を伝えたドブロニク上級大将の姿ではなく、どうやら軍政部付の広報官らしい。その胸元や襟元の階級章から、彼が佐官待遇を受けていることが知れる。
『今日は、アネア大陸の安定と平和を目指して旧エメリア領内における融和を進める我が国の政府を代表し、この試みを不当に非難、協力を拒むために不誠実な対応を続ける国際社会に対し、エストバキアの正義を改めて伝えたい。グレースメリアを始めとしたエメリアの市民たちは、欺瞞と策謀に満ち満ちたエメリア旧政府の手により、偽りの安定と平和を享受させられ、本来彼らが得るべき利益を直視する機会を持たなかった。得るべき利益とは即ち、アネア共同体の実現による、アネア大陸の安定と平和である。旧エメリア政府は、我らが祖国の裏切り者である「リエース派」と手を組み、不埒にもその勢力圏を祖国全土にまで広めようとした。侵略とは、軍事力によるものだけではない。旧エメリア政府は、その不当な手段により得た汚れた資金力と経済力によって、我らが祖国を貶めようとしていたのである。これは「リエース派」の討伐により、既に周知の事実として認識された「真実」である。
今や、エメリア国土はこれ全て我らが祖国により安定を取り戻し、再建への一歩を踏み出し始めている。しかしながら、我らに理解を示さないいくつかの国々は、我らの正義を「侵略正当化のための大義名分」として不当な非難を行い、自らの愚かな画策に協力する国を集めようとしている。その結果として、エメリアの人々が正常な生活を行うために必要な生活物資・医療物資は欠乏し、経済の再生への道程すら描けない状況に我々は陥れられつつある。殊にオーシア政府による「事変調査団」派遣については、我々は断固としてこれを拒否すると共に、この受入れなくば援助に応じないとするオーシア政府の非人道的な対応をこの場で明らかにし、強く非難するものである。諸国にもご理解頂きたい!!
また、エメリア市民に対する非人道的な行為が行われていると報じた報道機関があるが、彼らの属する国家のプロパガンダ情報を鵜呑みにして事実を伝えない姿勢が報道機関として正しいものかどうか、彼ら自身で再考すべきである。非人道的な行為とやらは、旧エメリア政府の戯けた栄光を懐かしむ残党勢力が我々を貶めるために行った蛮行に過ぎない。今や、彼らに安寧の地はない。良心を持ったエメリアの兵士たちは、我々と共に力を合わせていく選択を是とした。確かに、残党勢力が完全に駆逐出来ていないことは事実であり、我々の不徳の致す所ではある。だが、彼らの命運は最早尽きている。協調の可能性を諦めず、今日まで我々は交渉の場を拒否したことは無いが、彼らは一度として話し合いには応じようとしなかった。話し合いが出来ないのならば、残る手段はただ一つである。近日中に、我々は断腸の思いで残党勢力を駆逐することになるであろう。これは彼ら自身が招いた結果である。アネアの平和と安定を乱す者こそが、アネアの人々の想いを踏みにじると彼らは身を以って知る事になるであろう』
デスクの上に転がった、真っ二つにへし折れたボールペンを指で弾き、レベッカは胸ポケットから長年使い込んできたペンを取り出した。放送局が用意するプラスチック製のペンは、こういう時に頼りない。その点、良人が贈ってくれたこのペンは安心出来る。何しろ、その材質ときたら戦闘機と同じ素材を使っているとの触れ込みなのだから。ちらり、と横を見た彼女は、"指だけでボールペンをへし折った"姿に目を白黒させているマクワイト記者の何ともいえぬ表情に苦笑せざるを得なかった。画像がひとまずスタジオに戻される。表情を元に戻し、例の犠牲者たるボールペンをテーブルの下へと落として、レベッカは口を開いた。
「――それでは、グレースメリア支局で取材を続けているスミス記者とインターネット電話が通じています。少し聞き辛いかもしれませんが、現地のレポートを聞かせてもらいましょう。スミス記者、お願いします」
『はい、グレースメリア支局のスミスです。先日の広報官の記者会見でも伝えられている通り、グレースメリア市での生活物資・医療物資の欠乏は日々深刻なものになりつつあります。身の回りのものですと、例えばストーブ等の暖房器具や、それらを使うために必要な灯油が、今のグレースメリアでは占領前の実に50倍という単価で取引される実状のため、一般市民の手元には行き届かないのです。このため、従来のエメリアでは考えられないことに、11月に入ってから年配層を中心に凍死者の被害が広がり始めています。また、彼らの言う残党勢力、即ちエメリア軍の中でエストバキア側に帰順した部隊というものは実は皆無と言っても良い状態で、戦闘の末投降した部隊が多数存在すると言った方が正確です』
「スミス記者、それではエメリア軍の残党勢力は、未だにエメリア各地で抵抗を続けているということでしょうか。先程の会見の内容と、現実との間にかなり乖離が見られるように感じられますが……」
『ええ、全くその通りだと思います。エメリアの西部地域には今でもエメリア軍の残存部隊が篭城している都市が多数あり、未だに散発的な戦闘が続いている状況です。そして、これがグレースメリア市の窮乏にも直結しています。戦地の部隊を維持するために必要な燃料・食料・資金といったものが軍需優先で使用される結果、民需に回される物資が枯渇していく悪循環に陥っているのです。会見とは別に伝えられている軍政部の方針によりますと、この状況を抜本的に改善する方策が近々公表されるとのことですが、その具体的内容が何を指しているのか、今のところ明確な回答はありません』
「スミス記者、ありがとうございました。また後程レポートをして頂きますので、待機していて下さい」
『分かりました』
再び画像がスタジオ内に戻される。どうやら元のビジネススマイルを取り戻したらしいマクワイア記者が「準備良し」と頷くのを確認してから、レベッカは再び話を進める。
「マクワイト記者、現地のレポートと今回の会見とで、全く相反する事実が伝えられているわけですが、エストバキア軍政部が敢えてこのような会見に踏み切ったのは、どういった背景があるのでしょうか?」
「はい、エストバキアはご存知の通り長い内戦に晒され続け、ようやく統一を果たしたばかりです。このため、世間一般的に認知されている経済活動の概念を、軍政部の担当官たちがほとんど理解していません。簡単な例を挙げてみますが、ある契約に基づいて、メーカーが製品を作り、納品に来たと仮定します。製品を受け取った依頼者は、契約に基づいて代金を支払うことになるわけですが、エストバキアによる占領後は、「その金額は不当な価格である。我々の考えるこの価格が妥当である」と言って根拠も示さずに一方的に価格を設定するようなことがエメリアで横行しているのです。ある食料品メーカーの話では、もともと畑に撒く種の代金が妥当であるとして、本来の金額のわずか1/50しか支払いを受けられなかったという被害が出たとのことです」
「それはひどい話ですね」
「そうなんです。そして、これがエメリアの物資欠乏を加速させている要因の一つでもあります。エストバキア軍政部はエメリア周辺国との商取引の全てを停止したわけではないのですが、先程述べたような状況が続いているため、むしろ取引を行う企業側により拒否されているため、思うように物資の確保が出来ないのです。今回の会見は、そうした軍政部の焦りを背景にしている……そう分析するのが妥当です」
マクワイトは一旦話を区切りながら、足下に置かれていたボードを取り出し、デスクの上に置いた。それは、戦争が始まる以前、国際社会がエストバキアに対して実施しようとしていた復興支援計画に関するものをリバイスしたものであった。ざっと見れば内容は簡単に分かる。復興支援のうち、実施されたものが一つも無いのだから。それを○×で明示すると、はっきりと状況が分かる。
「今ご覧頂いているボードは、エストバキアに対する復興支援に関しての各国の現在の対応をまとめたものです。先のドブロニク上級大将の会見からそれほど時期が経たずに戦争が始まったこともあり、ほぼ全ての国が支援自体の凍結に踏み切っているわけです。なおユークトバニアのニカノール首相は、エメリア政府首班からの要請であれば「あらゆる」支援に応じる用意はある、として、エメリア臨時政府のカークランド首相との合意を軍政部が得ることを条件に掲げ、実質的に軍政部との交渉自体を停止しています。そういった状況のため、今のエメリアに対しては、善意に基づくボランティアからの支援や、国際赤十字による医療支援といった非常に限定的なものに限られた支援しか行われていないのが実態です」
「この状況を受けて、オーシア政府が新たなガイドラインを打ち出していますね?」
「はい、大統領の諮問機関からの提案がきっかけなのですが、一部の閣僚たちをメンバーとした特別委員会設立の動きが出てきています。これはエメリア国内において横行していると伝えられている民間人に対する非人道行為の実態調査のため、先の「事変調査団」から一歩踏み出して、相応の防衛戦力を有する調査部隊を派遣することを検討するとしています。この計画には、エストバキアの旧友好国であったユークトバニア政府も賛同する意志を伝えてきており、国際社会はこのような外交的外圧も活用しつつ、現状を改善する働きかけを今後強めていくことになると想定されます」
「では、ここでスミス記者に改めてお話を伺いたいと思います。スミス記者、お願いします――」
夜の帳が下りたエメリアの空気は、さすがに寒い。暖房を効かしたコンテナの中とはいえ、窓からの冷気が室内気温を押し下げていくのだ。夕食時を迎えた部下たちが一斉に集まると、食堂兼会議室のコンテナの中は手狭。ついでに言うなれば、むさ苦しい。別の基準を設けて、もう少し女性パイロットを優遇しておけば良かった――パステルナークは、冗談抜きでそんなことを思い浮かべていた。ノイズ混じりの画面に映し出されているあの女性アナウンサーみたいな綺麗どころが二人いたら全然違うだろうに。もっとも、余計な問題が発生することは必至であり、それはそれで彼の頭痛を増やしていたに違いない。ま、仕方ないわな、と呟いて、パステルナークは目前に置かれたバスケットからナンを取り出し、少々刺激的な色で満たされたボウルに突っ込んだ。ちなみに今日は、ナンタラ豆のカレーらしい。
「いっそノストラをグレースメリア市に派遣して、レストランを開かせるってのはどうだろ?」
「いいアイデアだが、エメリア本来の料理文化が廃れちまうんじゃないか?カレーに侵略された、と言われて襲撃されるのがオチだろ」
「それ以前に、うちの名コックが抜けたら毎日缶詰だぜ」
一同、げっ、という表情を浮かべて沈黙する。エストバキア軍でも勿論軍用レーションの一式は整備されているし、祖国で生産された缶詰は定期便として部隊に配属されている。だが、それが兵士たちの味覚を満足させているかと言えばそうではない。栄養重視、味は度外視と完璧に整理された軍用食だけでは、気が滅入るばかり。そんなわけで、ヴァンピール隊のように料理が得意な兵士がいる部隊は、あるいみ大当たりと言えるだろう。ちなみにパステルナークは部隊費の一部を使用して、堂々と必要経費としてスパイス代を請求している。それで部隊の士気ほ高く保てるのであれば、安い出費である。
OBCの電波を辛うじて拾ったテレビ画面では、グレースメリア市に残っている記者の現地レポートが続けられている。市内ではOBCの番組を見ることなど物理的に出来ないだろうが、余計な妨害のかかっていない辺境戦区であれば話は別である。隊によっては厳罰ものらしいが、どうせプロパガンダのスパイスがごってり効いた広報部の報道など嘘っぱちと相場は決まっている。だったら、痛烈な批判を浴びせられることを覚悟した上で「真実」を知っているべきだろう――そう考えて、パステルナークは自ら率先してこの部分だけは軍規を破っている。グレースメリアだけでなく、エストバキア占領下の都市全体の問題を提起する記者の声が聞こえてくる。全く、俺たちは寄生虫そのものだな、と自嘲気味にパステルナークは床を見下ろした。そこに置かれた電気ストーブは、軍部からのありがたい配給であるとして、実はエメリアの市民たちの家から強制的に奪い取ってきたものの一つであった。
「そういや隊長、さっきの広報部のすかした野郎の面白い話聞いてます?」
「あの顔見れば良く分かる。あの野郎、きっと自分自身が変態野郎で、市民たちを夜な夜な苦しめているんだろうさ」
「私もそう思いますが、きっとこの話を聞くとスカッとすると思いますよ。少し前ですがね、あの野郎、一撃食らわせられたうえに最高の啖呵切られて、何日か寝込んだらしいですよ。何でも、とってもいい声の可愛い子ちゃんに「天使とダンスしてな!」ってね」
「天使とダンスって……あー、あれか!へぇぇぇ」
表立ってその話が出来る部隊はきっと少ないだろうが、ラジオの電波に乗って伝わったその少女の啖呵と、一撃喰らった広報部の人間の情けない悲鳴とは、末端の兵士たちの笑い種となっていた。パステルナークにとっては残念なことにオンエア中に聞くことが出来なかったのだが、後から聞いて胸の空く思いがしたのは事実である。なるほど、その時蹴倒されたのがあれね。上にゴマすって人を蹴落とすことしか考えられないくせに、情報を扱うことだけは長けているという、要は軍人として使い道の無い男がひっくり返ってのたうちまわっている姿を思い浮かべて、パステルナークは非常に愉快な気分になった。
「じゃ、子猫ちゃんに傷心状態からようやく立ち直って、あの演説をぶったというわけだ。いやはや、我が祖国の重大発表をするのがあんなのじゃ、大将たちも大変だ。あれじゃあ、「ボクちゃん嘘言ってます。でもお金くれないとヤバイことしちゃいます。だから金寄こせ」って言ってるようなもんだ」
「奴はもともと正規軍で行き場が無くて広報部に回されたクチだそうですよ。んで、リエース派にくっ付いて、その後色んなネタ抱えてうちに転がり込んだんだとか」
「うちの大将もあんなの押し付けられちまって良い迷惑だろうに。グレースメリア市民が聞いてないのが奴の幸運だな。もし聞いていたら、俺なら今度はとても恥ずかしい目に遭わせてやる」
「裸に剥いて柱に縛り付けるとか?」
「いいや、赤パンツだけ着けさせて縛り上げて、"ご自由に蹴飛ばして下さい"と腹に書いてやるのさ。下向きの矢印も書いてな。市民たちの厄払いも出来るし、グレースメリア市内が少しだけ平和になって、一石二鳥」
コンテナの中に、笑い声と拍手喝采とが響き渡る。OBCのアナウンサーたちも、まさか当のエストバキア軍人がこれだけ盛り上がっているとは思うまい。クエスタニアの一件で都落ちを強いられた部隊の面々にしてみれば、裏でコソコソやらかしている味方こそ憎たらしくて仕方ないのである。機体整備士の中にもクエスタニアと一緒に送り込まれてきた奴がいるが、例の一件以後は随分と従順になったものである。奴の辿った末路を目の当たりにして、どうやら心を入れ替えたらしい。クエスタニアと違って腕も人格も良いので、パステルナークは見て見ぬ振りをしている。
「盛り上がってるところ悪いんですがね、少しは手伝って下さいよ。台所だって立派な戦場なんですからね!!」
「お、コック長。悪いがナンとカレー、お替わりを頼む」
「台所では私が先任です。隊長もご自分でどうぞ」
「やれやれ、都落ちしてからロクなことない……」
この寒いのに額に汗を浮かべたノストラの姿にバツが悪くなったパステルナークは、バスケットとボウルとを持って、コンテナの外にある台所に向かう。ドアの外は予想通り真冬の風吹き抜ける草原。冷たい風とが相まって、余計に寒い。吐く息が白く煙り、風に乗って流されていく。調理キットの上に乗せられた鍋は全体が湯気に覆われているようで、周囲には香辛料の効いた匂いが漂っている。メニューの数が少ない点についてはグレースメリア市民とあまり環境は変わらないのだろうが、こうやって暖かい空間と暖かい食事を満喫出来る分、今のパステルナークたちは恵まれているのだろう。
だが、グレースメリアの窮状を伝えている記者たちは知るまい。その状況ですら、天国のように感じられるような地獄を。それは、陽気な彼であっても笑って済ませることの出来ない、心の傷跡だった。崩れ落ちた建物。道端に石ころのように打ち捨てられた亡骸。砂と灰とにまみれて、灰色一色に染め上げられた故郷の無残な姿。わずかな食料を求め、隣人同士が殺し合う極限の状態。その状況にさらに輪をかけるように始まった内戦。さっさと復興に見切りを付けて亡命していった高官たちの一部は、エメリアでのうのうと新生活を謳歌し始めた。彼らが苦しみ脅えるのは自業自得だろうが、祖国の大義とやらがエメリアの人々に同じ苦しみを与えるつもりだというなら、一体軍人として戦う意義がどこにあるというのか――適うものなら、ヴォイチェク隊長と語り合いたいものだ、とパステルナークは思った。
適当な量のナンとカレーを盛ったパステルナークは、コンテナの脇に積まれた木箱の上に腰を下ろし、隣の箱の上にボウルを置いた。時折コンテナの中からはどっと笑い声が聞こえてくる。その様子を眺めながら、彼は胸元から古びた小さなペンダントを取り出した。それまでの陽気な顔から、笑みが消えていた。そっと開かれた蓋の中には、端が焦げた一枚の写真と、白い紐で縛られた赤い髪とがあった。無言でペンダントの外縁を指でなぞり、開いた時と同じように蓋を閉じた男の口元に、寂しげな微笑が浮かんだ。
「お守りの効果だけは未だに健在ってのはなぁ……。カレーもいいが、お前のボルシチが食べたいもんだ」
夜空を見上げながら呟いたパステルナークの声は、草原を吹きぬける風の音にかき消され、耳にした者は一人もいなかった。氷点近くまで下がった気温と、強い風のおかげか、今日は瞬く星たちの姿が良く見える。こんな夜空から、あんな物騒なものが降ってくるなんて、普通は誰も考えないに違いない。だがそれは起きた。だから、パステルナークは夜空を見上げることがあまり好きではない。心の奥底の古傷が疼き出すような感触を覚えるから。空から地上に視線を戻した彼の目は、冷たい風に吹かれながらも凛と立つ鋼鉄の翼の群れを捉えている。今や1機だけとなったCFA-44を囲むように、血の色をまとったSu-33たちが翼を休めている。
そういえば、「天使の落書き」のダチだという、エメリアのもう一人の凄腕は今頃どうしているだろう?サン・ロマにいたという話を最後に、その後の消息は知れない。ただ、そんな凄腕を落としたという話も聞こえてこない。なら簡単だ。奴は死んでいない。いつの日か、再びエメリア本土にその姿を現すに違いない。奴なら、強敵を求めて止まないこの心の渇きを潤してくれることだろう。
「た、隊長、隊長っ、隊長ぉぉぉぉぉ!!」
「どうしたコック長。冷たくされたから折角いじけていたというのに」
「冗談言ってる場合じゃないですよ!!とにかく通信室まで来て下さい。食堂も大騒ぎです。ケセド島の我が軍が、エメリアの残党軍にしてやられました!!」
「ほぉぉ。やるじゃないか」
「大敗した残存部隊はバルトロメオ要塞に立て篭もったらしいですが、エメリア軍はどうやら予想よりも遥かに強大な戦力をケセドに集結させていたようです。西部方面軍の再編成が始まるらしいですよ」
どうやら、予想は当たったらしい。サン・ロマから撤退していったエメリア軍部隊の多くは、最終的にケセド島へと逃れていったと聞いている。もし、例の凄腕がその中にいたのであれば、ケセドでの戦いに参加しているに違いない。俄かに慌しくなってきた前線基地の雰囲気が、心地良い。――面白くなってきやがった。先程までの寂しげな笑みはすっかりと姿を消し、今やパステルナークは貫禄たっぷりの精悍な微笑を浮かべるのだった。
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