意地の散華
情報と実態がこれほどかけ離れているとは思わなかった。何が大陸最強の戦闘集団か。何がエメリアは飼い馴らされた臆病な羊の集団か。同胞たちが直面したエメリア軍の「残党集団」は、エストバキア軍を凌駕する団結力と戦闘力を発揮し、見事シルワートの重囲を噛み破ることに成功した。それだけでなく、今や羊の群れと化した同胞たちを追撃する狼の群れと化した。後方――かつてのエメリア首都グレースメリアでのうのうと安泰を享受する上層部の人間たちは、実態が全く分かっていない。信じたくは無いが、父親ですらそうなのか――?そう考えると、戦闘中であるにもかかわらず、イレーナの胸は締め付けられるような痛みを覚えるのだった。だからこそ。だからこそ、あのエースだけは落とさねばならない。エメリアの兵士たちを絶望の底から蘇らせる原動力となりつつある、あの鳥のエンブレムのF-15E。シルワートの惨敗はもう覆す事は出来ないが、せめてその代償として、あのエースの翼は頂いていく。敗北を避けられなかった指揮官の一人として出来るせめてもの償いが、それだ――自らの技量でかなう相手ではないとは承知の上で、だ。

真後ろに付いていても、安心する気分には全くなれない。まるで後ろにも目が付いているかのように、イレーナの狙いはかわされていってしまうのだ。それが彼女の気持ちをさらに追い詰める。この距離ではまだ遠い。もっと、もっと近くからの致命傷を叩き込まなければ。敵が右へ、左へ、機体を振る。あれは何とかしてこちらを振り切りたいからこその挙動だ。追い詰めているのは、私だ――!今までの相手ならば、そう確信する事が出来た。なのに、絶好の好機のはずなのに、自分が後ろに付かれている様な悪寒を消し去る事がイレーナには出来なかった。そんな迷いを見透かしたかのように、照準レティクルからするりと外れていく敵機。ここが勝負どころ、とイレーナは敵機との距離を一気に詰める。接近戦では最も得意とする、すれ違いざまのガンアタック。先ほどのF-16Cに一撃を与えた時と同じように、今度は図体の大きなF-15Eに致命傷を与えてやる。今やはっきりとエンブレムが視認出来る距離。ここだ。機関砲のトリガーに指をかけた、まさにその瞬間だった。軽く前へ沈み込んだと思った敵の機首がぐんと跳ね上がり、天上を向く。視界を覆うように猛禽の胴体が圧し掛かってくる。大丈夫、付いていける。愛機の機動性は敵に負ける程度のものではない、いける。Gリミッタを解除しつつ、イレーナは操縦桿を強く引き寄せる。

紙一重で激突を回避したイレーナであったが、安堵のため息をつく暇は与えられなかった。一撃を与えようとした際の加速が仇となり、減速し切れなかった愛機は、敵の前方へと飛び出してしまう。コクピットの中に鳴り響くのは、レーダーロックの心地良い電子音ではなく、狙われている事を告げる不吉な警告音。

「しまった――!」

追い詰めていたはずが、追い詰められていたのは自分だった。罠に嵌められたことを悟り、焦燥感は最高レベルに引き上がる。まんまとしてやられた自分の迂闊さを呪いながらも、自分の知り得る限りの回避機動を行うべく、スロットルレバーと操縦桿を握る手に力を込める。一瞬振り返った視界に、敵機の姿がはっきりと捉えられる。攻撃態勢に入っているその姿は、まさに猛禽の名を冠するに相応しい――自らを窮地に追い込んだ敵機を忌々しげに睨み付けて、もう後ろは振り返るまい、とイレーナは心に決めた。


形勢逆転!予想通り、オーバーシュートを狙っている事に気が付いていなかった敵機を間近に捉える事に成功。カナード付デルタ翼の敵機が、早速持ち前の機動性を活かして逃げにかかろうとする。その鼻先に向けて、タリズマンは短く発砲。赤い火線が吸い込まれるように虚空を貫く。針路を塞がれた敵機が反対方向へとロール、急旋回。だがそちらはタリズマンが誘い込んだ方向。見越してターンしたこちらの真正面で舵を切ったようなものだった。そういえば、模擬戦でもこんな感じでミンチにされたはずだ。まんまと正面に誘き出された敵機に対し、再びタリズマンがトリガーを引く。敵機は翼を立てて急旋回へ。だがその胴体に火花が爆ぜ、破片が飛び散った。浅い。まだ致命傷にはならない。煙を引きながら必死に逃げようとする敵機を、タリズマンは無言で追う。

『隊長、無茶です!撤退を!!』
『――隙ありだ、落ちろ!』
『ガリク!!……このまま一矢も報えずに、私は落ちられない……来い、鳥のエンブレム!!』

ビバ・マリアが撃墜したのは、俺たちが追撃している敵機の僚機だった。炎を噴き出しながら真っ逆さまに落ちていく敵機から、パイロットがベイルアウトする気配は無い。やがて、シルワート郊外の原野に火球が一つ、膨れ上がる。ここまで圧倒的な差が付いた状況では、もう俺の仕事は余り無い。ディスプレイを操作して、レーダーモニタのレンジを拡大する。エストバキア勢力圏からの増援の気配も無く、ただひたすらに逃れ行く敵軍を友軍部隊が激しく追撃している。後は、いつ攻撃中止命令が出るか、そのタイミングだろうか。余り深追いする事は得策とは言えない。敵の勢力圏まで踏み込んで、しっぺ返しを喰らった事例は歴史上に溢れている。恐らく、シルワートの安全圏を確保出来る距離が目安になるだろう。

そして、白いラファールは煙を引きながらも必死の回避機動。機動性を活かして俺たちを振り切ろうとするが、行く先をタリズマンに予想されてしまっている状況では無駄な足掻きに近い。俺たちの周囲には、既に対抗機のいなくなった友軍機が旋回していて、敵機を包囲しているような状況。撤退は最早不可能という絶望的な状況で、あの機体を操るパイロットは自分の意地を賭けて立ち向かってくる。良く言えば正々堂々と、悪く言えば無謀な抵抗。敵機、左方向に機首を振る。と、勢い良く機体が回り、反対方向に急旋回。フェイント。それを嘲笑うかのように、タリズマンは一足早く旋回態勢。再び敵機は俺たちの真正面に飛び込んできてしまう。と、敵機のカナードが最大角度に開くのが見えた。急減速した敵機の姿が、急速にその姿を拡大させていく。先ほどのこちらの戦法を逆手に取ったようにも見えるが、機体をぶつけてでも俺たちを止めようとしたのかもしれない。タリズマンが鋭い舌打ちを鳴らしつつ、愛機をロールさせる。バランスを崩しながら裏返っていく敵機に対し、すれ違いざまにガンアタックが叩き込まれる。主翼に、胴体に、機関砲弾が命中するたびに火花が爆ぜ、破片が飛び散った。真ん中から砕かれたカナードの破片が、ひらひらと虚空を舞う。欠片を撒き散らす敵の左下方へとタリズマンは機体をダイブさせる。至近距離で敵機との衝突を回避――しかけた瞬間、バンバンバン、という破裂音と共に、コクピットが震動した。

その拍子に何かの破片がコクピットの中を跳ね回る。見れば、俺の仕事場たるモニター群のうち一つがダウンしている。スロットルを押し込んで愛機を加速させ、敵機から距離を確保し、反転。あの状態で、敵はまさに最後の一矢を俺たちに向けて放ったのだ。だが、その代償は大きかった。満身から黒煙を吹き出しながら、高度を下げていく。既に推力は失われ、滑空しているような状況。もう戦闘能力は残っていないだろう。トドメを刺す必要もない、と言いたげに、タリズマンは機を水平に戻した。

散華 『祖国の栄光が……こんなところで……』

弱々しげに聞こえてきたその声は、あの機体に乗るパイロットのものだろうか。キャノピーが跳ね上がる気配も無く、敵機はシルワート郊外の原野に向けて落ちていく。脱出装置が作動しないのか、負傷して操作自体が不可能なのか。結局ベイルアウトすることも無いまま、敵機は低空へと姿を消していった。

「やれやれ、少ししくじっちまったか。無事か、相棒?」
「自分は問題なしですが、電気系統がやられたかもしれませんね。モニター一つ死んでます。他、致命的な損害は無さそうです」
「だな。火災発生の気配もなし。敵さんの意地を見誤ったぜ」
『シャムロックよりタリズマン、外から見る限り、やばそうな損害は無い。穴は開いているがな』
「ありがとよ。さて……周囲に敵影なし、か。ガルーダ1、タリズマンよりゴースト・アイ。周辺空域に敵影なし、駆逐完了。追撃部隊に加勢するか?あまり弾丸は残っちゃいないが」
『いや、その必要は無い。――良くやってくれた。シルワート戦域における敵部隊の壊滅を確認。作戦終了だ』

たちまち、無線は歓声によって飽和した。どうやら戦闘停止命令が出たのだろう。エストバキア軍を猛追していた地上部隊の進撃が停止し、いくつかの集団に分かれて集結を始めている。きっと、どのチャンネルも兵士たちの歓声で埋め尽くされているに違いない。オルタラに引き続き、エメリア軍はグレースメリアへの道程をまた一歩、進めることに成功したのだ。しかも、オルタラの時とは異なり、圧倒的な戦力で押し切ろうとしたエストバキア軍を跳ね除け、逆に壊滅寸前まで追い込んでの勝利だ。これで喜ぶな、騒ぐな、と言う方が無理な話であろう。そして、戦闘を終えた航空部隊が合流を開始する。白いラファールによって被弾したジュニアを除くレッドアイ隊は4機とも健在。続けて、アバランチ、ウインドホバー、スティングレイの各隊が集結。そして、ミラージュで構成されたスカイキッド――北部防空軍第3航空軍第4飛行隊が隊列に加わる。被弾はしているものの、撃墜された機はどうやら無いらしい。

『ふう……やれやれ、命拾いをしたぜ。改めて礼を言わせてもらいたい。スカイキッド……スティーブン・マッカーシーだ。これからよろしく頼む』
『同感だ。こっちはスティングレイ、ジャスティン・スズキだ。対地攻撃なら、俺たちに任せてもらいたいもんだぜ。よろしく頼む』
『顔合わせは基地に下りてからにしろ。そろそろ燃料切れになる奴らもいるだろう?今は1機も欠くわけにはいかない情勢だ。損傷の大きい機体から優先して着陸しろ』
『こちらスカイキッド。こっちはまだ踊り足りないんだがな』
『ウインドホバーよりスカイキッド。よせよせ、今は言う事を聞いておけ。怖いママの言う事は聞いておくもんだ。それで行方不明にされた奴もいるからな』
『マジかよ!?』
『大マジだ。夕飯抜きのオマケまで付いた。悪い事は言わないから、従っておけ』
『お前たち……黙って聞いていれば好きなことを……』

ゴースト・アイの声のトーンが1オクターブ下がると、ナスカとブルーマックス、そしてレッドバロンのわざとらしい悲鳴が聞こえてきた。どうやら、新たに加わったメンバーたちも、この数ヶ月の激戦を生き延びてきただけあって、曲者揃いらしい。ゴースト・アイの悩みの種がまた増えたな、と少しだけ同情してみる。

『ビバ・マリアより、ガルーダ1。機体の損害状況はどうか?』
「ま、問題ねぇだろ。エッグヘッドの方のモニターが死んだりしているようだから、ひょっとすると電気系はアウトかもしれないがな。ま、乗ってる方はピンピンしてるぜ。安心したか?」
『そうか、それだけ確認出来ればいい』

素っ気無い返答の声が、何となく落ち着いたような感じに聞こえたのは気のせいだったろうか?ふと視線を上げてみると、タリズマンがこちらを見ている。バイザーとマスクに覆われた顔から表情は読み取れないが、きっとニヤニヤした笑いを浮かべているに違いない。またからかわれる材料を献上してしまったことに舌打ちしつつ、ま、それも悪くないだろう、と思う自分がいる。今日くらい、大勝利の余韻に浸ってもきっとバチは当たらないだろう。姿勢を少し緩めて体重をシートに預けようとした途端、今度は派手な音楽が聞こえてきた。どうやら、自由エメリア放送の電波ジャック・ライブが始まったらしい。雑音交じりではあったが、どうやら聞こえてきたのは「フェイス・オブ・コイン」。今日みたいな日には、ピッタリの一曲だった。
たった一つの報告が、その場の空気を一変させることがある。旧エメリアの首都グレースメリア首相官邸の一室は、もたらされた一報によって空気が凍り付いた。かつては、ラバン・カークランドが座り、「居心地が悪いねぇ。まるで死刑台みたいですねぇ」という失言を招く現場となった机の向こうで、ティーカップを持ったまま、グスタフ・ドブロニクは言葉を失っていた。

「……その報告に、訂正の余地は無いのか、ズムバッハ少佐?」
「はっ、レズナック中佐。現場を確認した兵士から複数の報告が上がっており、情報の信頼度は……残念ながら訂正の余地がありません」

もう少し言い様があるだろう、と言いたげにエヴァン・レズナックが事実を淡々と告げる青年士官を睨み付ける。一方で、細身の眼鏡の舌で感情を抑えるようにしながら、青年士官――ニルス・ズムバッハは、長年ドブロニクの副官を務めて来たベテラン士官の視線を受け止めていた。沈黙の天使が室内をしばらく漂う。ため息と共に何かを吐き出すようにして沈黙を破ったのは、ドブロニクだった。ズムバッハがもたらした一報――「イレーナ・ドブロニクがシルワート市の戦闘において、鳥のエンブレムによって撃墜され、戦死した」との報告を聞いた瞬間、強張った表情は姿を消していたが、その代わりに仇を目の前にしたような険しい表情が彼の顔には張り付いていた。

「事実は分かった。貴官が知り得ている範囲で構わない。状況をもう少し詳しく報告してくれ」
「分かりました。更なる詳細は、戦闘から辛うじて生還したシュトリゴン隊のパイロットの報告が最も良いかと思いますが、小官が把握している限りの内容をお伝えします」

ズムバッハは、片手に携えたバインダーに時折視線を動かしながら、イレーナ・ドブロニクの軌跡を追う。父の出した撤退命令を拒否し、現地司令を「同朋の退路を確保することこそ大義」と説き伏せて強行出撃したこと、シュトリゴン隊と戦闘状態にあった敵航空部隊の戦域に突入・共闘していたこと、敵部隊の一機には少なからぬ損害を与えたこと、彼女の引き連れた部下は全機撃墜されたこと、シュトリゴン隊も被弾し離脱したシュトリゴン12を除き全滅したこと、そして……「鳥のエンブレム」の戦闘機動に翻弄され、搭乗機が致命傷を負ったこと――それらの情報を適度にまとめながら、ズムバッハは報告を進めていく。

「機体の操縦自体は可能だったようですが、戦闘時の負傷もあって不時着時にハードランディング。機体は大破し、その際の衝撃で致命傷を負ってしまった模様です。第一発見者の兵士がコクピットから救出した際には既に息は無かったとのこと」
「その兵士はイレーナ様だとどう判断したんだ?」
「"ベガ"の白い機体を操るエースは、我が軍にただ一人だけ。……大変申し上げにくいのですが、不時着時に頭部と顔を強打したため…… 判別は階級章やタグで確認したそうです」

目を閉じて報告を聞いていたドブロニクは、天を仰ぐようにして、改めてため息を吐き出した。レズナックは無言で首を降り、上官のデスクの上に置かれている写真立てに視線を向けた。その写真立てには、ユリシーズ以前の平和な時代に撮影された家族の写真が飾ってあることを彼は知っている。母君に似てお美しい方だったのに、と呟いた彼をちらりと見ながら、ドブロニクは先を促した。

「……現地部隊からは、ご遺体の処置について問い合わせが入っております」
「特に考慮の必要は無い。我が娘だからといって、この戦いで散った同朋と同様に扱え」
「しかし……!」
「ニルス。私とて、娘を故郷に眠る我が妻と共に眠らせてやりたい。だが、それではいかんのだ。これまで、多くの同朋が祖国に戻ることなく散っていった。イレーナも一兵士として死んだ。……だから、堪えてくれ」
「閣下……そう、そうですね。この指輪も、彼女の身元を証明してくれました。もしかしたら、導いてくれたのかもしれません。公私混同と言われましょうが、お許しを頂けるのであれば、せめて埋葬だけでも自分の手でしてやりたいと思います」
「私の分も頼むよ。不肖の娘ではあったが、我が血を分けた娘。そして、君の妻になる予定でもあった娘だ。あれも喜ぶことだろう」
「ありがとうございます。この戦いが終わるまでは、とずっと言っておりました。私も、その志を継いでいきたいと思います」

自らの義理の息子になる予定であったズムバッハの話を幾度か頷きながら聞いていたドブロニクは、ゆっくりと立ち上がり、そして執務室の窓際へと寄った。窓の外には、グレースメリアの街が広がる。最も寒い時期を迎えつつある街並は、どこか寂しげでもあった。勿論、その背景には、グレースメリアを含む占領地の経済を困窮させている占領政策があるのだが。

残されし者は 「――さて、残された我々は、我々にしか出来ない役目を果たす義務がある。そして、過ちは速やかに修正する必要もある。ズムバッハ少佐。確か、貴官ら行政部が作成した占領政策の新プランがあったな。あの時の資料をもう一度見せて欲しい」
「は、しかし、グレースメリア市民保護の観点から行き過ぎた措置を修正する必要があるものとして、既に廃案としましたが……」
「構わん。どうやら我々は、エメリアという国家と人民に対する考え方を一新する必要があるようだ。彼らは大人しく我々の統治を受け入れるような人民ではなく、彼らにとっての祖国を守るためならばどこまでも強力に抵抗する事のできる者たちなのだ、とな。その事実を、娘は身を以って教えてくれたのかもしれない。――ならば、我々が取るべき道は一つしかない。占領地に対する政策を全面転換する。そのように行政部に伝えよ」
「閣下、再考を。その選択肢は、ようやく機能し始めたエメリア市民との関係を損ないますぞ。地下抵抗運動の火を自ら撒くようなものです。イレーナ様のことはお気の毒でしたが、だからといって自ら足元を揺るがせる必要がどこにありましょうや?」
「レズナック、差し出された手と違う手に、彼らはナイフと小銃を隠した民族と分かったのだ。ならば、誰が統治者であるのか、それを徹底的に教え込む時だ。現状を放置することこそ、我々の足元を揺らがせる元凶かもしれないのだ――!」

その結果として、娘は失われた、という言外の言葉を受け取ってしまい、レズナックは口を噤まざるを得なかった。窓辺に突き出された拳が、ぶるぶると震えている。今日まで、可能な限りエメリアの民との宥和を進める判断を下してきたのは、他ならぬドブロニクであった。その忍耐が限界を超えてしまった今、元の鞘に戻るという選択肢は無い。まして、その判断が「誤りだった」と口にした今、敢えてその怒りに火を注ぐ必要はあるまい――レズナックは大人しく引き下がることを決める。

「では、小官はこれにて。占領政策プランについては、本日中にお届けします」
「ああ、よろしく頼む」

隙の無い敬礼を施したズムバッハの姿がドアの外へと消える。窓辺にたたずみ、窓の外へと視点を固定していたドブロニクだったが、レズナックはその背中が微かに震えていることに気が付いた。エメリア軍の反攻はプロパガンダ放送が連日言っているような生易しいものでは決してなく、電撃戦で雌雄を決しようとしたエストバキアの目論見は確実に撃ち砕かれつつある。長引くエメリアとの戦いによって、一時は潤ったはずの物資・資金は欠乏の兆候を見せ始めている。だからこそ、公私混同との非難を承知の上で、ドブロニクは娘を最前線から引き戻そうとしたのだ。最前線、それも空での戦いともなれば、緒戦でシュトリゴンのヴォイチェクを撃墜し、その後も多大な損害をエストバキア軍に対して与えてきた「鳥のエンブレム」が間違いなくやって来る。かつて操縦桿を握っていた者として、その技量の高さはドブロニクだけでなく、レズナック自身も把握していた。――だが、イレーナは父親の想像よりも、遥かに軍人として大人であった。その潔さは軍人としては評価に値するに違いない。だが、父親としてはどうだろう?ユリシーズの悲劇と長きに渡る内戦で、大半の同朋が家族を失っている状況下において、数少ない家族の生き残りが失われるということの重大さは、平和を享受し続けてきた者たちには理解が難しいに違いない。空を見上げたまま身動きしない上官の姿を、レズナックは正視することが出来なかった。

「馬鹿め……全ての順番が違うだろうが……。老兵だけが生き残って、どうなるのだ、イレーナ」

その問いに応える者は、この場にはいない。レズナックが恭しく一礼して部屋から去った事にも気が付かないまま、グスタフ・ドブロニクは厚い雲に覆われたグレースメリアの空を呆然と見上げ続けるのだった。


この日、エストバキア軍はシルワート市の戦いにおいて侵攻部隊に甚大な損害が発生し、撤退を強いられた事実を大々的に報じた。「将軍たち」を構成する高級士官たちの連名かせ記された声明文の最後は、以下のような一文で締め括られることとなる。曰く、

"同朋に無為な出血を強いたその責任は、無益な挑戦を続ける残党どもだけでなく、その暗躍を期待する旧エメリアの市民も負うべきものである。悪党に期待する者どもよ、その代償が高くつくことを弁えよ。身の程を知れ"

とあった。それは、エストバキア占領地に対する、更なる弾圧の始まりを告げる不吉な狼煙だったのである。

「天使舞う空、駆け抜ける鉄騎」ノベルトップページへ戻る

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