闇夜に散る・前編
夜の帳が下り、灯火管制が強制されたグレースメリアの市街は、黒い闇の中に溶け込んでいる。ダウンタウンなどまで行くとその傾向はそらに強まり、当然のことながら人の姿は僅かにしかなく、真冬の到来した街では犬や猫の姿すら見るのが珍しい。もっとも、別の理由で数自体が減少しているのも事実ではある。死んだように息を潜めるグレースメリア。その一角で、マグライトが何本か、強烈な白い光を発しながら激しく揺れ動いていた。石畳を叩く硬い軍靴の音と、時折聞こえてくる怯えたような悲鳴が、響き渡る。だが、「何事か」と顔を出す住民は皆無。我関せず、と厄介事に巻き込まれる事を何よりも恐れる人々にとって、それは見るにも値しない「面倒事」なのであった。

ガラン、という派手な音に続いて、人の身体が転がる鈍い音が聞こえてきた。この角の先か、と踏み込もうとして、ゲオルグ・ペレルマンは本能的に立ち止まった。次の瞬間、彼の鼻先を、赤い火花が通り過ぎていった。焼けた空気の匂いにぞっとしつつ、道端に転がるバケツを手にした彼は、「目標」に向かって素早くそれを投げ付けた。金属製の比較的重いやつだ。予想通り、グエッ、という踏み潰した蛙の断末魔のような声と、慌しく走り出す音とが聞こえてきた。同僚と共に角から飛び出したペレルマンは、顔面にバケツの直撃を食らい、拳銃を置き去りにしたままのた打ち回る男に向かって殺到した。ペレルマンが拳銃を拾い上げる頃には、同僚の蹴りをまともに浴びた「目標」は、壁に叩き付けられて意識を失っていた。

「ここは頼む」
「分かった。例のじーさん、あっちか?」
「ああ」

真夜中の街中をエメリアの人間が歩いていれば、それだけで尋問の対象になる。だが、それが治安維持隊の人間ならば話は別だ。必要に応じ、自身の判断である程度の活動権限が与えられてはいる。それが、維持隊に属する兵士たちの任務でもある。もっとも、ペレルマンの事情が少し違うとすれば、それは彼がこの権限を自分自身のために使っていることだろう。「目標」は二人。うち一人はそこで伸びている。後でたっぷりと痛めつけてゲロさせれば良い。ここから逃げ出したもう一人。奴だけは、逃してやるつもりは毛頭無い。しかし奴は知らないだろう。その逃げた先に、ペレルマンよりも遥かに物騒で恐ろしい人物が待ち受けている事を。自動小銃を担ぎなおしたペレルマンは、再び暗いダウンタウンの街の中を走り出した。わざと足音を高く立てながら。背後から組み付かれて、ナイフか何かで喉を掻き切られてしまったら、ペレルマンとてジ・エンド。さすがに長くなった軍属としての経験を最大限に活かしながら、実は細心の注意を払いながら進んでいく。どうやら電源が生きているらしい街灯の下を潜り、また薄暗い通路に足を踏み入れようとして、カラン、という何かが転がる音をペレルマンは間近に聞いた。

「うおおおおおっ!!」
「いたか、クソ虫が」

その手に握られたサバイバルナイフが、一閃、二閃、街灯の淡い光を反射させて煌く。腕を掠めた切っ先が軍服をいとも簡単に引き裂いたが、表面だけの事。一瞬無防備になった手首に対して、蹴りをお見舞いする。ガツッ、という鈍い衝撃に続けて、ナイフが地面を転がる硬い金属音が響く。舌打ちをしながら飛び退った人影は、しかし新たなナイフを腰から抜き放っていた。

「くそ……何だってんだ、何だってんだよ!誰の命令で動いていやがる。貴様、俺を誰だか知っての事か!?」
「……ああ、良く知ってるぜ。グレースメリアの民を路傍の石ころと勘違いして殺害するイカレ野郎。人民の敵、って奴だな」
「な、何を証拠にそんな事を――!」
「いいんだぜ。お前が話さないなら、さっき転がってた奴の身体に聞くだけのことだ。維持隊の数少ない「良識ある権限」の中には、こういうのがあるんだ。みだりに民を該し軍規を乱す者については、維持隊隊員の判断により軍規を糾す事が出来る――ってな。アンタがどこの何者なのか、上官なのかどうかも関係ない」
「貴様……この裏切り者めが……」

殺気を帯びた目を向けているのだろうな、と自覚しながら、ペレルマンは自動小銃をぴたりと身構えた。今日に限っては、引き金を引くことにためらいは無い。敵よりも同胞が相手の方がためらいが無いというのは何とも皮肉な話だ、と自嘲気味に苦笑を浮かべる。もちろん、相手が何者なのか、ペレルマンは知ったうえでの事である。本来なら、こうやって銃を向けること自体が軍法会議にかけられてもおかしくないことであった。対峙している時間は実際にはそれほど長くは無かったのかもしれない。左手にナイフを構えた「目標」が、突如右手を翻した。鋭いナイフの切っ先が回転して襲い掛かってくるのを察知した身体が瞬時に反応したが、その代わりに相手の逃走を許してしまう。逃がすかよ、とその後を追う。と、奇声を上げながら走る「敵」の前方に、よろよろと進む老人の姿があった。こんな時間に!?思わぬ闖入者の姿に動転したのか、或いは夜間外出禁止を守らずにいる市民の姿に逆上したのか、ナイフを振りかぶりながら、相手は老人に向かって襲い掛かる。くそ、間に合わないか!?

「邪魔だ、ジジイ!!!!」
「そいつはどうも、――プレゼントだ」

次の瞬間、フッと老人の身体が沈みこみ、何かが短い光を発したかと思うと、ぴぃぃぃぃんという金属音が鳴り響いた。宙に待った何かがペレルマンの側に飛んできて、どさり、と重い音を立てて転がる。スプラッター映画ばりの絶叫と共に倒れ伏した男は、地面の上を狂ったようにのた打ち回っている。ペレルマンの足元に転がっていたのは、膝の上で切断された、「敵」の左足だった。……心臓に悪いぜ、本当に。ぼやきながら老人に近寄っていくと、老人もまた苦笑を浮かべている。左手に持った杖のように見えたものは、刀の鞘であったのだ。しかし、その目は冷たい光を宿しながら、路上を転がる男に向けられている。その肩に軽く手を置いたペレルマンは、「俺の仕事だから」と言うようにして前に出た。どうやら右手も手首から先を切り落とされたらしく、軍服と路上に赤黒い染みが勢い良く広がっていくのが見て取れる。放っておいても息絶えるだろうが、この男には処断が必要なのであった。

「何が祖国の救済のためだよ。内戦時代に味わった快楽が忘れられず、今度は敵地でフィーバータイムと来たもんだ。お前みたいなクソ虫がいるから、侵略者は市民に評価されないのさ」
「ぐ……貴様、エストバキアの人間に与して、恥ずかしいとは思わないのか――」
「恥ずかしい?何度も言わせるなよ。戦地で抵抗出来ない民間人を好き放題いたぶって、挙句に殺して回るような同朋がいることを恥ずかしいって言うんじゃないか?だから、エストバキアの恥たるお前を、今から処分する」

自動小銃を肩にかけ、その代わりに拳銃を引き抜いた。うつ伏せに突っ伏している男の後頭部にぴたりと銃口を向け、セーフティを解除する。だいぶ昔にも、こういう光景を見たな、とペレルマンは思い出したくも無い昔のことを思い出し、ほろ苦い表情を浮かべた。

「頼む……許してくれ……助けてくれ……頼む……頼む」
「お前が手にかけてきた女の子たちも、そうやって助けを乞うたんじゃないか?その命乞いにすら快感を感じて、命を奪ってきたのがお前だろうが。最期くらい男らしくしたらどうだい」
「頼む!……そうだ、お前を隊長に紹介しよう。祖国の大義を理解した、良き候補として。な、な?」
「屑が」

闇に葬られる者 夜の街に二度銃声が響き渡り、正確に頭を撃ち抜かれた「目標」は動くことと喋ること、その双方を停止した。――何が隊長に紹介するだ?密告して暗殺するの間違いだろうに。ペレルマンは安全装置をかけ、ホルスターに拳銃をおさめた。老人も、手にした鞘の中に刀を仕舞う。流れるような動きに、ペレルマンは目を奪われる。

「これで少しは掃除が出来たというものかな」
「全くだ。あのお嬢ちゃんの仇も討てたし、眼鏡君の依頼にも応えられて一安心だよ」
「で、亡骸はどうする?」
「放っておくさ。こいつの場合、見せしめの意味も込めて放置してやった方がいい。頭に残った銃弾をみりゃエストバキア軍の誰かがやったということが分かって、却って牽制効果もある。同じような輩を封じ込めるには、ちょうどいい生贄さ」
「同朋には厳しいのは相変わらずか。相当に根深い、語ることの出来ない過去があるようだな」
「さて、何のことやら、ね」

戻ったら、いつものようにバーでグラスを傾けて、気分の浄化をしたいものだ――そうぼやこうとした矢先、そう遠くないところで爆発音が響き、続けて断続的な銃声が聞こえてきた。今すぐ遭遇する距離ではないが、それほど遠いというわけでも無さそうだ。それなりの規模の集団が、誰かを追っている。そんな感じの物音。

「じーさん、コイツはまともじゃない。早めに引き上げた方がいい」
「どうやらそのようじゃな。分かった。そっちも無理するんじゃないぞ?」
「分かってる。ママにいつもより遅くなる、と伝えておいてくれ」

老人の姿が反対方向に消えていくのを見送ってから、ペレルマンは物騒な音のする方向へと向かって歩き出した。もう一人の「目標」は、同僚がうまく隠れ家へと運んでくれていることに期待。ここまで規模の大きい戦闘ということは、ゲリラだとしても相応に武装した連中に違いないだろう。緊張感を再び高め、夜の街に溶け込むようにペレルマンは進んでいく。
どうして、こんなことになっているのだろう?途中までは順調だった。協力者と合流し、念願の機密情報へのアクセスに成功し、データをダウンロードすることにも成功した。でも、うまくいったのはそこまで。エストバキア軍の情報ネットワークへのアクセスを終了し、ゲリラの協力者たちが長い時間をかけて作り上げたねぐら――そこは、エストバキア軍の情報へアクセスするためのコンピュータールームでもあった――を出ようとしたときには、既に周囲は銃声と硝煙と、そして血の匂いに溢れていたのだった。

「敵さんに無駄弾使うな。あっちは追いかけっこに慣れたプロみてぇだ。真正面に出くわしたやつにだけぶち込んでやれ。今は逃げる、隠れる、トンズラするのが最優先だ。それと、キリングスの護衛だ」
「了解」
「分かってますって」

隊員たちと異なり、銃を構えての戦闘にはほとんど役にたたないキリングスを、彼らは守ろうとしていた。自分を放っていけば、彼らならこんな状況下でも易々と逃げ延びるに違いない。だが彼らは「危険な目に遭わせちまった」と言いながら、その選択肢を取らずに踏み止まっているのだった。敵との全面衝突になるリスクを理解しながら。

タタタン、という短い連続音が聞こえ、キリングスたちの頭上のコンクリートが削り取られる。姿勢を低くして物陰に飛び込む。隊員の一人が反撃を浴びせる。遠くから短い悲鳴が聞こえるが、別の方向から火線が走り、隊員の頭を撃ち抜いた。言葉も無く倒れ伏した隊員の姿に、バンディッツは小声で「畜生」と呟いた。

「畜生。こいつは最初から待ち伏せされていたと見た方がいいな。敵の動きが早過ぎる」
「どういうことです?」
「一番確実に工作員を捕える方法って、何だと思う?相手が欲しいネタを把握しておいて、その情報を直接渡してやることさ。んで、渡した直後に取り囲んでボコる。これで一丁挙がり、という寸法さ」
「それ、今の私たち、ということですか?」
「屈辱だがそういうことだ。しかも頭に来るのは、どうやら同朋に密通者がいるみたいだってことだな」

同朋の密通者――!そんなものは、内戦中のエストバキアの話だとキリングスは思っていた。だが今や、エストバキアとの戦火に晒されたエメリアでも当たり前の光景になったということなのか。ユリシーズの悲劇から逃れた、幸運の地。神に愛された幸福の台地。クレーターの姿も無い、平和な街。ついこの間までそこにあったはずのエメリアの日常は、もう取り戻すことの出来ないものになってしまったのだろうか。開戦から1年も経っていないのに、グレースメリアの衰退ぶりは目を疑うばかり。キリングスはここが本当にグレースメリアなのか、と何度も自問したものである。

「とにかくダウンタウンまで行こう。あそこに入っちまえば、連中とてそうそう追っては来られない。ここからは分かれていくぞ。合流場所は……よし、あのバスケットゴールのあった所にしよう。時間は120分後。それまでに合流出来なければ、悪いが先に行く。勿論、俺が間に合わなかったら、お前らは先に行け。いいな」

男たちは頷きあい、そしてそれぞれの方向へと姿を消していく。キリングスはバンディッツと共に、街の南へと向かう小道を走る。街灯もほとんど付いておらず、家の明かりさえ見えないグレースメリアは、まさにゴーストタウン。ひっそりと静まり返った空間では、足音と、時折聞こえてくる銃声が良く響き渡る。先ほど、追手とは異なる方向からも銃声が二度聞こえてきた。敵の包囲は想像以上に厚いのかもしれなかった。

それにしても、グレースメリアまで来て得られた情報は、マクフェイルたちと作り上げた推論が正鵠を得ていたことを証明するだけでなく、様々な真実を明らかにしてくれた。何よりラッキーだったのは、エストバキアの「空中要塞」の運航スケジュールまでも入手することが出来たことだった。勿論、スパイが首都に潜入したことによって計画の変更などは行われるだろうが、「空中要塞」の正体さえ分かってしまえば打つ手は幾らでもある。エメリアは初めて、開戦からエメリアを苦しめてきた厄介な敵に対して攻勢に出ることが出来るだろう。それを現実のものにするためにも、生きてこれを届けなければならない。

と、バンディッツの大柄な身体が歩みを止めた。壁にへばり付け、という合図に応じてキリングスは息を潜める。同様に壁に同化したバンディッツだったが、タイミングを図るように僅かに足を動かし、次の瞬間、猫が舞うが如く飛び出した。何かが壁に叩き付けられる音が聞こえ、次いで乾いた金属音を響かせながら、エメリアのものではないサブマシンガンが地面を転がってきた。くぐもった悲鳴が聞こえ、バキン、というプラスチックの板を割ったような音が続いて聞こえてくる。バンディッツの無事な姿に安堵しつつ、彼が引き摺ってきた「何か」を見て息を飲む。それは、明後日の方向に首が向いた、敵兵士の姿であった。

「……こいつらも特殊部隊か。しかし、今まで見たこともないぞ、こんな連中は」
「どういうことです?」
「前線に出てきている連中じゃ無いということさ。案外、敵の本国筋の奴らかもしれない。諜報部付とかな」
「諜報部ですか……」

それこそ、バンディッツの語った最悪のシナリオであるに違いない。キリングスたちはエストバキアの「情報のプロ」たちに泳がされ、そして殲滅されようとしている。そしてキリングスにとっては、かつての同朋たちの手によって消されようとしていることと同義だった。バンディッツが葬った敵兵のマスクを剥いだら、出てくるのは小学校のクラスメートの顔かもしれない。エメリアでの平和な日々を送ってきた自分とは異なり、血を血で洗う凄惨な内戦を生き延びる地獄を味わってきた人間はどう変貌するのだろう?キリングスには、想像も付かなかった。

「どちらにしても、さっさと逃げたほうがいいだろう。行けるな、キリングス?」
「大丈夫です。……行きましょう」

物陰に隠れながら進む二人。実際問題、最も接近していた追手はバンディッツによって葬られていたが、その二人の姿を遠方から追いかけている敵がいた。じっと息を潜め、スコープを覗き込んだ姿勢を保ちながら、その敵は好機を待っていた。狙われ続けていることに気が付くはずもなく、キリングスたちはダウンタウンを目指して進んでいく。目標まではあと少し。この通りを渡り切り、横倒しになっているビルを抜ければ、グレースメリアの混沌に満ちた下町の入口だ。あと少し、という安堵が、キリングスの緊張を緩めた、というのは無理も無かったろう。そしてその一瞬の隙を、敵は待っていた。鈍い音と鈍い衝撃を感じた、と思った次の瞬間には、キリングスは道の上を転がっていた。何かに躓いたのだろうか?我ながらみっともない。立ち上がろうとしたキリングスは、爪先から脳天に突き抜けるような激痛を感じ、うずくまった。立ち上がれない。走れない。声が出ない。

「キリングス!!」

バンディッツがその体型に相応しい怪力ぶりを発揮し、キリングスを担ぎ上げると猛然と走り出す。追いすがるように敵の攻撃が壁や道を叩くが、幸いにも命中することは無く、バンディッツはスナイパーの視界の死角に入ることに成功した。意識を失いかけたキリングスは、いつの間にか地面に横たえられている自分に気が付いた。起き上がろうとして腹の辺りに激痛を感じ、仰け反る。恐る恐る視線を向けてみると、既にそこは血の湧き出すポンプと化し、戦闘服の上からもはっきりと分かるほど、血で塗れていた。――致命傷、か。当たり所が悪かったらしい。肝臓か腎臓か、或いはその両方か、とにかく内臓がおしゃかになったのは間違いない。

「しっかりしろ、キリングス。意識をしっかり持て。帰るんだろ、仲間のいる所に!とにかく止血するぞ、大人しく横になるんだ」
「……隊長」
「馬鹿野郎!そんな穏やかな顔してるんじゃねぇ!!」
「……隊長、分かりますよ。自分の身体、ですからね。悔しいなぁ……油断しました」

残された時間はそう長くは無い。意識のあるうちに、やっておくことをやっておこう。そう考える余裕は、まだあった。軍服のポケットからキリングスが取り出したのは、家族の数少ない形見となった、オルゴールの小箱だった。

「これを……空軍のガルーダ隊にいる、マクフェイル少尉に渡して下さい。それと、空中要塞の……「アイガイオン」の情報を、何としても彼らに届けて下さい」
「ガルーダ隊のマクフェイル、だな。――約束する。必ず、届ける」
「ありがとうございます」

仰向けで起き上がれないなら、とキリングスは全力で身体をうつ伏せに回転させ、壁を支えにしながら無理矢理身体を起こした。腹から足を伝う血の流れは止まらず、早くも足下には血溜りが広がりつつあった。ここが、僕の死に場所か。妙に冷静に、キリングスは納得してしまった。逆にバンディッツは無念とばかりに険しい表情を浮かべていた。

「多少は時間稼ぎになると思います。行って下さい、バンディッツ隊長!」
「キリングス、約束は必ず果たすからな。――すまない、守ってやれず、すまん!!」

畜生、畜生、と繰り返す声と足音が遠ざかり、再び周囲の静けさを取り戻した。どうやらオフィスだったらしい、縦と横とがひっくり返ったビルの壁にもたれつつ、キリングスは自動小銃を身構えた。そして、暗視装置のスイッチをオンにして、間違いなく近付いているであろう、敵の姿を待つ。――来た。まだ射程の外だが、敵の姿が3つ、ゆっくりと近付いてくる。既に指先も爪先も冷たくなり始め、力も入らなくなって来ている。腕だけでは銃口を支えるのが難しくなってきたので、手頃な瓦礫を銃身の支えにして再び身構える。敵は幸い、こちらの位置に気が付いていない。もう少し。あともう少し。そしてスコープの中にしっかりと敵の姿を捉え、キリングスは引き金を引いた。

「うおおおおおおおおっ!!」

不意打ちを喰らって倒れる敵には目もくれず、すぐさま次の獲物に銃口を向けて攻撃。攻撃を喰らって踊るように身体を痙攣させた敵兵が、仰け反って倒れていく。だが先制攻撃のアドバンテージはここまで。攻撃を逃れた敵兵の反撃は、キリングスの右肩を撃ち抜き、肩の肉を抉った。歯を食い縛りながら敵の姿を追う。物陰に何とか逃れようとしている敵の姿を捕捉し、三度引き金を引く。背中から胸を撃ち抜かれた敵兵は、一歩、二歩と歩いたところで身体を回転させ、そして仰向けに倒れて動かなくなる。そうだ、この間にマガジンを交換しておこう。腰のポケットから新たなマガジンを取り出したところまでは良かった。だが、力の入らなくなった指先から、無情にもマガジンが滑り落ちる。取らなくちゃ。体制を変え、手を伸ばそうとしたキリングスだったが、いきなり後ろから何度もパンチを浴びせられ、吹き飛んだ身体は地面に叩き付けられた。否、それはパンチなどではなく、背後から浴びせられた銃撃だった。ごふっ、という咳と共に血を吐き出し、何箇所も開いた身体の穴からはもう止めようの無い勢いで血が噴き出していく。

「手間取らせやがって、死に損ないが」
「もう一人いるはずだ。近くを探せ!!」

キリングス、逝く 祖国の、エストバキアの言葉が聞こえてくるが、それはどこか遠くから聞こえてくるような感覚。自分がどんな姿勢なのかも分からない。でも隊長のことだ。もう安全地帯まで逃げ延びていることだろう。マクフェイルたちに託すべきものは託した。やるべきことはやった。視界も曖昧になり、良く見えない。僕は……どうしたんだっけ?キリングスは見えない目で、周りを伺った。そうだ、僕は指を怪我して、病院に来ていたんじゃなかったっけ?こんな指先を見たら、妹に馬鹿にされるし、母親には怒られるかもしれない。参ったな、困ったな。

「――おい、何か言い残すことは無いか?」

どこからか聞こえてきた声に、キリングスの意識は現実に辛うじて引き戻された。どうやら、仰向けになって横たわっている自分のそばに、誰かがいるらしい。それが誰なのか、ひょっとして、街から急いで駆け付けてくれた父親の声なのか、それすらも分からない。血で塗れた、弱々しく震える手を内ポケットの中に差し込み、そしてキリングスは一枚の写真を取り出した。彼にとっては唯一の、故郷と彼とを繋ぐことの出来た、形見の写真を。なぜなら、学校の皆と共に撮ったこの写真は、家族の誰にも見せていない一枚だったから。ああ、そうか。ずっと思い出すことが出来なかった父親、母親、そして妹の顔を、今彼ははっきりと思い出していた。見せなければ。この写真を。そして、彼の大切な友人にも。

「――ほら、いい写真でしょ?」

その声は、キリングス自身にしか聞き取れなかったかもしれない。彼の傍に座る男に弱々しく差し出された腕が、ゆっくりと力を失い、そして落ちた。何かを話しかけようとした、そのままの表情で。

「天使舞う空、駆け抜ける鉄騎」ノベルトップページへ戻る

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