望郷
相変わらず朝の気温は寒いし、それなりの広さのある家に一人で住んでいるせいか、家の中はそれなりに良く冷えているので、余計にベットから出るのが辛い――ニーナ・エルフィンストーンはがらんとした家の中を眺めながらそう思う。少し前まではこの時間まで寝ていようものなら階下から怒声が聞こえてきたものだが、その発信源がいないと、何となく寂しくもある。トントントントンとリズム良く階段を下りたニーナは、そのまま食堂へ直行し、まずはエアコンのスイッチを入れる。暖かい風が食堂の中を流れはじめたのを確認し、冷蔵庫を開いて朝食の準備を始める。起きてきたら朝飯が出来ているという環境のありがたみを今更ながらに感じる瞬間である。それも、グレースメリアにいた時は二人前以上平らげるパパの分まで作っていたのだから、ママの偉大さをこれ以上無く感じるというわけだ。

スライス済の食パンをトースターに放り込み、冷蔵庫から取り出したトマトを切り始める。ふと食堂の壁を見ると、忘れていったのか、わざとそうしていったのか、穴だらけになった父親の写真がまだそこにあった。あの細かい穴が、ママが放り投げて突き刺さったフォークによるものは明らかだし、実際にフォークが2本刺さったままの壁を見て呆れたこともある。あれが刺さるたびにパパが悪寒を感じていたら面白いのにな、とニーナは思いつつ、その写真の隣に新たにニーナがピンで留めた便箋に視線を向ける。それは、パパから久しぶりに届いた手紙。多分、他に書きようが無かったのだろうけど、「安心しろ、残念だが生きている」と「愛している」――それだけが大きく書いてあったのだ。もっとも、その手紙をママは残念ながら見ていない。なぜなら、既に旅立ってしまった後だからだ。まだ戦いが続く、故郷エメリアに。

――グレースメリアで再会出来たら万歳だねぇ。

その時、ママがフォークを投げつけるのか、拳が入るのか、それとも――その光景を思い浮かべると、自然とニーナの顔には笑顔が浮いてくる。予想通り、殺しても死ななそうな父親が生き残っていたこと。それもしぶとく。それが分かっただけでも、安心できるというものなのだから。


エメリア軍の主力部隊が展開しているというサン・ロマ市に直接空路入る事はリスクが高い、ということで、エメリアによって制空権が確保されたシルワート市が取材チームの到着地に選ばれた。そこからは陸路移動となるが、エメリアの現状と対エストバキア戦争の実態をより公平に報じてもらう、というカークランド首相の意向を受けてのことか、陸軍部隊が一応支援をしてくれることになっているのは、正直な所心強い。多分、トンプソン局長が色々な人脈を使ってくれたことも作用しているのだろう。OBCの一員として、下手な仕事をしないようにしないとね――幾度か、そう自分に言い聞かせてきたレベッカであったが、シルワート市に到着した飛行機から降り立った時、いきなりその決意が挫けそうになった。これが、あのシルワート市なのか。目の前の街の光景は、レベッカが知るかつてのシルワート市とは全く別の姿になってしまっていたのだった。

長期間に渡って続いた篭城戦と、エメリア軍主力部隊の再上陸後の解放作戦の傷跡はまだ街の至るところに残されていて、破壊された戦車や撃墜された戦闘機の残骸が街中に留まっていたり、骨組みだけになってしまった家々が無残な姿を晒していたり、エメリアという国が今だ戦争の只中にあることを、嫌でも痛感させられるところから、レベッカたちの取材は始まったのである。

「街全体が被害を受けていると言っても良いと思いますが、やはり戦車部隊同士が激突した辺りは一度更地に戻しての再建になってしまうと思いますね。仕方ないのですが、キャタピラと砲撃後の穴で、道路はボコボコですからね」
「こんな状況下で、この街に留まった部隊は戦い続けていたんですね」
「そうですね。でも何と言うのかな……兵士たちと市民たちの間に連帯感みたいなものが生まれていましてね、互いに助け合い、励まし合いながらエストバキア軍に抵抗していたように私には見えましたよ。それで耐えに耐え抜いた結果、とうとう包囲していたはずのエストバキア軍が追い出された――ま、そんな流れでしょうか」

この街に留まり、開戦直後から貴重な情報を発信し続けてくれていたOBCの記者の一人、ギルバートがハンドルを握るジープにレベッカとカメラ担当のクルーであるバーナード・ピクサスは乗り込んで、案内をしてもらっていた。ショックを受けているのはレベッカだけでは無くピクサスも同様のようで、無言で彼は首から下げたデジタル一眼のシャッターを切り続けている。ただ、そんな状況下、崩れた建物を修復していたり、突貫作業ではあるのだろうけれども家を建て直していたり、市民たちが協力してこの街を再び作り上げようとしている姿を見て、レベッカは救われたような気がしていた。彼女は恐れていたのだ。戦争という非日常にさらされたエメリアが、かつてのオーシア・ユークトバニアの全面衝突のように互いに憎しみに包まれてしまうことを。勿論、親族や親しい人を失った人々から、憎しみと悲しみを消すことは決して出来ないに違いない。それでも、協力しながら街を再建しようとする、その雰囲気がちゃんと残っていることは、エメリアは再び立ち上がるだろう、という思いを確かなものにしてくれる――そんな気がしていたのだった。

「ところで、どこまでドライブの予定なんでしたっけ?色々撮るものあり過ぎて、メモリが足らなくなりそうなんすけど」
「撮り過ぎだよ、ピクサス君。後で画像の整理が大変だぞ。今日はこの後に見せるものだけに絞っておいた方が良い」
「何かとっておきがあるんですね?」
「そう、この街の篭城戦のとっておきがね。それは君にとっても、重要なものだと思うよ」

ニヤリ、とギルバートが笑う。私にとって重要なもの?スクープのネタかしら?首を捻るレベッカに対し、行けば分かるよ、とギルバートが切り返し、ジープを加速させる。道の凸凹を拾った車が、右へ左へと跳ねる。こういうラフな運転を散々経験したわね、とレベッカは昔のことを思い出した。そう、若かりし頃、グレースメリアの街中を、改造して乗り心地がとても悪くなった車やバイクで、あの人の後ろや隣に乗って――本当に、あの宿六は今頃どうしているのかしら?生存を知らせる手紙がオーシアに届いていたことを知らないレベッカは、多分しぶとく生き残っているであろう良人のことを思い浮かべてため息を付く。レベッカは無意識にジープの座席を掴んで身体を固定しているのだが、その安定ぶりにピクサスが唖然としていることには気が付いていない。後席のピクサスは、それこそ右へ左へと吹き飛ばされて、したたかにフレームに額を打ち付けていたのだから……。

車がようやく止まったのは、街を東へと抜けて5分から10分くらい走った地点だった。そこには、シルワート市での戦闘の際に不時着したと思しき戦闘機の残骸が、未だに残されていた。地上を長い距離に渡ってえぐった末、半壊した建物の塀に突っ込んだ状態で、その機体は横たわっていた。かつては真っ白に塗られていたと思われるその機体は、戦闘によって穿たれたのであろう弾痕と流れ出したオイル、さらには誇りと煤によって汚れてしまっていた。ほぼ90°傾いた状態のコクピットには当然パイロットの姿は無い。

「この白いラファールは、シルワート市の決戦の際、エメリア軍の戦闘機によって損傷を受け、不時着に成功した唯一の機体なんですよ。色々あって、結局このまま残ってしまったんですが、あなたを迎えるのには丁度良かった」
「この戦闘機が、ですか?」
「そう、この戦闘機が、です。この白いラファールは、エストバキア空軍のプロパガンダ番組でも良く登場していた機体の一つなんです。搭乗者は、イレーナ・ドブロニク。エストバキアの将軍たちの重鎮、ドブロニク将軍の一人娘でした。エストバキアのエースの一角を担っていた彼女を撃ち落としたエメリアのエースこそ……「鳥のエンブレム」なんですよ」
「鳥の……エンブレム……」

オーレッドにあって、まるで他人事のように報じてきたエメリア・エストバキア戦争。エメリアの反撃が本格化する中で、時々登場したのが、反撃の要となっている戦闘機部隊の存在と、エストバキア軍が恐れる「鳥のエンブレム」の存在だった。そのエンブレムなら、レベッカは誰よりも知っている。アーサーが彼の愛機に描いた「ガルーダ」のエンブレムだ。ギルバートは、この戦闘機を落とした機が、アーサーたちが乗る戦闘機だと知ったうえで、彼女たちをここに案内してくれたのだ。

タリズマンとレベッカ 「ギルバート、あなたはあの人……いえ、「鳥のエンブレム」のエースに会ったのですか?」
「いえ、残念ながら。話を聞く前に、もう次の戦地へと向かってしまった後だったので……ただ、我々と同じように、この機体を見に来ていたのを私も遠目に見ましたよ。部隊の同僚たちでしょうか、仲間たちと共に、この機体を確認していました。その中で、一際大きな……まるで陸軍の兵士だろうか、と思ってしまったパイロットの姿があったので、妙に印象に残っていたんですよ。こうして、あなたをお連れ出来たのも、何かの縁かもしれませんな」

パイロットには似つかわしくない巨漢、それなら、もう間違いなくアーサーだ。やはり、彼はこの空を飛んでいたのだ。そして、何か理由があって、自分が撃墜した相手の機体を確認しに来た。もしかしたら、アーサーは自分にドブロニク将軍の姿を重ねたのかもしれない。例えば、ニーナに何かあったとしたら、あの人は間違いなく激怒し、行動を起こすに違いない。それはドブロニク将軍とてきっと変わる事は無く、むしろあの内戦を生き延びた親子だからこそ、自分たちが想像する以上の絆があったかもしれない。それを、自らの手で断ち切った彼は、その事実をここに確認しに来たのだろう。ドブロニク将軍の怒りの矛先が、今後自分たちに向けられることを承知の上で。

「――ありがとう、ギルバート。私たちの取材は、やっぱりここから始めるのが正解みたい。そして、追いかけましょう。グレースメリア解放へ向かう、エメリア軍を。是非、貴方も私たちに同行して下さい」
「私も?特派員の仕事はどうすんだね?」
「トンプソン報道局長が、何とでもしてくれますよ。私をここに送り込んだのも、局長の「作戦」です」
「なるほどね、そりゃあ心強い。レベッカさん、私も乗らせてもらうよ。――最終的には、グレースメリアへ」
「ええ。一番乗りは、地元出身者でないとね」

差し出されたギルバートの右手を、強く握り返す。戦争状態のエメリアを自分の目で見てショックは受けたけれども、もう大丈夫、とレベッカは思う。そして同時に、やはり帰って来て良かった、と痛感した。オーシアでは遠過ぎるのだ。ここエメリアでなら、きっと空を行くアーサーを感じることが出来るに違いない。――私を置いて、グレースメリアのパーティに出かけたら、今度こそ許さないんだからね――。既に、エメリア軍はグレースメリア解放に向けた作戦を発動しているという。でも、必ず追い付いてみせる。グレースメリアの方角に顔を向けて、レベッカはそう決めたのだった。
「ようやく、ここまで来たよ。ここまで……」

割り当てられた部屋の中で、ランパートは右手に持った一枚の写真に向かって、語りかけていた。その写真は、戦争が始まる少し前、休暇を使って出かけてきた家族旅行の際、バーベキューをやった川原で撮ったものだった。一枚目は三脚が途中で倒れてしまい、二枚目はランパート本人がシャッターを切るタイミングに間に合わず、ようやく三枚目でちゃんとしたものが撮影出来たことを思い出し、ランパートは独り笑った。凍てつく冬がようやく過ぎ去り、もう春の気配が感じ取れる時期になったというのに、今年のエメリアは国を覆う戦争の気配を感じ取ってか、真冬の日々が続く。エストバキア占領下にあった街はどこもかしこも困窮を極めていると聞いて、父親としてランパートは気が急いてしまうのだ。エストバキアの主力部隊が駐留しているグレースメリアは他の街よりはマシだろうとは推測しているが、市民に十分な食糧や暖を取るための燃料が行き渡っているかは甚だ疑わしいし、治安も格段に悪くなっていると聞いてしまっては、心を落ち着かせるのも難しいのであった。

だが、ようやくその葛藤ともお別れになる。ラグノ要塞を落としたエメリア軍は、首都解放作戦の実現に向けて確実に勢力圏を広げていった。既に陸軍主力部隊はサン・ロマ市を離れてグレースメリア方面へと展開しつつあり、近々ランパートたち空軍部隊もさらに前線の基地へと移動することが予定されていた。しかし、エストバキア軍もとうとう痺れを切らしたのだろう。グレースメリアへと向かう途上にある大陸東部のモロク砂漠において、偵察機が展開中の大部隊の姿を捕捉した。幾度かの偵察により、恐らくはエストバキア陸上軍の主力部隊と想定される機甲師団が陣を張ったことが分かった。彼らも必死なのだろう、とランパートは見ている。ようやく手に入れたグレースメリアの街を手放すことは、内戦で荒れ果てた地への逆戻りを意味する。もっとも、エメリアの経済を全く活用出来ずに同じような状況にすることしか能の無い「将軍たち」の統治方法も最早限界に近付きつつある。ならば、後はトドメの一撃を与えてやれば良い。この一戦で壊滅的な損害を与えることに成功すれば、グレースメリアを守る戦力は大幅に少なくなる。ならば、徹底的に、二度とエメリアに対して牙を剥くことの無いように、壊滅させなければならない。それが、自分のように家族を持つ男が敵の兵士たちにいたとしても、俺はその屍を踏み越えて進んでやる――ランパートは、写真に向かって改めて自分の覚悟を思い浮かべる。

そういえば、キッシュを永らく食べていない。モニカとジェシカが二人で作ってくれたキッシュは、火加減を少し間違えてやや焦げてしまったが、とても美味しかった。戦争が始まってからの撤退戦においては、食事を抜くような事態までは追い込まれることは無かったものの、缶詰だけ、という日もあった。反撃が始まってからは、兵士たちの食事に一切の妥協は許さないというカークランド首相のありがたい方針により、飢えたことは一度も無い。ただ、残念ながら質よりは量が重視されてしまったので、ちょっと手の込んだ料理を食堂で注文するのはなかなか難しいのであった。特に、一兵士が卵を買い求めるのはなかなか難しく、自分で作ろうと画策するも失敗。ビールのグラスを傾けながらキッシュを頂く時間は、半年以上お預けとなっているわけである。戦争が終わって、二人と再会したら、今度こそ今までのハードワーク分を一挙に精算してもらうべく、超長期休暇を取得して、のんびりとバカンスを楽しんでやる。それこそ、キッシュを嫌になるほど食べてやる。そんなちょっとした夢が、今のシャムロック――ランパートの心を支えている。

父親として 「戦争が終わったら、面白い奴を連れて行くよ。本当に、凄いエースだ。ガラも物凄く悪いけどな」

面白いことに、タリズマンの所も、娘がいるという。そして亡くなったアルバート・ハーマン大尉の家も同じ家族構成だったという。故人の娘はどうやらグレースメリアで健在らしく、「あの娘ならしぶとく生き残るだろうさ」とはタリズマンが嬉しそうに語っていたことだ。そんなパワフルな少女と、うちの大人しい娘とが一緒にいたら面白いのになぁ、とランパートは想像する。グレースメリアの重苦しい雰囲気を、少しは楽しくしてくれるに違いない。何だかんだと言って、家族や仲間想いのタリズマンのことだ。戦争が終わった後、ハーマン家を訪問しないはずが無い。その時には、自分の家族も揃って訪問出来たら良い。娘にとっても、元気なハーマン家の少女は良い刺激になるに違いないから。だからこそ、俺は負けられないし、落ちるわけには行かないのだ――ランパートはそう心の中で呟く。残念ながら、グレースメリアに至るにはまだまだ障害がある。砂漠に展開した地上軍もさることながら、エストバキアのエース部隊は必ず立ちはだかるであろうし、グレースメリアに留まっている敵本軍も奪還作戦における障害になることだろう。家族と再会するためには、極めて高いと言わざるを得ないハードルを、無理矢理越えるしかないのだ。

だが――自分だけなら到底越えられないハードルであっても、ここまで共に戦ってきた仲間たちとならば、話は全く違うだろうとランパートは確信していた。例の魔術師のエンブレムたちは確かに強敵だ。だが、その強敵をタリズマンたちは開戦初日から撃墜してみせたし、それ以降はランパート自身も直接彼らを刃を交えてきた。エストバキアは確かにエメリア側よりも性能の優れた戦闘機を今でも多々保有しているのかもしれないが、開戦直後のような技量の差は無くなってきているのも事実。今生き残っている面々は、それこそ殺しても死にそうに無い面子ばかりなのだ。その性格が災いして、空軍の各地の部隊を次々と厄介払いのように転々とさせられていた時代を思い出して、ランパートは苦笑してしまう。今でも、AWACSのローズベルト少佐とは作戦中でも基地にいるときでもついつい角を突き合わせてしまうことが多いのだが、それでもまだ良い上司の部類に入るのは間違いない。愚痴をたれたとしても、「死んで来い」などという命令を発することは無いのだから。そして皮肉なことに、ランパートを厄介払いした連中の大半は、エストバキアとの戦いの中で戦死をしていた。あいつら、最期に何を考えて死んでいったのだろうか――そんなことを考える時間すら与えられなかったのだろうか?それに比べたら、こうして首都解放の時を今か今かと待ち侘びている自分など、遥かにマシな部類に入るに違いあるまい。そう考えると、尚更死ぬわけにはいかないな、と襟を正したくなる。

妻と娘の写真を手帳の中に戻し、そして部屋の照明を落とす。作戦開始に向けて、やるべきことは多々ある。戦いに備えて休める時は休んでおくのも仕事のうち。写真を挟んだ手帳に向かって、「おやすみ」と語りかけて、ランパートは毛布にくるまり、目を閉じた。

「天使舞う空、駆け抜ける鉄騎」ノベルトップページへ戻る

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