もう一つのエピローグ
辺りは夕焼けの赤い光に包まれ、どこか幻想的な光景が広がっている。冬の到来が近いのか、冷たい風が丘に沿って流れてくる。ファーバンティの町並みが見下ろせる小高い丘を、大柄の男がゆっくりと登っていた。男は、ナップザックを背負い、年代物のウイスキーの瓶を手に持ち、その丘の一角に積み上げられた小さな石の墓標の前で足を止めた。先客がいたのか、花束と小さく折り畳まれた旗が供えられていた。他の生き残りでも来ていたのだろうか?男は首を傾げながら、墓標の前に座り込んだ。そして、古びた皮ジャンのポケットから、一枚の写真を取り出した。
「隊長、今日はいいもんを持ってきましたぜ。隊長のお気に入りだった、ホワイト&マッケイの30年物。飲んでくだせぇ。」
かつて、18番と呼ばれていた男は、一方のグラスに琥珀色の液体を注ぎ、そして石の墓標の前に置いた。もう一方のグラスにも半分くらいウイスキーを注ぎ、彼は軽くグラスを掲げた。アルコールが食道を通り抜け、焼けるような熱さが胸の奥にじんと広がっていく。同時に、こうして酒を飲み交わした頃のことを思い出し、18番は独り苦笑いを浮かべた。
「隊長、あのときのハーモニカの坊主、覚えてますか?あいつから手紙が来たんですよ。久しぶりに会いたいってね。そうそう、隊長、あんとき気がついてましたか?酒場のお嬢ちゃん、本気で隊長に惚れてましたけどね、あの娘も一緒だそうです。」
彼は墓標に向かって、話し続けた。合間を見て、グラスを傾ける。年代物ならではの、とろけるような味覚が心地よい。
「迷ったんですが、坊主に会いに行こうと思ってます。あいつも、黄色中隊の一員、でしたもんね。」
18番はそう言って、十字を切ってから墓前に備えられていた旗を手に取った。広げてみて、彼は軽い驚きを覚えた。それは、あのメビウス中隊の隊旗だった。ということは、先客はリボン付、だったのか?そういえば、坊主はリボン付−メビウス01にも手紙を出したと言っていた。久方ぶりの高揚感が、湧いて来た。
「隊長、どうやら面白くなりそうですぜ。安心してください、戦争はもう終わったんだ。どんな奴なのか、よーくこの眼で見てきますよ。……まぁ、歓迎代わりに一発入れちまうかもしれませんがね。」
メビウス中隊旗を再びきれいに折り畳んで、風で飛ばないよう近場の石を乗せる。もう一度十字を切って、18番は墓標から去ろうとした。
「……っと、忘れるところだった。」
彼は背中のナップザックから、細長い瓶を取り出した。ドイツ産の、白ワイン……4番が、好んで飲んでいたものだった。
「隊長と仲良くやってくれよ。やっと一緒になれたんだからな。」
からかう度に向けられた、懐かしい睨み顔が脳裏に浮かんだ。笑いながらさらにもう一度十字を切り、少し軽くなったナップザックを背負う。思い出の丘を下りながら、18番は満足感と少しの寂寥感を胸に、夕闇に沈むファーバンティの街へと消えていった。
サンサルバシオンの空は、今日も抜けるような青空。上空を、ジェット旅客機の排気煙が白く伸びていくのが見える。家の2階に作られた小さなテラスのテーブルに写真や便箋を広げて、一人の青年が頬杖をついて思慮に耽っていた。少し色褪せた写真立ての向こうで、照れ笑いを浮かべた男と、その隣で微笑みを浮かべたやや褐色の肌の女性、反対側には無理に大人びた顔をしようとしている少女、そしてハーモニカを手にし、体には大きいジャケットをコート代わりにした少年が笑いかけている。
足音に気が付き、青年は振り返った。金色の髪を後ろでまとめてポニーテールにしている女性が、呆れた顔で首を振っている。
「そろそろ忙しい時間なんだから、手伝ってくれてもいいじゃないの。」
ふくれ面で彼女は青年を睨み付ける。そういわれて見れば、そろそろ1階の酒場兼食堂「スカイ・キッド」の開店時間だった。
「今曲を考えていたんだ。すぐ下りるよ。」
「曲を考えている人が、飛行機雲眺めながら子供みたいにぽやぽやするのかしら?」
口で戦っても勝ち目はなさそうだった。軽くため息をつきながら首を振り、青年は降参を告げた。苦笑いを浮かべる彼の額に、酒場の娘は人差し指を当てた。
「あと30分だけ待ってあげるから、そしたら下りてきて。それに今日は特別なお客さんの来る日だものね。」
彼女が懐かしそうに写真を眺めながら、そう言う。今は十分大人っぽくなったと思える笑顔が、写真立てを見つめている。青年は、傍らに置いていたギターを抱えた。使い古され、あちこち剥がれたステッカーが貼り付いているが、その弦を弾いてやると心地よい音が響き渡る。
「決めた。やっぱり、まずはあの曲にするよ。」
「あの曲?ちょっと、私にも分かるように説明しなさいよ。」
青年は笑いながら、かつてこのギターを弾いていた男の姿を思い出していた。そして、この酒場で彼が弾いていた数々のナンバーを。今日訪れる客人たちに聞いてもらうには、きっとその曲たちが一番相応しいであろうから。その男から託され、今は彼の形見となったクラシックギターの弦を調整し、そして構えた。足でゆっくりとリズムをとりながら、弦を弾き始めた。ゆったりとしたリズム、そして二人にとって儚くも懐かしいメロディが、響き出す。もう遠い記憶の中にしか存在しない青年の父親が庭のベンチで夕方奏で、そして青年に愛用のギターを託した男と初めて出会ったとき、共に合奏した思い出の曲が、スカイキッドのテラスから辺りに響き渡る。店の前を通る人々も足を止めて、その音色に耳を傾けていた。
それにしても随分大人っぽくなったわね、と心の中で呟きながら、目を閉じてメロディを紡ぐ青年に酒場の娘は視線を移した。そして、テーブルの上に置かれている、銀色のハーモニカを手に取った。彼の座る椅子に軽くもたれながら、メロディを重ねていく。
青年は、ゆっくりと目を開け、そして青い空を見上げた。さっきよりも長さを増した飛行機雲が、ふわふわと漂っている。二人の奏でる思い出の曲は、秋の風に吹かれながら大空へと舞っていった。