嵐の前
サチャナ基地は、これまで降り立った航空基地とは比べ物にならないほど巨大で充実した施設を持つ航空基地であった。管制塔のレーダー出力や哨戒範囲は非常に広く強力で、ネベラジャマーによって遮られている北部方面を除けば、サンタエルバ・パターソン・オーブリーとの連携によって、オーレリアが取り戻した国土のほとんどをカバーすることが出来るようになった。さらに、僕らが破壊してしまった格納庫や作戦機はともかくとして、ほぼ無傷の格納庫や弾薬庫の中からは、今後僕らの作戦行動に充分に役立ちそうな物資の山を回収することが出来たのである。物資面の充実もさることながら、人員面での充実も大きい。レサスによるサチャナ占領後、作戦機を失って潜伏していた航空部隊のパイロットたちが復帰し、不正規軍の一角を担うこととなったのだ。だが、それでも今後レサス軍の本隊と対決するには足らない――オーレリア空軍の主力は、グレイプニルの手によって殲滅されていたため、一線級のパイロットが致命的に不足していたのである。この現況を、不正規軍の司令部は過去の事例に学んで切り抜けることにした。即ち、ベルカ軍による電撃的侵攻を受けながらも、航空戦力を中心に反攻作戦を展開して解放作戦を成功させた、ウスティオ共和国に倣って、傭兵部隊の設立を決定したのである。シルメリィに属する傭兵たちの協力も得て、文官たちを中心としたリクルート活動が俄かに盛んとなっていた。もともとが何しろ寄せ集めの不正規軍だ。「非常時」の一言で国の法律で定められていないようなことをしでかす僕らを、昔ながらの政治家たちはきっと快く思わないだろう。事実、不正規軍の活躍は、同時に国民を見放してさっさと安全地帯へと逃げ出していた程度の低い政治屋たちをも呼び寄せる結果となっていたのである。もっとも、数少ない例外を除けば、占領下にあった文官や辛酸を舐めてきた軍人中心の不正規部隊。彼らのような寄生虫に居場所があるはずもなく、「戦後の終戦処理」のために事実上の軟禁状態に置かれていた。
僕らに割り当てられたハンガーにはXR-45SとスコットのF-2Aが翼を休めることになったが、それでも充分な空間が余っていた。ハンガー2階の機械部屋には、シルメリィの格納庫の一角を占領していたデル・モナコ女史愛用のコンピュータルームが移設されることが決定され、サンタエルバから次々と到着する輸送機からは資材やら弾薬やら装備やらといったものが運び込まれていた。整備兵たちに混じって機体のワックスがけをしていた僕らだったが、意識は機体の方を向かずに、格納庫の奥に居座っているもう一つの機体へと向いていた。結局、集中出来ずにバケツと雑巾を置いた僕とスコットは、レサス軍から接収した新たな試作機の周りをぐるぐると回り出していた。
「こら、ワックスがけも大切な仕事だろうに……って言っても、俺らも興味津々だからなぁ。人の事はあんまり言えんわなぁ」
やはり目新しい機械を見るのは嬉しいのか、XR-45Sの整備を中断してフォルド二曹も雑談の輪に加わる。最近はすっかりデル・モナコ女史が直接工具を握る場面は減り、XR-45S整備班の直接的な整備チーフはフォルド二曹となりつつあった。むしろ彼女の受け持ちは、より専門的な知識を必要とする機体の制御ソフト・システム部分になっているらしく、整備兵たちからは「コンピュータと連結している」などと言われるほど、コンピュータルームに篭ることが増えている。そこにサバティーニ班長が時々加わっているのは、やはりベテランの勘と経験が必要ということなのだろう。
「それにしても、ごっつい機体やわ、これ。何ちゅーか気に入ったわ」
「ジャスのXR-45S同様、もともとはオーレリアの試作機プロジェクトで運用されていた機体らしいぞ。レサスの連中も触っていたようだが、実戦には持ち込まなかったみたいだな。……中を見てみるかい?」
「見る見る!な、ジャスも見たいよなぁ」
はしゃいで踊るスコットを苦笑交じりに眺めつつも、僕も同様にこの機体に興味を持っていた。XR-45Sほどに派手な外見ではないけれども、「XFA-24S」という機体名称を与えられた機には独特の雰囲気があった。カナード付デルタ翼形状に三次元可変ノズル機構、搭載されているエンジンは僕らの部隊でも使用されているものの改良型で、燃費性能を向上させたタイプのものを採用しているのだという。このため、航続距離と行動範囲だけを取れば僕のXR-45Sを凌ぐそうだ。さらに空中戦を中心に考えられている僕の機体とは異なり、対空対地どちらにでも対応出来るように設計された機体周りと火器管制機能は、結果としてこの機体の個性をおぼろげにして突出した機体性能を犠牲にしたきらいはあったけれども、マルチロール機として高い潜在能力を有していることは間違いなかった。ただ、僕にとって何より意外だったのは、この機体のコクピットにグランディス隊長のADF-01S同様にコフィン・システムが導入されていることだった。実のところ、デル・モナコ女史はXR-45Sにもコフィン・システムを搭載したいらしい。既にそのモジュールは本社部門では試作されていて、テストも何度か行われていたのだという。ただ、これまではオーレリア不正規軍として外部への支援要請が出来る環境に無かったので断念していたのだとか。だが戦況は大幅に変化し、対外的にも"オーレリア解放"の目途が付いて来た事で、本格的な改修計画を立てられる……というわけだ。ただでさえじゃじゃ馬の愛機XR-45Sをさらに改良する――そのイメージをするだけで、僕はげっそりした気分になる。
コクピット下のメンテナンスハッチを開けたフォルド二曹がパネルを操作すると、プシュ、という音と共にコクピットハッチが開き、跳ね上がったドア部分が上方へとせり上がり、固定される。搭乗用のラダーを下ろして、スコットが嬉しそうによじ登って機体にしがみ付く。登る場所がないので、僕は格納庫に立てかけられていた脚立を持ってきて、その上によじ登った。キャノピーの代わりに厚い装甲がコクピットを包み込むこの方式は確かに画期的なものかもしれないが、反面、棺桶の名の示すとおり、ディスプレイ表示が無ければ完全な閉鎖空間となる。今は開放されているコクピット・ドアの内側は液晶を素材としたディスプレイとなっており、外部に設置された複数の小型カメラからの映像をリアルタイムで接合、復元するのだ。現行の機体では視点を色々と動かさなければならないことも多いが、直接ディスプレイに情報やらミサイルシーカーの類を表示するならば、パイロットにとっての負担は軽減されるに違いない。事実、ディスプレイに直接情報を表示するために、現行機と比べると計器盤の類が大幅にシンプル化されていた。見慣れたHUDの姿も無い。HUDに表示されるべき情報を直接投影するのだから当然といえば当然だが。
「ええなぁ、これ。誰が乗るんか、もう決まったんでっか?」
「いや、何しろ整備マニュアルの類もまだ見つかってないからな。まぁ、サバティーニ班長たちが何とかしてくれるだろうけど、実戦配備はしばらく先になるだろうなぁ」
「スコット、そんなに試作機が乗りたいなら、一度XR-45Sに乗ってみるかい」
「嫌や、あんなん。若うしてまだ死にとうないわ」
「ハハハ、ひどい言われようだな、ジャス。でもまぁ、確かにあんなピーキーの機体を飛ばしているもんだと思うよ。その点、扱いやすさではXFA-24Sに軍配が上がるだろうな。ま、誰が乗るかは別として、こいつも近々投入されるのは間違いないよ。お前らも見せられたんだろう、例の写真?レサスの地上部隊も不穏な動きをしているというし、意外と早いかもな」
またも胃の中のものを全部吐き出す羽目になった写真を思い出すと、改めて胃液が逆流してくる気分になる。隊長たちも隊長たちで、何でわざわざ昼食後にあんなものを見せるのだろう?明らかにグランディス隊長は楽しんでいるという気配だったか。ノヴォトニー少尉が同情するような目で見てくれたことが嬉しくも情けない。何しろ、顔を背けながらも少尉は平然としていたのだから。……それにしてもひどい光景だった。折り重なるようにして倒れる、数十の骸。解放に湧き立つサンタエルバの一角で行われていた蛮行。そのやり口は巧妙で卑劣だった。サンタエルバの街じゅうから無作為に、目立たないように拉致され行方不明となっている市民が存在することが判明したのが、ちょうど僕らの地獄の特訓中のことだったろうか。そして一昨日。市街地の巡回に出ていたバーグマン師団所属の部隊が、市民からの通報で"異様な匂いのする"ビルに調査に向かって見つけたのが、あれだ。苦悶の表情を浮かべ、血と体液と糞尿を垂れ流した凄惨な犠牲者たちの姿を、僕は正視することは出来なかった。遺留品などから何人かの身元が確認され、それが行方不明になっている市民のものと一致したことにより、事態はさらに深刻な問題となったのだ。彼らの死因は、毒ガスの類に起因する呼吸障害とガス成分による体外・体内の劇症性の炎症、即ち、閉鎖空間の中で毒ガスを流し込まれたというわけだ。まさに虐殺と呼ぶべき事態だけでも腹の底から怒りが湧いてきそうになるのだが、さらに醜悪な事態は、ここで殺されていたのが男性だけという事実だ。行方不明リストには、10代〜20代の若い女性の名が多数記されているにもかかわらず、依然その所在は不明。だが、僕らにだって「民族浄化」という言葉を聞けば、何が起こっているのか想像は付く。
「せやけど、あんな危険なもん、どこで使うつもりなんやろ?」
「例えばここに潜入して、僕らが寝ている隙に撒き散らすとか……」
「まあなぁ。…毒ガスも許せんけど、女性に対する極悪非道な仕打ち、絶対に許さへんで。見つけたらギッタンギッタンにのしたる!!」
スコットの怒りも当然だ。僕だって、レサス軍がそこまで野蛮な行為に出たことが信じられなかった。どんな偉そうな大義名分を掲げてみせたところで、民間人に対する暴力行為、それも民族浄化などは言語道断と言うべきものだ。それすらも認めているディエゴ・ギャスパー・ナバロの頭が理解出来ない。いや、そもそも実戦では使用出来そうに無い危険な毒ガスを、彼らは一体どこで使うつもりなのか?早速医療班を中心に解毒剤の開発が始まってはいるそうだが、まさかレサスは自軍の兵士すらも巻き添えにしてガス攻撃を仕掛けるつもりなのだろうか?僕は段々、レサスが何のために戦争を引き起こしたのか、その理由が分からなくなってきていた。開戦当初、僕らはナバロの言う「オーレリアによる不当な搾取」に対する報復戦争がこの戦争だと思っていた。だけど、僕らが戦い続け、そしてレサスを退けていくにつれて、ふと妙な疑問に囚われたのだ。戦力的には圧倒的優位にあるはずのレサス軍は、どうして僕らを総攻撃しないのだろうか、と。サンタエルバ決戦の時だって、グレイプニルと併せて陸上戦力と航空戦力を多数動員されていたら、残骸を晒していたのは僕らのはずだ。なのに、レサス軍は敢えて戦力を集中させずに戦線を後退させているようにも見える。その理由は分からない。でも、何だかタチの悪い罠か仕掛けが実は張り巡らされているような気がして、背筋が寒くなるのだ。グレイプニル陥落という事態が、まるで堪えていないように感じるのは、僕だけだろうか?
「……しかしナバロの野郎、どこまで卑劣なことをしでかすんだろうな。このまま放っていたら、そのうち核兵器でも出すんじゃないか。昔の「V2」だったか、旧ベルカ軍の残党がオーシアに発射しようとした、物騒な多弾頭の核ミサイルとか、あんなの出されたらさすがに手の打ちようがないな」
「まだ何かカードを切ってくるかもしれない、と?」
「ああ。それが何だか見当は付かないが、どうもあの野郎、まだ何かを隠し持っているような素振りなんだよな。あれが演技だとしても、実際に何かあるのだとしても、敵ながら大した奴だぜ」
「グレイプニルの他にも何かあるっちゅーの、フォルドはん?……一体全体ナバロの大将、どこからそんな銭こさえとるんやろ?グレイプニルかて、一生綺麗なねーちゃんと仲良うしても使い切れんほどの銭が要るはずやのに」
「なんつー例え方をしているんだよ、スコット」
「スコットらしいと言えばスコットらしいが……。でも確かにな、グレイプニル陥落は痛手の割に平然としているというか、そんなイメージはあるんだよな。前線の連中の慌てぶりと比べても違和感あるんだよなぁ」
――そんなこと、あるはずもないが。もし、この戦争が、戦争自体に目的が無かったとしたら――?有り得ない考えを打ち消そうとして失敗する。レサスの、いや、ディエゴ・ギャスパー・ナバロの真の目的が、オーレリアの征服ではなく、戦闘それ自体にあったとしたら――?もしそうだとしたら、僕らはまさにモルモットか。レサス軍の兵器と部隊の実力を測るための。考えるだけでも不愉快な想像だったが、それを否定し切れない自分がいることに、僕は苛立つことになった。
「何だって――?」
"耳でも悪くなったのか?いよいよその時が来たぞ、と言ったんだ"
珍しく、受話器の向こうから聞こえてくる声が楽しげだった。それを受けているマクレーンの表情は、相手の声とは完全に正反対に曇っている。電話の相手――ルシエンテスが唐突に重大な話を持ってくるのは昔からだったが、なかなか慣れるということはない。奴は事も無げに言ってくれたものだ。次のミッション時に、お前さんの部隊を丸ごとレシーブする、と。
「そんな簡単に言うけどな、うちの坊主たちの腕前、半端じゃないんだぞ。一つ間違えればレシーブどころか全滅するのはそっちだぜ」
"南十字星の恐ろしさはよく知っているさ。だから、その前に一仕事してもらった後に仕掛けさせてもらう。正々堂々と戦うには厄介な相手だからな、グリフィス隊は"
「一仕事だって?何をさせるつもりだ?」
"何、大したことじゃない。対空装備をあまり積めない状況で出撃してもらうだけのことさ。――そのための仕込みはさせてもらっているしな。例の虐殺をやらかした部隊だがな、作戦実行のためにサンタエルバに潜伏しているぞ"
「何だって!?おい、まさか市民に無差別攻撃を仕掛けるつもりなのか!?」
"そうはならない。お前たちがいるんだから、な。毒ガス攻撃という蛮行を行ったレサスは国際社会での信用を失い、戦争の大義名分も崩れ去る。だが、オーレリアの英雄部隊も帰らない。後は残った奴らで何とかすればいい。もう終わりの見えた戦争だからな"
ルシエンテスの野郎、火を消す準備を整えたうえで、火を付けるつもりらしい。踊らされるレサスの兵士たちが哀れではあるが、自分たち自身のタスクも大きいことにマクレーンは唸った。グリフィス隊がしくじれば無辜の市民が毒ガスによって虐殺されることになる。つまり、それだけ厳しい戦いを強いられて疲労困憊となったところを「レシーブ」するというわけか。奴の言うとおり、毒ガス攻撃は国際法でも禁じられた戦闘行為であり、仮にそんな作戦を実行しようものなら、徹底的に国際社会から袋叩きにされるだろう。特に、ベルカ事変において毒ガス攻撃の被害を受けたオーシア、その加害者たるユークトバニア両超大国の反発は必至だ。そして、オーレリア不正規軍はどうだろう。これまでの戦いは、何だかんだといってもグリフィス隊、そしてシルメリィ隊におんぶに抱っこでここまで戦い続けてきたというのが実状だ。だが、サチャナを取り返したことにより、オーレリア不正規軍は急速にその戦力を強化しつつある。仮にグリフィス隊が欠けたとしても、時間はかかってもレサスを追い出すことくらいはやってくれるだろう。むしろ、「戦争の英雄」を失うことで兵士たちの士気が逆に上がる効果もあるかもしれない。となれば、後の問題は、古巣とこれまでの仲間に対する感傷だけか。これはこれで簡単には解決出来なさそうではある。特に、事情も知らずに引き込まれるジャスティンやスコットにしてみれば、マクレーンを裏切者と罵って当然である。悲しいが、それはそれで仕方ないとマクレーンは思う。例えそうなったとしても、以後の彼らの安全を確保することは自分のタスクにしよう――彼はそう心の中で誓う。
「……とりあえず、手の込んだ歓迎をしてくれることは分かった。ただ、一つだけ約束しろ、ルシエンテス。グリフィスのメンバー誰一人として、傷を負わせない、とな」
"確約は出来ない"
「確約してもらおう。未来の戦いのために必要なエースたちだ。その程度の腕前を持った部隊なんだろう、お前の部隊も」
"……噂の南十字星相手に無傷で捕えろ、とはな。バトルアクスも厳しい要求をしてくれるよ。まあいい、分かったよ。約束する。戦友の頼みを裏切るわけにはいかないからな"
それでも全面的に信用出来ないのがこの男の怖いところだ。そして、ますます踏ん切りがつかなくなる自分の心と足下に、マクレーンは顔を歪めた。木乃伊取りが木乃伊、ではないけれども、祖国を見限ったはずの自分がいざその時になって祖国を守ろうという気になっている。それもこれも、あの若造たち――ジャスティンたちのせいだ。どう考えても降伏する以外の道が無いはずの戦局をここまでひっくり返す原動力となった、今では名実共にエースと呼べる若者たちの熱に、みんなやられてしまった。心置きなく祖国から解放されるはずだったのに、何という体たらくだ。寄ってたかって人を貶めようとしていた連中に対する怒りは今でもマクレーンの心の奥底で燻っている。それでも、戦争の真実を知らずにただ前へと進もうとするジャスティンたちを見ていると、自分自身が馬鹿馬鹿しくなってくるのだ。もう一度だけ、打算や損得を抜きにして祖国のために飛ぶのも悪いもんじゃない――そう昔の熱い血が囁くのだ。心を焼く暗い炎と、闇を振り払うように明るい炎。両者が心の中で対立し、ぶつかり合う。本当にそれでいいのか――?何度自分自身に問うてきただろう。未だ明確な答えを見出すことが出来ず、ついに今日まで来てしまった。それも、もう引き返せない断崖絶壁に。でも、本当に引き返せないのだろうか?皮肉にも、教え子たるジャスティンたちは、諦めずに進むことをマクレーンに教えてくれた。彼らのように、昔の頃のように飛ぶことが出来たら、目に見える世界も変わるのだろうか。
"なあ、マクレーン。多分お前のことだから今でも迷っているのだと思うが、忘れるなよ。俺たちの戦いは、最終的にこの世界から戦争を無くすための戦いである、ということを"
「分かっているさ。この戦争だって、国境を利用した奴らのせいで引き起こされたんだからな。だけどな、ルシエンテス。そのために起こされる戦争だって、結局は同じもんじゃないのか?」
"相変わらず優しいな、お前は。結果としてより多くの命を救うための戦いだ。……犠牲はつきものとは言わないが、その重みを俺たちは背負って飛べばいい。きっと、お前の教え子たちも分かってくれる日が来るさ。――ではな、次に会うときは、あの大空で。待っているぞ、戦友、マクレーン"
電話が切れて、ツー、という音だけが聞こえるようになっても、マクレーンはまだ受話器を握り締めたまま立ち尽くしている。出来るものなら、決断など下したくは無かった。だが、もう逃げることは出来ない。抜かりの無いルシエンテスのことだ。例えマクレーンが誘いを断ったとしても対処出来るような布陣で臨んでくるに違いない。その時には、シルメリィの部隊は支援不可能な空域で作戦遂行を強いられるのだろう。完璧に孤立無縁な情勢。支援の空白を意図的に作り出してグリフィス隊を掠め取る。これが、奴と俺の差か――ようやく受話器を戻したマクレーンは、私室のパイプ椅子に腰を乱暴に下ろし、そのまま真後ろへとひっくり返った。安物の椅子に相応しく、体重と瞬間的にかかった力を支えきれず曲がってしまった脚が目に入り、床に叩き付けられたマクレーンは失笑した。まるで、しっかりしろ、と怒鳴られたような気分だった。そしてきっと、同じ言葉を違う立場から言うであろう女性の姿を――ヴァネッサの姿を思い浮かべる。薄々こちらのやっていることに気が付いている彼女は、やはり俺に失望するのだろうか?……失望どころか、軽蔑されても仕方ないかもしれないよな。腰を擦りながら立ち上がった彼の顔には、ほろ苦い表情が浮かんでいる。いくら自問自答しても出口が見つからない、そんな葛藤の中にマクレーンはただ立ち尽くしていた。
愛機のコクピットに腰を下ろして点検をしながら、自機の前に駐機している隊長機――マクレーンの機体へとヴァネッサは視線を時々動かしていた。そのコクピットに、いるはずの人影は無い。どうやらパイロットたちに割り当てられた宿舎にまだいるらしい、と整備兵が教えてくれたが、わざわざ連絡を入れる気にもなれなかった。マクレーンは知らないかもしれないが、既に不正規軍の上層部――例えばシルメリィの司令官やサバティーニ班長たちは、彼の造反を察知している。いや、まだ造反と決まったわけではない。ただ、絶対に信用出来る存在では無い――オーレリアの誇るエースをそう考えなければならないことが、ヴァネッサにはたまらなく辛かった。ただ、あの優柔不断な性格が幸いしたのか、災いしたのか、彼は未だに葛藤の中にある。それが分かるから、余計に辛い。もし一言でもいいから相談してくれれば、と思う。そうしたら、しっかりしろ、と怒鳴り付けて尻を蹴飛ばしてやるのに。過去と訣別して、オーレリアの空の守り手たる"バトルアクス"としてあの空を舞いなさい、と。その隣を並んで飛べたら、何より最高!
「……道は遠いわね」
誰にも聞こえないように小声でそう呟いて下を向くヴァネッサ。全く、私らしくない。やっぱり連絡を入れて、顔を出したら「何サボっているの!!」と蹴飛ばしてやろう。それがいい。チェック用のバインダーをコンソールの上に置いてコクピットから出ようとしたとき、格納庫内に大音響でサイレンが鳴り響いた。ぎょっ、とした表情で整備兵たちが上を見上げている。
「緊急事態発生、緊急事態発生、作戦機搭乗員は直ちにブリーフィングルームに集合。各整備班は作戦機の出撃準備を急げ。繰り返す、搭乗員は……」
オペレーターの声が緊迫している。状況は分からないが、どうやらレサスが動き出したことだけは間違いないらしい。ラダーを駆け下りたヴァネッサは、馴染みの整備兵たちに出撃準備をお願い、と伝えて走り出した。格納庫のドアから飛び出すと、他の部隊のパイロットたちに混じって、ジャスティンとスコットが全力疾走している姿が目に入る。今や名実共にオーレリアのエースとなりつつある二人の若者は、グリフィス隊の名を継ぐ者として相応しい、とヴァネッサは思う。グレイプニルの攻撃で大空に散ったかつての仲間たちも、きっと喜んでいるに違いない。ふと、足を止めて自分の出てきた格納庫を振り返ると、開放されたドアの奥から、隊長機が出てくるところだった。エンブレムの無い、空白の垂直尾翼。そこに本来あるべき「戦斧」の姿を思い浮かべながら、再びヴァネッサは走り出した。
南十字星の記憶&偽りの空トップページへ戻る
トップページへ戻る