サバイバル・ゲーム
空も見える。エンジンの奏でる咆哮も聞こえる。操縦桿を握る掌の感触もある。肩に食い込むハーネスが肩を締め付ける痛みも感じる。身体を翻弄するGのおかげで、胃が裏返りそうになる。あらゆる感覚は正常に働いているというのに、「見えない」。「感じない」。コクピットの中は、まさに孤独そのもの。敵の仕掛けてきた電子的妨害によって、通信とレーダーを閉ざされた機内で、僕は孤独だった。電子的な感覚を奪われた僕らに、その環境に順応する暇は与えられなかった。交信する術も持たず、とりあえず北へと針路を取ろうとした僕らのコクピットに鳴り響いたのは、紛れも無き警告音だったのだから。翼の下には、戦闘時の激しい機動を阻害するタンクがぶら下がり、その結果、僕らの対空装備はほとんど搭載されていない。短距離の赤外線追尾型のミサイル程度のものだ。迷わず中和剤タンクを切り離した僕らは、それぞれ思い思いの方向へと編隊を解いた。その直後、真正面から突入してきた機影が2つ、減速する素振りも見せずに僕らの至近距離を通過していった。平べったい姿。機体中心部にやや傾けられた2枚の垂直尾翼。後方へと去っていく敵の姿ははっきりとは捉えられなかったが、このXR-45Sと同じ前進翼のスリーサーフェイス!敵の総数は不明。たけど、一つだけ確実なことがある。僕らは、狙われていたのだ。解放されたサンタエルバ。カラナ平原に向かっている不正規軍の主力部隊。「解放下にあるオーレリア」領内を飛行してサチャナ基地へと帰還する僕らが危険に遭遇するなど、誰が考えるだろうか?その油断を見抜いて、敵は仕掛けて来たに違いない。でも何故ここまで手の込んだ仕込を?それが僕には理解できなかった。僕らを撃墜するだけなら、わざわざ電子戦機を持ち出すような必要は無い。ただでさえ対空装備を欠く僕らだ。ステルス部隊の大群にでも囲まれた日には脱出など夢のまた夢となろう。事実、レサスにはそれだけの戦力がまだ残されているのだ
再びコクピット内に鳴り響く警告音。首をめぐらせて後方に視線を移せば、チェックシックス、真後ろから僕の機動を追尾してくる機体の黒い点が二つ。舌打ちしつつスロットルを押し込み、機体を加速させる。条件は敵も全く同じ。そう、レーダーも通信も使用出来ない環境であることは。とにかくこの戦域――電子妨害の展開された空を突破するしかない。距離さえ稼げば、僕は逃げられる。そう考えた僕の前方から、別の2機が回り込み仕掛けてきた。何で見えるんだ!?悪寒を感じて急旋回、文字通り緊急回避した僕がさっきまでいた空間を機関砲弾の雨が通り過ぎていった。急な機動で速度を落とした僕の後方に、再び2機が食らい付く。僕には信じられなかったが、敵はこの戦況下で僕の位置を割り出しているのだった。これが経験の差という奴なのか。もう一度仕掛けてみる。急加速。低空まで舞い降りて水平に戻し、地形を利用しながらジグザク飛行。高度2000フィートほどの小山の頂スレスレを飛び越えて急降下。追手の目をくらませて180°ターン。相手の真正面から飛び込んで反撃の一矢をぶちこんでやる。水平に戻し、スロットルを押し込んだ僕の前方に――機影は……無い?その代わりにけたたましい警告音がコクピット内に鳴り響く。慌てて四方八方に首を動かした僕の視界が捉えたのは、左右から二手に分かれて攻撃態勢にある追手の姿だった。
「しくじった!」
誰にとも無くそう叫びながら、反射的にスナップアップ、上空へと逃れるために急上昇を仕掛ける。白い煙を吐き出しながら迫り来るミサイルを間一髪で回避することに成功するが、その直後、鈍い振動が2回、そしてバンという甲高い衝撃音がコクピットに響き渡った。やられた!操縦桿に設置されているモニター選択ダイヤルを素早く回し、多目的ディスプレイに表示される情報画面を機体ダメージモードへ。命中箇所は2箇所。胴体後方部に2箇所。火災発生、燃料漏れは幸いにして無し。ただし油圧系に若干障害。後部フィンの稼動範囲、15%低下。食らった割には、ほぼ無傷と言って良い損害。だが事態は確実に最悪と言って良かった。確かに、レーダーや電子機器の類が発達する以前の空の戦いは、パイロットたちの腕前と目と勘と経験が戦いを左右した。敵よりも早く相手の姿を見つけ、相手よりも早く攻撃を仕掛けることが勝利を勝ち取る最短の手段だったのだ。その時代のパイロットたちは、今よりも遥かに簡素なコクピットの中で、しかし今の僕と同じように孤独な状況下で、敵の姿を自らの目で捜し求め、戦っていた。最後に信じるべきものは自分の目と感覚。それは教本などでも書かれているとおりだ。だが実戦で実行することの何という難しさか。攻撃を回避できたのは、愛機の持つ尋常でない機動性のおかげでしかない。敵は、レサスの正真正銘のエースだ。そう確信すると同時に、寒気と震えとが僕の身体を抱きすくめる。これまで僕らが戦ってきた敵は、確かに実力もあったし訓練も充分に積んだプロの集団であったことは間違いない。だけど、例えばマクレーン中尉のような、あるいはカイト隊の面々のような本物のエースに出会ったことだけは一度も無かった。それが、今僕の前に立ちはだかっている。彼らには、僕の小細工など通用するはずも無い。逃げ回っているだけではやられる!直線的な機動を止め、速度をある程度維持しつつ旋回飛行。睨み付けるようにして空に視線を動かして、敵の姿を捜し求める。低空を飛行する黒い点を3つ確認。その先頭にいるのが、スコットのF-2Aのものであることに気が付いた僕は、後方に追手を引き連れたまま速度を上げ今度は空を駆け下りていく。敵の姿をはっきりと視認。珍しい機体――まさか、これを実戦配備している部隊に出くわすとは思ってもいなかった。敵の操っている機体は、S-32。Su-47ベルクートの試作機として開発されたというかの機体は、ごく少数のみが量産されただけに留まると聞いている。大柄な機体に似つかわしくない軽快な動きで、機体サイズだけなら一回り小さいF-2Aを追い回す。スコットも必死の回避機動。敵の攻撃軸線上に乗る事を辛くも避けつつ、機動性では劣ることを前提に何とかして振り切ろうと速度を上げていくが、後続を振り切ったと思った頃には前方から回り込まれて針路を遮られてしまう。さっき僕が食らった手だ。今頃きっとコクピットの中で猛烈にスコットは騒いでいるに違いない。僕だって同じ気持ちだ。
スコットを追い回していた敵の1機の後背に回りこむことに成功し、報復とばかり食らいつく。独特の形状の平べったい排気口が目に入る。追撃を諦めて逃げにかかる敵のすばしっこいこと!20メートルを越える全長を持つ機体とは思えないようなタイトな旋回を続ける敵に付いていくのは生半可なことではなかった。それでも付いていけるのが自分の腕前ではなく、XR-45Sのおかげというのが何とも悔しい。意地でも離れまい――そう考えていた僕は、明らかに冷静さを失っていた。だから、気が付かなかったのだ。僕が敵を追い詰めていたのではなく、僕が誘い込まれていたということに。ぞっとするような殺気を背後に感じるや否や、キャノピーを掠めるようにして機関砲弾のシャワーが通り過ぎていく。慌てて急旋回。自分でも言葉にならないような叫びを発しながら、それでもパニックに陥って地面とキスするような愚を犯さないよう、必死に操縦桿を手繰る。諦めれば、即終わり。逃げるな、諦めるな、脅えるな!効果の程は分からないが、そう心の中で連呼しながら敵から逃れるべく加速。急旋回、再び加速しつつループ上昇。ぴたりと後方に占位した敵が離れる素振りはない。いつでもこちらを攻撃出来るという余裕か。身軽な動きを見せる敵機は、くるり、とエルロンロールを鮮やかに決めたかと思うと、僕の真後ろとポジションを入れ替えた。これでは振り切れない。どうする?背後を振り返った僕は、そこにあった機影を確認して胸を撫で下ろした。デルタ翼にカナード、機首下面のエアインテーク、軽快なフットワーク、そこにあったのは紛れも無いマクレーン隊長のタイフーンだった。どうやら敵を追い払ってくれたらしい。さすがは隊長。通信が使える状況なら正直に礼を言いたいところだが、その隊長機はいつまで経っても僕の横に並ぶことは無かった。ぴたり、と無駄の無い動きで、僕の真後ろをキープする。これではまるで、僕が狙われているみたいじゃないか――。嫌な予感がして振り返った僕は、隊長機のキャノピーの向こうで光が一定の規則性を持って瞬いていることに気が付いた。発光信号?座学で習った知識を総動員して僕は解読に努め、その意味を理解するや否や戦慄した。
"ム・ダ・ナ・テ・イ・コ・ウ・ハ・ヤ・メ・ロ。オ・マ・エ・ノ・ト・ビ・カ・タ・ハ・ミ・キ・ツ・タ"
無駄な抵抗だって!?そんな、冗談だろ!?もう一度同じフレーズを繰り返した後、文章が変わる。
"ワ・レ・ニ・シ・タ・ガ・ツ・テ・コ・ウ・フ・ク・シ・ロ。ワ・ル・イ・ヨ・ウ・ニ・ハ・シ・ナ・イ"
僕の理性は、目前に起こった事態を正確に表現しようとしていた。でも、僕の感情がそれを良しとしたがらない。こんな事態が偶然に起こるはずは無い。マクレーン隊長は……いや、ブルース・マクレーンは、この襲撃を企てた連中と通じていたのだ。それも多分、ずっと前から。その理由なんか、僕に分かるはずもない。大人の事情とやらが原因なのかもしれない。でも、おかしいじゃないか。だったら、何で今まで、隊長は僕らと共に飛んできてくれたのか。僕らを即席一端の戦闘機乗りとして鍛えてきてくれたのか。オーレリア不正規軍のエースパイロットとして、他の部隊の仲間たちと一緒に戦ってきたのか。僕が子供だからなのかもしれないが、不正規軍の中核の座を占めていた隊長に、一体どんな不満と苦悩があったのか、見当も付かなかった。怒り、驚き、悲しみ――色々な感情が心の中に湧き起こっては消えていく。でも、何より理解できないのは、「我に従って降伏しろ。悪いようにはしない」の真意だ。隊長らしい言い方だと思うけれども、オーレリア不正規軍を離れるからには、別勢力、恐らくはレサス軍に投降しろということなのだろうが、これまで散々レサスの兵士たちを苦しめてきた僕らグリフィス隊が、レサスの兵士たちに易々と受け入れられるとは思えない。仮に受け入れられたとしても、今度はオーレリア中の人間を敵に回すことになる。どうも、そんな馬鹿げた選択ではないように感じる。レサスでもオーレリアでもない、別の組織或いは勢力に与するとでも言うのだろうか?そしてS-32のエース部隊もまた、マクレーン中尉と志と行動を共にするものだ、と?交渉の時間、ということなのだろうか、S-32の群れは遠巻きに僕を伺っているだけで、攻撃を仕掛けては来ない。僕はコクピットのコンソール脇に括り付けられているマグライトを取り出して、うろ覚えのパターンを頼りにスイッチのオンオフを始める。
"理解出来ない。降伏しろって、誰に降伏するんですか。何で、こんなことを?"
返答がすぐに戻ってくる。
"後で詳しく話してやる。俺と一緒に来てくれ、ジャス。世界のためだ"
"何で世界のためになるんですか。こんなひどい裏切り、あっちゃいけない!"
"……分かってくれとは言わないさ。もう一度聞く。俺と共に来るか?"
僕は息を大きく吸い込んだ。これ以上、隊長に妥協の余地はなさそうだ。ノー、と返せば力ずくで、となるに違いない。よりにもよって、隊長と交戦だって?オーレリアの誇るトップエースと?僕やスコットの飛び方は、他ならぬブルース・マクレーン直伝のものだ。隊長の言うとおり、素直に飛んでいたら行動を予期されて見切られるのがオチだ。勝ち目があるとは思えない。しかも、隊長のタイフーンは初めから対空戦闘装備。短距離での戦闘を強いられる僕にとっては不利な材料揃い。近接格闘戦を仕掛けるならば、嫌でも隊長の操縦技術と背比べをしなければならないのだ!唯一勝てる要素があるとしたら、それは僕の未熟な技術ではなく、僕の操るこの機体XR-45Sの戦闘能力か。パイロットへの過度な負担を避けるために踏み込んでいない危険な領域でこいつを操れれば、一矢報いることくらいは出来るかもしれない。利口な人間なら、状況を理解した上で従順に従うのかもしれない。でも、僕にそれは出来そうも無かった。隊長にどんな事情があるのか知ったこっちゃない。昼行灯の目が曇りきったままというのなら、僕が目覚めさせてやる。僕やスコットはまだいい。でも、中尉を多分一番信頼し、多分一番誰よりも好いているだろうファクト少尉の想いはどうなるんだ!?逃げている場合じゃない。手にしていたマグライトを急いで固定して、僕は呼吸を整えた。相手は隊長、一歩間違えれば愛機に殺される。やれるか?自問自答。やってやる。やってみせる。操縦桿を勢い良く倒しつつ、スロットルを押し込んで急旋回。交渉決裂を悟った隊長機が、反対方向へとブレーク。力ずくのコミュニケーションの始まり。身体を貫く戦慄。弱気になりがちな心を蹴飛ばし、心と身体を奮い立たせるように、僕はコクピットの中で叫んだ。
「グリフィス4、エンゲージ!!」
コフィンシステム搭載機のようにはいかないが、XR-45Sに搭載されている火器管制コンピュータにも簡易的な追尾システムが搭載されている。本来レーダーの支援があってこそ真価を発揮するものだが、目視に頼るしかないこの戦闘下にあって、ガンカメラに連動した「第3の目」は予想外に役立つ代物だった。一度捕捉出来れば、火器管制コンピュータと連動してHUD上にその位置がマーキングされる。仮にカメラの捕捉圏外になったとしても、それまでの予測位置から所在を割り出せる。互いに有利な攻撃ポジションを確保すべく旋回を繰り返した後、ついに激突する。やや右上、覆い被さるように襲い掛かってくるマクレーン中尉のタイフーンは、まるで敏捷な猛禽のように、鮮やかに距離を詰めてくる。こちらも旋回から水平に戻し、目標やや右下を狙ってコースを取る。スロットルレバーを奥までぐい、と押し込み、愛機を加速させる。圧倒的な推力を誇るGBXX-435Paエンジンが甲高い咆哮をあげる。シートに張り付けられるようなGが身体に圧し掛かり、操縦桿を握る腕すら振り払おうとする。隊長よりも早く、少しでも早くアタックポイントを確保し、一気に離脱。先の先を奪って、隊長の手を封じる――絶対的な経験差を埋めるには、多少の無茶は承知。見る見る間に縮まる彼我距離。引き金を引くことを決して躊躇うな――!もう一度そう言い聞かせながら、照準レティクルを睨み付ける。どのみちヘッドトゥヘッドでミサイルが使用出来る戦況ではない。点にしか見えなかった隊長機の姿を照準の中に捉えた刹那、トリガーを引き絞りつつ操縦桿を倒し、ローリングしながら離脱を図った僕の目前に、白い排気煙とミサイルの姿が焼き付く。この距離、この速度で!?真っ逆さまになってダイブ。後方へと過ぎ去った隊長機、急機首上げ、インメルマルターン。こちらの背中に食らい付かんと反転する。負けてはいられない。充分な速度を得ると共に水平に戻し、急旋回。上空から襲い掛かってくる隊長機からコースを外して上昇する。ポジションが入れ替わり、隊長機は低空へ。背後を振り返っておおよその位置を確認しつつ、リアタックを仕掛けるべく旋回しようとした目前に、S-32の前進翼が出現する。敵が機関砲弾を放つよりも先に身体が反応し、スナップアップ、スロットルMIN。体中の血液が一瞬背中側に持っていかれるような感覚。敵機の頭上で推力を失いながら倒れ込んだ僕の鼻先に、あの平べったい機影を確実に捕捉する。食らえ!コンマ数秒間引き絞ったトリガー。愛機から放たれた機関砲弾の雨は、敵機の右主翼後部を直撃して命中痕を穿った。恐らくは、僕ら側が敵に与えた初の戦果だったろう。黒煙を吐き出した敵機が離脱を図るのを視界の隅に捉えつつ、僕は所期の目標――マクレーン隊長の姿を捜し求める。
乱戦になったときはどうすれば良かったっけ?実際に操縦桿を操るようになる以前の戦技座学。学生たちから「理屈倒れ」と酷評されていた教官の授業の一コマ。歴代のエースたちの超人的な機動と戦術、戦果に興味を持つ学生は多かったけれど、まさか自分たちが戦いの空をこんなにも早く飛ぶようになるとは誰も考えていなかった頃の話だ。僕ですら、右から左。おかげで肝心のときに思い出せない。だけど、幸運の女神か悪戯好きの悪魔かは分からないけれども、記憶の回廊のページを捲っているうちに、唐突にそのときの言葉を思い出すことに成功した。熟練の腕利きになればなるほど、戦況を巧みに利用して戦果を挙げ、自らが生き残る道を作る。状況を利用しろ――そう、教官殿は確かにそう言った。一対一の戦いに乱入した敵機とその機体から吹き出した黒煙は、目標を探す僕の目をくらませる障害となっている。隊長ほどの腕利きが、この好機を逃すはずも無い。低空へと一旦は降下したマクレーン隊長は、結果として僕との距離が離れたことによって、敵機の吐き出した黒煙などに惑わされること無く、僕の位置を捉えているはず。より確実に、僕を撃墜するために、多少の無茶をしてでも隊長は来る。僕ならどこへ出る?少しでも長く、目標を捕捉し続けるために、取るべきポジション。その回答に到達したことへのご褒美のように、コクピットの中にけたたましい警告音が鳴り響く。後方警戒。振り返った僕の視線の向こうに、マクレーン隊長の乗るタイフーンのデルタ翼が飛び込んできた。反射的にスロットルをMAXへと叩き込み、左へと倒れ込むように急旋回。圧し掛かるGに体中の骨が軋み悲鳴をあげるが構ってなんかいられない。僅かな時間で音速に達した愛機XR-45Sのキャノピーの周りを、白い気流の筋が走る。だが初速の差は大きい。左旋回から素早く反対方向へと転じたときには、隊長機との彼我距離は機関砲の射程圏内へと近付いていたのだった。
バリバリバリバリ、という大気を切り裂く轟音が聞こえてきたかと思うや否や、旋回を続ける僕の機体の腹の下を曳光弾の筋が通り過ぎていく。これだけの急旋回を続けている状況下、そうそう簡単に命中するものではない。獲物を駆り立てる狩人が、獲物をさらに追い詰めようとしているのか、或いはこれ以上の無益な戦闘を避けるための勧告か――隊長のことだから、多分後者だろうな、とは思いつつも従うつもりにはなれなかった。こちらが苦しいということは、隊長だって相応の負荷に耐え続けているということだ!イチかバチかの賭けに僕は出ることを決める。方向を時折変えながら続く急旋回。ぴたり、とついてくる隊長機の姿を確認しつつ、少しずつ、気が付かれない程度に速度を落としていく。僕らを「捕獲」することが隊長たちの目的である以上、コクピットを潰されてジ・エンド、ということにはなるまい。むしろそこに付け込んでやる。言い方は悪いが、隊長たちには隊長たちの都合があってそうしたくても僕らを即撃墜できないのだろうが、そんなこと、僕らには知ったことではない。隊長は確かに僕らの恩人だけど、僕が戦い続けてきたのは、結局のところ僕自身が生き残るためだ。恩人に剣を向けることなど避けたいけれど、立ちはだかる以上はやるだけだ。心の中には正直まだ迷いも葛藤も残っている。マスクの下で荒い呼吸をつきながらも、タイミングを伺う。2回、3回、4回……持ち前の優柔不断さが発揮されたのか、まだ仕掛けてこない。早く来てくれ。こっちの身体がもたなくなっちまう。罠と悟らせないためとはいえ、限界は確実に近付きつつあった。さらに反対方向へと操縦桿を切った刹那、隊長機の動きが変化する。それまでの機動のコピーから脱し、速度を上げて一気に僕の後背へと食らいついてきたのだ。追い抜きざまに機関砲を浴びせての一撃離脱。これを僕は待っていたのだった。考えるよりも早く身体が反応し、フットペダルを蹴っ飛ばす。同時に操縦桿を引き寄せつつ倒し、ローリングへと持ち込む。強烈なGと共にXR-45Sの姿は左方向へとすっ飛びつつ、隊長機の軌跡を中心とした楕円軌道を描いていく。急制動のおかげでほとんど見えなくなってしまった視界に微かに目標の姿を捉えて、トリガーを引く。失神寸前の頭を何度も振りながら無理矢理に視界を取り戻し、こちらの攻撃をかろうじて回避し、加速しながら低空へと逃れようとする隊長機の後姿に今度はこちらが食らいついていく。そこにいるのは、敵、敵になってしまった人のはずなのに、何でこんなに悔しいんだろう?回避機動に転じたマクレーン中尉の姿を追い続ける僕の心の中は、晴れるどころかますます厚い雲に覆われていく。
目前の空戦は、見事、の一言に尽きる――電子妨害下の戦場で繰り広げられる師弟対決は見物だ、とルシエンテスはマスクの下の口元を歪めた。それも、この戦況下でこちらに損害を与え、なおも戦闘を継続しようという不屈の精神には恐れ入る。それをやっているのが、まだ20歳にも満たない少年というのだから面白い。とはいえ、そろそろマクレーンにだけ任せてはいられない。電子妨害を続けていられる時間には限りがあるし、オーレリアの南十字星がロストしたとなれば、サチャナ基地から捜索隊が出撃したとしてもおかしくはない。最終的に必要なのは、あのXR-45Sという機体そのものではなく、ジャスティン・ロッソ・ガイオという存在そのものなのだ。他の二人の抵抗も、折れることを知らない「オーレリアの南十字星」の姿によるものだ。だからこそ、降伏させるなり損傷させるなりのオプションが必要だった。あの坊やの尋常でないセンスもあるのだろうが、非情に徹しきれない優しさが、この戦いを長引かせている要因の一つだった。やはりあの坊やは、自らが相手をするに相応しいだけの才覚を持った若者であるらしい。久しぶりに感じる高揚感が、ともすれば空虚になりがちの心の中に熱を伝えていく。本気での実戦など、何年ぶりだろう?気が付けば、レサスで互角に本気で戦える相手などいなくなっていた。この戦争が始まるとき――既に大義のための戦いを始めた後だが――僅かながらオーレリアの抵抗に期待しなかったわけではない。何しろ、あのバトルアクス・マクレーンを輩出した国。だが、結果は惨憺たるものだった。グレイプニルの前に抵抗らしい抵抗も出来ずに降伏していく烏合の衆。マクレーンほどの人材を使いこなせなかった無能な者たちに相応しい体たらくに、ルシエンテス自身も落胆したものだ。もうこの戦争自体に意味は無い、そう確信していた大人たちの予想を大いに裏切ってくれたのが、あの難物の機体を自在に操る特異体だ。まさに、これから始まる自分たちの理想のための戦いに相応しい逸材。傍観を決め込んでいた男は、ようやく自らの束縛を解いた。ゆらり、とした動きを見せたのもつかの間、戦いの始まりを告げる鐘を鳴らすかのように、くるりと翼を回転させ、S-32の前進翼が加速を開始する。サンサルバドル。かつてこの海に知らぬ者の無かった栄光の海軍の旗艦。海賊風情と手を結んだ南の国の船を何隻も道連れに沈んでいった、血塗られた船の名。血塗られた道なら、本望。理想のために流された血が、いつか報われるときが来るのだから。さあ、踊って見せろ、南十字星!!鮮やかな機動で追撃から逃れんとするブルース・マクレーンのタイフーン。その機動を上回るような鋭いエッジを刻みながら舞う、純白のXR-45S。高みの見物から舞い降りてきたルシエンテスのS-32。気配を感じさせることも無く忍び寄るルシエンテスのHUDに、早くもXR-45Sの後姿は捕捉されていた。
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