生還
サチャナ基地の滑走路に降り立ったときは、僕は生きているんだ、という感動に胸が震えたけれど、XR-45Sのエンジンを切り、キャノピーを開いた途端、全身の力が虚脱して、僕は動けなくなってしまった。僕らの帰還を心待ちにしていたらしい基地の面々が歓声を挙げる反面、ズタボロになってしまった戦闘機たちの姿を見た基地の面々は呆然とした表情を浮かべていた。結局、なかなか降りてこない僕を心配して駆け付けたファレーエフ中尉とフォルド二曹に担ぎ出されるようにして、僕はようやく地上に足を下ろしたのだった。XR-45Sの純白の機体は、傷だらけだった。いくつもの命中痕に加えて機関砲弾の衝撃波が掠めた跡、ごく小規模な火災によって煤けた跡、そしてへし折れている垂直尾翼。ノヴォトニー少尉の言ったとおり、よくこの状態になってまで、飛び続けてくれた、と言うのが相応しかった。ふらふら、と愛機に近付いた僕は、右手を機体に当てて、ありがとう、と呟いた。そんな僕の背中を、フォルド二曹が優しく何度か叩いてくれた。
「こいつ、直りますか?」
「さて、それをこれから調べなきゃならないけど……ま、何とかするさ。それが俺たちの仕事だし、まさかオーレリアの南十字星を練習機で出撃させるわけにもいかんだろう?」
今は、実際の修理の大変さを感じさせないように、と笑っているフォルド二曹の気遣いが有り難かった。検査だけで済むはずも無く、エンジンの換装や脱落した部品の調達等々、XR-45S専属の整備班はこれから当分の間不眠不休の戦いを強いられるのだ。この機体を恋人同然に思っているであろうデル・モナコ女史は……案外、これを機に色々仕掛けてやろう、と今頃ほくそ笑んでいるのかもしれない。この場に彼女の姿が無いことが、何よりの証明ではなかろうか?僕は振り返ると、早速機体の周りでチェックを始めている整備兵のみんなに、勢い良く頭を下げた。
「すみません、ぶっ壊してしまって!こいつを、何とか直してやってください!」
「おう、任せとけ!」
「仕上げにリボンを付けて、きっちり渡してやるさ。なぁ、班長!」
どうやら、直しがいのある状態というものは、技術者魂を燃え上がらせる要素の一つらしい。フォルド二曹だけでなく、整備班全体が、妙に盛り上がっている感じだ。"マッドエンジニア"の呼び名は、どうやらフォルド二曹に限った話ではないらしい。感心半分、苦笑半分、それでも、僕と同じように、或いは僕以上にこのXR-45Sを大切に思ってくれていることが、今日はとても嬉しい。きっとまた、すぐに飛べるようになるさ。だから、それまでお前もゆっくり身体を休めておいてくれよ、相棒――子供っぽいかな、と思いつつも、僕は愛機にそう呼びかけた。XR-45Sが、それに返事をするはずは勿論無いのだが。
「す、すみません、通してください!」
僕と愛機を取り巻いていた面々の人垣の合間に、見覚えのある金髪が揺れている。ひゅーひゅー、というひやかしの口笛がちらほらと聞こえてくる。小走りに近付いてきたノヴォトニー少尉の表情は、何だか泣き笑いと言って良いような微妙な表情だった。パイロットスーツ姿では、私服の時のように目のやりどころに困ることはないが、やっぱり面と向かうと何だか恥ずかしい。僕の正面に立った少尉は、片手を腰に当てたかと思うと、もう一方の人差し指を僕のおでこに当てた。
「……本当に心配したんだから。これで、貸し1よ。そのうち、ちゃんと返してね」
少し照れくさそうに笑っている少尉の笑顔に、スコットの言葉を借りるなら「落ちそう」になる。風にそよぐ金髪が揺れて、太陽の光を反射して煌いている。
「約束します。必ず、このお礼は返します」
「……良し!」
少尉の笑顔を間近に見ることが出来て、僕は何だか幸せな気分だった。同時に、背中に突き刺さるような冷たい視線をも感じる。とはいえ、僕は僕の心の向く先をきちんと把握しているわけではない。それに、少尉はレイヴンの若手エースであり、ウスティオはヴァレー基地の推薦を受けるほどの身であるし、何といっても伝説の「円卓の鬼神」の実の娘。高嶺の花……というよりは、正規パイロットですらない僕の身から考えれば、まるで雲上人のような存在だった。とはいえ、好きか嫌いか、と問われればきっと「好き」と応えるのだろうけれど、それは多分憧れの存在、という意味での「好き」だと思う。返す言葉も無く、自問自答している僕の頭に、ファレーエフ中尉の大きな手の平が乗せられる。口元に微笑を浮かべた彼の表情は、"もう少し、何か言ってあげたらどうだい、坊や?"とでも言いたげな雰囲気だった。これが、年齢と経験の差という奴なのだろう。そんな僕らの後方から、ローターの回転数を上げながら離陸していく救援ヘリのエンジン音が聞こえてくる。僕らが帰投しながらサチャナ基地に送信した墜落現場のデータを頼りに、ファクト少尉たちの救援に向かうレスキューチームの面々を乗せたヘリだ。少尉と……それにマクレーン中尉は無事だろうか?マクレーン中尉?そうだ、隊長の裏切行為を僕はどうやって報告すればいいんだろう?一度は寝返りましたが結局少尉を助けるために撃墜されました……などという説明が通用するようには思えない。そもそも、中尉が僕らを裏切る動機がさっぱり分からないというのに、僕は何を報告すればいいのだ?僕やスコットをここまで育ててくれた恩人を、僕が告発するというのか?オーレリアのトップエースが裏切ったなどということを、どうやって不正規軍の皆に伝えるというのか?
「ノヴォトニー少尉。僕は……僕は隊長のことをどうやって……?」
「……ジャスティン」
少尉は指を人差し指を口に当てながら、そして軽く首を振った。……そうか。サチャナ基地の人たちは、まだあの戦場で何があったのかを知らないのだ。そしてもう一つ、重大なニュースが存在することに僕は気付く。グリフィス隊が、実質的に壊滅してしまった、という事実に。スコットのF-2Aはかなりの損傷を負ってしまったし、僕のXR-45Sの損傷も深刻。さらにファクト少尉のタイフーンは撃墜され、マクレーン中尉に至ってはレサス軍との共謀がいずればれるだろう。ただでさえサチャナ基地は混乱の極みに陥れられた直後なのだ。今はまだ、黙っておいた方が良いこともある。或いは、ここで僕の戦いは終わるのかもしれない。もともと、僕は正規のパイロットですらない身。不正規軍はそれを承知で、本来なら許されるはずも無い道理を押し通してきたのだ。乗機を失ったことで、僕らはある意味本来の居場所に戻ることが出来るのかもしれない。人殺しという悪夢からも解放され、戦場で命の駆け引きをすることもなくなって――その代わり、ノヴォトニー少尉と同じ空を飛ぶことも無くなる。いや、今更僕が、そんな安直な選択を出来ると考えるほうが無理があるのかもしれない。中尉だったら、何と言うのかな?思わず見上げた空に、垂直上昇から方向を変えていくヘリの姿があった。もしマクレーン中尉が戻ってきたなら、一度聞いてみよう、と僕は決心した。たとえ、相手が裏切者と呼ばれるのだとしても、彼は紛れもなく僕らの恩人なのだから。
「……で、人が医務室に運ばれてるときに、よろしゅうやってたちゅーわけか。ええなぁ、ジャス」
「そう言うなって。怪我だって全然大したことなくて良かったじゃないか」
「全然良うないわ!俺かてやっとの思いで基地に帰り着いたのに、担架に乗っけられて医務室直行。ジャスは皆に囲まれて、おまけにフィーナはんとよろしゅーやったうえに医務室までご案内。……ひどい、ひどやないか。世の中何か間違うてる!!」
多分本気で言っているんだろうな、と思いつつも、医務室にいる間に基地の女性オペレーターたちが幾人も見舞いに来ていた奴の言う台詞ではない。おおかた、他の見舞いが来ないのをいいことに好き勝手やっていたのだろう。首筋にうっすらと見えるのは、紛れも無いキスマークだ。スコットの怪我は奇跡的にと言って良いほど大したことはなく、コクピットのどこかに打ちつけた際に砕けたバイザーの破片が、額から頬にかけて切り傷を作っただけだった。今は包帯を巻いてはいるが、ほとんど傷も残らないだろうとドクターは言っていた。むしろ僕の方が状況は酷かった。何しろ、マクレーン中尉と敵の恐らくは隊長機らしきエースと連戦して無茶な機動を繰り返したのだ。パイロットスーツを脱いで着替えてみてびっくり。下着代わりのTシャツは、ハーネスに散々締め付けられた肩の皮膚が破れて血染め。何となく視界がぼーっとしていると思ったら、ブラックアウトにレッドアウトに苛まれたおかげで相当に視神経にも負担をかけてしまっていたらしい。さらには、Gに振り回され続けた内臓も限界。「もう少しで内臓破裂でお陀仏だったな」とドクターに言われた時にはさすがに背筋がぞっとしたものである。結局、体力が回復するまでの間、とりあえず1週間は飛行停止、のんびりしていろ、ということになってしまった。ま、XR-45Sも当面の間完全オーバーホールと改修ということで空には上がれないから帳尻は合っている。
「そういや、スコットのF-2Aはどうなったんだ?」
「お陀仏」
「何だって?」
「ジャスのXR-45Sと違うて、修理するよりも機体買うた方がましなくらい、ひどいんやと。……はぁ、俺もジャスとは一緒に飛べんようになってもうたんやね……」
考えてみたら、僕ら二人、無我夢中で毎日のように出撃を繰り返して今日まで来たのだ。それが唐突に飛べなくなりました、と言われてもピンと来ない。ほんの少し前まではそれが当たり前だったはずなのに、余った時間をどうやって使ったらいいのか、僕は困惑していた。だいいち、オーブリー基地に置いてあったゲーム機の類は持ってきてもいない。せめてもの救いは、レイヴン艦隊のオズワルド整備士が大量に保有している携帯プレーヤーをレンタルしてもらえそう――ということくらいか。ぼんやりと見上げた僕らの頭上を、カラナ平原から戻ってきた不正規軍の戦闘機たちが通り過ぎていく。聞き慣れているはずの腹に染み入るジェットサウンドの甲高い咆哮が、今日は何だかとても懐かしく感じる。彼らの元にも、グリフィス隊壊滅の一報は届けられているのだろうか?カラナ方面の空に視線を移せば、帰還してきた戦闘機たちの翼端灯とノーズギアのランプの放つ光が、空に綺麗な陣形を刻んでいた。どうやら、向こうの戦いも終わったらしい。次々と通り過ぎていく仲間たちの機体に損害は少ない。僕らとは対照的に、作戦が見事に成功したという証明だ。その群れの中に、僕はカイト隊の黒い翼の姿を見出した。トライアングル・フォーメーションで、ミッドガルツ少尉とノリエガ少尉の乗るYF-23Sを引き連れた異形の機体、ADF-01S FALKEN改が、独特の重低音を響かせながら高度を下げていく。……あれ?滑走路に滑り降りるようになめらかに接地したFALKENの姿を眺めながら、違和感を僕は不意に感じていた。グランディス隊長は、何でノヴォトニー少尉とファレーエフ中尉をわざわざサチャナ基地に待機させていたのだろう?もしあの二人までカラナに向かっていたとしたら、僕らはレサスの強敵――サンサルバドル隊の手に今頃は落ちていたに違いない。万が一の事態に備えての判断、と言われればそれまでのことだが、意図的に二人を残していったのだとすれば、おのずと話は変わってくる。それは即ち、グランディス隊長は僕らの身に起こり得る危機を事前に知っていたから、カイト隊の二人を待機させておいたのではないか……という疑問へと結び付くのだ。グランディス隊長が知っていたとすれば、サバティーニ班長やアルウォール司令といった上層部に関係する幾人かが、マクレーン中尉の裏切りとサンサルバドル隊の襲撃とを予見していたことになる。……冗談じゃないなぁ。とてもじゃないが、今のスコットにそんな話はしたくない。大人には大人の判断があるのだろうが、今回の場合、それを是と認めることは、僕には難しそうだった。
「しかし敵にもとんでもない腕利きがおるんやね。あんなんが大群で飛んできたら、グレイプニルよりも余程タチの悪い敵になったんやろうけど」
「確かにね。25年以上前のベルカ戦争時の、栄光のベルカ空軍みたいなのが敵だったら、きっと僕らの戦いは初日の1ページだけで終わっていたと思うよ。その点、レサスは装備はともかくとしても、パイロットの腕前という点では高くないのだろうね」
「栄光のベルカ空軍か――。そんな強敵を退けた、フィーナはんの親父さんてどんな飛び方してたんやろ?なんちゅーても、円卓の鬼神って、敗北寸前のウスティオ空軍から伝説が始まっとるんやで。あーあ、そんな人がおったら、ワイらの戦いももっと楽やったんやろなぁ」
「そもそも、戦闘機にすら乗ってないよ。そうだとしたら」
「ほんまや」
そして、オーレリアの空にそんな人はいなかったから、僕らが飛んでいたのだ。でも、開戦当時と比べれば、今では不正規軍の戦力は大幅に拡大している。円卓の鬼神はいなくとも、その血を受け継いだ若きエースもいる。傭兵の猛者たちでさえ逆らうことの出来ない豪傑、グランディス隊長もいる。レサスの追撃から逃れるために潜伏していた、オーレリア正規軍のパイロットたちも次々と戻ってきている。地上部隊には、レサスの大軍による攻撃に耐え抜いた、バーグマン隊長とディビス隊長の最強コンビがいる。艦隊戦力としても、レイヴン艦隊に加えて、セルバンテス・ハイレディン提督率いる第1艦隊がいる。だから――グリフィス隊がいなくても、もうオーレリア解放のための戦争は続けられる。だから、僕らが仮に姿を消したとしても、致命的な損失にはならない――そう判断されたのだろうか?それじゃあ僕たち、何のために戦ってきたのだろう?少なくとも、味方に切り捨てられるために、毎日毎日死の恐怖に脅えながら、他人の命を奪い続けてきたわけではない。そんな勝手な都合、ご免だ。目を閉じれば、嫌でも僕はあの日の光景を思い出すことが出来る。あの日、出撃できる機体もまともに残っていないオーブリー基地を襲撃してきた、レサス軍機の姿と轟音。大気を切り裂く機関砲弾の音。そして、一瞬にして上半身をもぎ取られてしまった、同期のハインツの無残な亡骸――。戦争が無ければ、そんな光景を見る必要だって無かったのだ。僕の両方の手の平は、今やレサスの兵士たちの血で染まっている。ただ純粋に、空を舞うことに憧れていた頃の自分はいない。それなのに――そこまで精一杯やってきたというのに――。やりきれない思いが、僕の頭の中でぐるぐると回っていた。
「戻ってきたぞーっ!!」
僕らのハンガーからそれほど離れていないヘリポートには、救急車や整備クルー、加えて野次馬も集まって騒然としている。誰かの放った大声に我に返ってみれば、カラナ方面から帰還してくる戦闘機たちとは正反対の方角から、ファクト少尉たちの救援に向かっていたヘリのローター音が聞こえてきていた。サチャナに到着したばかりのパイロットたちも、野次馬の集団に加わりつつある。徐々に高度を下げてくるヘリのダウンウォッシュが、長く伸びた前髪を跳ね上げる。野次馬の集団に頭を下げながら、僕らはその最前列へと陣取った。もっとも、大変だったな、といった感じで野次馬たちは道を開けてくれたので、難なく僕らは降下してくるヘリの真ん前へと進むことが出来た。早くも隣にいるスコットは腕をぶんぶんと振り回している。マクレーン中尉の姿を見たら、すぐさま飛びかかる気なのだろう。そうだ、隊長はどうなるんだ!?僕らのことは、まだいい。もし機体の修理や調達が何とかなるのなら、僕らは再び不正規軍の一員として空に上がることも出来るだろう。だけど、隊長は――僕らの恩人は、場合によっては反逆罪扱いになってもおかしくない裏切りをしでかしてしまった。何で、そんなことを。何に迷っていたのかは分からないけど、どうして少なくともファクト少尉にくらいは相談していても良かったじゃないか。もしかしたら、あんな事態になる前に、もっと良い解決策を見つけることが出来たかもしれないのに――。おかしなもので、一度そんなことを考え始めると、頭の中に火がついたようになる。程なく、ヘリの車輪がゆっくりと滑走路の上に着地し、ローターの回転が下がり始める。その音が静まると、ガラッ、という音と共にヘリの扉が勢い良く開かれ、中から救援隊クルーの一人らしい兵士が身を乗り出した。続けて――見覚えのあるパイロットスーツが姿を現し、そして地上へと降り立った。降りるなり僕らに背中を向けた隊長は、どうやらファクト少尉が乗せられているらしいストレッチャーの一方を支えながら、彼女の降機をサポートしている。歓声が、野次馬たちから湧き上がった。そうか、皆はまだ真相を知らないんだ。彼らの歓声は、"帰還を果たしたエースたち"に手向けられたものだ。僕は、我知らず走り出していた。スコットの声を聞いたような気もしたが、ほとんど周りの光景を僕は見ていなかったと思う。走り寄った先に、マクレーン中尉の背中と、そしてストレッチャーの上に横たわるファクト少尉の姿があった。
「マクレーン隊長……!」
どうしてそうしたのか、僕にもよく分からない。僕は、拳を硬く握り締め、反動を付けて思い切り前へと振り出していた。硬い衝撃を感じた、と思ったときにはマクレーン中尉の身体が今降りて来たばかりのヘリの方へと転がり、歓声がどよめきに変わった。唇の端が切れたのか、左手で口元をぬぐいながら立ち上がった隊長の目には、全く怒りが無かった。それがまた、僕にはどうしようもなく悲しかった。
「どうして……!?」
それ以外の言葉が、僕には出せなかった。隊長も、無言。混乱と、激情と――色んなものが交じり合ったとき、僕の感情はどうやらタガが外れてしまったらしい。再び拳を握り締めた僕は、激情のままその拳を隊長目掛けて叩きつけようとして――。
「……やめて!」
その声は細かったけれども、僕の耳に確かに届いた。そして隊長めがけて突き出した腕は、まるで万力のように強い力で掴まれ、緊急停止を余儀なくされていた。
「……それくらいにしといておやりよ、坊や」
「グランディス隊長……」
「ヴァネッサに、これ以上心配をかけさせちゃまずいだろう?お前の気持ちは、分かってる。だから、腕を下ろせ、ジャスティン」
サングラスの向こう側に見えるグランディス隊長の目は、こんなに優しかったろうか。瞬間沸騰した頭が急速に冷却されて、暴風の吹き荒れていた心の中が、次第に静まり返っていく。ストレッチャーの上で上半身を無理矢理起こし、今は隣で待機している救急クルーに肩を支えられているファクト少尉の姿が僕の視界に入った。苦しそうに汗の浮いた顔に、無理に笑みを浮かべている、少尉の姿が。
「……やめてあげて、ジャスティン。……それでも、隊長は私のことをかばってくれたのよ。隊長だって、ジャスティンたちの気持ちは分かっているわ。だから……お願いよ、ジャスティン」
体中から力が抜けていく。うなだれた僕は、急に足から力が抜けていくのを感じた。ふらついた僕の身体を、グランディス隊長が太い片腕でがっしりと支える。情けないもので、一度熱が抜けてしまうと、まるで電池が切れた玩具のように、全身に圧し掛かった疲労が吹き出してしまった。張り詰めていた緊張が、一気にほぐれたせいもあるだろう。自分でも止めようのない衝動がこぼれ、雫となって目から溢れ出す。こんな風に泣くのは、幼い子供の日以来かもしれない。隊長とグランディス隊長とが何事か言葉を交わしていたようだが、そのやり取りは僕の耳には届いていなかった。しゃくりあげる僕の肩に、大きな手の平が乗せられて、初めて僕はマクレーン中尉が隣に立っていたことに気が付いた。
「隊長……」
「悪いことをしちまったな。許せ、とは言わないさ。……すまなかった」
――隊長の目は、こんなに澄んだ色をしていただろうか?今、僕の目の前にある人は、ブルース・マクレーンその人であることは間違いない。けれども、僕はマクレーン中尉の目も表情も、こんなにすっきりしている姿を見るのは初めてだった。それきり、言葉を発することなく、その代わりに僕の肩を軽く叩くと、後は振り返ることも無くファクト少尉の隣へと歩いていく。宥めるように少尉を横にすると、中尉の大きな背中は、救急クルーとストレッチャーと一緒に、医務室の置かれた基地本部施設へと遠ざかっていく。一度は静まり返った野次馬たちの歓声が、どこか釈然としない空気を漂わせながらも、再び湧き上がる。
「まさか、ジャスが飛び出すとは思わなかったよ。見かけによらず、怒らせると怖いんだねぇ。フィーナの奴にも、教えておいてやらないとね」
仮にも上官を殴り飛ばした僕だ。厳しい言葉の一つも浴びせられて当然だったけれど、グランディス隊長にそんなつもりは微塵も無いらしい。僕の肩をバンバン、と叩いて、いつもの「ガハハ笑い」を浮かべるが、さすがに力が強すぎて叩かれたところはかなり痛かった。
「いえ……すみません。恥ずかしいところをお見せしました。その……ノヴォトニー少尉には内緒に」
「おや、上官の心配より、そっちかい。大物だねぇ、坊や」
「いや、そんなわけじゃ……」
「安心おし、馬鹿なことは伝えんから。それと、ジャスティン」
「はい?」
「――良く頑張ったね。救援に行けなくて、ごめんよ」
そう言うなり、グランディス隊長がその長身を折り曲げた。グランディス隊長たちも、僕らの身を本当に心配してくれていたんだ、と僕は気付かされた。僕はもう、何も言えなくなってしまった。そしてきっと、サバティーニ班長たちも、今は同じ気持ちでいてくれるのだろう、と気が付いた。隊長たちは、苦渋の判断を下していたのかもしれない。結果として、僕らは全員無事だったのだ。間一髪の勝利だったかもしれないけれど、僕らが不正規軍の中に未だ在ることは、実は今回の作戦で最も困難なミッションが、果たされたということの証明だったのかもしれない。
――あの野郎、思い切りやりやがって。
拳が入った顎が、ズキズキと痛む。自業自得とはいえ、いい一撃だった。自身の曇っていた目と心に、トドメを刺すには充分なほどに。こんなに見上げた空が綺麗だと思ったのは、本当に久しぶりだ――マクレーンの口元には、微笑すら浮かんでいた。
「なあに、一人でニヤニヤして」
ストレッチャーに横たわるヴァネッサの命には、とりあえず心配は無い。だが、ルシエンテスの野郎のおかげで、彼女は左足を骨折し、加えて肋骨も何本かやってしまっていた、応急措置は施したとはいえ、本格的な処置が必要であることは言うまでも無い。
「目が覚めていい気分なのさ。それに、こんな痛みは軽いものさ。裏切者の烙印に比べればな」
ふるふる、とゆっくりとヴァネッサが首を振る。
「隊長は誰も裏切っていないわ。ちゃんと、私たちを守ってくれたもの」
ストレッチャーから持ち上げられた手が、マクレーンの手の平を握る。そしてマクレーンだけに聞こえる声で、彼女は言った。
「お帰りなさい、バトルアクス。オーレリアの誇るトップエース。……そして、私の大切な人。火付きが悪いのは玉に瑕だけど」
「――ああ。この借りは、必ず返すさ。ジャスたちにも」
もう、自分がいなくても、若鳥たちは充分にやっていける。それを今日の戦いで彼らは証明して見せたのだ。今度は、自分が返し切れない大きな負債と借りを、彼らに返していく番だ。もっと早く、こうしていれば良かったのに――今更ながら、自身の決断力の無さをマクレーンは忌々しく思う。けれども、もう迷うことは無い。道が一つではないことを、教え子たちに教えてもらった。失いたくないものを守ることも出来た。ゆっくりと足を踏み出すマクレーン。そこに、もうオーブリーの昼行灯の姿はどこにも無かった。
南十字星の記憶&偽りの空トップページへ戻る
トップページへ戻る