炎は再び心の中に
「……そんなわけで、俺は何もかもに絶望してしまった。あの事件が完全に公表されるわけも無いのは分かるが、第110戦闘小隊の全滅の原因すら曖昧にして、臭いものに蓋をしようとする祖国のやり方にも、それに対して何も出来ない自分自身にも……。操縦桿を握る意味すら忘れかけて、俺はオーブリーに逃げたんだ。それこそ、リンの奴が一番悲しむ決断だったはずなんだがな。あの後、何度もルシエンテスから誘いが来たよ。一緒にリンの仇を討とう。一緒に既存の世界に対する戦いを進めよう……とな。奴の気持ちも分からなくはない。だが、俺はそれすらご免だった。偽りに満ち満ちた空を飛ぶこと自体が、苦しみに変わってしまったんだ。実際に教官職に変わってからは、いくらかましになったけれど、俺の心に開いた穴が塞がるわけじゃない。そうやって数年の歳月を経て、ルシエンテスは俺に最期の決断を迫ってきたんだ。オーレリアを存亡の危機に陥れることによって、な」
窓の外では日が傾き始めている。僕たちは、マクレーン中尉がずっと胸の奥底に仕舞い込んで来た「過去」に直面させられて、言葉も出ない。一体僕らの祖国とは、何なのだろう?内外から平和国家としての評価も高いオーレリアは、実は取り戻すに値しない、ろくでなし国家の一つなのではないか?僕は今までの自分の戦いが、まるで意味を失ってしまったかのような気分に囚われて、半ば呆然としていた。そして、隣で未だに涙が止まらずにハンカチで顔を拭っているスコットを見て、苦笑する。それにしても、マクレーン中尉がそんな絶望を抱きながら決して短くない年月を送ってきたことに、知る由も無かったとはいえ、驚いた。「昼行灯」などというニックネームが、どれだけ事実と反した屈辱的なものだったろう。真実を知った今、もう僕らにその言葉を使う資格も権利もない。けれど、それほどまで祖国を見限った人間が、辺境の地であるとはいえ、どうして今日まで留まり続けたのだろう?ルシエンテスの誘いに応じて、何故隊長は復讐の場へと身を投じなかったのだろう?僕は俯き加減で口を閉ざした中尉に視線を向ける。僕は、やっぱりこの期に及んで中尉を信じていたかった。優柔不断さのせいかもしれないが、僕らを鍛え、ここまで育ててくれたのは、他ならぬブルース・マクレーンその人だからだ。
「……何故、ルシエンテスの誘いに乗らなかったのです?中尉には、隊長には、それだけの理由が充分にあったはず。何故、僕たちと今日まで戦ってきたんですか?僕には、それがとても矛盾しているように思えてなりません」
「俺が優柔不断だった、では答えにならないだろうな。……最初は、そのつもりだった。リンの死を心の中で整理出来たら、それもいいな、と。だが、怖くなったんだ。世界から国境と国家を取り除く。そのための戦いだって、結局は戦争と呼ばれるものに過ぎない。その過程でどれだけの命が奪われるかも分からない。それで本当にいいのか?……ずっと結論が出せなかった。そうしているうちに、ナバロ率いるレサスの進撃によって、俺は否応無くその結論を迫られた。もう今更隠しても仕方ないから話すが、オーブリー基地に対する侵攻作戦を俺は事前に知らされていた。さすがにグリフィス隊がSWBMの攻撃で全滅させられたり、レサス軍がオーブリーを壊滅させるつもりで攻撃隊を送りこんでいたことは予想外だったがな。……俺は、迎撃に向かったまま行方不明というシナリオだった。ところが、そのシナリオは急遽軌道修正をさせられる羽目になったのさ」
「軌道修正?」
マクレーン中尉は俯いていた顔を上げて、口元に笑みを浮かべた。
「どっかの無鉄砲な小僧が、あの基地で最も危険な機体を操って、レサス軍を撃退しちまったのさ。ホラントですら、その性能の半分も引き出せなかった……そう、あの機体をあそこまでぶん回すことが出来たのは、じゃステインの他にはもう一人しかいないんだ。リン・フローリンス・ルシオーラ。あの子しか、な」
「な……ちょいと待ち!?じゃ、ジャスの乗っとるXR-45Sって、まさか!?」
「鼻水を拭け、スコット。ジャスの肩に飛び散っているぞ。……そう、XR-45Sは、昔リンが乗っていたXRXがベースになっている格闘戦特化型の試作戦闘機だった。あれが来たときは驚いたよ。だが同時に、あれには乗りたくないと思った。嫌でもリンのことを思い出させられるからなぁ。――それはさておき、だ。ジャスティンがレサス軍を退けたことによって、レサス、いやルシエンテスの書いたシナリオは大きく軌道修正させられた。それほどの腕前のパイロットが残っているとは、誰も考えていなかったからな。そこで、奴は俺たちグリフィス隊を泳がせることに決めたんだ。貴重な試作機とそれを操るパイロットの戦闘データを取得するために。そのために、奴はわざわざレサス軍の展開情報を不正規軍が入手しやすいように手を打った。こちらは作戦の実施日と戦闘エリアを伝えたんだ」
「それじゃあ、味方を故意に見殺しにしたということですか?僕らの戦闘記録を収集するため、ただそれだけのために?」
無言で頷く中尉。そんなことがまかり通って良いのだろうか?レサスの兵士たちだって、彼らなりの理由や信念、そして彼らの信じる正義があるから戦争をやっているはず。だがその正義が、戦争を操ろうとしている者たちによって都合良く利用されているのだとすれば、彼らはまさに文字通り「駒」として扱われていることになる。もっと腹ただしいのは、恐らくは僕らまでもが、ルシエンテス、いや、この戦争で実益を得ようとしている者たちにとっては、「駒」でしかないという事実だ。彼らにとっては戦争の帰趨がどうなろうと大した影響はないのだ。様々な試作兵器の戦闘記録、効果測定、人材収集――それらを主眼に置いた時、オーレリアとレサスの戦いは全く別の意味を持つことになる。戦争の道具の実験場。いや、僕らに限らず、昔から戦争とはそんな側面を持っていたのかもしれない。戦争が起こる度に飛躍的に進化する科学技術。それが何よりの証明かもしれない。僕もまた、知らずその片棒を担がされていたというわけだ。
「……ワシがジャスたちの戦闘記録の流出を知ったのは、グレイプニルを葬った直後くらいじゃったかのぅ。レイヴンのアルウォール司令たちからそれを知らされて、発信装置を見つけたときはがっくりきたものじゃよ。このことは整備班の中でもごく一部の者しか知らん。後は……ある程度は予想とおりじゃ。貴重なデータ取りが出来なくなった敵さんは、より積極的な手段を取ってきた。ワシらは、敢えて賭けに出たのじゃよ。敵の狙いは、より多くの実戦データを得ること。そのためには、戦争が長引いてくれることが何よりのビジネスになる。その障害となるジャスたちをいずれ排除にかかるだろう……と。サンタエルバの事件の時、カイト隊の一部をサチャナに待機させたのは、そのためじゃ。結果的に、危機一髪、間一髪のタイミングじゃったがのぅ」
「面目ありません……」
「班長、班長たちも、知っていて何も知らせてくれなかったんですか?」
サバティーニ班長は、愛用のカウボーイハットを脱ぎ、僕らに向けて頭を下げた。
「不正規軍の士気を維持したまま、なおかつマクレーンの件を穏便に済ませるためには、相手にトリガーを引かせるしかないと考えたんじゃ。敢えてジャスティンたちを危険に晒したという点では、ワシらもオーレリアの政治屋どもと変わらんのじゃ。組織の存続を優先したんじゃ。……すまなかったのぅ」
僕らの心配と組織を存続させる立場としての悩みに、班長たちが板ばさみになっていたであろう事は考えるまでもない。それが腹ただしくないと言えば嘘になるが、班長たちにそんな苦渋の決断をさせたしまった人間が悪い。だが、その張本人たるマクレーン中尉ですら、祖国に絶望するに足る過去をひきずり、悩み続けた末にとうとう僕らを見捨てられず、しかもファクト少尉を救うために自らの身を攻撃に晒した。僕は誰に怒りを向けるべきなのか?腹の底から這い上がってくる熱さを、目を閉じて押さえ込む。ようやく、この戦争の本当の姿が、僕にも見えてきた。グリスウォールに今潜入しているフィーナさんたちが戻ってくれば、さらにその全貌が明らかになるだろう。レサスを退けるだけでは、何の解決にもならない。前のオーレリアとは違うオーレリアを「再生」すること。そして、戦争の陰に隠れて暗躍する連中の目論見を挫くこと。それが実現しなければ、いずれ同じことが繰り返されるだけだ。それは、オーレリアではないどこか別の国で起こるかもしれない。それを、止める。僕らが反撃に転じたことは、戦闘データを彼らに提供することにはなったものの、想定外の出来事だったのだ。ならば、僕らが彼らの予想を超えた早さでグリスウォールを奪還し、レサス軍をオーレリアから追い出したらどうなるだろう?彼らは「戦場」という実験場を失う。既に僕の愛機は連中の枷からは放たれたのだ。もしかしたら、これからも彼らの「新兵器」が僕らを待ち受けるのかもしれない。それらをことごとく撃破し、「商品価値は無い」とアピールすることは、彼らの商売にとっても大きな障害となるだろう。僕らの戦いは、決して無駄じゃない。そのために――僕らには、まだまだ出来ることがある。
「ジャスティン、スコット。今のルシエンテスは、もう俺が良く知っていた当時の奴じゃない。力こそ、全て。奴の信じる理想のためなら、どんな手段を使ってくるかも分からない、本当に恐ろしい奴になってしまった。お前たちの前に立ちはだかるのは、そういう男だ。それを頭において、奴を……止めてやってくれ。……長話に付き合わせてしまったな。折角の待機日に、無駄な時間を取らせた。班長、少しの間、ヴァネッサと二人にしてもらえないか?」
「ご休憩は許さんぞい」
「怪我人にそんなことするほど野暮じゃありませんよ」
カウボーイハットを被り直したサバティーニ班長が口元に笑みを浮かべ、立ち上がる。スコットが肘で僕のわき腹を突付いた。言われないでも、それくらいの気は僕だって使える。立ち上がりつつ、言っておくべき事を言うべきだ――そう思って、僕は隊長たちを振り返った。
「マクレーン隊長、僕は、隊長はこれからも飛ぶべきだと思う。責任を取って謹慎だなんて、一番楽で安全な逃げ道じゃないですか。――大人の覚悟、僕に見せてください。先にあの空で、待ってますから――!」
隊長は何も言わなかった。けれども、光を取り戻した瞳が僕を見据え、分かっている、と頷くのが僕には分かった。今は、それだけでいい。スコットに促されて、僕らは病室を後にする。窓から差し込む赤い光が、廊下を明るく照らし出していた。隊長の言うとおり、随分と長い時間を過ごしてしまったらしい。けれども、貴重な時間だった。僕らが戦う敵の姿。僕らの戦う理由。長い間、僕の頭の中で何度も揺れ動いていたものが、ようやく確固たる覚悟へと姿を変えようとしていた。早くあの空に戻りたい――今までに無く切実に、心の翼が羽ばたき始める感触を、僕は抑えられそうになかった。
赤い夕暮れの光が、少しずつその明るさを失い始め、夜の帳がレイヴンウッズの森にも降りようとしている。ヴァネッサのベットの隣でパイプ椅子に腰を下ろしたまま、マクレーンは無言で彼女の手を握り締めていた。その温もりが、自分の手の中にあることを改めて確認するかのように。こんなに指が細かったのか。ともすれば、流されるままになりそうな自分を、この手で支えようとしてくれていたのか――。バトルアクスの名に憧れていた彼女にとって、何もかも絶望してしまった自分の姿は、失望を誘う以外の何物でもなかったはずだ。それなのに、ヴァネッサはそんな素振りも見せず、この戦いが始まる前から、何かとマクレーンの世話を焼いてくれた。彼女の望みは分かっていた。マクレーンを、バトルアクスの異名をとった頃の姿に戻すこと。オーレリアのトップエースを復活させること。そんな彼女が、最初は確かに煩わしかった。それが、失いたくない存在に変わったのはいつだったろう?全く、ルシエンテスのおかげで、道を間違えずに済むとは、何たる皮肉だろう?ベイルアウトしたのも因縁のレイヴンウッズの上だったのだから。これでヴァネッサを失っていたら、今度こそ復讐鬼と化していたかもしれない。あの時は間に合わなかったが、今回は間に合った。重傷を負ったとはいえ、彼女は今ここにいる。
「ジャスティンの一言、随分堪えたみたいね。まっ、自業自得だから仕方ないけど」
「ああ、脳天からつま先まで串刺しになった気分?いや、違うな、五臓六腑に染み渡る、最高の一言だったよ。あの野郎、一端の言葉を使えるようになったものさ」
ジャスティンの言うとおり、裏切者として二度と空に上がらず、謹慎の名の下に戦いの場から去ることは、安易な道だろう。最初はそれこそが責任の示し方だとマクレーンは思っていた。だが、過去を若者たちに語り、敵の存在を彼らに告げた今、その選択がどんなに誤ったものであるか、誰よりもマクレーン自身が痛感していた。それは単に、現実から目を背けて、責任を取ったつもりになっているだけのことだ。自分が為すべきことは、全く違う。この戦いは、自分自身を取り戻す戦いであることに、マクレーンはようやく気が付いたのだ。ならば、すべきことは只一つ。現実問題として、レサス軍の主力を相手にするには、航空戦力が足らないという現実もある。今更正規兵として空に上がるつもりはない。だが、戦時の今だからこそ取り得る選択肢がある。批判と蔑みの視線を浴びることは覚悟の上。何だったら、自分自身の首に賞金をかけてもいい。裏切りの素振りが見えたら、即撃墜して良いとでもして。それが、皆を欺き続けた自分の、責任の取り方なのだから。窓の外に向けたマクレーンの視線を、ヴァネッサの指が遮った。
「――私の知る限り、一番いい目をしているよ、ブルース。……もっと早く、決断してくれれば良かったのに。火付きの悪さは天下一品ね」
「……済まない、ヴァネッサ。それにしても、こんな優柔不断な男に付いて来なければ、楽だったのになぁ」
「何言ってんの。あんたみたいに優柔不断でいじけている人、私以外の誰が好きになるもんですか。ちょっとは感謝しなさいよ」
「……済まない」
身体を起こしたヴァネッサが、マクレーンの肩に身体を預ける。マクレーンは、パジャマ姿の彼女を、両腕でそっと抱き寄せた。赤い髪が、目の前で踊る。懐かしい光景。懐かしい気分。今度こそ、失ってたまるものか、と心の中で誓う。
「ブルース、リンが何で「フィルギア」なんて言葉を彼女の愛機に付けたのか、分かる?」
「いや……結局調べなかったんだ。彼女の出身地に伝わる古い伝承とくらいは分かったんだが……」
「私には、彼女の想いがはっきりと分かった。どれだけ、リンがあなたのことを好きだったのか、もね。「フィルギア」は、本当に古い伝承の中に登場する存在の名。伝承にはこうあるわ。――戦士と共にある者。戦士を守護する者。彼女にとっての、ただ一人の戦士と共にありたい、そんな想いを、愛機の名に込めたのよ、リンは」
「――戦士を守護する者……」
「正直、嫉妬しちゃうわね。自分の恋人が、それほどまで強く激しく愛されていたなんて。もし彼女が生き残っていたら勿論私の出番は無かったし、きっと今頃尻に敷かれていたわよ。でも、オーレリアに絶望はしないで済んだかもしれない」
リン、お前、そんなことを考えていたのか?そこまで、俺のことを考えていたのか――マクレーンの脳裏に、懐かしい笑い顔と、アカンベーをしている顔とが思い浮かぶ。――俺は、一体何をやっていたんだろう?一人でいじけて、一人で絶望して、そして多くのものを裏切ろうとしていた。取り返しの付かない間違いをするところだった。世界を作り変えるだって?少なくとも、そのために戦争を起こして良いなんて道理はどこにもない。そうだろう、リン?祖国の政治屋どもがどうなろうと知ったことではない。でも、オーレリアに生きる人々が、レサス――いや、ナバロやルシエンテス、その背後にいるであろうゼネラル・リソースの利益のために、犠牲になって良いはずがない。ジャスティンたちだけに、全てを押し付けて任せるわけにはいかない。そのために、どうするべきか。もう、考える間でもない。結論は、とっくに出ている。マクレーンは、ヴァネッサを抱き締める力を少しだけ強くした。
「ブルース?」
「サバティーニ班長やアルウォール司令と掛け合ってくる。俺をどんな形でも構わないから、作戦要員として加えてくれ、と。借りを返すためにも、俺自身を取り戻すためにも、それにお前やリンのためにも、空に戻る。……身体が治ったら、2番機として戻ってきてくれるか?」
ヴァネッサは答えず、その代わりにニコリ、と笑った。そして、頬に唇が押し当てられる、柔らかい感触。それが何よりの答えだった。目をつむっている彼女の唇に、今度は自分から唇を重ねる。守りたい存在が身近にあることが、これほど心を奮い立たせるものなのだ――身体が、心が、熱い。何年ぶりかに灯った心の炎は、マクレーンにとってこれ以上無いくらいに心地良いものだった。
マクレーンが病室から出た時には、すっかりと外は薄暗くなり、蛍光灯の灯りが廊下を照らし出していた。謹慎中の身にしては、余りにも自由すぎる処遇だ、と思わず苦笑する。自らの行いが、とっくに露見していたことには赤面ものだったが、再生のチャンスを班長たちが閉ざさずにいてくれたことは、何よりも幸いだった。これが正規軍健在という状況だったら、軍法会議にかけられたうえ、十中八九叛乱罪を適用されて処刑されることになっていただろう。これまた皮肉にも、正規軍が消滅し、中央不在の不正規軍だからこそ許される大甘の処遇であった。だが、これ以上、彼らの好意には甘えてもいられない。率いる部下も無く、単独で戦場に放り出されたとしても文句の一つも言えないのが、今のマクレーンの立場だった。それでも、あの空に戻る。戻らねばならない。それで「何を言っている」と笑われるのであれば、今度こそ大人しく虜囚として罪を償えばいい。だが、まだ俺は何もやっていないんだ――。年季の入った腕時計に視線を移し、まだ司令たちが基地内に留まっている時間であることを確認して、マクレーンは薄暗い廊下を歩き出す。だが、廊下の真ん中で、直立不動で立っている男の姿に気が付いて、停止を余儀なくされる。着ている軍服はオーレリアのものではなかったが、マクレーンの姿を確認すると、男はビシリ、と敬礼を施した。
「お久しぶりです、マクレーン隊長」
その声に、マクレーンは聞き覚えがあった。否、忘れてはならない、かつての大切な部下の一人の声であった。
「ラターブル……?おまえ、ラターブルか!?」
「ホセ・ラターブル、祖国の危機に当たって、ウスティオより帰還しました。……って、もっと早く気が付いてくださいよ、隊長ぉ〜」
敬礼を解いたラターブルが、苦笑を浮かべながら近付いてきた。あの事件の後、バトルアクス隊の隊長を任されながら退役していった彼もまた、祖国に絶望してしまった人間の一人だった。風の噂に、空飛ぶ傭兵となって未だに飛び続けているということを聞いてはいたが、まさかウスティオにいたとは――。
「ウスティオ、ということは、ヴァレー辺りにでもいたのか?」
「ビンゴです。いやもう、あそこの傭兵部隊は正規軍よりも厳しかったりしますからね。おまけに白き狂犬仕込みの猛者たちが正規兵にもゴロゴロ。オーレリアがいかに甘っちょろいか、身を以って理解しました。あ、隊長は例外っすよ」
「残念だが、今の俺は隊長でも何でもない。祖国を裏切ろうとして、謹慎中の身さ」
「だいぶ前に通りかかった、若者たちに聞きましたよ。……あまりに隊長らしいんで、笑ってしまいましたよ。あれからずーっと、悩んでいらっしゃったんですね。でも、俺にも分かります。あの事件を見事に闇に葬った軍と政府のやり口には、俺も納得できませんでした。隊長が戻ってくるまでは、と思って隊長を引継ぎはしたものの、あの手この手の政治屋たちの嫌がらせに嫌になってしまいましてね。以後は、気ままな傭兵生活。正直、この戦争も知ったことか、と最初は思っていたんすけどね」
ラターブルは苦笑をしながら頭をかく。当時のバトルアクス隊の面々は、後にサチャナを中心とした航空隊の隊長職を任されるようになり、そのことだけは失意の中にあったマクレーンを喜ばせたものである。そして、彼らはその実力に相応しい戦いぶりを見せ、空に散った。組織的な抵抗も出来ずに敗走する味方を守るため、グレイプニルをはじめとした圧倒的なレサス軍の侵攻を足止めするために奮戦し、戦死したのである。ラターブルは、今や数少ない、バトルアクス隊全盛期の生き残りとなっていた。
「しかし、割り切れずにオーレリアに残った俺とは違って、お前が今更戻ってくる義理なんて無かったのに。どういう風の吹き回しだ?」
「……笑わないで聞いてくださいよ。……夢枕に立たれちゃったんすよ」
「誰に」
「隊長のお気に入りだった、あの娘にですよ。隊長を助けてくれないと、祟ってやる……って、怖い顔でね。いやもう、余りにリアルな夢だったんで心底ブルっちまいましたよ。まあそれと、もう一つウスティオのとある方から個人的な要件を預かりましてね。それもあって傭兵隊ではありますが、久方ぶりの原隊復帰です」
……リンのことだ、本当にやりかねない。だが、ウスティオの傭兵たちの中で揉まれてきたラターブルの腕前が、相当なものになっているに違いない。もし、彼をウイングマンと出来るならば、安心して背中を任せられるだろう。
「……今の俺は、さっき言った通り裏切者だ。だがもし、空に上がる切符を手に入れたときは、二人で昔のエンブレムを掲げるか?」
「この国で付けたいエンブレムは、アレ以外にありゃしません。それに、逝ってしまった奴らの弔い合戦に、アレ無しではしまらないってもんですよ」
尾翼から消して久しい、あのエンブレム。だが、一度だって忘れたことは無い、戦斧の記章。希望と誇りに満ちていた時代の、懐かしい記憶。守りたかった存在を守れなかった代償として、二度とつけまいと誓った日から、随分と時間が流れた。そして、グリフィス隊から外れた今、マクレーンが掲げるエンブレムに、それ以外の物は考えられ無かった。
「1番機を空けて待ってますよ、隊長」
真面目な顔で敬礼するラターブルの肩を軽く叩き、マクレーンは歩き出した。今度こそ、空への切符を取り戻すために。その背中に、最早「昼行灯」と呼ばれた男の物陰は、無い。
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