戦後の始まり
その晩、グリスウォール市民の大半は街へと繰り出して日の出を目撃したに違いない。レサス軍全面撤退の報が伝えられるや、街の周辺部や家、防空壕などに閉じこもっていた市民たちが一斉に夜の街へと飛び出したのだ。おかげで、不正規軍の大半の面々は勝利の余韻に浸る間も無かったに違いない。何しろ、基本的に馬鹿騒ぎが好きな国民性のオーレリアだ。羽目が外れる時は、とことん外れてしまう。街から引き上げてきたバーグマン少佐は、僕の姿を見つけるなりげんなりとした顔で、「一晩中酔っ払いの交通整理をやらされるくらいなら、解放をもう少し引き伸ばしても良かったな」と冗談半分本気半分、といった表情でぼやいたものである。もっとも、余韻に浸る間もなかったのは僕らとて同様だった。レサス軍の全面撤退が本当に確認出来るまで、不正規軍としては目を光らせていなければならなかったのだから。解放に浮かれるグリスウォールの美しい夜景を存分に堪能――スコットがいるのはともかく、フィーナさんも一緒に、だ!――出来たことは幸いだったけれど、出来ればあの騒ぎに加わりたかったというのが本音。グリスウォールを巡る激戦で損傷を被った作戦機も多く、軽微な損傷の作戦機は軒並み哨戒飛行に回されたわけだ。おかげで、ゆっくりと話をする時間も取れなかった。哨戒任務が終わってようやくグリスウォール国際空港に降り立った時、少しだけ眠そうに目をこすっている彼女と、簡単に言葉を交わしただけで、後はそのまま睡眠の国にテイクオフ。哨戒任務後、ある程度のシフトはあるものの僕らには休暇が与えられていたことすら忘れ果ててひたすら眠り続けたのだ。これで幸せな夢でも見られれば文句は無かったのだが、寝ている間に見たのは悪夢ばかりだった。何度目かの悪夢で跳ね起きた時にはもう外は夕焼け時。そして、冷房の切れた部屋の中で、僕は冷や汗に濡れて目を覚ました。
椅子の背に無造作に投げられていたタオルを取って額を拭い、寝巻き代わりのランニングを投げ捨てて身体の汗を拭う。部屋の備品の冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してゆっくりと流し込んでいくと、悪夢に苛まれていた気分がいくらかは落ち着いてきた。夢の中で見た光景。それは、グリスウォール上空で撃墜されるシーンだ。XRX-45のキャノピーが吹き飛び、むき出しになったコクピットをミサイルが直撃するシーン。或いは、爆発して粉々に砕け散る愛機から、全身火達磨になって空に放り出されるシーン。思い出すだけで背筋が凍りつく。でも、それらのシーンを思い出しながら、実はこの戦争で僕が無数に量産し続けてきた光景であることに気が付く。戦争は終わったのかもしれない。レサスが撤退していった今、実質的にオーレリアの解放は実現した。いずれ、この国は元の平和を取り戻していくのだろう。僕も元通り、純粋に空を飛ぶことに憧れていた航空学生時代の自分に戻っていく。――そんなこと、出来るわけが無い。ミネラルウォーターを机の上に置いて、僕は窓辺に立った。兵舎代わりに割り当てられた空港傍の大規模ビジネスホテルの一室からは、国際空港の滑走路が一望できる。近日中に民間航路が再開されるため、グリスウォール市外の航空基地へと移動することが決定していたが、僕もスコットも、その部隊移動には当然のように従っている。つまり、僕らはもう一人前の兵士として扱われているのだ。平和って何だろう?誰もが恐らくは望んでいるはずのものが近付きつつあることに、僕は逆に恐怖した。元通りになったオーレリアで、僕は何を為すべきなのか、見出すことが出来なかったのだ。僕の、進むべき道……か。生き残ることばかり考えて、その先のことを考えていなかった。いや、考えないようにしていたのかもしれない。……ちょっと気分転換が必要かもしれないな。煮詰まり始めた頭を振りながら、僕は良く知る気分転換の名人に連絡を取ろうと受話器を取り上げた。部屋のドアが遠慮なく開け放たれたのは、その直後。
「やっほー、ジャス、休暇ならではの夕焼け外出の誘いに来たでー……って、何やっとんねん?そんな格好してたら、フィーナさん以外の女性陣が悩殺されて卒倒するわ」
「……あのな、スコット、せめてノックぐらいしたらどうなんだよ?」
「鍵もかけんと寝とる方が悪いんや。ほらさっさとしい、時間は待ってくれんで」
「分かったよ、10分だけ待ってくれ。……入ってくんなよ?」
サチャナから送られてきた荷物の箱から私服を取り出しながら、僕はため息を付く。スコットのように気の利いた洋服を、僕はほとんど用意して無いからだ。ま、嘆いていても仕方ない。手早く着替えを用意した僕は、シャワールームへと飛び込んだ。

実際には5分ほどオーバーしてホテルのロビーに顔を出すと、スコットがホテルの従業員の女性を早速口説いているところだった。やれやれ、手が早いのは健在だな。苦笑しながら近付いていくと、スコットも笑顔で女性に手を振って話を終える。もう少し遅くても良かったんだぜ、とでも言いたそうな顔をしている。
「外出許可、取ってあるの?申請してなかったら後で大目玉だぜ」
「おいおい、寝ぼけてんなや、ジャス?今朝のデブリの中で言われたやろ、シフトパターン以外の非番時の行動制限はなし、ちゅーて」
「そうだったっけ?」
「はぁ……何や唐突に昔のジャスが戻ってきてもうた気分や。ま、ええわ。いこか、車も来てる」
ホテルの車寄せには、コンパクトサイズのレンタルカーが既にエンジンをかけて停めてあった。運転席にスコットが座り、自動的に僕は助手席へ。ホテルの出入りを管理している陸軍の兵士に身分証を見せると、彼は何とも言えない顔で笑って、次いで直立不動の姿勢で敬礼を施したものである。グリフィス隊と南十字星の名は、ここにいる僕を遥かに追い越してどんどん先に行ってしまう。僕なんかよりも遥かに軍人経験も長いであろう年上の兵士にそうされてしまうのは、何だかむずがゆい気分だ。それに対して「ご苦労さんです」と気軽に応じて車を走らせるスコットの気軽さが羨ましい。夕焼けの光に照らされたグリスウォール市街は、まだ戦闘後の名残を至る所に残している。崩れ落ちた外壁。傾いだ電柱。陥没した道路。路肩で大破したまま放置されているレサス軍の戦車。そして、民家の一角を崩して大地に突き刺さっている戦闘機の残骸。僕らが子供の頃に使った教科書に載っている首都の姿とは全く別物となったグリスウォールが、目の前にある。それでも、陰惨な空気を不思議と感じないのは、早くも復興のために動き出した人々の笑顔のおかげだろうか?
「なあジャス、さっき部屋の中であんな真面目な顔して、何考えてたんや?」
「こっち見なくていいからな。運転に集中してくれよ?」
「ああ。……さっきな、部屋の中で突っ立ってるお前見た時な、まるでこれから出撃するみたいな雰囲気が漂っててな。戦争が終わったちゅーのに、や」
スコットは案外鋭い。というより、普段のおちゃらけのせいで、そうは見えないのだ。或いは人の悪いこの悪友のこと、わざとそんな風に振舞って人物観察をしているだけなのかもしれないが。
「……嫌な夢を見たんだ。何度も何度も、撃墜されて自分が死ぬ夢を。僕自身、そうやってレサスの兵士を殺してきた身だっていうのに……。やっぱり怖いよ、死を目前に見るというのは」
「アホか。そんなん誰やってそうにきまっとるやないか」
ちょっとムッとしてスコットを睨み付けると、彼はわき目でこちらを一度見つつ、ため息を吐いた。
「何もお前だけやないんやで。俺かて、寝る時は一人の方がええわ。そら寝る前の夢のような時間は素敵やけど、悪夢でのたうちまわる姿、見られたないもん。……ついうっかり、アイリーンの部屋で寝過ごした時な、それやってもうてな。そしたら彼女、朝までずーっと抱き締めててくれてなぁ。何かそれ以来、落ち着いてもうたんや」
スコットが鼻を擦りながら、ちょっと照れくさそうに笑う。車はどうやら、比較的戦闘の被害が少なかったグリスウォール市南側の繁華街方面へと向かっているようだった。警備に就いている陸軍の戦闘車両も多いが、それ以上に一般の乗用車が早くも動き出している。道路に面したカフェやパブは、早くも人だかりが出来て盛り上がっている。店の外にまでテーブルが並べられ、人々が笑いながらジョッキやグラスを傾け、料理を楽しんでいる光景には何だかほっとさせられる。
「なあジャス。レサスは国境線の向こうまで撤退したし、俺らを付け回してた変態エース野郎も落としたし、あんまり考え込まんほうがええで。多分、今必要なのは気分転換やと俺は思うで。んなしけたツラしてたら、正直こっちも滅入ってまうわ」
あのエースを「変態」扱いとは。思わず苦笑してしまう。とはいえ、どうやら僕はスコットに結構心配をさせていたらしい。考え過ぎ……確かにそうかもしれない。そう、あの男も死んだに違いない。僕らを自らの「戦い」に引き込もうとしたペドロ・ゲラ・ルシエンテスももういないのだ。
「……分かったよ。スコットの言うとおりだと思う。何かね、頭の中がぐるぐるしていたんだけど、少しはましになったような気がする」
「マブダチのためや。相談料はツケとくで」
「今までの貸してる分から引いといてよ」
「あかん。なんでかっちゅーとな、今日、ジャスは俺にごっつ大っきい借りを作るんやから」
「何だって?」
繁華街そばのパーキングエリアに入ったスコットは、比較的入口に近い場所を選んで車を止める。ドアを開けると、少しむっとする空気と、海から吹いてくる涼しい風とが僕の身体を包み込んだ。
「ここからならタクシー拾っても楽に帰れるし、店もぎょうさんある。思いつく店無いんなら、これのどれかに連絡してみるとええわ」
「おいおい、スコットと別行動なのか、僕は?」
「あんなぁ、俺はアイリーンとささやかーな戦勝記念パーティするんや。そっちはそっちでやってもらわんと」
「一人だったらホテルでも飯は食えるよ。帰る」
「ところがそうはいかんのや。ほら、ええから見てみい?」
僕らより少し早く到着していたのだろう。パーキングエリアの待合室となっている自動販売機コーナーには、見覚えのある顔が座っている。ポロシャツに脱いだジャケットを片手に抱えているのは、ミッドガルツ少尉。そして、椅子に腰掛けてコーヒーを飲んでいた女性の方が、驚いたように立ち上がる。長い金髪を後ろで束ねたフィーナさんが、そこにいた。驚いたのはこっちも同じだ。半ば呆然としてスコットを見ると、野郎、してやったりという顔で笑っている。それはミッドガルツ少尉も同じだった。
「ちゃんと連れて来たようだな。上出来だ、スコット」
「ほな、俺ら邪魔者は退散しますか?」
「ちょ、ちょっとミッドガルツ、どういうこと?」
「――俺は土産を買わなきゃならん。ここからなら、タクシーでもすぐに着く」
そう言ってニヤリと笑ったミッドガルツ少尉は、僕の肩を何度か叩いて小声で言った。
「あんまり世話を焼かせないでくれよ、ジャスティン。後は君次第。グッドラック」
当惑する僕とフィーナさんを置いて、二人はさっさと夜の街へと消えてしまう。きっと僕の表情も同じようなものだろう。困った表情を浮かべているフィーナさんの姿に、僕は照れくさくなって頭を掻いた。基地で見かける時の服装とは全く別の、どちらかいうと身体のラインがはっきり分かる服装は素敵だ。バミューダの先からのぞく細い足と白い肌に、思わず僕の目が泳ぐ。
「……何だか、私たちの周りって本当にお節介な人たちばかりね」
「やっぱりそう思います?しかしスコットとミッドガルツ少尉の組み合わせは予想出来なかったなぁ」
「ここにいつまでもいるわけにもいかないし、折角だから……皆の"悪意"は活用しよっか?」
少し頬を赤らめたフィーナさんは、僕の左手を握って引く。その手を軽く握り返して、僕はその横に並んで歩き出した。
「どこかアテでもあるんですか?」
「んー、前にグリスウォールに潜り込んだ時に聞いた店があるのよ。そこでゆっくり食事でもどう?」
「お任せします」
スコットの「悪意」に感謝しつつ、僕は夕焼けから夜へと変わり始めた空を見上げる。最高の気分転換になりそうなことだけは、間違いなかった。
フィーナさんの案内で向かったお店は、パーキング・エリアからそうは離れていない、大通りから1本入った路地にあった。「ROCK'N CAFE OWL'S EYE NO.4」と書かれたネオン管が、ジジジと音を立てながら光っている。「NO.4」ということは、一応はチェーン店になっているらしいが、少なくとも僕は今まで聞いた事が無い。店の横には大排気量のバイクも並び、渋い雰囲気を醸し出している。古い木造のドアを開くと、ガランという鐘の音と共に、店内に流れる音楽が聞こえてきた。ガンガンに鳴り響いているお店だったらどうしよう、と思っていたけれど、意外に流れてくる曲はそれほど耳障りでもなく、店内は落ち着いた感じに見えた。
「結構いいと思うんだけど……どうする?」
「こういう店来るの初めてなんでよく分からないんですけど……実は結構気に入りました」
「ちょっと背伸びして冒険……かな。じゃ、入りましょ」
店に入ると、レザーズボンのウェイターがすぐに飛んできて、僕らをブースの一つへと案内してくれた。どうやら気を利かせてくれたらしく、アルコールも入って騒いでいる一団からはわざわざ離してくれたようだ。とりあえず飲み物と食事代わりになるものを注文したが、方やスタイルもいい美人、一方はラフな格好の坊主という組み合わせにウェイターは終始首を傾げていたようである。
「実を言うと私もこういう店はあんまり入った事無いのよ。子供の頃はね、たまに父に連れられてウィスキー・バーなんかに行ったこともあるのだけど」
頬杖を付いて僕をじっと見つめるフィーナさんの笑顔を見ていると、自然と鼓動が早くなって、顔が赤くなってくるのが分かる。
「……あーあ、ジャスティンがいると分かっていたら、私もう少しましな格好してきたのに。ごめんね、いつものラフな格好になっちゃって」
「そんなことないですよ。それは僕の台詞ですよ」
「そうかなぁ。多分ジャスティン気が付いていないと思うけど、この店に来る間すれ違った女の子たち、結構気にしていたわよ」
別に他の女の子の評価はどうでもいいんだけど……などと言ったら、僕はスコットだけでなく大多数の男たちを敵に回すに違いない。それにすれ違った相手が思わず振り向いていたのはフィーナさんも同じことで、隣を歩く僕をあからさまに睨み付ける連中もいたのだから、この店の店員さんなどはまだましな部類に入るに違いない。スピーカーからは、スカイ・キッドのベストナンバー、"FACE OF COIN"が聞こえてくる。
「この曲、ジャスティンも知っているんだ」
「スコットから借りたCDに入っていたんですけどね。古いナンバーだけど不思議と馴染んじゃって」
「レイヴン配属時の教官殿がこの曲大のお気に入りだったのよ。昔の戦争で亡くなった戦友が大好きだった曲なんですって」
ちょうど料理と飲み物が運ばれてきたので、僕たちの会話も一旦小休止。ハンバーガーとソーセージの香りが、空腹を訴える腹にトドメを与える。……戦争、か。思えば不思議なものだと思う。戦争が無ければそもそも僕がこの時点で戦闘機に乗ることも無かったはずだし、シルメリィ艦隊の皆と知り合うことも無かった。こうして、フィーナさんのような女性と一緒に食事をすることも無かったに違いない。「南十字星」なんて大層な通り名で呼ばれることも無かったはずだ。それは戦争の「結果」だったかもしれない。戦争を通して人殺しの一人となった自分を「仕方ない」と言うつもりはない。むしろ、僕は受け止めなければならないのかもしれない。僕の生は、数多くの屍の果てに勝ち取ったものである……と。その屍は、敵のものだけではなく、僕が救うことの出来なかった味方のものでもある。僕一人が助けられる範囲なんて、たかが知れている。それでも、決して忘れてはならないことなのだと気が付く。生き残った者には、生き残った者にしか出来ない役目を果たす義務があるのだと。僕に出来ることは何だろう?もうその答えはほとんど出ている。僕はきっと、飛び続けるべきなのだろう。誰に何と言われようと、XRX-45と共に戦ってきた道筋は現実のものだ。苦しい戦いの末ここまで辿り着いたのは、あくまで生き残ること、飛び続けることを諦めなかったからに違いない。それに、飛び続けることは、未熟な僕をずっと支え続けてきてくれた人たちに対する恩返しにもなるだろうから。食事を取りながら他愛の無い話をフィーナさんとかわしながら、僕はそんなことをずっと考えていた。でも僕が話に集中していないのは、すぐに伝わってしまったのだろう。ふと気が付くと、フィーナさんが頬を少し膨らませて僕を睨み付けている。
「……ジャスティン、何だか上の空みたいね」
「え、あ、そんなことは……」
「そりゃね、私は同年代の子みたいに面白い話もあんまり出来ないし、口を開けば戦闘機の話がすぐに出てきちゃうけれど……やっぱりつまらないかな?」
僕は大げさなくらいに首を何度も振った。僕にしてみれば、まさかこんなに可愛らしい女性と食事を共にしているだけでも望外の喜びだというのに。……そうだよな、フィーナさんにならちゃんと話すべきだよな。頬をかきながら、僕はフィーナさんの蒼い瞳を見つめた。
「ごめんなさい。実はスコットに連れてこられる前も、ずっと悩んでいたんです。これから僕はどうしたらいいんだろう……って」
「これから――?」
「はい。否応無く戦場に放り込まれて、戦闘機を操り続けてきた僕は、戦争が終わった今どこへ歩いていけばいいのだろう……そんなことを考えていたんです。でも、何となく結論に辿り着いたような気がします。僕の進むべき道は、飛び続けることなんじゃないか……って。それが僕を支えてきてくれた人たちへの恩返しでもあるし、これから僕の後に空を目指すもっと下の世代たちに、この戦争の経験を伝えることにもなるんじゃないか、って。自分たちの手にしている平和の大切さを語り続ける人間がいなくちゃいけないんじゃないか……ちょっと、格好付けすぎかもしれませんけど」
フィーナさんがゆっくりと首を振る。デスク上のランタンの灯りを金髪が反射して光が舞う。顔にかかった髪をそっとかき上げながら、フィーナさんは微笑んだ。
「いつの間にか、本当に強くなったんだね、ジャスティン。初めて知りあった頃とは別人みたい」
「僕は強くなんかないですよ。いつもいつも、ぐるぐると悩んでばかり」
「それは私も同じよ。私もね、ちょっと悩んでいたの。この国の戦争が終わって、レサス軍をとうとう撤退させたことは何より嬉しかったけれど、一つ重大な問題に気が付いたのよ」
重大な問題?僕らの戦いに何か落ち度がひょっとしたらあったのだろうか?
「そんな顔しないで。別に戦闘のこととかじゃないわ。もっと、個人的な……そう、私にとっては重大な問題。この紛争が終われば、シルメリィ艦隊は再びオーシアへと戻ることになる。そう遠くないうちに……ね。そうしたら、会いたい人にもなかなか会えなくなっちゃうでしょ?それに気が付いたら、私もぐるぐる頭が回っちゃったの」
だめね、私、と言いながら舌を出して笑うフィーナさんの瞳が、少し潤んでいたことを僕は見逃さなかった。そうか……フィーナさんは帰ってしまうんだった。何となくぼかりと胸に穴が開いたような気分も半分、でも半分は、別れをフィーナさんがしても惜しんでいることに対する喜びだった。僕も、まだ伝えたいことをほとんど伝えていない。まだまだその日は先のことだと思っていたけれど、いざその日が迫っていたとしても切り出すのはなかなか難しいものだと実感する。でも、ここで何も伝えなければ、僕は絶対に後悔するに違いないと確信する。
「だから、ミッドガルツに連れて来られた事、感謝しないとね。こうしてジャスティンと一緒に過ごしていたら、随分と気も楽になったわ。折角戦争が終わったのに、昨日も今日もゆっくり話をする時間無かったから。……本当はね、会って話をしたかったのよ」
「僕もです。僕も、誰かに僕の話を、僕の悩みを聞いて欲しかった。でも何だか……随分馬鹿みたいに悩んでいたんだな、という気分ですよ、今は」
クス、と笑ったフィーナさんはチラリと時計を見る。つられて僕も腕に巻いた愛用の時計の文字盤に視線を動かして、そして意外なほどに時間が過ぎていたことに気が付いた。
「……門限なし、ではあるけれど、さすがにあまり遅くなったら色々と言われそう」
「スコット辺りが勝手に撒き散らしてくれそうな気がしますよ」
僕はそう言いながら、この街の地理を必死に思い出していた。もう少し、フィーナさんと話をしていたい――そんな気分を止められなかった。そうだ、市民公園の展望台!ここからなら10分とかからずに行けるところだ。あの展望台なら、途中の道も明るいし、眺めもいいはずだ。勘定を全部払おうとしていたフィーナさんをさすがに止めて、何度かの応酬の末、1/3だけ僕が払うことにして、店を出る。大通りへと歩き出したフィーナさんの手を、僕は勇気を振り絞って少し強く掴んだ。
「ジャスティン?」
「もう少し、歩きませんか?もうちょっと、話もしたいし……」
なんどか瞬きしていたフィーナさんの口元に、微笑が浮かぶ。これをやられたら、大抵の男子は落ちるに違いない。柔らかい指先が、僕の手を握り返してきた。その手をもう一度握り直して、僕は歩き出した。肩越しに見えるフィーナさんの顔が何だかとても楽しそうに見えたのは、僕の錯覚ではないと信じたかった。

市民公園の展望台はその名ほどに大層なものではなかったが、高台に張り出したバルコニー状の展望台からグリスウォールの夜景を見下ろすことが出来る隠れた観光名所のひとつだ。まだ平和だった頃、一度だけスコットに連れられてきて、挙句の果てに「何で隣にいるのがお前なんだ」と愚痴られた場所でもある。でも、今日隣にいるのはもちろん奴ではなく、僕にとっては高嶺の花かもしれない憧れの女性だ。ここへ至る道すがら、多分に私的要因の混ざったこれからの道筋を立てている。
「空の上からの眺めもいいけど、こういうところから見るのもなかなかいいわね」
夜風に髪を揺らし、展望台の柵に肘を付きながらフィーナさんが笑っている。その隣で僕も同じように柵にもたれかかりながら、解放に浮かれる街を見下ろす。こんな時間を過ごせることはもうないかもしれない。何度か深呼吸をして気持ちを落ち着けて、僕は口を開く決心を固める。
「フィーナさん、少しの間だけ、待っててくれませんか?」
「え……」
「今はまだ、無理かもしれないですけど、いつの日か僕は必ずレイヴンを目指します。今みたいに会えない間は辛いですけど……だから、それまで、待っててくれませんか?」
それが勝手な願いであることは重々承知の上だ。でも、僕が進む道としては、実は最も相応しい道程であるように思う。夢物語と言われるかもしれないけれども、別れを惜しんでくれた人に応えるなら、追っていくしかないじゃないか。フィーナさんの肩が僕の肩に触れる。その肩が揺れているのは、彼女が嬉しそうに笑っているからだ。ちょっと勇み足だったかな?足元が崩れ落ちそうな、そんな不安な気分に囚われたのも束の間、僕の肩にそっとフィーナさんの頭が乗る。思わず直立不動の気分になりたかったのは言うまでも無い。
「……適齢期逃したら、ジャスティンのせいだからね?」
そんなに待たせないですよ――と答えるより早く、暖かく、やわらかいものが僕の唇をふさいだ。それがフィーナさんの唇であることを理解した途端、頬が真っ赤になるのが分かる。でも、二人の関係を想像以上に先に進めることが出来たこと、それだけで充分。今は、少しでも心地良い感触を感じていたくて、僕も目を閉じて唇を重ねたのだった。
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