ターニング・ポイント
サンタエルバの港にその巨体を横たえたグレイプニルが、再び空に上がることは無いだろう。第二、第三のグレイプニルが存在しているなら話は別であるが。そうそう簡単に量産されても困るのだが、とりあえずその可能性は限りなくゼロに近いらしく、私たちも、シルメリィの整備兵たちも胸を撫で下ろしたものである。何しろ、傭兵隊を中心に、ほとんどの作戦機が修理無しには作戦行動も出来なくなってしまったのだから。僅かに無事だった作戦機が哨戒任務に就いたものの、私たちオーレリア不正規軍の進撃は停滞を余儀なくされたのである。もっとも、だからといって休んでいる暇も無い。むしろ、そのおかげで私たちは私たちの本来の任務に戻ったと言うべきか。サンタエルバの海に翼を屹立させて大破したグレイプニルは、それまで暇を持て余していた諜報・技術部門の担当者たちの格好の調査対象となったのである。既に情報収集艦アンドロメダを中心とした艦艇がグレイプニルの周囲に展開し、水没した艦内に対してはダイバーによる調査も開始されていた。エンジンだけでなくジェネレーターの類にも損傷を負っていたグレイプニルの艦内はボロボロで、発火したエンジン周辺では壁や扉が溶け落ちている有様だったという。レサス軍乗組員の生存者は、ゼロ。でも、彼らの大半は、レサス軍司令官ディエゴ・ギャスパー・ナバロの思惑や戦争の裏側の真実を知ることも無く、ただレサスの正義と勝利を信じて死んでいったはずだ。そう思うと、兵士たちの墓標となったグレイプニルの姿を見るのが辛くなる。
「どうだい、いいものは見つかりそうかい?」
「結構ありますよ。これなんかめっけもんですよ」
私のような感傷とは全く無縁らしいグランディス隊長は、技術部の研究員たちが取り囲んでいる残骸の一つに近寄って説明を聞いている。ショックカノンの暴発によって穿たれた大穴からは、サンタエルバの街にグレイプニルの様々な部品やら残骸やらが落下して転がっていた。港湾地区一帯を一般市民立ち入り禁止にしたのは、これらの証拠品を保全することと、可能性として有害物質に汚染されているかもしれない残骸に何も知らない民間人を近づけないことが目的であった。そのかいあって、シルメリィ艦隊はこれまでの調査で得た情報を遥かに凌駕するに足るだけの利益を得ている。私たちが見てもあまりよく分からない部品やら残骸やらでも、技術者たちから見れば宝の山らしい。"ほら、趣味で集めているモノって、他人から見るとガラクタっていうケース多いだろ?あれと一緒さ"――とは、口の悪い隊長のコメントではあるが、必ずしも間違った見方とは言えない。それに隊長も、彼ら技術部の研究員たちの仕事を認めてはいるのだ。素直ではないから、悪口のおまけ付きあったとしても。
「フィーナ、ロベルタ、あんたたちもこっちに来て見てご覧。面白いものが落ちてるよ」
隊長の他は、研究員が三人ほど群がって、残骸の部品を細かく調べている。隊長の足下に転がっていたのは、円筒状の、それもかなり大きな残骸だった。ロケットを思わせるようなブースター、そして長い筒の先端には、どんぐりを大きくしたような形状と呼ぶに相応しい構造物が取り付けられている。辺りを見回すと、同様の形状の物体が数本、転がっていた。原型を留めているのは、今足下にあるものだけだったが。
「隊長、これってまさか」
「さすがロベルタ、気が付いたかい。これが、あたいらをいたぶってくれたSWBMというわけさ。せめてもの報復に蹴飛ばしといてやろうかい」
豪胆な隊長は、よりにもよってSWBMの弾頭部分をつま先で蹴っ飛ばす。研究員たちが一瞬だけ恨めしそうな視線を向けるが、サングラスの下の鋭い視線で睨み付けられ、慌てて下を向く。もし炸裂すれば、私だけではなく、この辺り一帯が粉々に吹き飛んでしまうだろうが、幸か不幸か、信管は作動しないようだ。これと同じものを、私たちはサンタエルバに出撃する前に目にしていた。私たちがターミナス島へと出撃しているとき、ジャスティンたちグリフィス隊は、レサス軍の輸送部隊を殲滅している。そのとき撃墜された輸送機の中から見つかった残骸の中に、SWBMが含まれていたのだ。他にも、ミサイルや対空機銃の砲台ユニット――グレイプニルは、兵装部分をユニット式にして交換を容易に出来るよう設計されていたのだ――等も見つかり、レサスが私たちとの決戦に備えてグレイプニルの性能強化を図ろうとしていたのは明白だった。仮に輸送作戦が成功していたとしたら、サンタエルバの街に残骸を晒していたのは、私たちの方だったかも知れない。
「ところでフィーナ、どこが面白いのか分かったかい?」
分かるはずも無い。後ろで束ねた髪を揺らしつつ首を振ると、グランディス隊長は嬉しそうに笑う。
「実はあたいも見てるだけじゃ分からんのさ。ほら、説明してやってくれ」
頷いた研究員の一人が、SWBMの外殻を剥ぎ取って、内部構造を露出させる。細かい配線やパイプのびっしりと詰まった構造が、いかにこの兵器の技術レベルが高いものであるかを証明しているようだった。
「結論から言いますと、こいつに用いられている技術はレサスのものではない、ということです。レサスの究極兵器という触れ込みにはなっちゃいますが、実態はメード・イン・オーシア、或いはその極めて良く出来た模倣品というのが実際でしょう。中の基盤やらの類ともなると、呆れちまいますよ。もともと内戦に明け暮れていたレサスではあんまり電子産業が育っていない。それにもかかわらず高い技術力を必要とするSWBMやショックカノンの類を開発出来たのは何故か――?」
「……ノース・オーシア・グランダー・インダストリー。ううん、ゼネラル・リソース」
「そういうことです。ま、どこで作ったかはさておき、こんな技術を丸ごとセットで輸出・活用出来る組織なんて、数えるほどしかありません。まして、レサスに対して正式に軍事支援をやっている国なんてないわけですから。ま、確定的証拠とはならなくとも、レサスとゼネラルの関係を証明する証拠としては充分使えますな」
「参考までに聞いておくが、これとセットで何が見つかれば、あたいたちは世の中にゼネラルの悪事を暴けると思う?」
「難しいですが……どちらにせよレサス軍に供与されていることは事実ですから、それに関する契約書だとか引き渡し書、或いは金のやり取りに関する帳簿類とか……そんなものがもし存在すれば、出来るかもしれませんが……」
「ふーん」
「隊長、無茶はしないで下さいよ。大体戦闘機乗りとしてはともかく、そっちの実戦を離れて久しいんですからね」
「忠告ありがとよ、ロベルタ。でもねぇ、あたしゃそっちもまだまだ現役のつもりなのさ」
「またアルウォール司令が頭から湯気を出しますよ?」
「なあに、いざとなったらアンダーセンの旦那に頼み込むさ」
処置無し、降参、といった様子でノリエガ少尉が首を振っている。それにしても、ゼネラル・リソースの狙いは何処にあるのだろう?隊長たちの会話を他所に、私は自分の思考の中へと意識を向ける。ベルカ事変において、"ラーズグリーズ"の手によって旧ベルカ残党勢力は一掃されたのではなかったか。それに、旧ベルカ残党勢力の狙いはあくまで帝国時代のベルカの再建であり、現在のゼネラル・リソースの全世界的な軍需産業に対する支援とは全く結び付かない。各地の紛争に介入して軍需物資を売り付けて、適度に戦いをコントロールして終息させる。今回の戦争のように試作兵器を戦場へと投入してデータ取りをする。政府高官、中でも軍関係者と接近し、動乱の種を植え付ける。それらは全て、軍事部門におけるゼネラル・リソースの利益向上のために行われている「投資」であることは間違いない。では、その「投資」の見返りとなる「利益」は何なのだろう?莫大な資金――これは当然の結果として、彼らは得ている。だが本当にそれだけだろうか?レイヴン艦隊配属後に派遣された各地の紛争で垣間見たゼネラル・リソースの姿には、何か別の目的があるように思えてならない。極端な言い方をすれば、私たちの乗る機体ですら、ゼネラル・リソースの息のかかっていないものはほとんどないのである。圧倒的な財政基盤を持つ企業連合による経済支配?或いは世界の軍需産業の独占?利益追求を省いたとすれば、そこに何の目的が……?
「分かんないなぁ……」
独り呟いたつもりだったが、それにしては声が大きかったらしい。グランディス隊長とノリエガ少尉が議論を止めてこちらに振り向く。慌てて手を振ってごまかそうとしたが、隊長の太い腕がこちらに伸びてきて、私の頭を鷲掴みにした。
「アンタも立派なレイヴンの一員になったんだねぇ。ところでフィーナ、アンタ、地上での戦闘訓練は受けているのかい?」
「銃の使い方くらいは……」
「体術とか武道とかは?」
「全然」
「母親って、凄腕のゲリラ兵だったろ?」
「時々父親が締め落とされるのを見ていただけです!」
「じゃ、一緒に実地訓練といくかい?」
「はぁ?」
地上戦闘に実地訓練――空での戦いとは全く無縁のことを言い出すということは、どうやら隊長はまた良からぬことを考えているらしい。しかも、どうやら巻き込まれることだけは当確の様子。話が飲み込めずにいると、ノリエガ少尉が額に手を当てながら首を振っている姿が目に入った。そして、その肩越し、私たちから少し離れた運河沿いの遊歩道を歩いている少年たちの姿も。その中に、私はジャスティンの小柄な姿を見出した。一緒にいるのは、通信士のユジーン・ソラーノと、"悪友"スコットだろうが、普段ならジャスティンはともかくとして両腕を振ってアピールしそうなスコットまでが、腕組みをしているように見える。あまり良くは見えないが、ジャスティンが何かを手にしていて、二人はそれを覗き込んでいるようだった。どうしたんだろう?隊長たちがいなかったとしたら、きっと私は手でも振って彼らに声をかけたに違いない。グレイプニルとの戦いを終えた直後のジャスティンの姿を、私は記憶の片隅から取り出した。キャノピー越しに、珍しく嬉しそうに腕を振っていた、若きエース。勝利を喜んでいたその姿とは、随分と大きなギャップがあった。
ぐい、と俄かに頭に加わった力と痛みによって、少年たちの方へと飛びかけた意識が急速に現実へと引き戻される。恐る恐る見上げた視線の先に、口元だけが笑っている隊長の姿。
「イタタタ、隊長、痛いです!!」
「あたいの知らない間に、悪い虫が付いたみたいだねぇ、フィーナ?」
図星を指され、返す言葉も無し。赤くなってきた顔を下へと向ける。頭に加わっていた力が、ようやく緩められる。
「……しかしまぁ、南十字星の坊やなら将来有望か。まだまだ荒削りだけど、いい飛び方をしている。男を見る目は、母親譲りのようだね」
「いやその……ジャスティン、ではなくガイオは、そういうのではなくて……」
「アンタも修行が足りないねぇ。気に入ったんなら気に入ったと言えばいいじゃないのさ。ま、そうなったらジャス坊はシルメリィの男たちの大半を敵に回すことになるけどね。可哀相に、傭兵たちから背中を刺されたりしてな」
「隊長、それくらいにしておいてあげましょう。フィーナったら真っ赤っ赤ですよ。将来有望ということは、後見人としては一応眼鏡にかなっている、ということなんでしょう、隊長?」
そうなんだろうか?確かに、私は以前よりもジャスティンを身近に感じている。でもどちらかというと、放っておけない、という意識の方が強いようにも思う。もちろん、南十字星の正体を知る前は憧れの対象ではあったが。正直なところ、自分自身の向いている方向が私も良く分かってはいないのだ。もっとも、第三者から見ていると「バレバレ」に見えるらしい。困ったように、でもどこか愉快そうにグランディス隊長が苦笑を浮かべる。
「……ま、今のところは様子見というやつかね。それよりも、任務優先。フィーナ、折角飛べない時間があるんだ。気も弛んでいるようだから、少しあたいに付き合ってもらって、陸戦の訓練をしようじゃないか。ダイエットになるよ。フフフ……」
隊長の"訓練"を思い浮かべた私は、げっそりとした気分に浸ることになった。ご愁傷様、といった視線をノリエガ少尉と技術部員たちが送っていることに気が付いて、尚更憂鬱になる。隊長みたいな筋肉質にだけはなりたくないなぁ……と、とりあえずは罪が無いジャスティンの姿に対して、私はちょっとだけ恨めしげな視線を投げ付けたのだった。
なんてこった――!!
何度その言葉を叫んだことだろう。レサス軍の切り札、究極の空中要塞グレイプニルをオーレリアの南十字星たちが退けるどころか撃墜したという情報を聞いたときもそうだ。詳しい話はいずれシルメリィの面々から聞くとしても、グリスウォールの市民たちは各メディアが競って報道しているその一報に驚喜している。解放の時は近い――そんな風潮が、水面下で人々に広まりつつある。これまであまり噂を聞かなかった義勇兵組織がちらほらと旗揚げを始めているなんて情報も、フェラーリンから届けられている。もっとも、情報網と行動力と実戦能力を兼ね備えた非公認組織として、ズボフやフェラーリンたちを上回る存在というものは無いだろうが。表面上の適当さとは裏腹に、彼らの地下活動は活発さを増している。おかげで、ジュネットの手元には決して声高に読み上げることの出来ないような「危ない」資料とデータの数々が届けられることになる。彼らの協力者も増えているのだろう。「危ない」情報の量的増加は、何よりもその事実を如実に語っていた。
レサスが各メディアの記者たちにわざわざ用意した高級ホテルを敬遠して手配した、グリスウォール市内のアパートの窓から見える光景も、この僅かな期間で激変している。ガイアスタワーにおいては、贅沢の限りを尽くした料理と酒と共に新たに並べられたものがある。それは、グレイプニル陥落までは市街地にあまり姿を現したことの無い、戦車や対空戦闘車、戦闘ヘリといった類の物騒な代物たちだ。市街地の中枢部への道を遮断されたことで、市民生活にも支障が出始めている。レサスの兵士たちにも少なからず動揺が広がっている。レサス軍司令官ディエゴ・ギャスパー・ナバロも、予想し得なかった戦いの展開に驚きを隠せない――と思いきや、相も変わらず続いているパーティでの彼の振る舞いは今まで通り微動だにしない。それはそれで大したものではある。どうやら、彼よりも彼の下にいる者たちが動揺し、ご丁寧にガイアスタワーの周囲一帯に防衛部隊を配備するよう指示を出したようだ。だが、切り札とも言うべきグレイプニル陥落の報を受けても平然としているナバロの様子に、ジュネットは看過し得ない何かを感じていた。グレイプニルを失ったことは、対オーレリア戦におけるレサス軍の最大のアドバンテージの喪失と同義であるはず。オーレリア不正規軍の兵士たちは、敵の切り札を葬ったことでさらに士気を高め、進撃を続けることだろう。レサスにとっては凶報以外の何物でもないはずなのに、あの涼しげな笑いは何だ?――気に食わない。その余裕は一体何なのだ?ナバロは、戦争の行く末自体に関心が無いとでも言うのか?
その問いに対する回答の一端を、ジュネットは届けられた「危ない」情報の束から見出していた。改めて、「なんてこった!」とジュネットは口の中で呟いた。オーレリアは、やはりレサスに対する最大の支援国であった。皮肉にも、オーレリアがレサスに対して投じた莫大な人道支援は、レサスの軍需産業を飛躍的に拡大させる根源となっていたのである。ディエゴ・ギャスパー・ナバロは、軍総司令官の他にもう一つの顔を持っていた。彼は司令官であると同時に、レサス軍需産業のトップでもあった。オーレリアの人道支援は、彼の傘下にある国営銀行を経て第三国においてマネーロンダリングされ、「綺麗な資金」として軍需産業へと流れ込んでいた。無論、オーレリアの政府高官と握手していたのは、ナバロの息のかかった政治屋たちだ。――まるで、昔のオーシアの主戦派たちのように。そして、レサスの軍需産業体には民間からの登用という名目で、ゼネラル・リソースからの人材が当然のように潜り込んでいる。あとはもう説明するまでもあるまい。ナバロの野郎とゼネラル・リソースの間には蜜月関係が築き上げられ、オーレリアの支援は軍事支援に姿を変え、オーレリア自身に向けられる刃と化したのだ。そうとも知らず、レサスの軍勢が国境に勢揃いするその時まで、オーレリアはレサスを信じ続けてしまった。ナバロの掲げた侵略の大義名分に目を白黒させ、喉元に銃口を突き付けられても、オーレリア政府の政治家たちは何が何だか分からなかっただろう。そりゃそうだ。そもそも戦争自体が、仕組まれたものなのだから。
さらに言うなれば、この戦争自体の帰趨は、ナバロにとっての重要事ではなかった。戦場をリアルタイム中継して全世界に放映するなどという大層なやり口がどうして必要だったのか?レサスの大義名分を世界中に知らしめるため?そんなのは眉唾だ。ナバロにはそうしなければならない必要があったのだ。彼の手にある軍需産業が、どれだけ高い技術力と高性能の兵器群を生産し得るか、というデモンストレーションのため。そう、レサスによるオーレリア侵略は、軍事兵器の格好のお披露目会場だったというわけだ。グレイプニルですら、然り。オーレリア不正規軍によって撃墜されたのは想定外だっただろうが、光学迷彩・SWBM・ショックカノン、あれほどの巨体を空に浮かべる技術力は世界中に存分にアピールされた。つまり、その気になればナバロは第二、第三のグレイプニルを生産出来るからこそ、笑っていられるのだ。兵器も、兵士の命も、戦争も、商売道具。レサスの掲げた大義名分を信じて戦っている兵士たちは、勿論その真実を知る由も無い。そのやり口に、ジュネットは怒りを感じざるを得なかった。今すぐにでも、ナバロの悪業を暴く記事を書き連ねてやりたい衝動には駆られたものの、軽挙妄動を戒める理性が強く働く。まだ、仕掛けるのは早い。さらに確固たる裏付けが必要だ。ゼネラル・リソースとナバロとの蜜月関係を証明する証拠がまだ不足している。何かもっとこう、決定的なものがないものだろうか?サンド島基地で、回収されたグランダー製の戦闘機を前に、フッケバイン――おやじさんが語ってくれたような、物的証拠。例えばグレイプニルの残骸。それも、ゼネラルの関与がはっきり分かるような何か。
「やっぱり、シルメリィ艦隊に接触しなきゃ駄目か……」
とはいえ、今はサンタエルバにいるであろう彼らと直接接触することはほぼ不可能である。そうでなくとも、ナバロの腰巾着にどうやら睨まれているらしいジュネットなのだから。
古びたパイプ椅子に背中を預けると、乗せられた体重の重みに抗議するかのように、軋み音が返ってきた。改めてオーレリアから行われた人道支援名目の資金に関するデータに目を通していると、不意に先程の疑問が鎌首をもたげてきた。そして、資料が新たな疑問を投げかける。ナバロの余裕の笑みは、まだ別の切り札があることを示しているのではないか?グレイプニル建造や戦力強化で支出されたであろう費用を差し引いたとしても、なお莫大な資金がナバロの手元には残っているはずなのだ。そして、ナバロのデモンストレーションには格好の好敵手が存在する。――オーレリアの南十字星だ。ジュネットたち記者の元にも飛び込んでくるオーレリアのエースを、レサスの新兵器が葬る。これほどセンセーショナルな宣伝はあるまい。グレイプニルはその点では失敗したかもしれないが、オーレリアをわずか10日で陥落寸前まで追い込めるほどの戦力であることを証明した。もし仮に、ナバロの手に切り札があるのだとすれば、次は間違いなく南十字星を標的としてくるに違いない。そう思い当たったとき、ジュネットは思わず窓の外に広がる空を見上げてしまった。まだ面識は無いけれども、シルメリィからの情報では、かの異形の戦闘機を操っているのは、本来は正規兵でもない少年だという。彼らは、この戦争の真実の全貌をまだ知らずに、ここグリスウォールを目指している。このままでは、いけない。何とかして、自身が持ち得ている情報を彼ら不正規軍に知らせる必要がある、とジュネットは確信した。自分ひとりではどうにもならないかもしれないが、幸い、この街には信頼出来る悪人たちがいる。彼らに協力してもらうとして、後は……シルメリィから要員を派遣してもらうことは出来ないものだろうか?陸戦が発生することも想定して、幸いシルメリィにはシー・ゴブリン隊で鍛えられた猛者たちも乗艦している。敵地への潜入作戦に秀でたメンバーを送り込んでもらうことを、アルウォール司令に提案してみよう。……さて、忙しくなってきたぞ。
姿勢を直したジュネットは、愛用のノート端末を立ち上げた。とりあえずここまで調べた"事実"を整理しておく必要もあったし、グリスウォールの現状に関する記事も書かねばならない。黙々とキーを叩き始めたジュネットは知る由も無かったが、彼の意図とシルメリィ艦隊の意図とはこのとき完全に一致していたのである。シルメリィ艦隊の誇る最大のトラブルメーカーが、ここグリスウォールに乗り込んでくる事態を、勿論ジュネットが知るはずも無い。だが、ジュネットが情報整理のために端末に向かっている頃、シルメリィの艦長室では激論が交わされていたのである。しかも、フェリス・グランディスという名のトラブルメーカー本人は自分が乗り込むことを既定のものとして司令官と対峙していたのであった。
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