ゴースト
踏ん切りの悪い若人の背中を蹴っ飛ばすようにしてけしかけたまではいいものの、6割の心配と4割の野次馬根性が放任という理性をあっという間に乗り越えていった。空に上がれなくなって以来、ジャスティンは熱心に体力維持に努めていることを基地の面々や傭兵たちから聞いていたので、グランディスはそれほど迷わずに若者たちの姿を見つけることが出来た。さて、どんなことを話しているのかねぇ……と思いながら腰を落として近付いていった先に、既に先客が二人、陣取って聞き耳を立てている姿をグランディスは見出した。一方はサチャナ基地のオペレーター士の一人で、アイリーンとかいう名の娘だ。そしてもう一方は、あの美形の坊やとは対照的に、空に上がれない時間のうち夜と休み時間を惜しみなく別の情熱のはけ口にしている、ラファエーレ・スコットという名の若者であった。ここまで性格の違う者同士がコンビを組んでいるのは本当に珍しいのだが――。
「少しは見習って走りこみを徹底してみたらどうだい、スコット?」
「あ、グランディス隊長。……隊長も出歯亀ですか?」
「他にいいようがないのかい、アイリーン」
当のスコットは、引きつけでも起こしたかのように口をパクパクさせながら、グランディスを指差している。
「安心おし。今はあっちの朴念仁二人の「偵察」が大事さ。お前の処分は後回し!」
「お、鬼や……」
「ほらほら二人とも、なかなかいいムードですよ」
特に何か会話を交わしているようではないが、楽しそうに微笑んでいるフィーナと、照れた顔を赤くしたジャスティンの姿は、見ているだけでこそばゆくなるほどに初々しい。それはどうやら隣にいるスコットも同様らしく、必死に笑い出しそうな口元を押さえ付けている。沈黙の天使を散々漂わせた後、先に口を開いたのはフィーナの方だった。駄目だジャス坊、そういうときはお前が先に口を開くもんだよ。本当に甲斐性がない子だねぇ……思わずグランディスは苦笑を浮かべてしまう。
「どっかの下半身だけ甲斐性男とは大違いだと思わないか、スコット?」
「オーブリー基地にいた頃から、実のところ自分よりも人気はありましたからねぇ」
「そりゃそうだろうさ。どっかの誰かさんと違って誠実だろうしな」
ぬがっ、と詰まったスコットがまだ口をパクパクさせながらグランディスを指差す。
「隊長、それくらいにしておいてあげてくださいよ。スコットだって結構人気あるんですから」
「アイリーン……俺めっちゃ嬉しい……」
「何、お前さんが死んだらもっといい別の男を捕まえてくるだけのことさ」
「トホホ……。それにしても、あんな極上の年上の金髪はん独占してもうて、ジャスの奴、こら基地の男ども敵に回してまうでぇ」 フィーナとジャスティンの会話をここから聞き取ることは出来ない。ここにいる三人が期待しているような展開にもどうやらなっていなさそうだが、本人たちが何だか楽しそうなだけに、まさか「もっとしっかりせんかい」と突っ込むわけにもいかず、とりあえずグランディスは握り締めた拳でスコットの頭を小突く。――おやおや、フィーナの奴、あんな風に覗き込まれたら大抵の男は参ってしまうね……。案の定、視線のやり場に困ったジャスティンの目が色んなところを泳ぎだす。あまりの初心さ加減に、こっちの腹がむずがゆくなる。許されるならここで大爆笑といきたいところだが、折角うまくいきかけている二人の邪魔をしたくないし、隊長にある者が出歯亀をしていたなんて話を広めるわけにも行かず、結果側に座り込んでいる格好のサンドバックが犠牲となる。まともに腹に蹴りを喰らったスコットが、それでも懸命に声を出さずに耐えているのには、さすがのグランディスも感心したものである。
「せやけど……グランディス隊長。端から見てると、えらいフィーナはんのこと気ぃかけてはりますけど、なんか深い理由でもあるんでっか?」
妙なところで鋭いやつめ、とグランディスはスコットを睨み付ける。意外にも、今度はおどけた表情を浮かべずに鋭い視線を彼は受け止めたのである。
「いや、やっぱり気になるやないですか。ツレの彼女がどんな人かって。隊長やカイト隊の他の人ら見てると、アイドル……っちゅう理由だけちゃうんちゃいますか?何かこう、もっと別の理由があって、皆フィーナはんを支えてるっちゅーか、そんな気がするんですわ。知らんでもええかもしれんけど、考えたら自分ら、カイト隊の人たちのこと全然知らんのですもん」
「……色ボケだけじゃないんだねぇ、アンタ。じゃ聞くが、フィーナのこと見てどう思う?」
「ナイスバディ」
「このアホンダラ!」
「うまいこと言えんけど……この人、戦場全体が見えてるんやないか、と思える機動してはりますね。それと、これがずば抜けて、てのは無いと思うんですけど、あらゆる面での判断・状況把握・アクションが段違いに速いっちゅーか……。何かこう、ジャスを見てるのと同じような気分になるんですわ。生まれ持った才能、ちゅうのか……ワイにはそんなんないんで、尚更そう見えるだけかもしれまへんけど」
あの朴念仁二人がようやく前進しそうになったことも喜ばしい驚きだったが、不正規軍の色ボケの名に相応しいはずのスコットの持つ鋭い観察眼に、グランディスは感心していた。華々しいジャスティンの活躍の陰に隠れてしまってはいるが、圧倒的不利な戦況を生き延びてきたという点では、スコットという若者も尋常ではない。「夜の戦果」ばかりが目立っているが、鋭い観察眼とキレの良い勘働きは今日の彼が運だけで生き延びてきたわけではないことを何より証明していた。
「スコットの見立ては悪くないよ。あの娘の才能は父親譲りだからね。フィーナは、「円卓の鬼神」と呼ばれたかつてのトップエースの愛娘なのさ。さてスコット、お前さんはレイヴン艦隊の機密の一つを知ってしまったんだ。噂が広がったら、どうなるか分かってるね?」
「そんなん言いまへん。……でも、納得ですわ。ワイら、ものごっついビックネームと飛んでたってわけでっか。ん?お、隊長、何かええ展開になってきましたで」
はぐらかされたような気分だったが、スコットの指差している方向に視線を移すと、腰に手を当てたフィーナが、もう一方の手の指先をジャスティンの額に当てて何事か話し掛けている。今まで目撃した二人の状態としては、もっとも良いムードだろう。互いに照れ笑いを浮かべているが、まんざらでもないらしい。ちらりとスコットを見ると、出来の悪い弟子の成長に感動したのか、本気で涙まで浮かべている。フィーナの場合、父親は伝説のエースパイロット、母親もその英雄を射止めた女傑――という環境が、コンプレックスとなって本来の力を発揮出来なかったり、本来の自分をさらけ出すことが出来ない、といった方向に働いているきらいがあった。まぁ、「円卓の鬼神」には悪気は全く無かったのだろうが、フィーナがパイロットとして成長すればするほど、父親の物凄さが理解出来るようになり、余計に彼女がプレッシャーを感じる……という悪循環が繰り返されていた。それが、このオーレリア紛争以来、随分と変わってきているのだ。戦場を見渡せる「目」はもともととしても、飛び方に迷いが無くなり、鋭さが加わってきた。彼女のそういった変化は、間違いなくあの少年の影響だ。絶体絶命の状況下、無謀にも最新鋭の試作戦闘機を持ち出してレサス軍を迎え撃ち、実際には欠陥だらけの機体を自由自在に乗りこなしてしまう、オーレリアのトップエース。ジャスティンに対する興味はどうやら好意に変わりつつあるようだが、それが彼女の本来の実力と人間性を引き出すきっかけになるとは、グランディスにも予想外だったのである。グランディスたちがやろうとしても出来なかったことを、まだ出会ってからそう時間の経っていないあの若きエースは可能にしたのだ。これからジャスティンはまだまだ成長していくし、変わっていくだろう。現時点では眼鏡に適った人物かどうかは条件付きだけれども、いずれ、「円卓の鬼神」にも認められるようなエースになることを、グランディスは期待している。フィーナの幸せのためにも。
「ああー、そんで終わりかいな。そこで一発ブチューとかぎゅーとかやったらんかい。……ま、ジャスならこれでも頑張ったほうか」
ちゃっかりとスコットの野郎、アイリーンと代わりにキスを交わしていやがる。フン、と笑ったグランディスは、その襟首を強引に掴みあげた。
「た、隊長!?ヤバイで、見つかるで!?」
「さあ、偵察の時間は終わりだ。あたいも明日から忙しいからねぇ。訓練そっちのけで夜の運動に勤しんでいるどこかのバカタレを少し鍛え直してやるよ。おら、付いて来な」
「か、堪忍、堪忍や。医者にもドクターストップかけられてるし」
「問答無用だね。アイリーン、夜までこいつは借りてくよ」
「アイリーン、助けて!!」
本気で悲鳴を挙げているスコットに対し、アイリーンが笑いながら答える。
「大丈夫ですよ、隊長。ハードな出撃の後も……ですから。ジャスティンやノヴォトニー少尉のためにも鍛えてあげて下さい」
「だってさ。良かったねぇ、スコット」
襟首を掴んだまま、グランディスは歩き出す。基地の通路に、ひぇぇぇ、というスコットの情けない悲鳴と、アイリーンや基地の面々の笑い声が響き渡った。
煙るような雨の中、私たちカイト隊は当面の作戦拠点となるプナ平原の補給基地を目指して、サチャナの大地を飛び立った。あっという間に雲の中に隠れて見えなくなる基地の滑走路の灯火。基地上空を覆った厚い雨雲の上へとひとまず抜けて、フォーメーションを組み直す。一面に広がる雲海と空の蒼のコントラストが美しい。先日の戦いでカラナ平原もオーレリア不正規軍の勢力下になっているが、ネベラ・ジャマーに覆われた空域からの敵部隊の侵入が収まったわけではなく、一日に何度かはスクランブル発進した友軍部隊がレサス軍との小競り合いを続けていた。もっとも、カラナ平原を失った今、積極的攻勢に転ずるだけの戦力はレサス軍に残っていないこと、ネベラ・ジャマーという電子の要害によって著しく作戦行動が制限されること――そして、オーレリア不正規軍にしてみれば、ネベラ・ジャマーを何とかしないと自由な作戦行動が出来ないこと、そんな数々の要因によって、両軍ともに一時停戦モードといった状況であることは間違いない。では最短距離を取ってカラナ平原通過ルートかと思いきや、隊長の判断としては珍しく、半島南回りの迂回ルートを私たちは飛ぶことになった。途中、パターソン方面で空中給油を受けてプナへと北上する行程が組まれている。それはまさに、オーレリア不正規軍と共に私たちが戦ってきた戦場を逆戻りで通過していくルートでもあった。南十字星の伝説が生まれた空――本来、戦わなくてもいいはずの少年たちを巻き込んだ、この戦争の裏側で繰り広げられている謀略と商売の数々。今回の潜入ミッションが、レサスと彼らに与した死の商人たちの闇を暴く一助になってくれればいいのだけど。
「それにしても分厚い雲だねぇ。管制塔の情報通りだけど、位置を見誤りそうだよ」
「前みたいに有視界飛行で飛ぶ、と言って見当違いな場所へと連れて行かないでくれよ、隊長」
「痛いところを突くねぇ、ファレーエフ」
気を抜いているわけではないが、久しぶりの移動だけのミッションということもあってか、隊長たちの雰囲気もどこか穏やかだ。
「それにしても、フィーナを潜入作戦に参加させるのはちいとばかしやりすぎじゃないですか、隊長。陸戦訓練なら私も受けてますけれど……」
「あのな、ロベルタ。あたいとロベルタが一緒に並んでいたら、あからさまに戦闘要員がやってきました――てなことになるだろうが。フィーナにはやってもらう任務があるから、今回は要員に加えているのさ」
任務――?そういえば、ジュネットおじさまの護衛がどうとか、ナバロ主催のパーティに参加しろとか言われていたような気がする。
「そのために、わざわざ手の込んだ仕込みを本国からやってもらってるからね。トータルでは結構な人数の戦闘要員を確保出来そうだよ。腕が鳴るねぇ……」
「隊長、まさか本気でドンパチをやらかすつもりなんですか……?」
「フィーナ、それは愚問。隊長が大人しくしているはずがない」
「ミッドガルツの言う通りなんだけど、はっきり言われると何だか癪に障るねぇ」
隊長機が右方向へと緩旋回。私たちもフォーメーションを維持したまま、針路を修正していく。時折レーダーにも視線を移して周囲を伺うが、自分たちの反応以外に見えるものは無い。空はとても静かだった。戦いの無くなった空というのは、きっとこんな空のことを言うのかもしれない……そんなことをふと思った。ただし、私たちの機体がそうであるようにレーダーは万能ではない。相手がステルス戦闘機であったとするならば、レーダーの反応が無くても当然だからだ。それは隊長のADF-01Sが代行している。人間の視覚に加えて、鳥や飛行機の機影などをコフィン・システムのディスプレイ上でトレースしながら、周囲警戒を隊長は行っているのだった。
「お、サンタエルバの墓標が見えてきたよ」
雲の切れ間から、海へと広がるサンタエルバの街並みが姿を現した。その河口付近に、数十メートルという大きさで屹立する「墓標」が立っている。レサスの誇る究極兵器、グレイプニルの成れの果ての姿だ。SWBMとショックカノン、無数の通常兵器で武装した空飛ぶ機動要塞。だが、対オーレリア戦争序盤における華々しい戦果に対し、その栄光の時間は僅かであったと言えるだろう。仕掛けさえ分かってしまえば、空飛ぶ巨大な的――と簡単に言えるような代物ではなかった。それだけに、グレイプニル撃墜の一報は、世界中に与えたインパクトも大きかったし、オーレリア不正規軍の戦力拡大にも一役買ったというわけだ。レサス軍特殊部隊による毒ガス攻撃の危機を乗り切ったかの街には、平和が少しずつ戻り始めているようだ。サンタエルバ北西エリアをフライパスした私たちは、ここから西へとルートを変える。出発前のブリーフィングの通り、前線による雲がかかっているのは主に半島東部。サンタエルバ以西に入ると雲は次第に切れ切れになり、太陽の光に照らされた大地が足元に姿を現し始める。
「……ところで隊長。さっき言っていた任務って……私に何をさせるつもりなんですか?」
「ん?ああそのことかい。大したことじゃないさ。レサスのイケメンにインタビューしてもらうだけさ。Mr.Gと一緒にね」
「インタビュー?」
「ディエゴ・ギャスパー・ナバロっていう名の、ちょっとお歳を召したイケメンにね。敵の大将の顔を拝めるなんて、滅多にあるもんじゃないぞ」
一同絶句。どうやら私は、グリスウォールに潜入するだけでなく、ガイアスタワーで催されるパーティにまで出席したうえに、堂々と顔を晒して取材までさせられる予定らしい。
「……私が潜り込むより、隊長が行った方が戦争がさっさと終わるんじゃないですか?」
「うーん、それもいいんだけど、今回は他にやることがあるからね。ま、いいじゃないか、ジュネット"おじさま"にエスコートしてもらえるんだから」
「隊長!!」
とはいえ、グランディス隊長をエスコートする気には確かにジュネットおじさまもならない違いない。どうやら隊長の遠慮の無い発言が苦手らしく、苦笑しながらそそくさとその場を後にする彼の姿を私は何度も見ている。そして隊長はと言えば、逃げられたと分かると「チッ」と舌打ちをして不満げな表情を浮かべるのだ。隊長たちメインの戦闘部隊がグリスウォールで何をやらかすのか分からないけれども、ある意味私の任務は陽動作戦、というわけだろう。何だかんだといっても、修羅場をいくつも経験して切り抜けてきたおじさまだ。護衛といいながら、私が護衛対象になるかもしれない。下手に演技しすぎても不自然になり、演技が不足しても不自然になる――その辺のさじ加減が難しい。その辺りは、ジュネットおじさまに少しアドバイスをしてもらえばいい。折角だから、私がナバロに質問をぶつけてみるのも悪くない。記者が聞きそうな内容に、ちょっとスパイスを聞かせた質問を。いやいや、むしろストレートにゼネラル・リソースとの関係を聞いてしまっても面白いかもしれない。ナバロがどのような返事をしてみせるのか、どんな狸っぷりを見せてくれるのか、その姿を想像するのもなかなかに面白い。
「やれやれ……。フィーナ、危なくなったら、向こうの協力者たちのサポートをすぐに要請するんだよ。現地のことは、やはり現地の人間に聞くのが一番早い」
「フフ、分かりました、ファレーエフ中尉」
「なんだいなんだい、誰もあたいの心配はしてくれないのかね」
大げさにため息を吐く隊長。クスクス、と堪えきれずに笑い出した私だったけれども、不意に悪寒を感じて首をめぐらせた。レーダーにも反応は無し。グランディス隊長が反応していないということは、特に接近する機影も無し。なのに、何だろう、この悪寒。まるで、誰かに背後に付かれているような、そんな悪寒だった。だけど、振り返った背後に、勿論敵の姿があるはずも無い。まして、ここはオーレリア不正規軍によって制空権が完全に確保された地域だ。レサスの軍用機が堂々と飛べる空ではない。錯覚だろうか……?
「ミッドガルツより、フィーナ、何か異常でも?」
「え?ううん、ネガティブ。私の錯覚だと思う。でも、何だか誰かに見られているような、そんな感覚がするの。敵の姿なんか、どこにもないんだけど……」
「あたいの機体でも特に反応は……無いねぇ。とはいえ、フィーナの勘働きがボケたとも思えない。レーダーはこの際無視しろ。各機、針路そのまま。周囲警戒を怠るんじゃないよ」
「了解!」
「……やれやれ、こんなことなら零視界戦闘用のディスプレイ・モジュール、組み込んどくべきだったねぇ」
もし私たちの後ろを取っているのが敵ならば、既に攻撃を仕掛けられていてもおかしくない。まさか、あのグレイプニルに2番機が存在したのだろうか?仮にそうだとしても、あの大出力を誇るエンジンの放つ轟音まではシャットアウト出来ない。至近距離ならば、確実にその音源を捉えられるはずである。残るはサーモグラフィだろうが、日中のこの状況で使用してもあまり効果は得られないだろう。私が感じていたのは、私たちを射程圏内に捉えて舌なめずりをしている蛇のようなイメージ。冷たく光る目が、私たちの後姿を見ながら冷たい笑みを浮かべているような……。本能的なおぞけが背筋を這い上がってくるのだ。かといって、所在の知れない相手とどうやって戦えば良い?何度目か忘れてしまったが、背後を振り返った私は一瞬だけ景色が何か揺らいだように感じた。自然の空とは何か異なる「揺らぎ」が見えたのはほんの一瞬。それと同時に、背中に感じていた冷たいプレッシャーが不意に姿を消した。その空間には結局何者の姿も見えない。あれは錯覚だったのだろうか……?否、錯覚であるはずが無い。私の背中は、現に冷や汗で濡れている。何かが、私たちを追っていたのだ。もしかしたら、私たちは試されたか、或いは遊ばれていたのかもしれない。あれが敵だったとして、彼らからは私たちの姿など丸見えなのだろう。操縦桿を握る者たちは、ほくそ笑んでいたのかもしれない。それがまた、不気味だった。
「何も感じなくなったかい、フィーナ?」
「はい、隊長。私の錯覚でなければ……ですが」
「一瞬、何かが揺らいだだろう?あの短い時間じゃ分かることも限られるだろうが、確かに私たちは尾行されていたんだろうさ。どこの誰だか分からないけどね。敵だったら、厄介な相手になりそうだね……」
何故仕掛けてこなかったのだろう?もしそこに敵がいたのだとしたら、絶好の攻撃ポジションだったのに。冷や汗に濡れた背中をシートに押し当てた私は、その冷たさに思わず小さな悲鳴を挙げてしまった。少し気を抜きすぎたのかもしれない。基地について一段落したら、今日はゆっくりとシャワーを浴びたい。あの居心地の悪い冷たさの残滓がまだ残っているような気がして、私は何度か首を振ってみた。
「機体のジェネレーターではこれが限界だな」
「危ういところでした。少し冒険が過ぎましたか」
「いや、あれでいい。連中がこちらの動向を察知した様子は無かったのだからな。さ、こっちもタンカーに立ち寄って帰投するぞ」
「了解です、ルシエンテス隊長」
試作機ならば、これで上々というところか。いやいや、普通の相手であればこれでも充分にやれるだけの戦闘能力は既に有していると見てよいだろう。敵にも味方にも出くわさずに、安心して長距離飛行をテスト出来るところまで出張ってきた甲斐があったというものだ。恐らく連中――レイヴンの者たちがわざわざ最前線のサチャナを離れるからには、オーレリア不正規軍が何らかの作戦行動を起こす予定があるのだろう。それも、最前線以外の場所で、だ。祖国は根本的にこの戦争のあり方を見直すべき時期に来ているらしい。腐り切ったブルジョワどもの国、と思っていたが、意外に骨のある連中はまだまだ野に在った。あの南十字星の若者など、その最たる者だろう。傷だらけの機体で、なおもあれほどの機動と何よりも生き延びようとする意志を見せ付けてくれた、ジャスティン・ロッソ・ガイオという名の若者の飛びっぷりを思い出すと、今でもルシエンテスの血が騒ぐのだ。ブルース・マクレーンは間違いなく本物だが、あの若者も、そして部下たちに散々追い回されながらもついに落ちなかったもう一人の若者も、本物に違いない。彼らをこの機体に、いや、ロビンスキーめは究極的には若者たちの身体が欠損していても大した問題ではない、とは言っていたが、彼らにこの試作機の更なる発展版――X仕様を扱わせてみたかったものだ。個体としては桁外れの戦闘能力と破壊能力を保持した精鋭部隊。幾度か、先人たちがその夢に挑み、その都度敗れていった儚き理想。オーレリアでの戦いは、これから始まる長い戦いの始まりでしかない。光学兵器・運動エネルギー兵器、それに禁断とされる核兵器――核を除けば完全量産化の目処も経っていない禁じ手を普通に積み込んだ、姿なき刺客たち。大義など存在しないつまらない戦争を繰り返す愚かな政治指導者や宗教指導者たちに振り下ろす鉄槌として、最も相応しい鋼鉄の翼たち。つまらなき者たちにはメギドの業火を。あの日、夢を見失い、力を渇望するようになってから、休むことなく走り続けてきた自分自身の姿をルシエンテスは思い起こした。打算のために全てを台無しにしてくれたオーレリアの政治屋どもと、そのドラ息子たち。腹黒い者たちのために、死すべきではなかった娘の姿を。瞼の裏に残る屈託の無いあの笑顔は、ほんの僅かな時間ルシエンテスの祖国同様に荒んだ心を癒してくれたのに、結末に待っていたのは更なる絶望だった。
「待たせたな、リン。報復の日は近いぞ……」
「?隊長、何か?」
「何でもない、独り言だ」
過ぎ去ったときは取り戻せない。だが、奪い取った者たちを滅することは出来る。その時は近付いている――ルシエンテスはそう確信し、マスクの下の口元に凄絶な笑みを刻んだのだった。
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