オストラアスールにて
シャワーから降り注ぐ湯が、埃と汗と汚泥にまみれた身体を洗い流していく。グランディス隊長からある程度聞かされていたとはいえ、本当にシャワーを浴びる時間も場所も無いというのは初めての経験だった。作戦行動中に何度かそんな事態に遭遇したことはもちろんあるが、モンテブリーズからグリスウォールへ至る輸送列車のコンテナの中に潜り込み、グリスウォール市外の補給基地に到着してからはマンホールを抜けて下水道をひたすら行軍。足下を這い回るネズミはまだ耐えられたのだが、ふわりと飛んできたゴキブリがよりにもよっておでこに着地して我を失い、下水の中にひっくり返る羽目になるとは、我ながら不覚だった。潜入部隊の一人が渡してくれたタオルで顔は拭ったものの、服に染み込んだ下水の匂いと水っ気が取れるわけではない。泣き出したいのを堪えながら、ようやく私たちは「現地の協力者」たちとの合流を果たしたのである。下水道、といってもグリスウォール市街地の地下道はかなり大規模なものだった。地上部分の電線の類を可能な限り地下へと移したことによるもので、大人が数人並んで歩けるような規模があるのだから。まるで迷宮のような地下通路。本当に目的地に辿り着けるのだろうか、という不安は杞憂に終わった。ネベラ・ジャマーの影響で各種通信手段は使用不能になっていたが、事前に協力者たちから手渡されていた地下地図は、極めて正確な情報を反映したものであった。今私がいるシャワー室は、その通路を不法占拠・不法改造して作られた本来なら「存在しない空間」である。「オストラアスール」という名の、ちょっと妖しげなバー。それが、ジュネットおじさまから指示された、ランデブーポイントだった。
「おーい、フィーナ。急がなくてもいいけど、ここの親玉があたいたちにご馳走を振舞ってくれるらしい。裸バスタオル以外の格好で来るんだよ」
「た、隊長……」
「ハッハッハ、冗談冗談。そいつは南十字星の坊やの特権だもんな」
「隊長!!」
グランディス隊長はバスタオルを肩にかけ、大笑いしながらシャワールームを出て行く。まるで子供の頃に見た父親の後ろ姿そっくりで、私も思わずクスリ、と笑ってしまった。それにしても、協力者の趣味なのか、私たちの来訪に合わせて用意したのか、シャワールーム内に置かれているシャンプーの類は女性向けの、それも高級品ばかり。基地には勿論そんなものはなく、ただひたすら洗うことだけに重点を置いたボディソープを敬遠して、私費で揃えている女性兵士が大半を占めるのだ。私はこの際遠慮することなく、シャンプーを手に落とす。
「ふう……」
隊長が余計なことを言うから、思い出さなくてもいいことを私は思い出していた。今頃ジャスティンに何をしているのだろう?相方のスコットとは違って甲斐性無しの彼だけれど、女性の側では事情が異なる。小柄ながらも、何しろあれだけのルックスのジャスティン。しかも、オーレリアの誇るトップエースともなれば、憧れの的となるのは必然。これまでは作戦行動で多忙の日々だったけれど、彼の愛機の修理が終わるまでの期間、彼にとっては久しぶりのフリーな時間が出来る。甲斐性なしという点では彼とどうやら同レベルらしい私を差し置いて、誰かがちょっかいを出したらどうしよう――。ジャステインを疑うわけではないが、最大の悪い虫の範例が彼の側にはいる。スコットにそそのかされたら……?そこまで考えて、それでもジャスティンは誘われない、ということに気が付く。サチャナ基地で、きっとジャスティンは約束通りに私を心配してくれていると信じたい。いや、絶対にそうであるに違いない。そう思えるのも、多分二人が向いている方向が同じだと分かったからだ。私も、信じてあげないとね。鏡に映る自分の姿にちょっとだけ舌を出して、私は軽く頭を小突いた。ちゃんとサチャナに帰るという約束を、私も守ってあげないと。きっと、彼は心から悲しむ。そんな思いを、彼にはさせたくないし、私だってそんな事態には遭遇したくない。余計なこと、考えるのはやめよう、っと。何も迷うことは無い、と自分に言い聞かせ、私は髪を洗い始めた。
結局私が「ご馳走」の場に辿り着いたのは、グランディス隊長がシャワールームから出て行ってから30分は経過してからのことだった。主賓が来なければ飯も出せない、というわけか、テーブルの上には空のジョッキとビーフジャーキーやチーズ、クラッカーが並んでいた。
「勝負支度はジャスティンだけでいいじゃないか。ジョッキ3杯分遅いよ」
「まあまあ、下水の中で転倒したのは事故なんだろう?……しかし驚いた。こんなナイスを連れ出すとは、ジュネットの奴、案外やり手だったんだな」
グランディス隊長の差し向かいには、相当に鍛え上げられた身体をしている、と分かる男が座っている。どうやらこの男が、この店のオーナー、そして「現地の協力者」の一人なのだろう。耳のピアスやネックレスの趣味が、微妙に男性のものと異なるように見えるのは気のせいだろうか?早速意気投合したのか、早くも隊長と男とは笑いながら何事かを話し合っている。
「おっと、オイ、ナイスに何か飲み物をお持ちしなさい。それと、ディナーの用意もだ!」
「イェス、ボス!」
カウンターの向こう側から威勢の良い返事が戻ってくる。店内に客の姿は見えない。他にいるのは、私たちに同行して潜入したレイヴンの兵士たちくらいのもの。辺りを見回すと、折角南国の海に来たのに潜伏かよ、と嘆いていた古参の海兵隊員の姿も見える。どうやら、今日は私たちの貸切というわけだ。
「……紹介が遅れた。レオナルド・フェラーリンだ。今はこの店のオーナーをやっている。昔のことは聞かないお約束だ」
「フィーナ・ラル・ノヴォトニーです。レイヴン艦隊カイト隊所属ですが、陸戦訓練はほとんど受けていません。よろしくお願いします」
「あ、いいのいいの。そういう荒事は、俺たちの仕事。あ、俺たちプラスそこの隊長さんのお仕事」
何だか話し方が微妙におかしいような気がする。そう言われてみれば、隊長がさっきからニヤニヤ笑いっ放しなのも気になる。大抵こんな時はろくなことを考えていないのが相場だ。本当にここは「バー」なのだろうか?そして程なく、その結論を私は知る羽目となる。カウンターから飲み物とオードブルを運んでくるウェイターは、安定した足運びだけ見れば違和感は無い。だが、その姿を目の当たりにして、思わず出そうになった悲鳴を飲み込んで私は目を背けた。筋骨隆々の肉体を包んでいるのは、よりにもよってビキニパンツとエプロン。それもヒラヒラ付き。何、どういうこと!?そむけた顔が真っ赤になっている。そんな私の姿を愉快そうに笑いながら、ウェイターがグラスと器を静かに置いていく。隊長たちは失笑をしきりに堪えている。ようやく私は事態を理解した。この店は……この店はよりにもよって、ゲイバーだったのだ。ジュネットおじさまに対する信頼感が、ぐらりと揺れてくる。そんな私の嗅覚を、オードブルの香りが刺激する。何しろ強行軍の連続でまともな食事を取っている暇も無かったのだ。久方ぶりのまともで豪華な食事に、食欲が大いに刺激されてきた。それに加えて、暖かいポタージュ皿まで置かれた日には、もう何も言うことは無い。ウェイターの姿以外は。
「ククク、ビルよ、お前さんの肉体美はちょいとばかしナイスには刺激が強かったみたいだな」
「光栄です。でも、ここのオードブルは絶品ですよ。是非召し上がってください」
スキンヘッドのウェイターが、ニカリ、と笑いながら一礼して去っていく。筋肉の浮き出た背中にエプロンの紐が何ともミスマッチだ。とうとう堪えきれなくなった隊長が大笑いし始める。
「がーはっはっはっは!!見たかい、フィーナの顔。カメラが無くて残念だったよ」
「人の悪い隊長さんだよ、全く。肝心のところを伝えずに連れて来るんだからなぁ。……お嬢さん、ここはグリスウォールでも最も刺激の強い、紳士の交流場なのさ。ま、この街では俺たちが全面的にサポートする。だから安心して任務を全うしてくれ。さて隊長さん、本格的に飲む前に、ビジネスの話をしておきたいのだが……って、アンタ、ウワバミかよ?」
早くもジョッキを空にした隊長は、ロックグラスにこの辺では珍しいポテトの蒸留酒に舌鼓を打っている。どうやら隊長には好き嫌いは存在しないらしく、私は勿論のこと、フェラーリンですら手をつけていなかったイカの干物をくわえていた。鬱憤晴らしをしているのは隊長も同じらしい。ふう、と一息ついたフェラーリンは、テーブルの下に隠してあったアタッシュケースを取り出し、中に収められていたノートPCをテーブルの上に置いた。慣れた手つきで端末を操作するフェラーリン。液晶ディスプレイ上に、いくつかのファイルが展開されていく。驚いたことに、それはオーレリアの平和の象徴とされたガイアスタワーの詳細の構造図と、レサス軍守備隊の展開図などのデータであった。
「ま、やりながら聞いてくれ。隊長さんとお嬢さんは、公式的にはグリスウォールに到着していない。二人は、今のところプレス向けに飛んでいるチャーター便で、明日オーレッドからグリスウォールに到着することになっている。二人とも、オーシア・タイムズの記者の身分を用意しておいた。表で活動するときは、そのつもりで行動してくれ」
「オーシア・タイムズ、ってことはハッカーの協力を得たわけだ?」
「その通り。ま、その辺はジュネットの真骨頂という奴だな。とはいえ今更機内には潜り込めない。だから、到着後の機内に二人とも入ってもらう」
画面に表示されたのは、グリスウォールにあるオーレリア国際空港ターミナルのフロアMAPだ。厳戒下のオーレリアとはいえ、外部からの記者受け入れルートまで遮断することは出来なかったらしい。1日2便だけ、提携した民間航空会社の旅客機が運航され、それ以外の一部のビジネスジェットなどが着陸を認められている状況だ。ネベラ・ジャマーの起動後はレーダーによる誘導が出来ないため、前時代的な航法をパイロットたちは強いられるようになり、チャーター便以外の運航は実質的に停止状態にある。ジュネットおじさま経由で、レイヴン艦隊は私たちが公に動くための身分を用意してくれた、というわけだ。
「二人とも、明日は航空機の清掃員として入ってもらう。なに、兵士はウヨウヨいるが、空港職員たちは基本的に俺たちの仲間と思ってくれればいい。このチャーター便、明日は通常より1時間到着が遅れて、機内清掃などのスケジュールが大幅に乱れる予定だ。乗客も出迎えも大変だ」
「つまり、機内で私たちがすり替わる、という事ですか?」
「潜入する、と言って欲しいなぁ。ま、早い話がそういうことだ。着陸間際、二人の身代わり担当は機体後部のメンテナンス用のハッチからカーゴルーム内に降りてもらう。レサスといえども、国際的なルールは守らなきゃならんからな。とりあえずドアの外までは安全圏内だ。それに盲点でな、出発時に充分なチェックが行われていると、案外到着時のチェックは緩いものさ。んで、おのぼりさんよろしく、出迎えのジュネットと運転手1名と合流して、宿泊先のホテルへ向かう――これが明日の日程だ」
「アンタ方との連絡は?」
「同行する運転手が担当だが、俺らの愛用の地下通路でホテルには簡単に出入り出来る。色々打ち合わせることもあるだろうしな。で……そちら側のネタは?」
私たちの「ネタ」――それは、サンタエルバに墜落したグレイプニルの詳細な調査結果やアンドロメダが傍受した軍用無線の交信記録、加えて、シルメリィ艦隊が本国経由で入手した情報の数々……それらを収めた光ディスクをジュネットたちに届けること。私たちのファースト・ミッションは、まさにそれだったのだ。隊長の目配せに頷いて、潜入中も肌身離さずに持ち歩いていたディスクを取り出して、フェラーリンの前へと置いた。
「パスワードはジュネットおじさまでないと分からないようになっています。まあ、念には念を、ということですけれど」
「妥当な線さ。隠し事ってのはそうでないと、面白くない。……では皆がこの店に来店するときまで、我々が丁重に預かっておくよ。こちらのネタもその時で構わないな?」
「どうせあたいらが見たって表面的なところしか分からないんだろ?ならいつでも同じさ。それこそ、Mr.Gにでも丁寧に説明してもらうとするさ。ときに、Xデーの件はどうなっているんだい?」
どうやら、隊長――それにアルウォール司令たちもだろうが、このグリスウォールで取るべき作戦行動はしっかりと筋道立てて計画されているようだ。私たちと一緒に、海兵隊出身の猛者たちが同行しているのは単なる護衛や物見遊山のためではない。地上における実戦部隊である彼らは、私たちのミッション終了後もグリスウォールに留まり、フェラーリンたちと行動を共にして不正規軍の到着を待つことになっていた。そして、「実戦部隊」が初めから動員されているということは、地上戦の勃発が事前から想定されていることを意味する。ディエゴ・ギャスパー・ナバロ主催のパーティに参加する私とは対照的に、グランディス隊長たちは極めて危険なミッションに臨むつもりなのだろう。隊長のことだから、私に余計な心配をさせないために、敢えて詳しいことを話さなかったのかもしれない。ノートPCのディスプレイをこちらに向けて、フェラーリンは腕組みをした。画面に表示されていたのは、一番最初に開かれていたガイアスタワーの構造図だった。
「もともとガイアスタワーは建設当初から政府の象徴としての機能を持たされていた。つまり、一般には知られていないVIP用の設備があらかじめ盛り込まれていた、というわけだ。これは俺の前職時代に持っていた資料に、現時点で知り得る情報を反映した暫定最新版だ。まともな通路を通っていったんじゃレサスの兵士たちと都度ドンパチやらかす必要があるし、何しろ多勢に無勢だ。それは不正規軍のグリスウォール侵攻までお預けとして、モグラはモグラらしいやり方に専念する。これを見てくれ」
構造図に赤いルートが反映されていく。拡大表示した図面には、表向きの廊下や階段の裏側に巧妙に設置された別ルートが示されている。
「VIP用のルートの存在はナバロの野郎にも確実に知られているだろう。だがもう一本、そのVIPを守るためのSPたちが使用するルートが存在するんだ。今回はこのルートを使用して中に潜り込む」
「目標の所在は?」
「タワー南東部、480メートル付近一帯だな。守備兵と中の連中を制圧したとしても、援軍がすぐに到着するだろう。あまり悠長に構えている暇はなさそうだな」
「あの……隊長たちは一体何を……?」
グランディス隊長は苦笑を浮かべ、フェラーリンは両手を広げて「降参」というゼスチャーをする。隊長たちの話をまとめていくと、敵の総本山たるガイアスタワー潜入作戦、という内容にしかならない。実戦部隊も同行しているとはいえ、それは余りにもリスキーな作戦計画ではないのか?
「適材適所、という奴さ。フィーナ、アンタはジュネットと一緒にパーティに参加する。あたいたちはその隙に、ガイアスタワーに潜入して目標を確保する。実戦部隊が同行したのは、無論そのサポートのためさ。そして、こっちのミッションにアンタは参加させられない。役に立たないし、何かあったらあたいは「円卓の鬼神」に対して申し訳が立たないからね。ま、心配しなさんな。地元のプロも同行するんだしね」
地元のプロ、と呼ばれたフェラーリンが照れ臭そうに頭を掻く。どういうことだ?確かにフェラーリンも含めて、この店の男たちは単にボディビルなどで身体を鍛えているのとは別次元の雰囲気を持った者が多い。どちらかといえば、シルメリィやヴァレー基地の傭兵たちに通じるような雰囲気がある。
「……そこまで持ち上げられちゃあ、仕方ないよな。お嬢さん、俺も含めて、この店の面子の大半は実戦経験大有りの兵隊というわけさ。一見平和なオーレリアだが、平和ゆえに腐っていく部分もある。おたくの所のブルース・マクレーン中尉も、そんなオーレリアの負の面に嫌気が差してしまったクチさ。個人的には、伝説の「バトルアクス」には復活して貰いたいところなんだがね」
「潜入して制圧してドロンもいいが、もう少し派手なこともしたいねぇ。タワーにはナバロの丁稚もいるんだろ?奴の抱えている情報なんかは狙えないのかい?」
「ナルバエスのことを言っているのか?それだと少々厄介だぞ。奴の執務室はタワー上部フロア、それもナバロの執務室近くに位置している。途中までは裏側でいけるが、最後は廊下を進むしかない」
「発煙筒か催涙ガスで誘き出すってのはどうだい?ついでにアタイらの脱出までの盾になってもらうのもいいじゃないか」
「隊長さんも過激だねぇ……。ま、それはそれで面白い。一応、プランの検討材料に盛り込んでおこうか」
潜入するのは敵の牙城であるにもかかわらず、隊長たちには全く緊張も気負いも感じられない。それもナバロの重臣を人質に取ることすら、まるで酒のツマミを一品追加する程度の話として処理していく隊長たちの神経の図太さに私は呆気に取られていた。
「もしかして、隊長たちの目的は……」
「勘がいいねぇ。ま、そういうことさね。資料庫だけを調べていても十分な情報が得られるとは限らない。ならどうするか?その情報を扱っている人間の身辺を探るのが最も効率的だ。ジュネットの手によるスクープと、レイヴン艦隊としてゼネラル・リソースの首根っこを抑えるためにもな」
「経済の深部にまで潜り込んだゼネラルを全部追い出すのは難しいが、レサスと繋がっている奴らを燻り出して追放することくらいは出来る。俺たちが協力するのは、今よりも若干はクリーンになったオーレリアを取り戻したいということ、そして、孤軍奮闘を続けてここまでオーレリア軍を復活させた「南十字星」のためにも、何かしてやりたい、ということさ。理由はそれで充分。まだ若い……若すぎる坊やが踏ん張っているのに、こんなところで大人がいじけているだけじゃあ仕方ないからな。……アンタたちがやって来るのを、心待ちにしていたんだ、俺たちは」
こんなところにも、ジャスティンたちの意志に動かされてしまった人間がいた。表の世界のまともな人間というわけではないが、ここグリスウォールから遥かに離れた地で奮闘を続けるジャスティンたちと共に戦おうとする、いわば同志が、ここにも。ジャスティン、君の戦いはこんなにも多くの人を動かそうとしているんだよ。君は、南の空のシンボルのように、オーレリアの人々に希望を与える十字星。私は心の中でジャスティンに呼びかけた。打算や計算を抜きにして、大人の心を揺り動かすだけの「何か」が彼にはあるのかもしれない。思えば、突き動かされただけでなく、必死に戦い続ける少年の姿に心惹かれている自分など、彼の一種のカリスマに真っ先にやられたクチであるに違いない。じわり、と視界が滲みかかったので、私は照れ隠しに下を向きつつ、少し冷めてきたポタージュを口に運ぶ。考えてもみれば、今やオーレリア紛争は単なるオーレリア・レサス二国間の問題では既になくなっている。レイヴンを支える諸国は、国際会議の場においても少しずつ明らかになるレサスの蛮行と「本来の目的」を糾弾し、レサスとその支持国の切り崩しを強めている。非公式ながら、サピン王国はオーレリアに対する「人道的支援」として、海上からの救援物資輸送を発表し、これは批判するレサスと真っ向から対立を強めていた。さらにオーシアは海上警備を名目として公海上に艦隊を派遣し、レサス軍の艦隊兵力に対する牽制を始めていた。政治の世界においては、さらに暗く激しい駆け引きが繰り広げられているに違いない。恐らくは、ゼネラル・リソースとの間に非公式協議の場が持たれ、政治的駆け引きの名の下に表沙汰に出来ないような決定が下されているのだろう。でもこんな情勢は、オーレリアの一方的敗北が濃厚だった頃には誰も予想しなかった話だ。どこの誰が、国土の大半を占領し尽くされた国家が、圧倒的劣勢を覆すなどと信じただろう。世界からも見放されかけたこの国を盛り上げ、結果として数多くの人々・勢力を動かしたことは、紛れも無くジャスティンたちの戦果なのだ――そう、私は信じたかった。
「ここにも坊やに浮かされた奴がいたかい。ゲイ軍団とは、あの坊やにはかなり刺激が強そうだけどねぇ」
「ま、そういうな。俺たちには俺たちのハートと仁義がある。取って食わんように部下たちにもきつく言いつけるさ」
「そうしてやってくれ。一応、ジャスティンの専属はこの子だからね。父親に似て優柔不断……」
「隊長ーっ!!」
「はいはい、分かったよ。……というわけだ、フェラーリン。何しろあの坊やは餌食になりそうなほど綺麗な子だからね。この子を不幸せにするようなことだけはしないでおくれよ」
「ふーん、そういうことかい。こらまた、将来が楽しみになりそうな話で」
グランディス隊長とフェラーリンはニヤニヤと笑いながら、顔を真っ赤にした私の姿を眺めている。そして、タパスの盛り合わせとネグロ・セルベッサのジョッキを運んできた先程のウェイターも、ニカ、と口元に笑みを浮かべながら皿を並べていく。
「ヘイ、ビル。南十字星の坊やは美形だが手を出すな、とのお達しだ」
「了解です。「円卓の鬼神」の娘御を不幸にするような真似、ここの誰もしませんよ」
「え?」
フェラーリンが腕組みをしたまま含み笑いを浮かべている。
「フィーナ、ここの連中は本物のプロの集まりさ。あたいらもこいつらの素性は洗っていたけど、連中は連中で色々調べていたというわけさ。信用する気になったろ?」
「悪く思わないでくれ、これもこちらの仕事、でね。あ、ただし明日の出迎え担当には伝えてないぞ。お嬢さんの口から伝えてもらったほうが、奴も喜んで働く気になるだろうからね」
「ん〜?一体誰なんだい、そいつは。あたいも聞いてないよ」
「ま、行ってからのお楽しみさ。……さてさて、難しい話はこれくらいしよう。まだまだ料理も酒もある。ここに来た時は安心して盛大に騒いでくれていいさ。――ビル、ショータイムの時間だ」
「イエッサー!!」
私たちのテーブルの担当だったらしい、ビルと呼ばれたウェイターが、フリル付きのエプロンを勢い良く脱ぎ捨てる。続けてステージのカーテンが開かれていくと、中から現れたのは、筋骨隆々、ムキムキのダンサーたち。実戦部隊の猛者たちの歓声もあがり、隣ではグランディス隊長が「ポージングが甘い!」と叫んでいる。今度こそ私はステージに背を向けて、ジョッキを少しだけ傾ける。音楽がスタートしていよいよ盛り上がり始めた店の中で、私はため息をついた。本当に彼ら、大丈夫なの?徐々にタガが外れ始めた空気の中、本当に悪酔いしそうな気分になってくる。これもある意味試練かもしれないわね――でも、ゲイバーに行ったなんて絶対にジャスティンには言えないわよ……。
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