宴は終わらない
モンテブリーズ方面のレサス軍はグリスウォール方面へ向かう幹線道路に簡素な防御拠点を構築し、大半が事実上退却が進められていると見て間違いない状況だった。先の戦いで、どうやらグリスウォールに何かを運び出そうとしていた輸送部隊が攻撃されたことが、「不正規軍の全面攻撃近し」と敵には認識されたらしい。自らをネベラ・ジャマーの電子妨害の中に取り込んだ彼らは、同時に不正規軍の動きを知る術を失っていたことも功を奏したのかもしれない。グランディス隊長とノヴォトニー少尉の潜入後、カイト隊はそのままプナ平原基地に留まっていたが、ローテーションの偵察任務を除けば特に出撃も無いという時間が過ぎていた。パターンで回ってきたスクランブル待機も静かなもので、そろそろ持て余してきた時間をファレーエフたちは雑誌を読んだりしながら潰していた。雑誌といってもそれほど充実しているわけでもなく、興味のあるものを読み尽くしたファレーエフは、寄りかかっていたソファから少しだけ身体を起こし、仲間たちを見渡してみる。ミッドガルツはデスクの上に向かったままペンを動かしている。どうやら許婚に送る手紙を執筆しているらしい。ノリエガは……イヤホンを耳に突っ込んで、指でリズムを取っている。やれやれ、のんびりとした基地の雰囲気はどうやらすぐに伝播するものらしい。自らもゴシップを積んで読んでいたファレーエフは苦笑を浮かべながら立ち上がった。部屋の片隅におかれたタンクのミネラルウォーターはほどよく冷やされていて、簡易冷房だけで少し蒸し暑い気分をすっきりとさせてくれるのだ。
「――隊長たち、無事にやっているかしら……?」
コップに注いだ水を流し込んでいると、そんなノリエガの声が聞こえてくる。ミッドガルツは一旦筆を止めてちらりと振り返ったが、また熱心にペンを動かし始める。コップをもう一つ取ってミネラルウォーターを満たすと、ファレーエフはノリエガの前にそれを置いてやった。
「サンクス!」
「不謹慎かもしれんが、暇でこの髭にカビでも生えてきそうな気がするよ。グリスウォールにいる隊長たちが何だか羨ましくなってきた」
「中尉らしくないわねぇ。ま、私も正直音楽を聞き飽きてきたわ。こうなると分かっていたんだったら、もう少し色々と持ってきたのに」
耳からイヤホンを外したノリエガは携帯プレイヤーにコードをぐるぐると巻きつけると、パイロットスーツのポケットに無造作にそれを突っ込んだ。
「サチャナの方では、ジャスティンたちの機体の整備が完了してまた飛び始めたそうだよ。元隊長殿も心機一転、彼らをしっかりとしごいてくれている。まだまだ、あの二人は強くなるぞ。ウチでも充分通用するくらいに、な」
「中尉はジャスティンとやり合って勝つ自信、あります?私はもう現時点で降参、だけど」
「難しい質問だな。……そうだな、今の機体でなら互角に渡り合うことは可能だろうが、彼と同じ機体で、となったら絶対に勝ち目は無いな」
「え?機体性能だけなら、F-22SよりもXR-45の方が上にもかかわらず?」
「機体との相性の問題だよ。ジャスティンならF-22Sなどわけも無く乗りこなしてしまうだろうけど、私がXR-45に乗ったとしても、彼のように飛ぶことが出来るとは到底思えない。経験という点ではまだ私に分があるだろうが、いずれ私など簡単に超えていくよ。ミッドガルツ、お前さんはどうだ?」
少し首を傾けながらミッドガルツが再びペンを動かす手を止める。目を閉じてしばらく無言でいた彼は、やがて何度か頷くとファレーエフたちに向き直った。
「ジャスティンの飛び方には、まだムラっ気が多い。が、ここ一番という場合なら、自分は彼にかなわないと思う。そういうところ、彼はフィーナに良く似ている」
無表情なのは相変わらずだが、長い付き合いの中で、それでも彼は喜んでいるらしい、とファレーエフは看破した。なるほど、フィーナと似ている、か。彼女がウスティオから初めてレイヴンへとやってきたとき、正直なところ頼りなさを感じたことをファレーエフは覚えていた。事実、先入観に基づいて失望した輩もいたくらいだ。だが、その後のDACTにおいてその先入観がいかに誤ったものであったかを、彼女は十二分 に証明して見せた。そのきっかけは、レイヴン隊員の不用意な一言――彼女の父親と姉とを侮辱する軽口だった。グウの音も出ないほど完膚なきまでに叩きのめされた連中が、以後不用意な言葉を発することは二度と無かった。ただ、その飛び方が安定しなかったのだ。それが最近、オーレリア紛争に介入して以後、目に見えて変わってきた。そのきっかけは、もちろん南十字星――ジャスティンとの邂逅であろう。戦闘に私情は禁物ではあるが、メンタルに安定をもたらし、本来の実力を引き出すこともある……と彼女は自ら証明したようなものだ。余りに不器用な二人の若者の遅々として進まない関係に、グランディス隊長辺りはそろそろ苛々してきたらしいが、こればかりは風任せ。なるようにしかならないし、介入するような話でもない。ただまぁ、想像というよりも妄想に近い話かもしれないが、ずば抜けたセンスと才能を持つジャスティンと、円卓の鬼神の血を継いだ娘との間に子供が生まれたとしたら、どんなエースに育つのだろう?
「――そいつは、フィーナにとっても朗報だねぇ。将来の恋人候補がそれほど認められているんだから」
「正面で言ってやったら、どういう顔をするか見物だな。とはいえ、隊長のことだ。大人しく何もせずに帰ってくるとは到底思えん。消息を知る術もないのが、余計に辛いところだな」
「中尉もやっぱりそう思うかぁ。私も同感。敵の本拠地で盛大に鉛玉をばら撒いている姿が脳裏に浮かぶわ」
「ノリエガ少尉の想定は正しいと自分も推測する。……補足するなら、現地にはMr.Gもいる。フィーナの安全には問題ないはず」
「……やれやれ、ということは隊長サイドは確実に暴れているということで居残り組の意見は一致ということだな。相手をさせられるレサスの兵士が少し気の毒になってきたよ」
グリスウォールでの協力者は、元々はオーレリアの特殊部隊を率いる凄腕だったと聞いている。そんな人物とグランディス隊長が組んでいるのだ。余程のことが無い限り、万一の事態は起こり得ないだろう。留守番部隊の自分らに出来ることは、隊長たちの復帰後速やかに決戦体勢へと移行するべく、彼女たちの帰還を待つ以外に無いということだ。

隊長たちがどんな作戦を展開しているのだろう……という話をファレーエフが振ろうとした途端、忘れかけた警報音が部屋の中に鳴り響いた。ローテーションに入ってから初めての、お客さんの到来というわけだ。どうやら決戦の気配を感じているのは、自分たちだけではないようだ。ミッドガルツが素早く手紙をたたんでペンを置き、走り出す。――さあ、リハビリ代わりに舞わしてもらうぞ。不敵な笑みを浮かべつつ、椅子の下に転がしておいた自分のヘルメットをしっかりと掴み、ファレーエフは走り出した。
グリスウォール国際空港の出発ロビーは、出発する旅客たちと見送り客、そして警備の兵士たちによってそれなりに賑わっている。この空港でおじ様たちと合流した時に比べると兵士の装備も人数も明らかに増えているのは、完全制圧下にあるはずの首都で不穏分子たちによる襲撃にレサス軍が振り回された結果であろう。おまけにその不穏分子たちと来たら、軍高官の恥ずかしい記念写真を撮影して市街にばら撒いてきたというのだからタチが悪い。エレベーターの壁に磔にされた、それも趣味の悪いパンツ一丁のプロパガンダ担当の姿を見たときには思わず彼に同情してしまったものだ。その不穏分子たちの一人として同行していた人間は、額に大きな絆創膏を貼り付けて、土産の酒や機内でのつまみを物色している。カバーストーリーでは「オストラアスールという店でダンサーと乱闘騒ぎを起こした挙句、店を営業停止に追い込んだ」ということになっているらしい。私の場合は取材完了による帰国という扱いだが、隊長の場合は乱闘事件を不問にする代わりに即時帰国という取り扱いなのだとか……。もっとも、現実問題として既に大規模な騒動を起こして見せたフェラーリンたちが今後も知らん顔を通すことは出来ず、今後は「自称不正規軍特殊部隊」として潜伏するのだという。だから、オストラアスールのドアには「当面期間営業停止」の札がかけられているはずだ。見送りに行けなくてすまない、と言いつつ、笑いながらマンホールの下へと姿を消したフェラーリンたちの姿は、とても楽しそうだったけれど。
「あ〜あ、これでナイスともお別れ。まぁた汗臭い男所帯に逆戻りだよ。ま、ゴリラ女がいなくなってせいせいするけどよぉ」
「あたいも残念だよ。空気の無駄遣いをしている老害に火を灯してやることが出来なかったしねぇ」
「へっ、ガイアスタワーであれだけ火遊びしておいてまだ暴れ足りねぇのかよ?全くサピンの女ってのは過激なんだか情熱的なんだかわかりゃしねぇぜ」
「はん、スケープゴートになるのが怖くて逃げ回っている御仁はどこの誰だい?」
「二人とも、やめないか。ここじゃお互いに賞金首みたいなもんだろうが。私は別に構わないが、フィーナを巻き込むようなことだけはしないでくれよ」
フン、とそっぽを向いてしまう二人の大人げない姿に、ジュネットおじ様は困った表情を浮かべて頭を掻いている。結局この二人、グリスウォールで合流したときから同じことの繰り返しだ。もっとも、この程度でグランディス隊長が引き下がるということは、それなりにドミニク・ズボフ翁を認めてはいるのだけれども。――それにしても、「来て、見て、そして去った」というに相応しい慌しい日程のグリスウォール潜入だった。不測の事態によって作戦に何点かの修正は加えられたものの、結果としては大成功。潜入部隊によって発信された機密データの数々は、インターネットの海を渡って迂回を重ねて、おじ様とレイヴン艦隊本部へと届けられた。中身の検証はまだこれからだが、ディエゴ・ギャスパー・ナバロとゼネラル・リソースを主体とする軍需産業にとっては、最も取られたくない資料を最も取られたくない相手に奪われたも同然だ。その事実自体が、交渉の駆け引きの道具になり得るのだとおじ様は語ったが、もうそこまでいくと私の出る幕ではない。ガイアスタワーから帰る車の中で言われた通り、それはおじ様たちの戦場の話なのだ。
「でも大丈夫なんですか、おじ様?オストラアスールに足しげく通っていただけでも、レサスから睨まれる材料は充分かもしれませんけど……」
「ん?まぁ、事情聴取くらいはされるだろうけどさ、それだけで私を追放したりとか表立って害するようなことは彼らにも出来ないよ。ズボフも私も、一応あそこの常連客ということで通っているし、ここに来ている記者連中の眼もあるしね。それに、じっくりと読まなければならない貴重なデータもある。却って好都合というやつさ」
「そして俺様も資料の読み合わせに付き合わされるという寸法さ。白髪がさらに増える要因だぜ」
「まあそう言うなよ。民間企業を追い込むには、裁判なんかでグウの音も出ないような証拠を掴んでおかないと、しっぺ返しを食らうことになる。ましてや相手はゼネラル・リソースとナバロたちだ。生半可な調べは危険過ぎる」
「核ミサイル打ち込んでハイ終わり、とはいかねぇか。厄介なもんだぜ。まだ昔のベルカや国境なき世界の方が戦いやすかったというわけだな」
ズボフがしかめ面で首を振る。そう、彼の言う通りなのだ。今や世界中にグループ会社を持つ大規模多国籍企業群ともなると、その追求は困難を極める。グループ会社の足切りという方法によって、地方法人にその責任の全てが押し付けられ、肝心の本体には合法的に全く捜査の手が及ばなくされてしまうというわけだ。事実、これまでの地方紛争においては、尻尾を掴んだと思えば鍵を握る人物の自殺という形で捜査は事実上迷宮入り、結果地方子会社の暴走と結論付けられてしまったことも少なくないのだ。だから、その告発には細心の注意が求められる。それに、仮にそれで本体の責任が問えたとしても、今や世界中の経済に大きな存在感を示すゼネラル社を揺るがすような処分を避けたいと考える政治家や軍人、民間の人間は決して少なくない。私たちにしてみれば歯がゆいが、事態は表向きにはされず、その代わり舞台裏で処分が下される可能性も考えられる。……この程度のことはナバロも充分に承知の上だとは思うけれど、何故彼はあそこまで落ち着いていられるのだろう?パーティ会場で相対した彼の印象は、仮にレサス軍がオーレリアから追い出されたとしても関係ない、或いは彼の地位には何の影響も無い、そんなイメージだった。もしかしたら、ジュネットおじ様たちの手によって事実が暴かれたとしても、それを退けるに充分な世論の支持があると踏んでいるのだろうか?レサスにとっての勝利ではなく、ナバロにとっての勝利。そんなことは許さない。オーレリアだけでなく、レサスにも決して少なくない損害を与えた男が、一人安全な場所で権益を抱いたまま生き延びるなど、あってはならない話だ。
「なぁに、連中をのさばらせないために、あたいらがいるんだ。Mr.G、あたいたちは必ずこの街に戻ってくる。それこそ、ナバロの奴に時間稼ぎをさせないくらい早く、ね。情報戦はあたいらの専門外だけど、そちらの健闘を祈っておくよ。あー、賞味期限切れの爺の命日が一日も早く来ることもね」
「ありがとう、グランディス。そっちもいよいよ決戦だ。大丈夫だろうとは思うけれど、くれぐれも気を付けてくれ。ラーズグリーズたちの精神を決して忘れることなく、ね」
「勿論、分かっている。心配は無用さね」
そんなことを言っているグランディス隊長は、どこか嬉しそうな表情だ。頭を掻きながら答える隊長の口元が、明らかに笑っている。
「嬢ちゃんもくれぐれも気を付けろよ?ゴリラ女なんざどうでもいいが、グリスウォールに戻ってきた時にはもう会えないなんてのはご免だぜ。レサスのいなくなったこの街のデートスポットを調べておくからよ」
「ズボフさん!」
「ヒッヒッヒ、照れるな照れるな。年上女房なら、朴念仁の若者をリードしてやらんとねぇ。なんなら、宿の手配もばっちりだぜ。イッヒッヒッヒッヒ」
「どうやら本当に寿命を縮めたいらしいねぇ」
「こ、こら、年寄りになにをしやが……って、痛ぇぇぇぇぇ、やめろ、このゴリラ女ぁぁ!!」
腕を逆手にねじ上げられたズボフが悲鳴を挙げる。おじ様が「さっきも言ったのに」という表情で頭を押さえている。ギョッとした顔で何をしているんだと聞いてきた兵士に素っ気無く「喧嘩」と答えたグランディス隊長が、手を緩めるや否やヘッドロック。チョークチョーク、と叫ぶズボフ翁は真剣なのだか、実はふざけているのだか良く分からない。
「喧嘩するほど何とやらとは言うが、この二人の場合はあれだな、犬猿の仲って奴だな」
「どうでしょう?私は喧嘩するほど……の方だと思いますけれど。何だか妙に楽しそうですし」
「二人とも真面目に否定するだろうけどね。――フィーナも、気をつけてな。士気は低いとはいえ、グリスウォールに展開しているレサス軍は、無傷の主力部隊と言っても良い連中だ。単純な数だけなら、君たち不正規軍を上回ることは事実なのだからね」
「大丈夫ですよ、おじ様。戦いの優劣は、新兵器があるとか、数が多いとかで決まるもんじゃない――そのことを不正規軍の人たちは身を以って私たちに教えてくれました。そして、決して諦めないことの大切さも。彼らが勝ち目の無い戦いをしているとは、私には思えません。この街に不正規軍が帰ってきたときは、オーレリアが解放されるときだ、と私は信じたい。そのために、必死で戦っている若者のためにも……」
「南十字星、ジャスティン・ロッソ・ガイオ君のことかい?」
頬のあたりが少し暖かくなるのを感じつつ、こくりと私は頷いた。
「先物買いの才能は、どうやらお母さん譲りみたいだねぇ。君が彼をウスティオに連れて行ったときの、お父さんのリアクションを想像すると笑ってしまいそうだよ。……いいんじゃないか。戦場に花咲く恋愛があったって。私も、かつてそんな若者たちがいたことを良く知っている。結ばれた者と、散っていった者と……。傍で、しっかりと支えてやるといい。そして見届けてあげるんだ。南十字星の若者が、この戦いを戦い抜き、そして必ず生きて皆の待つ場所に戻ってくることを。きっと、ジャスティン君もそれを望んでいるはずだよ」
そうだといいんだけど……。そうあってほしいんだけど……。多分、ジャスティンはそう思ってくれていると思うんだけど……。いや、絶対にそう思っているに違いないんだけど……。違ってたらどうしよう!?結局、答えをうまく返せずに俯いてしまった私の頭を、おじ様は軽く何度か叩いた。自信を持てよ、とでも言うように。それにしても、好きになった相手が成人前の若者でしたなんて言った日には、父は間違いなく卒倒するに違いない。そしてその後は、部屋に篭ろうとして母に引きずられてくるのがオチだ。もしかしたら隙を見て逃げ出すかもしれない。……でも、そうなってもいいから、ジャスティンに会ってみて欲しいと思う。多分、時間はかかるかもしれないけれど、気に入ってくれるはず。いや、絶対に認めてくれるはず。だって、ジャスティンにはそれだけの魅力があることを、私は知っている。
「だぁぁぁあ、そこの衛兵、このゴリラを動物園に保護するように言ってくれ!酷い話だ、このジジをいたぶり回すなんて。何だよおい、早く何とかしてくれよ、凶暴なゴリラを!!」
「すみませんねぇ、このじいさん、老い先短いせいか、時々ボケるんですよ。ほら、遊んでないで戻るよ」
「ああ、後生だ……殺生だ……助けてぇぇぇぇ」
引きずられていくズボフを見送る兵士は、必死に笑い出すのを堪えている。もう、折角の気分が台無しよ。おじ様はと言えば、知り合いと見られるのが恥ずかしいといった様子で窓の外に駐機している旅客機の姿を、わざとらしく眺めている。
「……やっぱり人選ミスだったかなぁ?」
「そんなことありませんよ。隊長もズボフさんも、ライトスタッフ間違いなしです」
「ま、気を付けて。南十字星にもよろしく伝えてくれ」
「もちろんです。ありがとうございました、おじ様」
差し出された手を、私はもちろんぐっと握り返した。この街で、私たちを可能な限り支えてくれた大切なおじ様の手を。

浅いまどろみから目覚めて、私は倒していたシートを少し起こし、座席ポケットに突っ込んでいたミネラルウォーターを軽く傾けた。戦闘機の座席とは違って居住性を最重視されて作られたビジネスクラスのシートは確かに乗り心地が良かったし、慌しい日々の疲れも出たのかもしれない。グリスウォールでの数日間はまるで夢のように過ぎていった。でも、それは私にとって大きなプラスだったに違いない。これからの戦いに、きっとこの経験が役立つ時が来るだろう。それがいつになるかは、勿論分からないけれど――。目を覚ました私に気が付いた客室乗務員にソフトドリンクを頼んで、私は再び座席に背中を預ける。隣の席では、空港で買い込んだ酒をしっかりと楽しんだ隊長が、アイマスクをかけてぐっすりと眠っている。旅客機の窓からは、どこまでも果てしなく続く青空と雲海とが、見事なコントラストを織り成していた。雲海の隙間から見える地形を確認して、どうやら飛行機がレサス領を抜けようとしていることに気が付く。結構長い時間、私はうつらうつらとしていたみたいだ。
「お待たせました。……お疲れのようですね。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとう。お言葉に甘えさせてもらいますね」
シート位置をさらに起こして、私は冷たいオレンジジュースを堪能することにした。こんなにのんびりとした時間を楽しむことが出来るのは、あと数時間の間だけだ。オーシア到着後は今回の潜入ミッション報告を本部に行って、再びオーレリアに戻る算段をしなければならない。ジャスティンたちはもう空に戻ったのだろうか?この戦争の実質的な決戦はグリスウォールの攻防戦になるだろう。それが終われば、レサスはオーレリアから退き、戦争は終わる。あ……。そうすると、私たちはオーシアへと戻ることになる。戦争の終わりは、オーレリアに滞在する日々が終わることと同義であった。――ジャスティンに会えなくなるのは、ちょっと辛いな。折角、ここまで思いに整理を付けて来たのに、中途半端なまま離れ離れになるのは避けたかった。私も、色々と頑張らないと、ね。自分の拳で軽く頭を小突く。何も行動しないよりは、行動して後悔した方がいい。たまには、自分の気持ちに素直になることも必要だろう。そして、気持ちを相手に伝えることも……。この戦いが終わったら、そんな時間を取ることも出来るだろう。伝えなくちゃ、始まらないこともある。……きっとまた、しどろもどろになるのだろうけど。
再び眠気が襲ってきて、私は伸びをしながら欠伸をした。身体が睡眠を欲している。到着までは充分に時間もある。こんなときは、何も考えずに寝るのが一番。ジュースを飲み干し、シートを限界まで傾けて、私は毛布を羽織った。心地良い温もりが、私の意識をゆっくりと包み込んでいった。

――おやすみなさい、ジャスティン。
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