暗躍者たちの結末
「馬鹿な……」
マイクが繋がったままであることすら忘れて、ナバロはそう呟く以外の術を持たなかった。何者が操っているのかも分からなかった機体は、その圧倒的な戦闘力を以って南十字星を討ち滅ぼしてくれるはずだった。事実、南十字星の機体は相当の損害を被っていたはずだ。だが、映像を見ているだけのナバロも驚いたことに、あの少年は引くことも無く真正面から突っ込んでいった。光と光の激突。閃光が画像を一瞬ホワイトアウトさせた後、炎に包まれていたのは南十字星ではなかった。頼みの綱をこれで完全に失ったナバロは、これまでにほとんど感じたことの無い感情――焦りを自覚せざるを得なかった。ふと辺りを見回せば、ナルバエスの姿が無い。泥船を見限って逃げ出したのか?知恵袋に頼る手段も失われた今、ナバロは市民たちの前に初めて自分自身として直面したのであった。それでもなお、従来の微笑を仮面の上に張り付けたのは、ナバロの最後の意地と矜持だったのかもしれない。
「――賢明なる市民諸君。私はこの戦いでの勝利を祖国にもたらすことが出来なかったことを詫びなければならない。だが、勇士たちはついに南十字星に深手を負わせる戦果をついにあげることにも成功した。それだけではない。我が祖国には愚劣なるオーレリアの軍勢を返り討ちにするに十分な戦力が未だ残っているのだ。諸君、祖国の今日の敗北は、明日の勝利を掴むための――」
「ふざけるな!オーレリアの完全掌握は時間の問題と言っていたのは将軍自身じゃなかったのか!?」
「何故、何故祖国が敗北しなければならないんだ!?」
「戦力が残っているなら、今すぐオーレリア軍に向かわせたらどうだ。深手を負ってるんだろ?大損害を被ってるんだろ?簡単に叩き潰せるじゃないか!!」
スタジアムを埋める市民たちの間から湧き上がった怒声は、まるで水面に広がる波紋のように人々の感情に火を付けていく。人々の身体から立ち昇る熱を、ナバロは目の当たりにしていた。何だこれは?オーレリアに対する開戦前も、さらなる兵員派遣時も、そしてオーレリアからの撤退宣言時も、自らの言葉に盲目的に従ってきたはずの群衆が今はどうだ。自らに注がれる視線には、炎の揺らめきが見えるかのようだ。不信と不満と怒りと憎しみ――あらゆる負のエネルギーがナバロ自身に向けられるのは、彼の人生にとって初めての経験であったろう。不意に大地が消失したかのような喩えようのない不安をナバロは自覚した。身体を支える足が震えている。脂汗が額から頬をつたい、顎から滴り落ちる。この大切な時に姿を消して、何が知恵袋か!今この場にいないナルバエスに対して、ナバロは心の中で罵りの言葉を投げ付ける。所詮誰も信じることなど出来ないということなのだろう。頼りになるのは、自らの力と才覚のみ。流されたくなければ、自らが自由に出来るだけの地位と力を得るまでのこと。その才覚も覚悟も力もない無力で愚昧なはずの群衆どもが、この自分に刃向かうとは――!一体どこで何を誤ったのか。一体どこで選択を間違えたのか。裏切りと不信がまかり通る内戦の世界を生き延びた男の嗅覚は、急速に迫り来る自らの危地を敏感に嗅ぎ取った。そしてうねるような群衆たちのエネルギーの奔流を感じたのは、ナバロだけではなかった。何かのスイッチが切り替わったかのように目付きと雰囲気が変わった市民たちの姿に、警護任務で派遣されていた陸軍の兵士たちも戸惑いを隠せなかったのである。ナバロに沈黙は許されなかった。沈黙は浴びせられた反発の肯定に繋がる。それだけは避けねばならなかった。だが、多くの人々を魅了する言葉を並べ立ててきた舌は、彼の自信を裏切って硬直し、そして予想もしなかった言葉を紡ぎだした。
「得るべき目標と成果を挙げた今、勝敗の帰趨には何の意味も無いのだ!!大義の何たるかも弁えぬ者たちが、賢しげに言葉を連ねるというのか!?」
それはガソリンの海の中に火の付いたライターを投げ込んだも同然だった。劇的な化学反応を起こしたかのように、地鳴りのような怒声がスタジアムを埋め尽くしていった。突き上げられる拳は槍の矛先のよう。地面を踏み鳴らす足音は、重厚なサウンドとリズムを刻む。ナバロは、自らの独裁体制にトドメを刺したのだ。やがて、歴代の独裁者たちが皆浴びせられてきた定番の名台詞が、人々の間から湧き上がる。それはあっという間に群衆たちの大合唱へと姿を変えた。
「独裁者ナバロを倒せーーーーっ!!」
「殺せ!祖国の裏切り者を殺せーーーーーっ!!」
「返して!私の大切なあの人を返して。返してよぉぉぉぉっ!!」
「今こそ祖国の革命を為す時だ!!」
それは呉越同舟の集団がほんの一時的に手を握っただけのことだったかもしれない。だが、唯一つの目的。これまでの支配者を排斥するという共通の目的に収斂したとき、それは起きた。一際大きな喚声がスタジアムを揺るがすや否や、群衆から暴徒へと姿を変えた集団は「攻撃目標」目掛けて突進を開始したのである。ステージ前に立っていた兵士たちは群衆の足を止めるよりも早く飛び退いた。目の前の光景をナバロは信じることが出来なかった。だが同時に、このままでは自らの命が奪われることを確信もしていた。本人が意識しないうちに、足が2歩、3歩と後ずさる。干上がった沼のように渇いた口腔の中で、残り少ない生唾を飲み込む。身体の芯が冷え切るのではないかという悪寒と足の震えはピークに達していた。恐怖の感情がナバロの仮面を引き剥がす。歪みきった口元も震えている。やがてだらしなく開かれた口の中から声にならない悲鳴が漏れ出す。群衆の最初の一人が、ついにステージをよじ登って壇上に姿を現す。「いたぞ」とナバロを指差すや刹那、SPの一人が放った銃弾がその頭を吹き飛ばした。最初の犠牲者の断末魔の悲鳴は、騒動の最後の一幕を開ける結末となる。血煙をあげながら仰け反っていく男の姿と、ステージ上に広がっていく血だまりを目に捉えた時、ナバロの精神の堤防が、ついに決壊した。後ずさる足が早まり、もつれ、尻餅を付く。再び立ち上がったとき、そこにはかつての統治者の姿は無かった。群衆たちに背を向けたナバロは、両手で顔を覆い走り出していた。その口から、息が漏れるような音が零れる。
「ひあああああああああああっ!!」
ついに絶叫をあげてステージの後ろに作られていた専用通路目指して駆け出していくナバロ。彼の身辺を守るはずのSPたちですら呆然とその姿を見送るしかなかったが、程なく彼らも護衛対象を追わざるを得なくなった。群衆たちはただ統治者に飼い慣らされるための存在ではなかった。各々の武器を身構えた圧倒的多数の暴力の前に、拳銃一丁では何の役にも立たなかったのである。打ち寄せる波のようにステージに駆け上った人々は、倒すべき統治者の姿を捜し求めて殺到する。もっともナバロ自身は専用通路の中に既に姿を消し、その出入口はようやく任務を思い出したSPたちの手で内側からロックされていた。その外側に鉄パイプの打撃が無数に叩き付けられる。暴力衝動はナバロが自信たっぷりに演説したフェンリアのモックアップにも向けられた。頑丈な戦闘機を人間の手で破壊するのは至難の業である。しかし、理性を失い殺到する人の波は、この哀れな試作戦闘機を飲み込んでいった。最も悲惨な目に遭ったのはスタジアム警備に就いていた陸軍部隊の兵士たちである。重武装を抱え、その気になれば一人でも百人単位の死者を量産することなど容易い彼らであったが、最高司令官が逃亡して混乱した指揮系統では対処方法の指示も無く、兵士一人一人が各々の判断で撤退せざるを得なくなってしまった。かろうじて脱出に成功した者たちはある意味奇跡の生還を果たした者たちだった。事実上の私刑状態で多くの兵士たちが血祭りにあげられていく。爆発したエネルギーはスタジアムの中で収まるはずも無かった。市街地へと溢れ出した人々の足は、政府の重要施設めがけて走り出す。
それよりも一足早く、専用通路をひたすら走りきったナバロはスタジアムの外へとようやく辿り着いた。おびえた表情で周囲を見回すが、彼を乗せるはずの車の姿は無い。いや、あった。ゲート向こうのフェンスのそば、黒焦げになって真ん中から引き千切れて燃え上がっている残骸こそ、ナバロをスタジアムへと運んできた専用車の無残な姿であった。そして、地面に打ち倒されているのは護衛に付いてきた兵士たち。その代わりに黒い戦闘服に身を包んだ兵士が、自動小銃の銃口を一同に向けて冷然と並んでいる。その向こう、数台のRV車が急停止。呆然とするナバロたちの前に、長身の士官が車から姿を現す。兵士たちはこともあろうにナバロではなく、士官に対して敬礼を施して道を開けた。
「――お迎えに上がりました。前・将軍閣下」
その男の姿を、ナバロは忘れていなかった。陸海空の幕僚長からも外され、統合幕僚本部付として事実上中央から追い出された男。その階級と功績と人望によって、ナバロといえども命を奪うことは出来なかった男は、無表情ではあったがその目に冷たい光をたたえていた。
「い、一体どういうことだ?何故貴官がここにいるのだ!?」
「時間がありません、閣下。民衆たちの手で八つ裂きにされるか、我々の手で保護されるか、お好きな方をお選びください。……護衛たちは回答が早くて助かりますがね」
ナバロのSPたちは早々に抵抗を諦め、兵士たちに手錠をかけられて、取り囲まれていた。
「――祖国を食い物にし尽くした連中の手に、その飼い犬たる貴方を渡すわけにはいかないんですよ。これからの祖国の未来のためにもね。……当面の間、その命と高貴な生活は保証しますよ。その代わり、必要となったら犠牲となった同胞たちのために、その首を使わせてもらいましょう」
無表情の相手の仮面の下にはしかし、煮えたぎるような怒りが吹き荒れていることをナバロは悟った。
「……もう一つ、選択肢がありました。自らの罪を認め、自害されることです。どうぞ、私の銃をお使いください」
無造作に投げられた拳銃が地面を滑り、ナバロの爪先の前で止まる。拳銃と相手の姿を忙しく往復したナバロだったが、やがてその顔が俯き、次いで膝が折れた。拳銃に手が伸びることも無く、そのままの姿勢で彫像のようにナバロは固まった。返答は無かった。部下たちに向かって、男は目で行動を促した。ナバロの両脇を二人の兵士が担ぎ上げ、そのまま引きずるように歩き出す。ナバロの姿が横を通り抜けようとする直前、男は左腕を水平に伸ばし、部下たちの歩みを止めた。何か察するところがあったのか、ナバロの身体を離した部下たちがさっと離れる。矢を放つため引かれた弦のように右腕がスイングバック。そして渾身の力を込めた拳が、ナバロの顔面に突き刺さった。鼻血を吹き出し、理不尽な暴力についには涙を流すその姿は、最早生き残るためなら尻尾をいくらでも振ってみせる犬ものそのにしか、男には見えなかった。
「助けてくれ、ナルバエス。祖国の復興のためならば、私の持つ権益をいくらでも使えばいい。だから、だから……!!」
「――連れて行け。ああ、そうそう。くれぐれもこの男の甘言には耳を傾けるなよ。うるさかったら気絶でもさせておけ」
今度こそまるで荷物のように担ぎ上げられたナバロは、乱暴に車の中へと投げ込まれた。すぐさまドアが閉められ、ナルバエスと呼ばれた男は自らも車のドアに手をかけ、騒然とするスタジアムの姿を今一度振り返った。
「約束は果たすぞ、お前はお前の役目と後始末を済ませて来い。最後の最後で、一端になったな。……馬鹿息子め……」
空いた一方の手をぐっと握り締め、男は呟いた。程なくここにも群衆たちが殺到してくるだろう。今は行動が何よりも優先。感傷を振り払うかのように勢い良く上官が乗り込んだことを確認して、ハンドルを握る兵士は車をスタートさせた。
一体自分は何をやっているのだろう?薄暗い地下通路を一人歩みながら、ナルバエスは薄い笑いを浮かべた。ここまでは地上の喧騒がまだ聞こえてこないが、スタジアムに吹き荒れる暴風雨がもはや制御不能の炎であることは、プロパガンダを扱ってきた身には自明の理だった。この騒動は、無論ナルバエス自身が仕込んだものではない。かといって、積極的にその意図を阻止したわけでもない。むしろ、消極的には利用したといっても良いだろう。ステージ上の大モニターに映し出される映像をライブそのままで放置し続けたことなど、その最たる例であった。腰に押し込んだ鉄の塊は、慣れない重みをナルバエスの身体に与えている。時折震えそうになる足を手で叩きながら、彼は歩き続ける。スタジアムの地上層から繋がる非常用通路のさらに下に作られているこの通路は、その存在を知る一部の者たちしか基本的に使用しない。政府のVIPに名を連ねる者と、彼らと関わりを持つ者たち。既に会場には姿が見えなかった相手がいるとすればここしかない――勘というものをナルバエスはこれまでまともに信じてきたことが無かったが、理由も無く今日はそう確信していた。あの男が、好んで暴徒たちの餌食になるとは思えない。ある意味、祖国に生きる人々よりも遥かに奸智に長けた彼らは、実際にこのスタジアムを独裁体制崩壊の場として見事に脚色せしめたのだ。この茶番劇を、彼らは当然の利益として安全な場所から楽しんでいるに違いないのだ。会場に来ていることは確認している。だから、ここしかない。当てが外れたとしても、その時はその時だ。戦うことには自信は無いが、逃げることならば手段はいくつか考えられる。市民たちを欺き続けてきた自分がどのような目に遭うか、ナルバエスは良く分かっているつもりだった。そして同時に、彼ら如きの手にかかるのは、ナルバエス矜持が許さなかった。
どれくらい歩いただろう。上層階へと繋がる階段が伸びた、天井の高い空間へとナバロは足を踏み入れた。そして、自らのものと異なる足音が聞こえてくることに気が付いた。慌てるでもなく、整然と同じリズムを刻んで、階段を誰かが下りてくる。既にこちらに気が付いているのだとしたら、やはり油断も隙もない奴だったな、と心の中で罵った。やがて、ナルバエスと同じように、スーツをぴしりと着こなした男の姿が視界に入る。
「これは驚いた……。まだこのような危険なところにいらっしゃるとは思いもしませんでしたよ」
「グリムワルド……ロビンスキー!」
「ほほぅ、貴方でもそのような恐ろしい顔が出来るのですな。紫パンツの記念撮影写真に比べたら、遥かに良い顔をされている」
微笑すら浮かべて下りてくる男の姿は全くの無防備に見えた。チャンスだ、撃て、撃ち倒せ、と囁く声が聞こえる。一方で、これは罠だ、焦るな、と囁く声も聞こえてくる。だがこのような場数を踏んできていないナルバエスの迷いこそ、敵に付け込まれる隙となった。足音以外には無音の空間に、ロビンスキーの鳴らした指の音が木霊する。その途端、硬い靴底の音を響かせながら、漆黒の戦闘服に身を包んだ兵士たちの姿が現れる。ホールに繋がる階段は2本。その双方から身を乗り出すようにして、銃口が一斉にナルバエスに向けられた。準備と手回しのいいことだ、とナルバエスは自らを棚上げして呆れてしまった。不思議なもので、こうも状況が定まってしまうと覚悟は決まるものらしい。自分でも不思議に思えてくるほど、ナルバエスはロビンスキーの姿を冷静に捉えていた。
「そのうちここにも暴徒たちが雪崩れ込んできますよ。そっちこそ、こんなところでのんぴりしていて良いのですか?」
「実は少々忘れ物がありましてね。その用事が片付いたらすぐにでも失礼させてもらうつもりだったんですよ」
「それは奇遇ですな。私も探し物をしていたんですよ。丁度今、見つかったところです」
「お互いに手間が省けましたな」
口元に笑みすら刻んだナルバエスの姿に、ロビンスキーは眉をひそめた。それまでのナルバエスを良く知る者なら誰でもその姿に疑いを持ったに違いない。あれほど震えて逃げたがっていた足は今ではぴたりと震えを止め、しっかりと大地を踏みしめていた。しゃんと伸びた背筋は、本来の長身を一際大きく見せていた。彼を取り囲むような筋肉の城とは無縁ではあったが。
「どうです、ここは一つ商売といきませんか?私が知りたい情報を教えて頂けるなら、ここからの安全な脱出路は保証しますが……?」
「銃口を突き付けて商いをするのがオーシア本社の商売スタイルとは。ゼネラル・リソースは、ギャングの集団だったというわけですな」
「必要ならば圧力もかける。友好的関係を保てるならばそうする。飲み込むならあらゆる手段を講じて飲み込む。――合法的にね。あなた方のように政治の世界の人間には分かり辛いかもしれませんが、民間の世界はそれはそれでシビアなのですよ。それに抗えない者は、従っていればいい。個人だけではない。企業も……国家も」
「国家だと?」
ロビンスキーの顔に、見たことの無い表情が浮かぶ。ナルバエスはこれまでナバロの執務室で彼のビジネススマイルは見慣れていたはずだったが、その豹変ぶりには驚かざるを得なかった。ナバロとは異なる、迫力のある笑み。だがその顔には温もりの欠片もない。狙った獲物は全て喰らい尽していく猛獣のようだ――。
「そう、国家です。力の使い方も理解せず、くだらない小競り合いで世界を不安定にしていくような国家などその存在自体が危うい。ならどうするか?簡単なことですよ。大義と平和を真に理解する者が統括すれば良い。世界に国境など本来は必要無いのですよ。しょせんはそんな物、人の作ったまやかし――」
「それはゼネラル・リソースが世界平和のために王として君臨するということか?」
「王という表現は適切ではないですが……軍事力よりも遥かに強力な力を我々は持っている。核兵器なんかよりも遥かに強力な、経済力という名の武器をね。市場を全て押さえられた国家が存続出来ると思いますか?大義を知る我々の手で、世界は再生の道を歩むのですよ。――これからのレサスもね」
国境は必要ない?聞いたことのあるフレーズ。ナルバエスは記憶の中から、かつてその言葉を吐いて世界を支配しようとした組織の名を思い出した。力を経済に言い換えてはいるが、その言いぶりはまるでクーデター組織「国境無き世界」の人間が吐く言葉そのものではないか――!仮面を脱ぎ捨てたロビンスキーは、鋭い視線をナルバエスに突き刺した。
「――ディエゴ・ギャスパー・ナバロ将軍はどちらに?彼は我々の大切なクライアントだ。安定した老後を過ごして頂かねば、信用問題になるのでね。あなた方にお渡しするわけにはいかないのですよ」
「知らないな。知っていても、伝える義理は無い。――ロビンスキー、一つこちらからも聞かせてもらおう。お前たちはレサスを……オーレリアをどうするつもりだったのだ?」
「先程申し上げたではないですか。世界に国境など必要ない、と。再生のためには、破壊が必要な時もある。その点、ナバロ将軍は期待以上の働きをしてくれましたよ。戦争での敗北、独裁者の失脚、民衆の蜂起、そして新政府の発足。全ては、こちらのシナリオの通り」
純粋な怒りがナルバエスの腹の底から膨れ上がる。こいつらは、絶対に許すことの出来ない危険分子。その国に生きる民草のことなど、彼らには全く眼中に無い。大義とやらのためなら、笑って数十万の民衆を焼き払うことすらするであろう、正気の狂気に犯された者たち――。
「ベルカの亡霊ごときが、世界の王にでもなったつもりか?貴様など、丁稚の一人だろうに!ロビンスキィィィィィィ!!」
慣れぬ手付きで拳銃を引き抜き、正面に構えた途端、ナルバエスに向けられていたいくつもの銃口が火を吹いた。衝撃に弾かれ、細い身体が痙攣するようなダンスを刻む。人間のヤワな身体など障害にもなりはしない。銃弾は身体を突き抜けると共に皮膚を食い破り、真紅の鮮血を床と壁とに飛び散らせた。
「カハ・・・・・ァッ」
よろめいたナルバエスは天を仰ぐように両腕を頭上に差し上げた姿勢のまま、背後の壁に叩き付けられた。苦痛のうめきをあげる代わりに、口から鮮血が零れ出す。薄いグレーのスーツは身体から溢れ出す命と血液によってどす黒く変色しつつあった。壁と背中の間の血液が潤滑油となり、ゆっくりとナルバエスの身体が滑り落ちていく。
「やれやれ……撃ち殺されるためにのこのこと現れるとは。身の程知らずの末路としては相応しいがね」
その気になれば、兵士としては役立たずのナルバエスを即死させられたであろう兵士たちがそうしなかったのは、銃の腕などたかが知れている男を嬲り殺すためだった。これこそが、ロビンスキーの本質とも言うべきだったろう。だが、ロビンスキーが一つだけ誤っていたことがある。それは、窮鼠猫を噛むという太古からの諺。ナルバエスがなけなしの覚悟でこの場に踏み留まっていた意味を、彼は甘く見ていた。そして、ナルバエスは初めからその僅かな隙こそを狙っていたのだということを。大量の血液を失いながらも、彼はずっと昔、任官する以前、陸軍から派遣されてきた教官が生徒たち全員に拳銃の取り扱いを指導したときのことを思い出していた。叩き上げの教官殿はこう言ったものだ。死が訪れるその瞬間まで兵士であれ、と。全ての感覚が失われる前なら、引き金を引くことは出来る。狙いを付けることも出来る。体中に穴を開けられながらも、執念のように拳銃を握る手の平の感覚はまだあった。壁を滑り落ち、尻が床に触れる。膝を曲げた姿勢になる。
「その愚かさを、地獄で嘆くがいい。冥界の女王の元でな。プロパガンダの天才殿」
その台詞をナルバエスは聞いていなかった。力を失ったように下りてきた腕はしかし、膝の上に乗って止まる。天を仰いだままの顔は血まみれ。だが、その目は未だ光を失ってはいなかった。ぼやけ、霞んだ視界には、もう目標の姿以外の物は映っていなかった。自らにトドメを刺そうと余裕の笑みを浮かべるロビンスキーの姿。カッと光を宿した瞳が開く。その姿を鮮明に捉えた刹那、最後の、全ての力を振り絞ってナルバエスは引き金を引いた。ホールの中に1つ、銃声が木霊した。余裕の笑みを浮かべ、右腕に銃を握ったロビンスキーの顔が歪むよりも早く、ナルバエスの渾身の一撃がその眉間に突き刺さった。頭蓋を突き破り後頭部へと到達した銃弾は、そのまま再度頭蓋を吹き飛ばした。短い呻きと共に脳漿を床にぶちまけたロビンスキーの長身が、ゆっくりと後ろへと倒れていった。慌しく兵士たちがその身に駆け寄る光景が一瞬映り、ナルバエスの視界は黒一色に塗り込められた。
「レサスの魂を汚す者は……何人たり…と……も…………」
自らの身体から流れ出した紅い血だまりの中、ついに力を失った腕が床に落ちる。全ての力を使い果たしたナルバエスの時間はこの時、止まった。自ら定めた役目を果たし終えたことに満足したかのような微笑を浮かべながら。
ナルバエスは知る由も無かったが、グリムワルド・ロビンスキーをこの時点で殺害せしめたことは、結果としてゼネラル・リソースによるレサス掌握計画を根底から突き崩す一撃となる。彼が決死の行動を取ったのは自らの信じるレサスの大義を貫くが故のことであったが、人生最後の1ページがプロパガンダによって大勢の国民を死に追いやった人間の一人でありながら、逃亡の末行方をくらませたディエゴ・ギャスパー・ナバロとは一線を画した好意的な評価を得ることになったのは、何とも皮肉な話である。もっとも既にこの頃には、ゼネラル・リソースはユージア大陸において国家を凌ぐ存在となり、企業間戦争の一方を担うことになるのだが、それはまた別の物語で語られることとなる。
南十字星の記憶&偽りの空トップページへ戻る
トップページへ戻る